隣にいる人
第二十話


「どうして車のプラモデルやミニカーがこんなにあるんですか?」
 三月半ばから有給消化に入った私は、四月から正式にMRMの社員となる。それまで暇だからと、事務所の奥の倉庫と化していたパーティションで仕切られている空間を片付けている。

 のだが、……ここは魔窟だった。

 そもそも事務所は完全に蓮さんの趣味スペースと化していて、何故か立派なステンレスの業務用キッチンがあったり、業務用のオーブンや冷蔵庫があったりしていて、意味が分からない。遙香さんが使っているのかと思ったら、使っているのは蓮さんらしい。本当に意味が分からない。

「ああ、行き詰まったときに作り始めたら嵌まっちゃって。ミニカーはいつの間にか?」
「処分してもいいですか?」
「待って! 家に持って行くから」
「こないだもそう言って妖怪大全集や怪獣大全集を持って帰って、遙香さんに怒られていたじゃないですか。遙香さん、全部捨てちゃってって言ってましたよ?」
 蓮さんの収集癖は色々おかしい。基さんの家にあった数々の椅子を思えば、それくらい分かりそうなものだったけれど、いざ目の前にするとちょっと呆れる。ちらりと見えているモンスター図鑑や、宇宙の神秘、オカルト大全集なんて物もある。分冊百科と呼ばれる、毎号集めてひとつのものを作り上げていくのが謳い文句の雑誌が山のようにあって、ジオラマやちんまりとしたロボットまでいる。ロボットはちょっと可愛い。
「分かりました。ここに蓮さんのスペースをとりあえず作っておきますから。これ以上増やさないでくださいね」
 あからさまにほっとする蓮さんを雅さんがからかっている。私にはどう見ても不要なものにしか見えないけれど、蓮さんにとっては必要な物なのだろう。
「雅さんも。このわけの分からない石の山、何とかしてください」
「原石だから! これ全部原石だから!」
「加工されなければただの石です」
 原石と言いつつ、価値のないものばかりだそうだ。基さんがこっそり教えてくれた。
「雅さんも、これ以上増えたらマンションの裏に捨てますよ」
「鬼!」
「鬼で結構です。でしたらご自分たちで片付けてください」
 即座に雅さんの口から謝罪の言葉が放たれる。必要なら必要でいいから、きちんと片付けて欲しい。

 ちらっと渡辺さんから、「あの倉庫、片付けられるの?」とは聞いていた。うちの引っ越しの時に基さんと一緒にソファーベッドを取りに行き、魔窟を見ていたからこその言葉だ。今なら意味が分かる。
 ここを片付けると言ったとき、遙香さんから「ゆうちゃん、気は大きく持ってね」と言われ、何のことやらと思ったのに……今なら意味が分かる。
「もう、ちっとも片付かない……」

 倉庫に眠っていた蓮さんの試作は、うちや渡辺さん、山本さんの家で使われることになり、それぞれ運び出されている。蓮さんは試作の段階では自由に好きなように作るからか、商品よりも随分と質のいいものに仕上がっている。うちの六畳の部屋が一旦運び出されている蓮さんの試作で埋め尽くされてしまったのはもう諦めた。蓮さんの家の六畳間も同様らしい。遙香さんが溜息を零していた。渡辺さんがこっちの棟に引っ越してくるときにいくつか使うことになってはいるけれど、未だ空きが出そうな気配は無い。

 事務所兼倉庫はそれなりの広さがあるはずなのに、どう考えても今のままではチーム全員のデスクが並べられるとは思えない。溜息が零れる。もう、山本さんと渡辺さんが来てから二人に考えて貰おう。私には無理だ。掃除だけはしっかりしておこう。

「俺は今まで通り家で仕事するから」
「俺は普段工房か店に行ってるから」
「俺は隣のショールームにいるから」

 雅さんのお店の二階は工房になっている。お店の従業員は年の離れたお姉さんの二人が交代で来てくれていて、基さんと一緒にご挨拶に行ったら、河野さんのことを根掘り葉掘り聞かれた。二人のお姉さんは河野さんをご存じで、彼女は新作が出る度にお店に足を運んでいたらしい。綺麗なお嬢さんが雅さんの手掛けたものを真剣に見つめている姿を見て、いつ雅さんと出会うのかとわくわくしていたらしい。

「とりあえず、山本さんと渡辺さん、野本さんのデスクは発注しないと。あの試作のテーブルは打ち合わせ用にすればいいか。あとパソコンと大判プリンターもだ」
 独り言ちながら、雅さんの原石が入っているワイン箱ほどの木箱を壁際に積み重ねていく。重いったらない。思わず「うがっ」と漏れた恥ずかしすぎる声に、基さんが笑いながら手を貸してくれる。基さんがキレイ好きなのはこの二人のおかげかもしれない。
「でも、随分とスペースが広がったね」
「もう。基さんが言い出したんですからね、ここ片付ければって。まさかこんな魔窟だとは……」

 基さんと蓮さんに改めて説明された三人の会社は、こぢんまりとしているどころか、世界中に顧客がいるらしい。
 基さんの仕事はその四分の三が主に海外との取引だそうで、蓮さんのデザインは基さんのお母さんが気に入っているとかで、ストックホルムにも工場があるらしい。そっちも完全国内生産にこだわっているとか。
 で、その二人の売上げを贅沢に使っているのが雅さんだとか。二人とも雅さんのデザインが好きだから、それでいいのだそうだ。赤字にならなければいいと笑っていた。
「雅のデザインは必ず世界で認められるから」
 基さんも蓮さんも確信を持ってそう言う。男の友情って感じでちょっと素敵だなと感動してしまった。

 春休みだからと由乃さんも雑巾片手に手伝ってくれていて、その由乃さんは雅さんの子分になることが決まっている。弟子じゃなく子分だそうだ。意味が分からない。
 雅さんが由乃さんのデザインしたものを見て、美大に通っている由乃さんと渡辺さんに即座に提案した。雅さん曰く、青田買いだそうだ。

 渡辺さんと由乃さんがどんな風に心を寄せ合ったのかまでは教えて貰っていない。でも、一切表情を無くしていたという由乃さんが、今こうして渡辺さんのいないところでもはにかむように笑っているのは、彼の力が大きいのだろう。
 彼女の大学の費用は渡辺さんが出しているそうだ。基さんが、あの給料でよくやってるなと感心すれば、渡辺さんはアメリカでいくつかの特許を持っているらしく、その収入があるそうだ。基さんも持っているらしい。賢い人たちのやっていることは時々私の理解を超える。



 私が事務所から姿を消した直後、渡辺さんと山本さんが辞表を高橋さんに提出し、高橋さんが素知らぬ顔で二人の退職の手続きを総務に申請したらしい。これには第一設計部ばかりか、事務所全体が驚き、引き留めにかかり、高橋さんは強く責められたらしい。
「知ったこっちゃありません」
 高橋さんはそう言い放ったそうだ。普段実直で温厚な高橋さんのその投げやりな言葉に、一瞬周りがフリーズしたとか。
 事務所からの引き留めを全てシャットアウトしているらしい二人は、四月いっぱいで事務所を辞める。そのひと月後に野本さんが辞めることになっていて、ここでも一悶着ありそうだとか。
 そうなると高橋さんは確実に降格されるらしい。それを聞いた高橋さんの奥さんは「もっとやれ! とことんやれ!」と高橋さんを煽っているとか。



「渡辺たちが来てからゆっくり事務所を作っていけばいいよ。野本さんが来るまで暇なんだから」
「またそんな事言って。働かざる者食うべからずですよ?」
「ゆうちゃんは意外と厳しいよなぁ」
 本当に色々おかしい。普通、雇用主は社員を働かせたがるものじゃないのか。
「もう、都会の人って意味が分からない」
「ゆうちゃん、いい加減自分もその都会の人だって理解しなよ」
「いいえ、都会に住んでいるだけじゃ都会の人にはなれません」
「俺はゆうちゃんの言ってることの方が意味分かんないよ」
 雅さんがやれやれって肩をすくめる。
 ふわっと香ってきたコーヒーの香りに振り返ると、蓮さんが片付けの手を止めてキッチンでコーヒーを淹れていた。隣で由乃さんがちょこんとスツールに座り、嬉しそうな顔でプリンを頬張っている。蓮さんが甘い物で釣ったらしい。由乃さんは香ちゃん並みに甘い物に釣られる。
「蓮さん、ついさっきもコーヒー飲んだばかりですよね」
 蓮さんまでがやれやれって肩をすくめた。
「ゆうさん、生き急いでもいいことないから」
「何言っちゃってるんですか?」
 もうやだ、この人たち。暢気すぎてせかせかしている自分が馬鹿みたいだ。

「柚、おいで」
 基さんに呼ばれ、窓枠にもたれてしょうがないなって顔をしている基さんの腕に、なんだか情けない気持ちでおでこを付ける。
「柚に贅沢させてあげられるほどのお金はないけど、のんびり生きていけるくらいは稼いでいるから大丈夫だよ」
「もうやだ。基さんの金銭感覚がおかしい」
「そう?」
「のんびり生きていけることこそが贅沢じゃないですか」
 見上げれば、基さんはまさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
「そんなことでいいの?」
「それ以上の贅沢がどこにあるんですか?」
 再び豆鉄砲を食らってる。
「柚みたいな人もいるんだなぁ」
 純粋な驚きと感嘆をもって発せられた言葉に、思わず目を細めてしまう。

 基さんが過去にどんな人にどんな風に傷付けられたのかは知らない。でも、きっとそれは碌でもない人だ。決めつけてしまうけれど多分そう。あんな風に傷付けるなんて、基さんにとっていい人である訳がない。
「そんな人に付けられた傷なんて、後生大事に抱えていないで下さい」
 小さく零した言葉は基さんの耳にはしっかり届いて、またもや豆鉄砲を食らっていた。
 きっと基さんは傷付かなきゃいけないときに傷付けなかったのだろう。だからあの時「今ちゃんと傷付け」って言ってくれたのだと思う。
「うん、……なんか、今、消えた気がする」
「それはよかったですね」
「う、ん。ありがとう?」
「どういたしまして?」
 頭の上に大きくて温かい手の平が乗せられた。



 窓から見下ろす公園の桜があまりにも見事で、毎年この時期になるとこのマンションを選んでよかったと心から思う。桜は日本人の心とはよく言ったものだ。

 お花見計画がいつの間にか整っていて、うちのバルコニーで午後からお花見をしている。陽の光を受ける桜から、日暮れの桜、そして夜桜へと、刻一刻と表情を変える満開の桜に、お酒片手に文字通り酔いしれる。

 都会に出てきて一人きりで見ていた桜を、今は大好きな人が隣にいて、信頼出来る人たちと一緒に見ることが出来ている。
 去年まで見ていた同じ景色が今年は少し違って見える。
 花曇りの空にさえ、冴え冴えとしていた薄紅が、今年は更にその枝先に柔らかな温もりを宿しながらしなやかに揺れている。

 強めに吹き付けた風に桜の花びらが舞い上がり、渦を巻いて通り過ぎていく。それはさながら薄紅の龍のようで、夜桜を楽しむためにライトアップされた光に浮かび上がり、どうしようもないほどに幻想的だった。

「これからは毎年ここでお花見が出来るんですねぇ。贅沢なことです」
 感嘆の吐息とともに聞こえてきた高橋さんの言葉は、バルコニーに集まったみんなの鼓膜を静かに震わせた。



 四月を一週間も過ぎた頃、山本さんと渡辺さんが、片付けても片付けても片付かない事務所に顔を出した。
「あれ? お休みですか?」
「有給消化中。佐々木には有給使えって言った癖に、俺たちは使っちゃいけないなんておかしいって抗議した」
 そんなところで人の名前を出さないで欲しい。
 二人が事務所を見渡し、顔を見合わせ、大きな溜息を零した。
 分かる。気持ちはよく分かる。これでも必死に片付けているのは分かって欲しい。

 二人の男手が加わり、蓮さんと相談して開口部以外の全ての壁面にずらっとシェルフが並び、そこに蓮さんコレクションがこれまたずらっと並べられた。蓮さんの満足そうな顔と言ったら。最下段に並んでいる各全集に、ここは何の事務所なのかと言いたい。遙香さんから妖怪と怪獣の全集が差し戻されている。
 雅さんの原石コレクションの木箱はカウンター代わりに積み上げられ、上に天板が乗っている。取り出すときにどうするかは誰も考えていない。それこそ知ったこっちゃありませんだ。雅さんすら気にしていない。

 翌週には何故か野本さんが顔を出し、野本さんも十年分の有給消化中だとにやりと笑う。
「三ヶ月後に伊藤と木村が来る。吉野さんと佐野さん、守谷さんと河野は竣工後だな。水内は今のチームを見返してから来るって。もしかしたら高橋さんは先に辞めるかもなぁ。奥さんが辞めちゃえ辞めちゃえって面白がっているらしい」
 高橋さんの奥さんはどうも面白がりな人らしい。高橋さん一人ぐらいなら自分の稼ぎで食べさせていけると、どんと胸を叩いたそうだ。甲斐性のある奥さんは看護師長だそうで、ストレスで体を壊すくらいならさっさと辞めろと言っているらしい。
 水内さんからも聞いている。今のチームの人に自分の存在を何としても認めさせるんだと、桜を見ながら宣言していた。きっと何かあったのだろう。でも、水内さんは河野さんにすらそれを言わないらしい。

「加藤さんは?」
「家で仕事中です」
「野々宮さんは?」
「隣で猛烈に何か書き殴っています」
「へぇ。何か降りてきたのか? 鈴木さんは?」
「石拾いに行きました」
「石拾い?」
 雅さんは仕事に詰まるとふらっと石を拾いに行くらしい。あの木箱の石はそれらが集まったものだ。原石だけじゃなく、川原の石も混ざっている。それはこっそり捨ててもいいんじゃないかと思っているのは、私だけじゃなく雅さん以外の全員だ。

「で、お前たちは?」
「お昼の準備です」
「なに? ここって社食付きなの? えらく立派な厨房設備だし」
「賄いです。肉や魚が食べたければ自分で買って来てください」
 春になり、野菜の定期便が復活し、事務所のキッチンでお昼ご飯を作るようになった。渡辺さんと山本さんが殊の外喜んでくれる。
 時々蓮さんが朝から手のかかったものを作っているときがあって、そんなときはそっとしておく。ふらっとお肉を大きな塊で買ってくることもあって、ちょっとびっくりするけれど。先日のローストビーフは本当に美味しかった。

「渡辺や山本は毎日佐々木に昼飯作って貰ってるの?」
「社食と違って全額事務所負担です。野菜の現物支給もあります。食後のデザート付きです。先日はローストビーフでした」
「なんでそんなに至れり尽くせり?」
「野本さんもそのうち分かりますよ」
 渡辺さんと山本さんに交互に答えられた野本さんは、腑に落ちない顔をしながらも「ふーん」とどうでもいい感じで納得した。
「俺、今のうちに全国建築巡りしてくる」
「俺も事務所入る前にやりました」
「俺も」
 そうだ、基さんに言われていた事を思い出した。
「野本さん、費用は事務所負担で基さんのお父さんの事務所に二週間程行けますか? えっと、ロンドンの方だったかな?」
「なにそれ! 行く!」
「えっと、何だっけ、何かのパビリオンの設計をしているらしくて、興味があればって。もし良ければ奥さんも一緒にどうかって」
「絶対に行く。お前たちはいいの?」
「まずは野本さんだそうです」
 山本さんの言葉に、野本さんは「そうだろうそうだろう」と満面の笑みだ。早速基さんのところに顔を出しに行った。ついでにお昼だから呼んできて貰う。

「絶対に使いっ走りさせられるよな」
「だよな」
 山本さんと渡辺さんがしれっとそんなことを言うから笑ってしまう。基さんも同じ事を言っていた。
「それでも野本さんは行くんだろうな」
「多分な。俺も由乃の卒業旅行兼ねて行ってこようかな」
「休みくれるかな?」
「くれるだろう。加藤さんだぞ?」
「だよなぁ」
 だよねぇと思ってしまう。基さんはすごく大きな人だ。私の知る誰よりも大きい。惚れた欲目もあるだろうけれど。
 渡辺さんと山本さんが「イギリス英語を覚えないとなぁ」と話している。どうやら渡辺さんはボストン訛りがあるらしい。

「あっ、天気雨だ」
 山本さんの声に窓の外を見れば、はらはらと雨が降っていた。聞こえてきた微かな雨音にふと思い出す。丁度ひと月前のあの日のことを。今日も見えるだろうか。儚くも美しいスペクトルが。




 あの日、最後の勤務を終えた日。

 定時を迎える少し前、「私物片付けていいぞ」と吉野さんに言われ、自分の机にあった私物をダンボール箱に詰めていく。建築雑誌やディテール集、建築基準関係法令集(青本)や建築申請memo、用語辞典、次々と詰めていき、最後に三角スケール(サンスケ)を隙間に落とした。
 チームのみんなにもう一度お礼を言い頭を下げ、チーム外の人にも挨拶をしていく。
 定時を迎え、今日は一人で帰れると山本さんと渡辺さんに告げると、「気を付けて帰れ」と言いながら、総務から宅配便で送ろうと思っていた私物の詰まったダンボール箱を奪われる。運んでおいてくれると言うのでその言葉に甘えた。

 自分の中がすごく静かだった。

 フロアからエレベーターに乗り一階に降り、総務に顔を出して挨拶をする。
 そしてエントランスを出ようとガラス張りの風除室の先に目を向けると、歩道のガードレールに腰掛けて、タブレットを触っている基さんを見付けた。
 今まで迎えに来てくれるときはスーツを着ていたのに、今日はラフな格好で──。

 本当に何気なく、ただそこに存在していた。

 ふと足元を見つめ、弾かれたように空を見上げ目を眇める。
 小さく息をつきながらタブレットを鞄に入れ、代わりに折りたたみ傘を出し、それを広げた。
 歩道の先に目を向け、その口元を少しあげ、少し深く息を吸い込む。
 そして、その目を愛おしげに細め、その口元に笑みを浮かべながら、小さく何かを紡いだ。



 その瞬間、全身の細胞が入れ替わったかのように感じた。
 呼ばれた。
 こんなに離れているのに、声など届かないはずなのに、まるで耳元で囁かれたかのように。
 私が存在するための全てが彼に掴み取られ、引き寄せられていく。



 弾かれるように駆け出し、自動ドアが殊更のんびりと開くことに苛立ち、その隙間をひとつ、もうひとつとすり抜けて、彼の目の前に立つ。

「柚、飛び出してきたら危ないだろう? ほら、濡れるから傘の中に入って」
 聞こえてきた甘さを含んだ小言。立ち上がった彼の胸に飛び込んだ。
 そこが事務所の目の前だなんてどうでもよかった。ただ、ただ、引き寄せられ、求めていた目の前の存在にしがみつく。

 さっきまであった泥濘(ぬかるみ)ながらも凪いでいた心が、傘に弾ける雨音と重なり、一粒ずつ小さな波紋を広げて澄んでいく。
 腕の中で彼を見上げ、初めて紡いだ五つの音。

 目を瞠られ、強く抱きしめられ、上から落ちてきた同じ五つの音。
 引き寄せられるように爪先立ち、落ちてくるその唇を受けようと目を閉じた。



「はいはい、それ以上は家でやれ」
 パンパンと打ち鳴らされた拍手と吉野さんの声に、そろっと目を開け顔を向けると、にやにやしたチームのみんなに囲まれていた。
 ゆっくりと踵が地に落ちる。
「加藤さん、車に佐々木の荷物積みますから、鍵貸してください」
 普通に会話する渡辺さんに、基さんも普通に「悪いな」と言いつつ鍵を渡した。
「来客用の駐車場に車停めさせて貰ってるんだよ。柚の私物があるだろうと思って車で来た」
 何も言ってないのに説明してくれる。
「柚? ほら、ぼーっとしてないで、みんなに挨拶しないの?」
「いいのいいの。佐々木さんにはさっき挨拶して貰ったから。みんなで見送りに来ただけなのよ。またね、佐々木さん」
 佐野さんの笑いを含んだ声に、抱きしめられたままだったことに漸く思い至り、ぶわっと吹き出た羞恥心が一気に全身を駆け巡った。膝の力が抜けたように腕の中から抜け落ち、その場にしゃがみ込んでしまう。耳に届くのは河野さんの笑い声。笑いすぎだから。
「ほら、柚、濡れるから。車の中で存分に恥ずかしがっていいから」
 どうして基さんは平気なの? 突然しゃがみ込んだ私に驚きながらも、基さんの表情はいつも通りだ。もうやだ。色々恥ずかしすぎて死ねる。

 笑いを隠そうともしない河野さんに付き添われて、車まで連れて行かれた。基さんはみんなに挨拶してから来るらしい。
「佐々木さん、私鈴木になるから」
 車に乗り込み、ドアが閉まる直前、小さな声で一息に告げられた決意。助手席から見上げた河野さんは真っ赤な顔をしつつも、さっきまでとは打って変わったようにいつになく真剣で、その目に覚悟が見えた。
「だから、待ってて」
 わずかに降りていた助手席の窓ガラスの隙間から聞こえたはっきりとした声。
「待ってます」
 それは、雅さんと交わした約束の報告と言うよりも、河野さんの覚悟だと思った。
 にこっと綺麗に笑い、片手をあげて事務所に戻っていく河野さんと入れ替わるように、基さんが車に乗り込んできた。

「みんな基さんが迎えに来ること知ってたんですか?」
 車が動き出し、未だ事務所の前で見送ってくれているみんなに頭を下げて、その前を通り過ぎる。
「渡辺たちには連絡しておいたけど。帰り乗ってくかって」
「私には?」
「ん? びっくりさせようと思って」
 自分でも子供の様にみっともなくむうっと唇が尖ったのは否めない。
「基さんは恥ずかしくないんですか?」
「何が?」
 都会の男の人って羞恥心が薄いのか。河野さんは私と同じように恥ずかしがるから、都会の女の人と私の羞恥心は同じだと思う。
「俺がどれほど柚を想っているかなんて、あそこにいたみんなはとっくに知ってるよ」
 さらっと言われた。どうしよう、この違い。この先も私だけが羞恥に悶えるのだろうか。慣れようと頑張ってもみたけれど、きっと慣れることはないと思う。
「帰ったらもう一回言って」
「何をですか?」
「さっきの言葉」
 ビルの間、真横から差し込んできた陽の光に思わず目を眇める。
「柚、虹だ」
 もしかしたら初めてだったかもしれない。
 都会に出てきて初めて見た虹。基さん越しに見えたそれは、淡くあっという間に大気に滲んで消えてしまった。
 虹は確か、約束の(しるし)と言う意味があると、どこかで聞いたことがある。
「久しぶりに見たな、虹なんて」
 どこか恍惚とした響きを含んだ、何よりも心地いい声を耳にしながら、シフトを握るその大きな手にそっと触れ、その小指に小指を結んだ。


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