隣にいる人
第十八話


 週が明け、山本さんと渡辺さんと一緒に通勤すると、先月同様佐野さんが途中で合流し、乗り換えのターミナル駅や事務所の最寄り駅でチームの人が続々と合流してくれる。

「週末加藤さんとの打ち合わせがあるのよ。でね、今回照明もいくつかお願いすることになったんだけど、照明のデザイナーって野々宮さんじゃないのね」
「そうなんですか?」
「ええ。鈴木さんって方らしいわ。宝飾もやってるって聞いたんだけど、それってもしかして?」
「……河野さんの彼ですね」
 知らなかった。だから、ひとつの会社になっているのか。だから、雅さんのスケジュールもこっちで管理するのか。まだちゃんと聞いていないから、この先も知らないことが出てきそうだ。

「そう言えば、加藤基って、俺と同じ大学の建築学科にいた気がするんだけど」
 チームの一人にそう声をかけられ、そう言えばそうだと頷けば、山本さんと渡辺さんが驚いた。
「加藤さん、建築やってたの?」
「いえ。卒業しただけだって本人は言ってます。在学中に作ったゲームがウケて、そのままSEになったって」
「もったいないなぁ」
「お祖父さんが宮大工の棟梁にまでなった人だそうですよ」
「まさか、加藤 (はじめ)?」
 吉野さんが素っ頓狂な声を上げる。お祖父さんの名前までは聞いていない。
「えっと、お名前までは聞いていなくて」
「いや、多分そうだよ。都内の宮大工で加藤って加藤 一しかいない」
「有名なんですか?」
「有名どころじゃない。所謂人間国宝だよ」
 吉野さんが「マジかー!」と空を見上げ唸っている。そう言えば吉野さん、趣味が寺社や数寄屋巡りだ。
「お祖父さんの建てた家が移築されたって聞いてます」
「だろうな。それ文化財クラスだよ」
 知らないって怖い。横で佐野さんが「ReMontoの質の良さが分かったわ」と呟いている。
「ってことは、父親は加藤 理(かとう まさる)かぁ」
「そうですね」
 吉野さんと野本さんの呟きに驚いたのはその場にいるチーム全員だ。思わずみんなの足が止まる。

 加藤 理は、最近では建築のノーベル賞とも言われているプリツカー賞やRIBAゴールド・メダル、AIAゴールドメダル受賞者だ。他にも数え切れないほどの栄誉を世界中から与えられている、世界的に有名な建築家だ。

「佐々木知ってた?」
 渡辺さんの声に首を横に振る。知らなかった。知ろうともしなかった。
 通勤途中に見られる梅が満開になり、随分と暖かくなってきたと思っていたのに、頬にぶつかってくる今日の風はすごく冷たい。まるで小さく切り刻まれているかのようだ。
 私は、基さんのことを知らなすぎる。
「山木 克どころの話じゃないな」
 その吉野さんの声に再びみんなの足が動き出す。
 でも、と基さんと同じ大学を出ている野本さんが続けた。
「俺の知る限りですけど、彼は父親のことと自分を切り離して考えていると思います。俺は一年しか重なっていませんが、彼が入学してきて、加藤理の息子だってそれなりに騒がれたときにそんな印象を受けました」
「野本がそう言うならそうなのかもなぁ。実際建築とは別の道に進んだなら余計になぁ」
 野本さんも父親が知名度の高い建築家だ。父親のことをいちいち言われるのは好きではないと聞いたことがある。基さんも反発したと言っていた。

 事務所に着き、エントランスにいた山木さんと目が合った。周りにいる人と同じくいつも通り軽く朝の挨拶を交わして通り過ぎる。チームの人の囲いが狭まり、佐野さんがさりげなくその視線を遮ってくれ、素知らぬ顔した吉野さんが話し掛けてくるのに答えながらエレベーターに乗り込んだ。

 エレベーターの扉が閉まった瞬間、吉野さんの溜息が零れた。
「朝も気を抜けなくなったな」
「待ち伏せか……佐々木、帰るときはうちのフロアからみんなで一緒に出よう」
 チームの人の声に、よろしくお願いしますと頭を下げると、佐野さんが気にすることないと慰めてくれる。本当に申し訳なくなる。でも、守って貰わないと自分一人じゃ何も出来ない。

 たった一週間、されど一週間。
 こんな風にして貰ってまで、私がここにいる理由はあるのかが分からなくなる。私の我が儘なだけじゃないかと思ってしまう。
 でも、もしそうならきっとこんな風に守っては貰えないだろう。私自身を必要としてくれているからこそ、守って貰える。そう信じたい。
 基さんに出会って、私は強くなったと思う。自分に少しだけ自信が持てたように思う。

 チームの人までがお昼を買って来て一緒に食べてくれる。本当に申し訳なくて、でも有難くて、それが嬉しくて、それを素直に伝えることしか出来ない。
「っていうかさ、いつもこんな上手いもん食べられるなら俺も弁当にしようかな」
「今回だけですよ。家にサツマイモがありすぎたので」
 日曜日にもう一度作った大学芋を事務所に持って来た。きっと水内さんが喜んで食べてくれるだろうとの目論見で。それがみんなにも好評で嬉しくなる。
「佐々木さんちの野菜って美味しいわよね」
「守谷さんたちも知ってるんですか?」
「何度かね。あのトマトの時なんて、ね」
 守谷さんと佐野さんが思い出したように笑う。やめて欲しい。トマトの惨事は思い出したくない。
「佐々木さん、実家からトマトが大量に送られてきたって事務所に持って来てくれたんだけど、朝の電車の中で押しつぶされちゃったらしくて、胸が真っ赤になってて」
「駅で見たとき刺されたのかと思ってすごく焦ったのよ。駅員さんまで来て大騒ぎになって、実は胸に抱えていたトマトが潰れただけって……よく見れば色も薄いし、血じゃないって分かるんだけど、でもね」
 佐野さんが声を上げて笑う。
「笑い事じゃないですよ」
 我ながら情けない声が出た。その日、少し寝坊したせいで、慌ててその辺にあった紙袋にそのまま完熟トマトを放り込んで電車に飛び乗った。紙袋一杯のトマトを胸に抱えて潰されないよう気を付けていたのに、そんなときに限ってどうしてか電車が混んで……。
 既に警察と救急車が呼ばれてしまっていて、何故か私が怒られる羽目になって。本当に散々だった。態とじゃないのに。佐野さんと駅員さんが庇ってくれなかったらどうなっていたか。
「でもあのトマトも美味しかったわよね。潰れちゃたのはその日のお昼にかぶりついて食べたんだけど、果物みたいに甘くてすごく味が濃いのよ。完熟したトマトってこんなに美味しいんだって初めて知ったわ」
「この間貰った柚子ジャム、うちのがえらく気に入っててさ、あれって売ってないんだろう?」
「あれは母が作っている物で、ジャムの瓶さえ用意すればそこに入れてくれます。近所の人はみんなそうしてジャム作るぞって日に集まってくるんです。柚子以外にも苺やリンゴなんかも作ってます」
「俺も貰いに行こうかなぁ。佐々木んの実家ってあの観光地の側だろう?」
「また持って来ますよ」
 そう言って気付く。私はもうこの事務所を辞めるんだった。「また」はもうない。一瞬その場が静まり返る。
「連絡くれよ。俺、佐々木んちまで取りに行くよ。加藤さんにもそう伝えて」
「あの、山本さんと渡辺さんが加藤さんのマンションに住んでいるんですよ。頼めば持って来てくれますよ」
 水内さんの上げた声に、「それいいな」と取りに来てまで欲しいと言ってくれた伊藤さんが笑う。

「佐々木が辞める必要なんてないのにな」
 ぽつりと呟かれた野本さんの声が重い。
「佐々木、次決まってんの?」
「えっと、はい」
「そっか、だよな。路頭に迷う訳にも行かないし……って、もしかして加藤さんのとこ?」
 言っていいのか分からなくて言葉に詰まると、野本さんが分かってると言いたげに笑う。
「だったら、付き合いは続くな。高橋さん、野々宮さんのデザイン気に入ってるし。ですよね、佐野さん」
「そうね。私も気に入ってる。造作も出来るのよReMontoって」
 へぇっと声が上がる。またもや知らなかった。
「そう言えば、あのイタリアンのお店の内装はReMontoだって言ってたよね。家具だけじゃなかったのかぁ」
 河野さんも知らなかったらしい。
「そう言えば河野さん、照明のデザインは雅さんがしているって知ってました?」
「あれ、知らなかった? 元々照明のデザインがメインだったのに、趣味で作ってた宝飾の方が先に芽が出たのよ」
 よく知ってるなぁと思いながら、河野さんを見ていたら、恥ずかしそうに頬を染めた。可愛いなぁ、河野さん。
「ファンだったの。ずっと昔から」
「河野さんが引っ越しの時にしていたピアス、雅さんが学生時代に作った物じゃないかって基さんが言ってましたよ」
「そう。高校の時にフリマで見付けて。学祭とかにも顔を出してたの。その時に照明のデザインもしているって知って、それがすごく綺麗で……」
 みんなのにやにやとした顔が河野さんに向けられ、一瞬うっとりしかけた河野さんがますますその顔を赤らめた。
「私、出来れば彼の照明が生きる建物(入れ物)を造りたいの」
 僅かに目を伏せたままそう言葉を落とした河野さんを、佐野さんも守谷さんも自分の事のように嬉しそうに見ていた。きっと河野さんも高橋チームに欠かせない人になっていくのだろう。
 水内さんが少し眩しそうに目を細めて河野さんを見ている。きっと私もだろう。河野さんが少し先に行ってしまったような気になる。



 チームの人と常に行動していたおかげで、その週も無事に終わりそうだった。どうしようもなければ後半お休みを貰うつもりだったのが、みんなのおかげでなんとかなっている。実際に定時で帰ることが出来ているからというのもある。エントランスを出ると基さんが待っていてくれて、その姿を目にし、駆け寄る瞬間が嬉しくて仕方がない。
「基さん」
「おかえり」
「基さんも今日打ち合わせでしたよね。お疲れ様です」
「早めに終わったからコーヒー飲んでたよ。やっぱ蓮のコーヒーの方が美味いな」
「どこで飲んだんですか?」
 私たちが歩き始めた後ろから、チームのみんなもぞろぞろと続く。
「加藤さん、明日うちと打ち合わせだろう? 帰りみんなで飯でも食う?」
「いいですね」
 あっという間に距離が縮んで、まるで昔からの仲間のようだ。男の人ってそんなところがあるよねと、河野さんたちと話している。

 みんなと別れ、山本さんと渡辺さん、途中で降りる佐野さんと一緒の電車に乗り込む。
「俺たち、昼休みは社食で山木と一緒なんだけど、かなり苛ついてるから明日は本当に気を付けた方がいい」
「ただ、なんて言うかな、諦めるじゃないけど、もういいやみたいなことも言ってるんだよ」
「口先だけじゃなく? 彼、結構口先だけのところもあるわよ」
 佐野さんの言葉に「そうなんだよなぁ」と渡辺さんが僅かに渋い顔をする。
「彼、今朝もエントランスにいたわよ」
「そうなんですか?」
「ええ。受付の後ろにいたのを見かけたわ。丁度総務に用があって目線がそっちに向いていたから気付いたんだけど」
 月曜火曜とエントランスで見かけた山木さんは、水曜日には見かけなくなっていた。帰りは私たちが定時に事務所を出ているからか、見かけることはない。
「明日は朝から一緒に行こうか? 打ち合わせまで近くでコーヒー飲みながら仕事してるよ」
「それならうちの打ち合わせブースひとつ空けるわ。前倒しで打ち合わせさせて貰えるならこっちも助かるもの。明日は私も一日空けてあるし」
 そう言い置いて佐野さんが電車を降りた。

「いいんですか? さすがに丸一日拘束するのは……」
「いいよ。うちにとってもでかい仕事だからね、今回は」
「打ち合わせは蓮さんや雅さんも?」
「いや。大まかなデザインはもう決まってるんだ。あとは納期の調整や仕様の確認だな。それによってシステム構う必要もあるし。その場で納期の確認も出来るから」
 ReMontoは完全にIT化されているそうで、人件費が殆どかからないからこそ価格を抑えられるのだそうだ。そのシステムを開発しているのが基さんだからこそでもある。外部で作って貰っていたら、その開発費なども価格に上乗せされてしまう。逆にMIYABIは全て手作りなのでそれなりの価格になるらしい。

 途中由乃さんが合流する。今週はそのままうちでお礼も兼ねてみんなで一緒に夕食を食べていて、由乃さんが少しずつ私や基さんにも慣れてくれ、翌日の夕食のリクエストを聞くと、嬉しそうに教えてくれる。それがまた可愛いのなんのって。



 翌朝、基さんと一緒に家を出る。朝一緒に家を出るなんて、以前一緒に会社に行った時以来だ。あの時は不安の方が大きかった。今は不安はあるものの一緒にいてくれる安堵の方が大きい。
 もしかしたら、私は基さんに寄り掛かりすぎているのかもしれない。

 基さんも含め、みんなで一緒に事務所に向かう。そんな場合ではないのにどこか楽しく感じてしまう。
 吉野さんも野本さんも、基さんの家族のことや大学のことは口にしない。本人の意思とは別のところで知ったことは口にしない人たちだ。そもそも私が口を滑らせてしまったのが悪い。
 
 そのまま基さんと佐野さんは高橋さんを交えてフロアの打ち合わせブースで打ち合わせを始めた。チーム外の女の人たちが基さんを意識しているのを見ていると、ちょっともやもやする。
「加藤さん、背も高いし少し日本人離れした顔立ちだからか目立つよね」
「やっぱり格好いいですよね? 基さんは自分は背が高いだけだって言うんですけど」
「モデルでも通用しそう」
 やっぱり。都会の人ってだけでも格好いいと思っていた上、所謂惚れた欲目もあるとは思っていたけれど、河野さんから見ても格好いいなら、世間一般的に見ても基さんは格好いいのだろう。
「蓮さんや雅さんも格好いいし、格好いい人の友達も格好いいんですね」
「ってかさ、このチームも総じてレベル高いよね。高橋さんを筆頭に。全員既婚者ってのがまたポイント高し」
 確かにそうかも。そういう風に見たことがなかったから今まで何とも思わなかった。
 図面を折りながらどうでもいい話をしている。思いっきり集中するのもいいけれど、こういう時間も結構好きだ。
「あっ、そうだ。図面綴じるの、野本さん用のは逆にしてください。野本さん左利きなんです。簡易製本も一部だけ逆向きのを作ってください。図面類だけは逆の方が使いやすいみたいです」
「了解」
 届いていた内装のサンプルをチェックして、まとめて佐野さんのデスク脇に運んでいると、その佐野さんから呼ばれる。言われた資料を打ち合わせブースに届けると、真面目な顔した基さんと高橋さんが図面を見ながら話していて、それがまた家にいるときとは違った表情で、うっかり素敵だな、なんて思ってしまい、慌てて自分の席に戻る。



 お昼に基さんも一緒に打ち合わせブースで食事をしていると、同じ中身のお弁当を見て、みんなにからかわれた。
「いつ結婚するの?」
「入籍は五月ですね」
「結婚式は?」
「どうしようか悩んでます。新婚旅行は夏に両親がスウェーデンにいるのでそこに行こうと思っているんですけど」
「今、加藤理ってスウェーデンにいるんだっけ?」
 野本さんがぽろっと零した言葉に、野本さん自身がしまったという顔をして、基さんが苦笑いをする。
「ご存じでしたか」
「あー、ごめん。俺も同じ大学出てるんだよ。加藤さんとは一年重なってる」
 なるほど、と基さんが取り繕ったように口元に笑みを浮かべた。
「柚には言ってなかったな」
「そうですね。びっくりしました」
「そっか」
 基さんが僅かに顔を強ばらせ、寂しそうに笑うから心配になる。どうしてそんな顔をするのか。



 午後からは吉野さんや守谷さんも戻ってきて、打ち合わせに参加することになり、基さんたちは小会議室へと場所を移した。
 私とは河野さんと渡辺さんが常に一緒にいてくれている。

「そろそろ会議室のお茶の用意をしてきます」
 みんなに声をかけ、電話中の渡辺さんにメモでそれを知らせ、河野さんと一緒に給湯室に行き、お茶の準備を始める。運悪く茶葉が切れそうだった。
「新しいのある?」
「見当たりません。あと少しになったら補充しといてくれればいいのに」
「しょうがない、総務から貰ってくる。一緒に行く? フロア内だから大丈夫だと思うけど」
「じゃあ、湯飲みと急須を先に温めておきます」
「急いで行ってくる」
 ウォーターサーバーから湯飲みにひとつずつお湯を入れていく。お湯がすぐに出てきてくれるのは便利でいい。基さんもうちに設置しようかと言っていた。ただコーヒーに使う水は決まっているらしい。いつも同じミネラルウォーターを使っている。



 人影に、河野さんが戻ってきたのかと思い、振り向いたそこに──。
「やっと捕まった」
──山木さんがいた。



 どうして第一のフロア内にいるのか。まだ勤務時間内なのに。
「仕事、中じゃ……」
「そんなこといいからちょっと来て」
 そう言って掴まれた手は、咄嗟に手を入れようとした携帯電話と防犯ブザーが入っているポケットの方の手で、掴まれた手首から気持ち悪さが一気に全身に広がっていく。
 声を上げようとしてもかすれたような呻き声しか出ない。肝心なときに声を出せない自分に焦って、パニックに襲われる。
「あのさ、俺、付き合ってやるって言ったよね」

 引き摺られるように連れ込まれたのは給湯室のすぐ隣にある薄暗い図面庫。湿度管理され、普段は施錠されているはずのに、どうして開いているのか。
 手首を掴まれたままもう一方の手で肩を掴まれ、連なる図面が収納されたスチールの棚に押しつけられる。息を呑むと同時に、喉の奥から引き攣れた音が上がる。

 混乱した頭は言われた言葉の意味を理解出来ない。
「俺の気を惹こうとして可愛い格好してみたり」
 意味が分からない。今まで耳にしたこともないような猫なで声が怖い。
「従順な態度とってたくせに、俺が靡かないからって次は反発して気を惹こうとしたり」
 肩を押さえつけていた手が頬を撫で、後ろに回って可愛げのない真っ黒なゴムで結んでいた髪が解かれた。
 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
 逃げだそうと体を動かせば、握り込まれた手首に力が入り、その痛みに呻きが漏れ、体が震える。
「今度は男使って当て付けるとか、何なの?」
 意味も分からず浴びせられた怒気に、すっと血の気が引いていく。体が冷えて硬くなる。
 必要以上に近い顔。背けた頬にかかる生暖かい息が気持ち悪い。
 体中の毛穴が開いたかのように、気持ち悪い嫌な汗が噴き出る。
「佐々木さ、付き合ってやるって言ってるんだから、もうそんなことしなくてもいいんだよ?」
 心臓が痛いくらいに強く速く脈打ち、何もしていないのに息が小刻みに上がっていく。
 彼の言っていることが理解出来ない。意味が分からなくて混乱する。猫なで声が気持ち悪い。
 必死に頭を小さく左右に振るも、のろのろとしか動かない。
 掴まれたままの手首。その握り込まれる強さに、痛みと吐き気が込み上げる。

 彼の手が目の前に迫ってきて眼鏡が抜き取られるのと、図面庫の鉄の扉が開く音、そこから差し込む光は同時だった。

「どけ。お前が触れるな」
 怖いくらい冷えているのに安心出来る声が、焦りと怒りを纏いつつも安堵出来る気配が、不意に伸びてきた大きくていつだって温かな手が、一瞬にして目の前の気持ち悪いものを退かしてくれる。

 力一杯引き寄せられ、包み込まれた腕の中で、その体に必死にしがみついた。

 聞こえている高橋さんの声がいつもより低く鋭い。

「柚」
 基さんの声が聞こえる。冷えていない、心配そうな声。
 その後ろで何かを喚く声、高橋さんの低い声に、吉野さんの尖り切った冷たい声。野本さんの怒鳴り声も聞こえた。

「柚、聞こえてる?」
 聞こえてる。基さんの声だけは何を言っているかが分かる。

「ごめんな。目を離さなければよかった」
 聞こえてきた基さんの声は、ひどく傷付いて聞こえた。

 傷付けた。私が基さんを傷付けた。絶対に傷付けたくない人を、私が、傷付けた。
 嫌だ。
 基さんのせいじゃない。
 嫌だ。
 離れていかないで。
 嫌だ。
 どこにも行かないで。
 お願い。
 一人にしないで。

 その体に必死に縋り付く。
「基さん、大好きなの。傷付けてごめんなさい。どこにも行かないで。ずっと側に居て」
 顔を上げ、基さんだけが目に入る。
 切なげに細めるその目は、どうしようもないほどに傷付いて見えた。
「傷付いたのは柚だろう?」
「でも、基さんも傷付いてる。私より基さんが傷付く方が嫌なの。私は基さんが居てくれればいいの」
 ぎゅっと抱きしめる腕に力が込められ、その胸に顔を埋める。
「基さんだけが居てくれればいい」
 この人が居てくれるなら、どれほど傷付いたって平気だ。

「山木、もう分かっただろう? 佐々木は騙されてる訳でもないし、お前の気を惹こうとしてる訳でもない。お前が父親の力を使って加藤さんたちを追い詰めるなら、俺もお前を追い詰めるよ」
 聞こえてきた平坦な渡辺さんの声を後ろに残し、基さんに抱き寄せられたまま薄暗い図面庫から連れ出される。
 眩しさに目を細めた瞬間、泣きそうな顔の河野さんが抱きついてきた。
「ごめん。私が目を離したから」
「河野さんがすぐに知らせてくれたんだよ」
「ありがとうございます」
「どうしてお礼なんて言うの? 私の所為なのに」
「河野さんの所為じゃないですよ。それより、どさくさに紛れて基さんにまで抱きつかないでください。私のですから」
 涙を浮かべたままきょとんとした河野さんが、次の瞬間ぶはっと吹き出して、お腹を抱えて笑い出した。