隣にいる人
第十六話


 翌日は念の為にと、基さんと二人、どこにも出掛けず家でのんびりすることにした。
 窓の外はどんよりと暗く、ちらちらと雪が舞っている。立春をすぎたばかりでまだまだ寒い。エアコンから吐き出される温風に加湿器の蒸気が揺らめいている。

「正直、やっぱり大げさなんじゃないかって気はするんです」
「そうかもね。案外話せば分かるのかも」
 ソファーに座り、朝食後のコーヒーをゆっくりと飲みながら、ふと零れた呟きに返されたのは軽い言葉だった。どこか安堵した次の瞬間、それに続いた言葉に指先が冷える。
「でも、話して分からなかったら? 誰も居ない場所に連れ込まれでもしたら?」
 怖いくらい真面目な顔の基さんの言葉に、背中がぞくりと震えた。
「もしもって考えたらキリがないんだよ、それこそレイプされたらどうする?」
 まさかと思いつつも、あの時掴まれた手の感触が蘇りそうになり、隣に座る基さんに助けを求めるようにしがみつく。
「脅そうと思って言ってるんじゃないんだ。何もなければそれでいい。後であの時は大げさだったねって笑えるだろう? でも、何かあった場合、傷付くのは柚なんだよ。それが分かっているから、渡辺たちや柚のチームのみんなは柚を守ってくれている」
 それは分かる。最悪の可能性を考えない訳ではない。でも、どこかで話せば分かると、子供の様に信じているのかもしれない。守谷さんにも言われていたのに。
 そっと囲われた基さんの腕の中、その温かさにたくさんの感情が複雑に思い浮かぶのに、それを掴むことが出来ないまま入り混じってぐちゃぐちゃになる。
「柚の考えてることは分かるよ。俺も人はみんな基本的にいい人なんだと思う。でもいい人でも時に間違えるんだよ。だから、世の中は事件で溢れているだろう?」
 そうなのかもしれない。そんなことする人だとは思わなかった、そんな知人だとされる人たちの常套句は、まるで様式美だとでも言うように日々のニュースに埋め込まれている。
「話して分かって貰えるなら、話す前に相手は薄々でも察しているものだよ。それが一切ないってことは話しても分からないってことだと俺は思うけどね。人はそんなに自分に都合良くない」
 耳に聞こえる基さんの鼓動はすごく落ち着いていた。その音を聞いているだけで同じように落ち着ける。
「俺は、単純に幼稚な執着だと思っている。でも、相手は子供じゃなく大人だってところに問題があるんだよ。それこそ力で何とでも出来る大人の男って事が問題なんだ」
 基さんの言葉はその通りで、自分の甘さを改めて認識する。何かを起こされない努力も必要。きっとそれが自衛って事だ。起きたことを防ぐのではなく、起きようとすることすら防ぐ。
「本音を言えば、今すぐ会社を辞めてしまえって思うよ。俺の側にいてくれればそれだけで俺は安心出来る。でもそれは柚の意思じゃないだろう?」
 顔を上げ基さんを見る。意思のこもった眼差しがただ真っ直ぐに注がれる。その先にいるのは私だ。私の意思を守ろうとしてくれる強い眼差し。
「私は守られてばかりですね」
「俺が守りたいんだよ。それに柚だって俺を守ってくれてるよ。柚の存在に俺は守られてる」
 思わず首を傾げる。私の何が基さんを守っているのだろう?
「守られてるよ。守られてるって俺は感じてる。柚だって俺に守られてるって感じてくれてるんだろう? それは物理的なことじゃなくて、精神的にも」
 頷けば、その表情がふわりと綻ぶ。
「俺だってそうだよ。誰だってそうじゃないか? 大切な人の存在が自分を守ってくれているって思うものじゃないかな」
 その言葉はするっと私の中に入り込み、色んなものを絡め取って居座った。
 もしかしたらこの人は、自分の所為で私が傷付いたと感じた瞬間、自分も同じように傷付いて、身を引くように私から離れて行ってしまうのではないか。
 そんな漠然とした不安を覚えた。
 それは嫌だ。それだけは絶対に嫌だ。
 きっと私が傷付けば基さんも一緒になって傷付いてしまう。私は自分が傷付くより基さんが傷付く方が嫌だ。
 それなら私は簡単に傷付く訳にはいかない。
「後で大げさだったねって笑えるようにします」
 真っ直ぐに基さんを見てそう言えば、基さんの目が私の目の中の何かを覗き込み、それを確認するかのようにおもむろに細まっていった。



 結局何事もないままその週は終わり、山木さんは再び台湾に向かったらしい。
 週明け、駅で顔を合わせた佐野さんに、金曜日は基さんを帰すのが遅くなったと謝られた。山本さんと渡辺さんが金曜の帰りのことを話すと、佐野さんが顔をしかめる。
「まあ、それでもまたしばらくは安全でしょ。来月もこの調子で乗り切ればいいわ」
 どこか安堵したような佐野さんのその言葉に「ありがとうございます」と返せば、「今佐々木さんに抜けられる方がキツイから」と嬉しいことを言われ、思わず顔が綻ぶ。
「本当よ。みんな佐々木さんには助けられているのよ。あなたが陰で努力していることもみんな知ってるわ」
「それは、みなさんを見ていれば自然とそうしようって思えます。あのチームだからこそ頑張れたんです」
「それは分かるな。高橋チームは一番働きやすい。向上心が自然と生まれる環境だよなぁ」
 山本さんの言葉に、佐野さんが嘗て無いほど嬉しそうに笑う。
「最初にチームを組むとき、高橋さんと吉野さんと私、三人で決めたことなの。チームの誰もが働きやすい環境にしようって。そうすれば自然といい仕事になるだろうって」
「佐野さんって初期メンバーなんですか?」
「そうよ。あのチームは私のために作ってくれたようなものだから」
 初めて聞いたそれに私だけじゃなく同期の二人も驚く。
「結婚しても働きたいって言った私のために、当時上司だった高橋さんと同期の吉野さんが作ってくれたチームなの。だから私はあの事務所を辞めるまで今のチームにしがみつく。私が辞めるときは高橋さんと吉野さんが独立する時ね。二人についていくわ」
 きっぱりと言い切った佐野さんは、どこか誇らしげに見えて、一人の働く女性としてすごく素敵だった。



 二月中に確認申請を提出したいが為に、チーム内がバタバタとしている。守谷さんや吉野さんが事前協議に、高橋さんや佐野さんは施主打ち合わせに出掛けることが多くなり、申請書類や図面の準備と並行して構造や設備との打ち合わせも増え、その都度修正が入る。それを片っ端から処理していくのは山本さんと渡辺さん、それにサポートに入った河野さんと私だ。丁度河野さんのチームが一段落したところで、運良くサポートに入ることが出来たらしい。水内さんのチームはトラブルが発生して来月にならないと一段落しないらしく、運が悪かったと水内さんは肩を落としていた。

 河野さんにチームのやり方を教えながら次々と仕事を割り振っていく。慣れるまでは多少まごついていた河野さんも、一週間もすれば仕事のスピードがどんどん上がっていき、やっぱり出来る人なんだと感心する。私が苦労した部分をあっさりとクリアしていくのを見ていると、悔しいよりもそのやり方に感心してしまう。

「私がいたチーム、人を育てる気が無いのか一切教えてくれなかったの。だから自分で覚えていくしかなくて。逆に佐々木さんは丁寧で簡潔に指示してくれるからすごく分かりやすいしやりやすい」
「守谷さんのやり方なんです。私も守谷さんに同じように教えて貰ったので」
 河野さんがうちのチームに入ってから、河野さんや水内さんもお弁当派になった。うちのフロアでお昼を一緒に食べている。守谷さんと佐野さんの話を色々聞きたいらしい。
「私は佐野さんに教えて貰ったのよ。結婚するときに辞めるべきか悩んで、佐野さんに相談したらチームに誘って貰えて。その時に私も同じように教えて貰ったの」
「つまり佐野さんがすごいって事ですね」
「佐野さんは本当にすごいわよ。私、佐野さんについていこうって決めてるから」
 守谷さんも佐野さんもちゃんと自分の目標を持って仕事をしている。それを考えると私の目標って何だろう。もう意匠設計にこだわることはないけれど、このまま建築と離れてもいいのかと思い始めている。佐野さんや守谷さんの話を聞いていると余計にそう思える。もしかして、蓮さんはそれが分かっていて誘ってくれたのかもしれない。建築の世界と関わりのある二人の会社に。

 守谷さんの言葉を聞いた佐野さんが珍しく照れている。もしかして初めて守谷さんの意思を聞いたのかもしれない。
 ふと目にした河野さんの、何か大きな思いを飲み込もうとしているかのような、覚悟だろうか、何かを決意したような表情が気になった。目が合うとその表情を綺麗に隠し、いつもの河野さんの笑顔を見せる。

 その河野さんの耳に、透き通るような小さな透明感のある青い石を見付けた。
「河野さん、そのピアス……もしかしてChihiroシリーズですか?」
 うっかり何も考えずに聞いてしまった。聞いた瞬間河野さんの顔が真っ赤になる。守谷さんと佐野さん、知っているはずの水内さんまでもがにんまり笑って「なになに?」と続きを促す。
「えっと、言っちゃってもいいですか?」
 真っ赤な顔で俯きながら頷く河野さんが可愛い。
「河野さんのお付き合いしている方、私のこの指輪をデザインしてくれた方なんですけど、今は河野さんのためだけにデザインしているみたいなんです。それがChihiroシリーズって言われているものらしくって」
「その石、まさかブルーダイヤ?」
 真っ赤な顔で頷く河野さんが「しかも天然です」と言った瞬間、聞いた守谷さんと佐野さんの顔が引きつった。どういう事かと首を傾げると、天然のブルーダイヤはものすごく稀少で価値が高いらしい。水内さんもびっくりしている。
「お相手の方、本気なのね。いくらその道の人だとしても簡単な気持ちで贈れる石じゃないわ」
 しみじみと呟いた佐野さんの声に、河野さんはいたたまれないほど全身を赤くしている。雅さん、本気なんだ。うわぁ。なんだかすごく嬉しい。
 一見河野さんのイメージとは違うような可憐なデザインなのに、河野さんにしっくりと馴染んでいて、本当に河野さんのためにデザインされたものだと分かる。雅さんの河野さんのイメージなのだろう。雅さんの前では河野さんはこのピアスのように守ってあげたくなるような女性なのだろう。



 家に帰り、基さんにその話をしたら基さんも驚いていた。
「俺もダイヤの価値ってよく分からないんだけど。そもそも色のついたダイヤって柚に贈ったので知ったくらいだし」
「私だってですよ。ダイヤモンドは透明な石だと思ってましたから。でも青いダイヤはダイヤの中で一番価値があるみたいです」
「雅、本気なんだなぁ」
 基さんが嬉しそうに目を細める。そう言えば基さんが私を紹介したとき、蓮さんも雅さんも嬉しそうに目を細めていた。
「本気じゃなきゃ困ります。河野さんほど雅さんのデザインを理解している人もいないような気がしますし」
「かもなぁ。ほら前に河野さんがしていたピアス、あれ確か雅が学生時代に作ったヤツだよ」
「そうなんですか?」
「俺もよく雅がフリマに出店してるときに店番やってたから、何となく覚えがあったんだ」
「雅さん、フリーマーケットに参加していたんですか?」
「学生の時にね」
 なんだか雅さんとフリマが結びつかない気がする。でも、想像すると楽しそうにお客さんと話していそうなイメージが浮かんだ。河野さんはそんなに前から雅さんのファンだったのか。

「俺も雅も蓮も、一度就職してるんだよ。そこでデザイン盗まれたり色々あって、同じ時期に辞めてるんだ」
「そうなんですか?」
「そう。蓮のとこが一番酷かった。蓮のデザイン盗んだ挙げ句、その上司は自分の名前で発表して賞まで取ったんだ」
 最悪だ。基さんの顔が歪んでいる。きっと私の顔も同じように歪んでいるだろう。
「訴えなかったんですか?」
「裁判って簡単じゃないんだよ。そんなことに労力使うならとっとと辞めて自分の好きなことしようって、三人で意気投合したんだ。丁度爺さんのガンが見付かって、それが末期で、身辺整理しだしたときに爺さんの家を移築したいって奇特な人がびっくりするくらいの金額を提示してくれて、爺さんがその金で独立しろって発破かけてくれてさ。雅も蓮も爺さんに気に入られてたから」

 基さんの会社は、正式にはMRMというのだそうで、三人の頭文字を取って付けられている。蓮さん主体のReMonto、雅さん主体のMIYABI、それをとりまとめているのが基さんなのだそうだ。
「こぢんまりとした会社だし、たいした儲けも出てないんだけどね。一応黒字ではある」
 心配しないで、とでも言うように基さんが笑う。
「でも、三人とも楽しそうですよね」
「そうだね、好きなことが出来ているからね。爺さんには感謝してる。やっぱりお金がなかったら出来なかっただろうから」

 基さんのお祖父さんは、とんでもないヘビースモーカーだったらしい。その所為で最愛の連れ合いを肺ガンであっという間に亡くし、そのショックでたばこが吸えなくなった半年後、自分にも同じ肺ガンが見付かったのだそうだ。
「爺さん、婆さんと同じ肺ガンになった時、どうしてか嬉しそうでさ。あんなに婆さんがいなくなって、今にも死にそうなくらい小さくなってたのに、ガンが見付かった後の方が元気だったんだ」
「基さんは大丈夫なんですか?」
「俺は爺さんちの離れに住んでたから、副流煙の影響は殆どない」
 お祖母さんを亡くしたときのお祖父さんの気持ちが辛すぎる。きっとだからこそ、同じ病気で最後を迎えることを喜んだのかもしれない。私の勝手な憶測だけれど。私も基さんと同じ病気で死ぬなら喜ぶような、安心するような、そんな気がする。

 お祖父さんは自分がいなくなった後の基さんに、残せるだけのものを残してくれたそうだ。遺産だけじゃなく、人脈も全て。宮大工で、しかも棟梁とまでなった人の人脈は、想像も出来ない。
 このマンションの施工もその伝だそうで、随分と安く出来たのだそうだ。
「基さんは建築の道に進まなかったんですね」
「そうだね。父親が建築士なんだよ。ストックホルムで事務所開いてる」
「そうなんですか?」
「母親はインテリアデザイナーなんだよ、一応」
 びっくりだ。基さんがどこか自嘲気味に笑う。
「俺は、何って言うかな、両親に対する反発があったんだ。一応理工学部の建築学科に入ったんだけど、在学中に作ったゲームがどうしてかウケてさ。そのままSEになって、ITベンチャーに就職して。そのゲームの第二弾が会社から出されることになったんだけど、えげつない課金システムが俺の意思とは別のところで勝手に決まって。どれだけ反発しても結局リリースされてしまって……。嫌気がさしていたところで爺さんの生前贈与で遺産が入ってきてたら、今度は会社から資金提供しろってしつこく言われるようになって。で、独立しようってその時にはもう決めてたからとっとと辞めたんだ」
 今の私より若い頃に起きた出来事だそうだ。三人ともよく思いきって独立したなと思う。すごい。賢さって思い切りの良さを含むのかもしれない。きっと私には無理だ。色んなことを考えて尻込みしてしまう。

 それよりも──。
「基さん、建築学科出てたんですね」
 そりゃあ、建築に詳しい訳だ。基さんが渋い顔をしている。
「出たと言っても、ただ学んだだけだからね。そんなもの経験の前には何の役にも立たないでしょ?」
 それって、某有名大学の建築学科を出てるからこそ言えるセリフだ。某三流大学の建築学科を何とか必死に這い出た私には言えない。
「すごいですね、基さん」
「柚にそう言われると俺ってすごいかもって思えるな」
「すごいですよ。尊敬します。基さんも雅さんも蓮さんも」
 ふと思い付いた。私は基さんに付いて行こう。私の目指すものもその先に見えてくるような気がする。守谷さんが佐野さんを尊敬するように、私は基さんを尊敬する。
「そんな人が私の旦那様になってくれるなんて、すごい」
 思わず零れた言葉に、基さんが目を瞠った後、くしゃっとその目元を緩めた。
「そんな風に思ってくれる人が俺の妻になってくれるなんて、すごいな」
 戻ってきた言葉に嬉しくて照れる。妻だって。どうしよう、嬉しくてにやけてしまう。