隣にいる人
第十五話一月の終わり、誕生日を迎え二十五歳になった。
クリスマスの教訓から、もうプレゼントは貰っているから、気持ちだけで十分だと何度も言っていた所為か、その日の朝、基さんからは「おめでとう」と「俺のために生まれてきてくれてありがとう」との言葉を贈られた。
それは何よりも嬉しくて、嬉しすぎて恥ずかしくて、そして恥ずかしすぎて照れる。
本当にそうだったらいい。基さんのために生まれてきたのなら、それほど幸せなことはない。
その自分の思考に単純だなぁと呆れもする。でも嬉しいものは嬉しい。
「どうしてそんな言葉がさらっと出てくるんですか? マニュアルとかあるんですか?」
「マニュアルって、柚の取扱説明書? ってことは、嬉しかったんだ?」
「そういうことは思っていても言わないで下さい」
嬉しすぎて恥ずかしくて、それを誤魔化すように怒ってしまう。ふわっと腕の中に閉じ込めてくれた基さんが、少し屈むように耳元に口を寄せて「本心だから」と囁く。だから、どうしてそういうことをさらっと言うかな。嬉しいからぎゅっと抱きつくけれど。
「それにこのシリーズはもう新しいのは作らないらしい。このピアスも急遽作ってくれたんだよ。これ、Youってシリーズ名でこの春に色んな色の石で一斉に売り出されるらしい。ただ、ピンクダイヤだけは作らないって」
「そうなんですか?」
「そう。ピンクダイヤは柚だけのものだって。今はChihiroシリーズを作るので忙しいらしい」
「それって、もしかして河野さんのちひろ?」
「そうらしいよ。彼女のために作るんだって。俺も初めて聞いたよ、雅が誰かのために作るって」
思っていた以上にあの二人は深く結びついているのかもしれない。
その日の始業直後、高橋さんがチームの全員をフロアにある唯一の個室である小会議室に集めて、口外しないことを条件に今私の置かれている状況を説明した。週末に山木さんが戻ってくるらしい。その一週間、チーム一丸となって私を守るようにと高橋さんが言ってくれる。
そして、年度末には私が退職することも伝えられた。
みんな既婚者であり、娘さんを持つ人もいるからか同情的で、どうしようもない憤りを口にしてくれる。
「佐々木が入ってからすごくやりやすくなってたのに」
そう言ってくれた人もいて、嬉しくて涙が滲みそうになる。頑張ってきてよかった。
迷惑をかけることを詫びれば、その必要はないと口々に声をかけてくれ、本当にいいチームだと改めて感じる。
「何か思い当たることある?」
チームの一人に聞かれ、否定の言葉とともに首を振る。渡辺さんがもしかしてだけれどと前置きして、彼らの予測したことを話すと、チームの男性陣は「なるほどね」と納得してしまった。
「佐々木は俺が守ってやらなきゃって使命感に囚われているんだろうなぁ。悪気がないってところが扱いにくい。どうせあいつのことだから、違うって言っても聞く耳持たないんだろう?」
チームの一人であり要でもある吉野さんの言葉に、守谷さんと佐野さんが先日教えてくれた話を繰り返す。
「こういうのって、何か起きないとどうにも出来ないでしょ? でも何か起きてからじゃ遅いのよ」
佐野さんの言葉に吉野さんも深く頷く。吉野さんには中学生になる娘さんがいるからか、特に同情的だ。
「佐々木は、面倒でもトイレにすら一人で行くなよ。必ず守谷か佐野に声をかけろ。二人とも居なかったら恥ずかしがらず俺たちの誰かに声をかけろ。絶対に遠慮するな」
吉野さんの言葉にそこまでする必要があるのかと思ってしまう。
確かにトイレだけはエレベーターホールのすぐ脇にあるからか、第一のフロア外にある。勤務時間中は開け放たれているとは言え、フロアの入り口にはきちんと施錠出来る扉が設けられている。
「佐々木、そこまでした方がいい。俺が加藤さんならそこまでして欲しいって思うよ。少なくとも俺は山木がいる間は佐々木から目を離さないようにするから。行き帰りも俺と山本が一緒に通勤するって加藤さんには伝えてある」
渡辺さんの言葉に思わず頷く。山本さんからは「俺は河野たちと一緒に山木の方に気を付けるから」と言われ、守谷さんと佐野さんからは「そうね、男の人がいるといないじゃ違うものね」と真顔で言われる。
みんなに心配かけて、そして守って貰えて、すごく有難くて贅沢なことだ。
「ありがとうござます。よろしくお願いします」
席を立ち深々と頭を下げると、「佐々木の所為じゃないのにな。やりきれないな」と呟く吉野さんの言葉が小さく耳に届いた。
帰りの車の中で基さんにそのことを話せば、基さんも高橋さんから連絡があったらしい。
「その週の金曜日に蓮と一緒に高橋さんたちとの打ち合わせが入ってる」
「見積もり?」
「それもあるけど、実は工場の方に施主と一緒に見学に行ったらしい」
「もしかして、先週の水曜日?」
「そう。で、施主が気に入ってくれて、金額さえ合えばうちに決めてくれるそうだ」
すごい。詳しく聞けば、提携している工場は元々婚礼家具を作っていたらしい。だからか仕事も丁寧で材料も厳選されている。基さんのお祖父さんは宮大工の棟梁だったらしい。その伝で昔からの知り合いだったのだそうだ。
「だから基さん、建築にも詳しいんですね」
「俺はほとんど爺さんと婆さんに育てられたようなものだからね。両親は俺が高校に入る前に向こうに移住したし。俺も一緒に行くかって聞かれたんだけど、残ったんだ」
基さんのお母さんは国籍がスウェーデンだったらしい。それもあって移住が簡単だったとか。ご両親は入籍していないのだそうだ。サンボという関係らしい。
「だからかな。俺は柚を俺の戸籍に縛り付けたいんだ」
「私だって縛り付けられたいですから」
まるで悪いことかのように言われるから、思わず笑ってしまう。
「一緒に婚姻届出しに行きましょうね」
丁度駐車場に着いたところでそう言えば、目を細めた基さんから深く長い口付けが落ちてきた。
チームのみんなに本当に徹底してガードして貰い、何事もなく過ぎていく。河野さんと佐野さんは互いにスケジュールを確認し、私が一人にならないよう配慮してくれたり、チームのみんなも殊更気を付けてくれ、帰りは集団下校みたいになってしまうほどだった。行き帰りは渡辺さんと山本さんが一緒に通勤してくれ、佐野さんと合流すると、事務所の最寄り駅ではチームの誰かが待っていてくれる。山本さんと渡辺さんと一緒に帰って来れば、当たり前のように駅には基さんが車で迎えに来てくれている。
申し訳なく思っていると、山本さんと渡辺さんからはむしろ感謝された。
「行きはともかく帰りの車は有難いな。この時期バイクだと寒くて。俺、冬の間は佐々木と一緒に帰って来よう」
山本さんまでが「ボディーガード代わりにいいだろう?」と笑っている。確かに寒い中バスを待つなり歩いて帰るなりするより、暖められた車で一気に連れ帰って貰えるのは有難い。
特に今日は冷たい雨が降っているからか、余計にそう感じる。ワイパーが雨粒を退かしていくのを見ていると、車に乗っていることに優越感すら感じる。
「俺からも頼むよ。柚はちょっと危なっかしいからな」
そんなことはないと思う。基さんが過保護すぎるだけだ。
「柚、誰だって自分の大切な人には過保護になるものだよ」
まるで気持ちを読んだかのように言われ、思わず基さんの横顔を見つめてしまう。後ろから「そういうもんだよ」と声が聞こえ、振り向くと二人とも妙に真剣な顔をしていた。
「山木がさ、ちょっと苛ついてるんだよ。佐々木に声をかけられないからだと思うんだけど。来週の日曜の朝の便で向こうに戻るらしい。金曜は特に気を付けろよ」
「金曜は俺も一緒に帰る予定でいるから。たまには外でご飯食べて帰ろう」
そう言っていたはずが、金曜日、蓮さんと午後一で打ち合わせに来た基さんたちは、高橋さんと吉野さん、佐野さんと一緒に打ち合わせブースに入り、しばらくするとそのまま施主打ち合わせに出掛けてしまった。どうやら本決まりになりそうだと言う佐野さんの言葉を残して。
夕方には事務所に迎えに来てくれると携帯電話に文字が送られてきていたけれど、定時を過ぎても連絡はなく、守谷さんはそのまま食事でもして来るのではないかと心配そうだ。
定時から一時間ほどして仕事を終えると、基さんから「遅くなってごめん。今から戻る。そのまま会社で待ってて」と携帯電話に文字が送られてきた。
「渡辺君と山本君と一緒に待ってなさいよ」
そう言い残して守谷さんが退社した。
「折角の金曜日なのに、すみません」
「俺はいいけど、山本は帰っていいぞ。デートだろう?」
「いや、大丈夫。向こうも仕事が終わり次第こっちに来るって。一緒に飯食って帰ろう?」
「いいんですか?」
「水内がそうしたいって。河野も来るってさ。渡辺は由乃ちゃんを捕獲しておけって」
渡辺さんが笑いながら由乃ちゃんに小声で電話をしている。近くに居るからこそ聞こえるその声は、とにかく柔らかくて甘い。聞いているこっちが恥ずかしくなるほどだ。
水内さんと河野さんの仕事が終わったらしく、二人が顔を出すと同時に基さんから「今最寄り駅」との連絡が入り、なら合流しようと帰り支度をする。
丁度チームのみんなも帰り支度を始め、一緒に駅に向かって歩き出す。きっとチームのみんなは私が帰るのを待っていてくれたのだと思う。本当に有難い。
みんなに囲われるように歩いていると、前方に半ば走るようにこっちに向かってくる基さんを見付け、思わず駆け寄る。
「お疲れ様です。基さん、打ち合わせよかったんですか?」
「ああ、蓮が残ってる。デザイナーは蓮だからね。高橋さんが上手く言ってくれたんだよ」
チームのみんなに基さんが挨拶をする。既に基さんのことは知られていて、私の婚約者というよりもReMontoの代表として話している。
「ねえ、加藤さんって、さっき佐々木に基って呼ばれてたよね。SEでもあるって聞いたんだけど、もしかしてセルトレの加藤基?」
チームの一人が上げた声に基さんが苦笑いで「よくご存じですね」と返せば、山本さんが奇声を発した。
「マジで! セルトレの加藤基? 同じ名前だとは思ってたけど、まさかマジで! 俺超やりまくったんだよ」
興奮する山本さんが珍しくはしゃいで、隣で水内さんがびっくりした顔をしている。そんなに有名なゲームなのだろうか。陽平君も興奮していたけれど。
基さんはチームのみんなから「俺も嵌まったよ」と声をかけられている。わけの分からない顔をしている渡辺さんに山本さんが興奮しながら、基さんが学生時代に作ったソーシャルゲームは、無料だった所為もあり若い男の子たちの間で爆発的に流行り、そのゲーム名とともに開発者の名前も広く認知されたのだと説明している。
「佐々木さん知ってる? そのゲーム」
「知りません。でも妹の彼も同じように興奮してました」
「私知ってるかも。なんか中学だったか高校の時、男子の間ですごく流行ったんだよ」
河野さんが言うには、殆どの男子が休み時間になる度にそのゲームの話をしていた気がするらしい。それほどすごく流行ったのだとか。ただどんなゲームかまでは興味がなかったから知らないらしい。
ふとその時、何かを感じた。誰かに見られているような、絡みつくような何かの気配。
よく分からない不安に駆られ、思わず基さんの腕にしがみつけば、その腕が背を支えてくれる。
「俺、超有名人?」
基さんが背を屈ませて耳元で山本さんの声真似をするから、一瞬にして不安が消えて笑ってしまう。
「俺がついてるから大丈夫」
続いた基さんの言葉に思わず基さんを見上げる。見上げた先にあった柔らかな笑顔にほっとして、思わずその温もりに安心したくて擦り寄ってしまう。
「佐々木、そういうことは帰ってからやれ」
チームの一人の呆れたような声に、咄嗟に基さんから離れると、みんなに囲まれ一部始終を見られていた。あまりの恥ずかしさに思わず後退ると、基さんの手が伸びてきて頭に置かれたあと、逃がさないとでも言うように手を握られた。
恥ずかしくて俯いてしまう私をよそに、そのまま駅に向かい歩き始める。
「諦めるかな?」
「どうかなぁ。あんな何もかも委ねたような顔見せられたら、俺なら諦めるけど」
チームの人が話している内容から、山木さんがいたことにみんなは気付いていたらしく、さっき感じた視線は彼のものだったらしい。それにしても、何もかも委ねた顔ってどんな顔をしたのだろう。変な顔じゃないといいけれど。
「基さんも気付いていたんですか?」
「俺は特にみんなに向かって来たからね。柚たちの後ろにいる人も見えてたよ」
河野さんと水内さんは私同様気付かなかったらしい。渡辺さんと山本さんは事務所を出るときから気付いていたそうだ。こそこそと話しているうちに駅に着く。
チームの人と別れ、いつも降りる駅の手前の、雅さんのお店のあるターミナル駅で電車を降りる。改札口には由乃さんが待っていた。由乃さんの通う大学はこの駅らしい。
何を食べようかと話しながら歩いているうちに雅さんのお店の前に着き、タイミングよくその雅さんが出てきた。思わず河野さんを見れば、携帯電話をひらひらさせている。
「イタリアンでいい?」
その雅さんの言葉にみんなが頷けば、細い小路を抜けた先に、ぽっと外灯に照らされて浮かび上がる、小さな看板を掲げたこぢんまりとしたイタリアンレストランの扉が現れた。前に連れて行って貰ったバーもそうだったけれど、こういう細い道の先にあるお店をよく見付けるなと感心する。
扉を開けると漂うニンニクの香りに一気に食欲が刺激される。
このお店も蓮さんがプロデュースしたらしい。どこか懐かしさを感じるような、温もりを感じる店内の雰囲気にほっとする。
みんなでわいわいと注文し、出てきたサラダを一口食べた瞬間、目を瞠る。
「これ、美味いな。佐々木家の野菜と同じだ」
「だろう? 探したんだよ。そしたら灯台もと暗しでさ、ここのオーナーの実家、農業やってて、ゆうちゃんの実家と同じ有機農法だって蓮から聞いてさ。それ以来通ってる」
渡辺さんに答える雅さんが得意気だ。河野さんもしたり顔で、二人で驚かせようとしていたらしい。
「基さん知ってました?」
「モトは知らないよ。コーヒー以外に食べることに興味なかったもんなぁ、あの頃」
雅さんの言葉に苦笑いしている基さんは、本当に苦いものが込み上げたかのような顔をしている。
本当は、何があったのか聞いてみたくなるときがある。基さんの全てを知りたい。でも、それに触れずに自然と薄れていってくれるならそれでいいとも思う。自分の興味だけで聞いていいことじゃないような気がする。
それぞれが好きなように話し始める中、綺麗な色のサラダを目にしながらそう思う。出来れば早く薄まって欲しい。辛いことからは一日も早く解放されて欲しい。
私の幸せの基は基さんだ。私も基さんの幸せの基になりたい。
「美味しいものは幸せの基ですから。毎日美味しいって食べて貰えるものを作るようにしますね」
それでもつい基さんにそう声をかけてしまう。
「柚の作るものは何でも美味しいよ。ちゃんと美味しい味がする」
ちゃんと美味しいなんて言い回し……思わず基さんの顔を凝視してしまう。もしかして、基さんは味が分からなくなっていたのだろうか。
「俺、あの日食べた回鍋肉の味は一生忘れないと思う」
涙が出そうだ。歯を食い縛り下を向く。基さんの温かで大きな手が頭の上に置かれた。
この先、出来れば一生、基さんには何気なくでいいから、毎日自然に美味しいって思えるものを食べて貰いたい。それを作るのが私であればいいと思う。私だけであればいいと思う。