隣にいる人
第十九話


「あの佐々木さんが、『どさくさに紛れて抱きつかないでください。加藤さんは私のですから』って言ったんですよ!」
 どうやら私の声真似をしているらしき河野さんに、むっとして思いっきり睨むと、むしろ面白そうな顔でにやりと笑い返された。なんだかすごく悔しい。
「おまけにあの不細工な眼鏡を拾ってくれた吉野さんに、『もうその眼鏡はいりません』とか言っちゃって」
 佐野さんと守谷さん、少し遅れて参加している水内さんがそれを聞いて態とらしく歓声を上げてはしゃいでいる。みんな感じ悪い。水内さん、定時に事務所飛び出しましたね。

 あの時は色々自分の中のたがが外れていたのだと思う。うっかり心の声がそのまま口に出たとでも言うか。絶対にいつもなら言わない。そう言い訳しても遅かった。
「でもよかった。こうして笑い話にできて」
 僅かに声を震わせた河野さんに、彼女も傷付けてしまったのだと申し訳なくなる。あの時笑い出したのは、安心したからなのだと、今になって分かった。きっと私が謝れば余計に彼女を傷付けてしまうだろう。河野さんの所為じゃないのに。本当にやりきれない。



 山木さんは、私がずっと彼の気を惹こうとしていると思っていたらしい。

 彼も同じ日に電話番だと知った私は、彼の気を惹こうと態と彼にだけ可愛い格好を見せた。それ以降はいつも通りの格好だったのがその証拠。
 ずっと彼の言うことを素直に聞いていたのに、それでは気を惹けないと思った私は、今度は反発して気を惹こうとした。
 彼が付き合ってやると言っているのに、その言葉が信じられなかった私は、彼の気を惹くために基さんとお付き合いしているように見せかけていた。

 山木さんの中ではそんなことになっていたらしい。きっと彼の中にいる私は実際の私とは別人だ。一瞬たりとも山木さんの気を惹こうなんて思ったことはない。誤解されるような言動を取ったつもりもない。ずっと関わらないようにしてきたのに、どうしてそんな風に思えるのか。

「思い込みって怖いわね」
 守谷さんが自分の腕をさすりながら言った言葉に、全面的に同意する。
「最終的に山木が折れたのは、加藤さんが加藤理の息子だって言った吉野さんの言葉だったよ」
 渋い顔でそう話す野本さんの言葉に首を傾げたくなる。
 山木さんにとって、山木克の息子であることは誇りでありプレッシャーだったらしい。その山木克よりも大きな存在である加藤理の名前が、彼を諦めさせるに至ったそうだ。

 まるで意味が分からない。どうしてそこに会ったこともない双方の父親が出てくるのか。
「腑に落ちないって顔だね。佐々木にとって加藤理ってどんな存在?」
「えっと、偉大な建築家? でも基さんのお父さんなんですよねぇ。不思議な気がします」
「佐々木にとって加藤さんは加藤理の息子?」
「と言うより、基さんのお父さんが加藤理って感じです」
 野本さんがにかっと笑う。
「うちの奥さんも同じ事言ってたよ。佐々木にとっては加藤理より加藤基が前にいるんだろう?」
「普通そうじゃないですか?」
「それは佐々木にとっての普通だよ。それが逆に思える人間もいる」
「それはそうじゃないですか? お父さんの方をよく知っている人にとってはそうなりますよね? 私は基さんしか知りませんから。まだお父さんにお目にかかったこともありませんし」
「佐々木さ、お前ある意味建築に向いてないな」
 どこか呆れを含む野本さんの言葉にショックを受けていたら、基さんの大きな手が頭に置かれた。
「私の妻には向いているってことですから」
 建築に向いてないと基さんの妻に向いてるって事になるの? 見上げた基さんはうっそりと目を細めていた。



「遅くなりました」
 聞こえた声に、みんなが弾かれたように個室の入り口に顔を向ける。苦いものを飲み込もうとしているかのような表情を見せる高橋さんに、みんなが「やっぱりな」と溜息をついた。

 あの後、高橋さんが急遽緊急会議を招集し、上の人たちで山木さんの処遇を話し合っていた。
 私たちはもう今日は仕事にならないだろうと早々に仕事を打ち切り、基さんたちもおおよそ打ち合わせは終わっていたので、みんなで定時前だけれど退社して、ご飯を食べることになった。残業手当や休日出勤手当が付かない代わりに、こういう時は割と融通が利く。
 早めに開店しているちょっとお洒落な居酒屋さんの個室をみんなで陣取っている。

「ダメでした。お咎めなしです。彼の上司からの口頭注意だけで終わりです」
 高橋さんが大きく息を吐きながら「不甲斐ない上司で申し訳ありません」と頭を下げた。
「いえ。高橋さんがそう思ってくださるだけで十分です」
「私はほとほとこの事務所に愛想が尽きましたよ」
 きっと私の方が騒ぎすぎだとでも言われたのだろう。実際に個室に連れ込まれたにせよ手首を掴まれ、肩を押さえつけられただけだ。
 好意もない異性に、仕事中にも関わらず腕を掴まれ、密室に連れ込まれ、肩を押さえつけられ、頬を触られ、髪を解かれ、眼鏡を外される。
 私にとっては吐き気を覚えるほどに耐え難きことだとしても。

 思い出したら気持ち悪くなり、思わず目の前にあったおしぼりで頬を擦る。ゴシゴシと擦っていたら、心配そうな顔をする基さんにおしぼりを取り上げられてしまった。基さんの手に渡ったおしぼりにファンデーションがついてしまったのを見て、自分の浅はかな行動に泣きたくなる。

「やっぱり独立しますか? ここに居る奴らはみんなついていきますよ」
 聞こえてきた吉野さんの声に顔を上げる。その言葉に佐野さんが頷き、高橋さんが表情を改めた。
「実は、加藤さんのところに設計部門を作って貰えないかとお願いしているところです。そうすれば佐々木さんのサポートがそのまま受けられますし。私には経営の才能はありませんから」
 思わず基さんを見れば、少し困ったようでいて、どこか嬉しそうな顔をしていた。
 それを目にしただけで気持ち悪さが薄れていく。
「事務所と倉庫を片付ければそれなりのスペースになるから。蓮と雅に聞いたら面白そうだって言い出すし……」
 どうしてか私に言い訳するような基さんの口振りに、思わず笑いが零れる。
「ですが、お給料の保証は出来ません」
「そうですね。最初は今以上は出せないと思います」
 高橋さんに答える基さんの言葉に驚いた。独立直後はお給料なしか雀の涙が当たり前だ。高橋さんまでもが目を丸くしている。
「今以上って、今の給料は保証されるのか? 独立直後から?」
「そうですね。聞いたところ、正直あまり高くはないですよね、みなさんの年収。そのくらいならなんとか。仕事の当てはありますし。今の仕事が終わり次第、手が空いた人から順次こっちに移ってきて貰えれば、並行して仕事が出来ますから」
 ぽかんとしたのは問いかけた吉野さんだけじゃない。野本さんはかすれた声で笑い出した。
「俺、お前にもついていくわ。うちの親父より余程甲斐性がある」
 野本さんが自分のお父さんの事を持ち出したのが珍しいのか、吉野さんが驚いた顔で野本さんを見ている。

「ただ、私の父が知ったら父の仕事を回される可能性が高いです。それを承知して頂けるなら。今までも時々手伝わされていますし、最悪ストックホルムかロンドンの事務所にも短期で行くことになるかもしれません」
「マジか! むしろこっちがお願いしたいくらいだ!」
 吉野さんが席を立つ勢いで喜んだ。なるほど。一瞬、それは面倒だなと失礼なことを考えた私は、野本さんの言う通り建築には向いていないようだ。建築を志す者なら、世界の加藤と言われる基さんのお父さんと仕事が出来ると聞けば、吉野さんのように喜ぶものなのだろう。

「柚、もしかして、面倒だって思った?」
 どうして聞いちゃうかな。そんなに顔に出ているのだろうか。情けない気持ちになりながらも正直に頷く。基さんのお父さんなのに、面倒だと思うなんて最低だ。
「建築に向いてないって言われた意味が分かりました。基さんのお父さんなのに……」
「いや、俺もそう思うから」
 基さんの表情が今まで以上にすごく穏やかだ。どこか肩の力が抜けてすごくリラックスして見える。
「もしかして心配事かなにかが減りました?」
「そうだね。最初から心配する必要なんてなかったみたいな心配事だったよ」
 本当に穏やかに笑う基さんを見ていると、同じように穏やかな気持ちになる。それはよかったですねと言えば、頭の上にぽんと手の平が乗った。



 独立話に一気にみんなが活気付き、今の仕事の着工後にまずは山本さんと渡辺さんが移ってくることが決まった。いつの間にか彼らもチームの一員と考えられていて、なんだか面白い。河野さんは逆に守谷さんからひとつ現場監理を経験した方がいいと、最後まで残ることになる。
 馴れ合わないと思っていたチームの人たちは、最初から一丸となっていたからこそ、必要以上に馴れ合う必要がなかっただけのようだ。ちゃんと付き合ってみないと分からないものだと思う。

 基さんのお父さんの事務所で使っているCADシステムは基さんが開発したもので、それが少しずつ広まって契約してくれる会社が増えているのだそうだ。その収益だけで何とか設計部門が維持出来ると聞いて、みんながぽかんとしていた。やっぱり基さんの金銭感覚はおかしい。

 そんな中、水内さんだけが浮かない顔をしている。どうしたのかと話し掛けてみれば、どうしていいか分からないらしい。
「まだ本格始動するまで時間がある。水内はその間に自分のやりたいことを考えろ。俺たちと一緒に来るなら、それなりの覚悟を持って来い。仕事は仲がいいからと言って一緒に出来る訳じゃない」
 吉野さんの言葉を真正面から受けた水内さんは、少し自信なさげに「分かりました」と答えていた。
 その気持ちは痛いほどよく分かる。私も建築の仕事自体に何かを見出している訳じゃない。この世界に関わっていきたいとは思っているけれど、その根本は、ただ基さんやみんなの助けになりたいだけだ。そんな風に覚悟を問われるとそれは呆気ないほどゆらゆらと揺れる。



 渡辺さんが一足先に帰り、山本さんと水内さんはいつの間にか消え、雅さんが河野さんを迎えに来て、私と基さんも一声かけて帰路に就く。
 いつの間にか降り出していた雨に、基さんの鞄の中から出てきた折りたたみ傘の中に身を寄せ合って歩き出す。
 降り出したばかりなのか、漂う雨の匂いに、初めて基さんと会うことになったあの日を思い出した。
「あの日を思い出すな」
 雨の匂いに同じ思い出が浮かぶ。共有する思い出がこれからもたくさん増えるといい。目にする全てが基さんとの思い出になるといい。

 雨が降っているからか、電車を降りるとタクシーに乗せてくれた。いつもと違う車の匂いに、どうしてか少し心許なくなって、隣に座る基さんの手の平に自分の手を滑り込ます。いつもより強く握られて、その強さにほっとするのに、いつもなら消えるはずの心許なさがこびりついたかのように消えてくれない。

 マンションの前でタクシーを降り、いつもより少し早足で階段を上がる。玄関の扉が閉まるより先に、基さんにぎゅっと抱きしめられた。
「柚、もういいよ。我慢しなくていいから」
 何のことかと首を傾げると同時に、ぞくぞくとした何かが背中を駆け上がり、言い知れない不安が込み上げた。体が小刻みに震え出す。心臓がぎゅっと縮んだような感覚に息苦しさを覚える。
「俺は傷付かないから。柚はきちんと傷付くんだ。俺が全部癒やすから。ずっと側に居るから。だから今ちゃんと傷付け」
 しがみついて声を上げて泣いた。怖かった。それ以上に悔しかった。



「ああ、やっぱり赤くなってる。柚は痕が付きやすいからな」
 後ろから持ち上げられた手首と一緒に、怒りを滲ませた声と水音が周りに反響する。
 グスグスといつまでも泣き止まない私に、基さんがお風呂の準備をしてくれて、どうしてか一緒に入ることになってしまった。一気に涙が引っ込み、明るいのは無理だと言えば、どこかから持って来たキャンドルの仄暗い明かりの中、後ろから抱き込まれるように湯船に浸かっている。キャンドルホルダーはきっと雅さんのデザインだ。

「もしかして、肩も掴まれた?」
 すぐ後ろから聞こえるむっとした声に小さく頷きを返せば、痕が付いているのだろう肩を大きな手で包み込まれた。
「痛い?」
「少し」
「気持ち悪さは?」
「それは平気です。泣いたからか、なんだかすっきりしてます」
 後ろを振り向けず、ぎゅっと膝を抱えたまま答える。ふぅと小さく吐いた基さんの息が首筋にかかり、くすぐったさと妙なうずきに体がひくりと震える。

「そんなに緊張する?」
 こくこくと小さく頷けば、後ろからくつくつと笑われる。
「でも、一人にはなりたくないだろう?」
 それはそうだけれど。それでも一緒にお風呂に入るなんて、私にはハードルが高すぎる。

「柚はさ、俺がどんな俺でも、俺に付随するものがどんなものでも、変わらず俺だけを想ってくれるんだな」
 ぽつりと零された言葉は、どこか不安定でいて、それでいてしっかりと根付いているような不思議な響きがあった。
「基さんが基さんって事以外に何が必要なんですか?」
 ふっと笑うような気配が背後から伝わってくる。ゆっくりと体を倒され、基さんの胸にもたれかかる。お湯の中、不安定な体勢なのにお腹に巻き付いている基さんの腕がしっかりと支えてくれる。私はいつだってこの腕に支えて貰っている。

「最初に、俺の内側を知って貰えてよかった」
「外側を知ってもっと好きになりました。やっぱり基さんは格好いいそうです。私の欲目じゃありません」
「他はどうでもいいよ。俺は柚が俺のこと格好いいって思ってくれているだけでいい」
「もう少し格好悪かったら独り占め出来たのに」
「俺は柚に独り占めされてると思うけどね」
「本当ですか? 独り占め出来てます?」
 思わず振り仰げば、そのまま口付けが落とされた。深く長い口付けにのぼせそうになる。全部が欲しい。誰にも渡したくない。ひとかけらも取り零さない。

 仄暗いキャンドルの明かりの中、基さんの全てが私の中に染み込んでいく。  



 その週末、少し熱を出してしまった私は、思いっきり基さんに甘やかされ、その言葉通りちゃんと癒やして貰った。
 きっと私は、今までよりまた少し、強くなれたと思う。



 そして週明け、出社した直後の総務からの呼び出しに、何だろうかと首を傾げながら顔を出せば、残っている有給を使うよう告げられた。有給を使うことを責められることはあっても勧められることはない社風で、そう言われる意味を理解すれば、やり場のない感情が渦巻く。

 あれほど大げさなのではないかと甘ったれたことを言っていた癖に。いざとなると恐怖で何も出来なかった癖に。無事助けられた途端、分かっていたこととはいえ事務所の対応に憤りを覚える。我ながら随分と自分勝手だなと思う。

 第一のフロアに戻り、丁度席にいた高橋さんに総務で言われたことを報告すると、珍しく怒りを露わにした。
「分かりました。辞めてしまいなさい。こんな事務所に縛られる必要はありません。分かっているかとは思いますが、あなたが傷付く必要はありませんよ。あなたに落ち度はありません」
 すぐ横で聞いていた佐野さんが「信じられないわ」と零す。
 一緒になって憤ってくれる人がいる。それが分かっただけで十分だ。会社という外枠には恵まれなかったけれど、その中にいる上司や同僚には恵まれた。

 結局私は、三月末ではなく、三月の半ばで辞めることにした。今まで誰も申請したことが無いのではないかと思われる、むしろそんな申請用紙が在ったことすら知らなかった代休申請を、高橋さんがすぐさま行ってくれ、それを無理矢理通し、二月の休日出勤分と残りの有給分を合わせて、籍は三月末日まで残されることになった。
 お給料くらいは貰っておきなさいと言う高橋さんの言葉に、遠慮なく甘えることにした。
 高橋さんと佐野さんの三人でこそこそとそれらの手続きを終わらせ、高橋さんが基さんにも連絡を入れてくれた。基さんは今すぐ辞めてしまえと言ったらしい。高橋さんが同じように怒りをもって同意していて、佐野さんと思わず顔を見合わせ、互いに苦みを含んだ笑いを零した。

「申し訳ありません。今週中に引き継ぎを終わらせます」
 一通りのことを終わらせた後、自分の席に戻り隣の席の河野さんに声をかける。佐野さんから理由を聞き絶句した河野さんが、私のためにその顔を歪めてくれた。
「どうして? 佐々木さんが何をしたって言うの?」
 私だってそう思う。でも、それを声高に訴えたところできっと何も変わらない。むしろ今以上に傷付けられるだろう。それならいっそ自分を守るために私は身を引く。この事務所自体に思い入れがある訳ではない。
 そう言えば、河野さんはぎゅっと目を瞑った後、眼鏡のレンズで遮られることがなくなった私の目を、真っ直ぐに見据えた。
「分かりました。一週間よろしくお願いします」
 そう言って、静かに頭を下げた。河野さんまで傷付けたいわけじゃないのに、彼女までもが傷付いてしまう。それがどうしてもやりきれない。



 その一週間は、あっという間に過ぎた。
 基さんの会社との契約にも横やりが入るかと思ったものの、それはなかった。野本さんが言うには、そこは加藤理の名前のおかげらしく、さすがにその息子の基さんに盾突くつもりはないらしい。その分私に矛先が向いたのだろうと。

「先に入籍していればな。佐々木も加藤理の名前の下に入っていたのに」
 最後の出社日のお昼、チームのみんながお弁当を持って来て、最後だからと一緒に食べてくれる。
「そんなの嫌ですよ。私は基さんの下に入れて貰うだけで十分です」
「佐々木は、本当にうちの奥さんと同じ事を言うなぁ」
「そうなんですか?」
「ああ。俺が親父の事を受け入れられるようになったのは彼女のおかげだ」
 照れくさそうにそう言う野本さんは、「きっと加藤さんもお前に救われたんだろうな」と笑った。
「救われているのも、守られているのも私の方だと思いますけど……」
「夫婦ってそんなものよ。無意識に互いを支え合うのが夫婦だから」
 佐野さんの言葉に、私たちもそうなれればいいと思う。そう言えばこのチームの人たちはみんな夫婦仲がよかったなと今更ながら思う。一番近くで支えてくれる存在があるからこそ、みんな余裕があって穏やかなのだろう。
「佐々木、送別会はしないからな。意味、分かるだろう?」
「はい。待ってます」
 吉野さんがにかっと笑う。吉野さんは高橋さんと一緒に最後まで残る。だから移ってくるのは一年以上後になる。その間移ってきたチームの中心になるのは野本さんだ。山本さんと渡辺さんに続いて野本さんも早めに退社する予定だ。
「次に会うときは佐々木じゃないのかぁ、なんか娘が嫁に行くような気分だよ」
「吉野さんの娘さん、彼が出来たんですって」
 佐野さんが声を潜めながらもみんなに聞こえるように言う。渋い顔をしている吉野さんに、高橋さんが「娘は結構薄情ですよ」と、去年お嫁に行ってしまった娘さんの愚痴をこぼしている。

 唐突に色んな思いが込み上げてきた。漏れそうになる嗚咽を歯を食い縛りぐっと堪える。
「ありがとうございました」
 衝動のまま零れ出た言葉に、席を立ち、頭を下げ、もう一度同じ言葉を口にする。
「本当に、ありがとうございました」
「佐々木、礼を言うのは俺たちにじゃない、加藤さんにだ。お前を守っているのは加藤さんだろう? それに、俺たちはみんな彼に助けられる。その縁を運んできてくれたのは佐々木だ」
 顔を上げれば、みんなが柔らかに笑って頷いている。
「佐々木がチームに入ってくれて、俺たちは本当に楽になったんだ。誰もが出来る仕事かも知れんが、誰もが出来ないことを佐々木は努力の末にしてくれてる。ここに居るみんなはそれをよく分かっているから、お前はもっと自分に自信を持て。胸を張って俺たちのチームの一員でいろ。送別会をしないのはお前は俺たちのチームの一員のままだからだ」
 吉野さんの言葉に、溢れそうになる涙をぐっと堪える。鼻の奥がつきんと痛んだ。
 認めて貰えていた。それがこんなに嬉しいことだとは思わなかった。基さんの言う通りだ。このチームに入れて本当によかった。

 今、無性に基さんに会いたい。