隣にいる人
第十四話「ごめん。きっと佐々木さん大忙しになるわ」
駅で待っていてくれた佐野さんに新年の挨拶をした途端言われた言葉だ。
「年末まではそこまで忙しくなかったから、いつも佐々木さんに回す仕事もそのままの状態で溜まってるのよ。急ぎなら自分でやるんだけど、ついね」
申し訳なさそうな顔をする佐野さんに逆にこっちが申し訳なくなる。
「無理にお休み頂いていたのは私ですから。お気遣い頂いて連絡を控えて下さっていましたよね」
「まあね。みんなでせっかくだからゆっくり休ませようって思っていたんだけど、結局しわ寄せが年明けに来ちゃうから意味ないわよね」
「とんでもない。すごく有難かったです。随分とゆっくりさせて頂きましたから」
「そうみたいね。いい顔になったわ」
そう目を細めて「彼のおかげね」と笑う佐野さんも、年末ゆっくり出来たのかいつもよりリラックスしている。
「そうそう、高橋さんとも話していたんだけど、ReMontoの見積もり取ろうと思っているのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。パブリックスペースにどうかって話になって。ほら、デザインは同じなのに材を変えられるでしょ? 統一感あるのにフロアごとに印象も変わるからどうかって話になったのよ。なによりコスト的にね、かなり魅力。同じ質であそこまでコストダウンしているのにデザインがいいってなかなかないから。うちの実家でも評判いいのよ。しかも全て国産なのよねぇ。よくあそこまで出来るわ。渡辺君がディテールにまでこだわってるって絶讃してたわよ」
佐野さんの実家は大手の家具メーカーで、輸入家具も手広く扱っている。チームでも佐野さんは内装に関する決定権を持っていて、佐野さんのセンスの良さは事務所外でも高く評価されている。普段辛口の佐野さんが手放しで褒めるなんて、蓮さんはすごい人なんだと改めて実感する。
「うちの新居の家具、その殆どが蓮さんのものなんです。シンプルで直線的なのにどこか暖かみがあって、懐かしさも感じるようで、何とも言えない心地よさがあって、すごく落ち着きます」
「私も直接見てみたいわ。工場に併設されたショールームがあるのよね。高橋さんと一緒に行ってみようかしら」
知らなかった。聞けば都下にあるらしい。帰ったら基さんに聞いてみよう。
事務所に着き、チームのみんなにお休みを頂いたお礼と新年の挨拶と一緒に、実家から送られてきた柚子ジャムをひと瓶ずつ配ると、喜んで貰えてほっとする。
自分の机の上に積まれた色んなものを優先順位の高い順に仕分けしていき、早速取りかかる。山本さんと渡辺さんがサポートに入っているため、まだ余裕のある彼らに任せられるものは振り分けていく。
そう言えばと、手を動かしながら守谷さんに河野さんと水内さんがサポートには入れるかを聞いてみる。
「どうだろう? 向こうのチームとの兼ね合いもあるけど……うちのチームに興味あるって?」
「はい。私の環境が羨ましいて言われました」
「そうね、うちのチームは事務所一女が働きやすいチームだと思うから。こう言ってはなんだけど、佐々木さんの代わりになら入れると思うわ。ただ、二人はどうかなぁ」
「難しいですか?」
「一人は確実に入れると思うけど、新卒がどれくらい入るかにもよるわ。新卒が入る前に決まればいいけど、そうじゃないと新卒割り振られちゃうだろうし」
「春までが勝負ですね」
「そうね。でも佐々木さんがいるうちにサポートの引き継ぎはしたいとは思っているから、どっちにしても一人は確実に欲しいところね。本当は佐々木さんが続けられたらいいんだけど」
「そうですね。私もこのチームなら続けたいんですけど……しょうがないですよね」
話ながらしんみりしてしまう。もっと上手く立ち回れば辞める必要もなかったはずだ。
「佐々木さんの所為じゃないんだから、自分が悪いなんて思わないでよ。あと、話せば分かるなんて考えちゃダメよ」
どういう事かと守谷さんに目を向ければ、同じように顔を上げていた守谷さんが「お昼休みにね」と話を締めた。
その昼休み、守谷さんと佐野さんから聞いた話に、何とも言えなくなってしまった。
私は婚約し、結婚準備のために有給を取っていたことになっている。それを耳にした山木さんは、守谷さんと佐野さんから色々聞き出そうとしたらしい。それは言葉巧みで、事前に事情を知らなければ本当に私が基さんに騙されているのではないかと思えるほどだったらしく、自分が何とかするからと言われたらしい。
「賢いのは認めるわ。でもね、あの一方的な賢さはダメよ。人を不幸にするわ」
「まるで人の話聞かないし。いくら私たちがそんなことないって言っても、全く聞いてないんだもの」
「私ね、何とか佐々木さんが残れないかって考えてもいたのよ。でも、彼がこの事務所にいる限り無理だわ。どうしてあそこまで思い込めるのかしら」
佐野さんが渋い表情で首を傾げている。
本当にどうしてそこまで私に構うのか。何かした訳でも言った訳でもないと思うのに。
「彼が山木克(やまきすぐる)の息子じゃなければね。高橋さんが何とかしてくれたでしょうに」
溜息とともに零れた守谷さんの言葉が重い。
世の中には自分の努力だけではどうしようもないことや、ただ一方的に諦めなければならないことがあるってことを、働くようになって本当の意味で思い知らされた。社会はあらゆる意味で理不尽だ。
山木さんは月末から月初にかけて報告のために数日戻ってくるらしい。とりあえずそこまでは大丈夫だと、仕事に集中することにした。佐野さんに言われた通り、仕事は溜まりに溜まっている。
初日から帰宅が二十二時を過ぎたことに基さんが眉を寄せた。これでも終電じゃないだけマシなんだけどとは言えない。
一応お昼と夕食の準備はしておいたので、先に食べて下さいと連絡したのに、待っていてくれた。嬉しいけれど申し訳ない。
「いつもこんなに遅かったっけ?」
「休んでいた分の仕事が溜まっていて、今週は遅くなります」
「駅まで迎えに行こうか?」
「大丈夫です。ちゃんとバスに乗りますし。バス停はすぐそこですよ?」
そう言ったのに、翌日から車で迎えに来てくれるようになった。有難いけれど申し訳ない。
「俺がしたくてしていることだから。柚は素直に甘えてて」
「甘やかされてダメになりそうです」
「このくらいでダメにはならないよ」
基さんはこのくらいと軽く笑うけど、駅から車に乗ってあっという間に家に着くのは、すごく楽ですごく助かる。長いお休みの後のいきなりの忙しさに正直すごく疲れていた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
基さんの横顔にお礼を言えば、前を向いたままシフトにあった手が頭の上にぽんぽんと乗せられ、再びシフトに戻っていった。こういうさりげない仕草が嬉しい。
「ああそうだ。隣なんだけど、今週中にクリーニングが入るって渡辺と山本に連絡入れたら、二人とも週末に引っ越してくるって」
「素早いですねぇ。あの二人、普段も行動が早いんですよ。引っ越し業者もよく捕まりましたね」
「この時期引っ越す人も少ないんじゃない? おまけに単身なら簡単なんだろう」
言われてみれば年明けの引っ越しはあまり聞かない気がする。
翌日会社で二人に週末のことを聞けば、渡辺さんは土曜日の午前中に、山本さんは同じ日の午後に引っ越し業者が来るそうだ。
「手伝いますか?」
聞いた瞬間山本さんが目を泳がせた。これはもしかして。
「山本さんは、もしかして水内さんが手伝いに来てくれます?」
「そう、かな?」
すっ惚けた答えが返ってきた。なるほど。上手くいったのか。
「引っ越しの手伝いはいいからさ、出来れば夕食ご馳走して。佐々木んちの野菜が食べたい。あれ食べるとスーパーで買った野菜が食べられなくなる」
「じゃあまたお鍋にします?」
「いいね。鶏肉買っておくから水炊きがいいな」
分かりましたと頷けば、渡辺さんがほんの少しその表情を緩めた。
その日のお昼は、第一のフロアに来た河野さんと水内さんに一緒に食べようと声をかけられた。
守谷さんと佐野さんに挨拶する二人は、普段社食を利用しているのに、わざわざお弁当を買ってきたらしい。守谷さんも佐野さんも私も普段からお弁当派だ。
河野さんたちは真剣に守谷さんたちにサポートに参加出来ないかを聞いている。今のチームのことや細かいことを確認され、守谷さんから高橋さんに話をしておくことになった。
「正直二人同時は難しいわ。その時は恨みっこなしよ」
「分かってます」
河野さんも水内さんも表情を引き締めて頷いている。特に河野さんの表情がいつになく真剣で、何かあったのかと思ってしまう。
「今週末にあの二人引っ越すんでしょ?」
ころっと表情を変えた河野さんに話し掛けられ、思わず肯くと、水内さんが目を泳がせた。
「えっと、水内さんも来てくれるんですよね。夕食はまたお鍋にする予定なんですけど」
「あぁっと、うん。そう、かな?」
誤魔化し方が山本さんと一緒で思わず笑ってしまう。何の話? と首を傾げる守谷さんと佐野さんに、渡辺さんと山本さんが基さんのマンションに引っ越してくることを話すと、へぇ、と驚いていた。
「あの二人ってプライベートでも仲がいいのかしら?」
「そうみたいですよ」
答えると、守谷さんと佐野さんが顔を見合わせる。
「あの二人、独立するつもりかしら?」
佐野さんが声を潜めて聞いてきた。
「どうでしょう。聞いたことはありませんけど、あの二人なら有り得るかなとは思います」
「きっとあの二人なら直前まで外には漏らさないわね」
守谷さんの言葉に思わず頷く。確かにあの二人なら確定するまで誰にも言わないだろう。水面下で動いて知らされたときは既に準備が整っていそうだ。
河野さんに「私も週末行ってもいい?」と聞かれ、「是非」と答えながら、雅さんも来られるか基さんに聞いておこうと思う。河野さんは雅さんとどうなったのだろう?
その週は水曜日もしっかり残業したおかげで休日出勤はなんとか免れた。山本さんと渡辺さんの二人が、手が空くごとに手伝ってくれたことが大きい。特に資料集めは二人に任せておくとあっという間で、自分でやるより早くてちょっと悔しかった。
土曜日の朝、朝食を食べているところにインターホンが鳴り、渡辺さんと女の子がモニタに映し出された。
「朝っぱらからすいません」
そう言いながらも、朝食のサラダに目が釘付けになっていて、食べるかを聞けば嬉しそうに頷かれた。この時期は自分たちが食べる分だけを温室で作っているので、色んな野菜が程よく詰まったダンボール箱が届く。すごく有難い。
「彼女の由乃(ゆの)です」
「由乃、加藤さんと佐々木さん……はもうすぐ加藤さんになるから、柚(ゆう)さんだ」
由乃さんはうつむき加減にそのまま頭を下げた。
「由乃、大丈夫だから、ちゃんと顔を上げてごらん」
渡辺さんの言葉に、本当におずおずという表現がぴったりな様子で、ほんの少しだけ顔を上げた。
「初めまして。佐々木柚です。えっと、もうすぐ加藤になる予定なんですけど……」
加藤になると言うところで何だか恥ずかしくなって思わず基さんを見上げてしまう。一瞬目を細めた基さんも笑いながら「加藤です」と言葉をかける。
「……由乃、です」
小さく囁くように零れた声は、鈴を転がすという言葉がぴったりな、澄んだ可愛らしいものだった。
一緒にテーブルに着き、もりもりとサラダを食べる渡辺さんと、少しずつ口に運ぶ由乃さんが対照的で、しかも由乃さんの仕草ひとつひとつがすごく可愛くて、これは渡辺さんが毎日可愛いと言いたくなる気持ちも分かるなと、基さんと顔を見合わせた。
「そうだ、遙香さんの安納芋プリンがあるんですけど、甘い物平気ですか?」
渡辺さんは私たちの前では表情を作るのを止めたらしい。満面の笑みで頷いている。由乃さんは目を輝かせていて、甘い物が好きなんだなとそれだけで分かる表情をしている。本当に可愛い。高校生ではなさそうだけれど、大学生だろうか。
基さんがガリガリとコーヒー豆を挽いているのを、由乃さんは興味深げに眺めている。
「引っ越し業者は何時に来るんですか?」
「昨日のうちに引き払ったから、朝イチで来てくれることになってる。多分九時過ぎじゃないかな?」
だから昨日渡辺さんは定時に帰ったのか。コーヒーのいい香りが漂い出す。
「ReMontoの家具が午後には届くことになってるんだ」
「そうなんですか?」
「結構買ってくれたんだよ」
「お友達価格にして頂きましたから」
聞けばベッドやテーブル、椅子などほぼ全ての家具を買い替えたらしい。
「でもあっちだと二人で住むのに狭くないか? こっちに空きが出たら移る? 下はここよりは狭くなるけど」
みんなにコーヒーを配りながらの基さんの言葉に、渡辺さんが目を見開く。
「いいんですか?」
「いいよ。どの部屋でもいいなら管理会社にそう言っておくよ。そのままスライド出来るようにしておくから、差額の家賃だけでいい。本当はこれもお友達価格って言いたいところなんだけど、管理は一切任せてるから特別扱いは出来ないんだ」
「いえ。十分です。ありがとうございます」
不意に渡辺さんが表情を引き締めた。
「由乃は、父の再婚相手の連れ子なんです」
唐突な渡辺さんの言葉に驚く横で、基さんが黙って頷く。連れ子という言葉に由乃さんの体がびくりと震え、その表情が硬くなった。
「別にいいんじゃないか? わざわざ言わなくてもいいことだろう?」
「俺が知っていて欲しかったんです。すいません、いきなり」
「いや。聞いていればなんとか出来ることもあるだろうし」
その時渡辺さんの携帯電話が震えた。どうやら引っ越し業者が来たらしい。慌ててコーヒーを飲み干した二人は急いで暇を告げた。
「なにか、あるんだろうな」
玄関で二人を見送り、その扉が閉まった瞬間、基さんが小さく呟いた。
「以前、事務所にどこまで身辺調査されているか調べたって言ってましたよね。きっと由乃さんのことなんでしょうね」
「そうかもな。まあ、何があるにしろ、あいつも色々手を打ってはいるんだろう」
見上げた先、基さんが心配そうに眉を寄せている。目が合えば、そっとキスがひとつ落ちてきた。
お昼前に雅さんが顔を出し、そのほんの少し後で河野さんも来てくれた。互いに互いが来ることを知らなかったからなのか、顔を合わせた河野さんは少しぎごちなく、これは何かあったなと基さんと目配せを交わす。
お昼に合わせて焼いたパンとミネストローネ、サラダの簡単なランチに、由乃さんが目を輝かせてくれる。それだけでは足りないだろうとかやくご飯のおにぎりも用意しておいたら、パンとおにぎりどっちを食べようかと、由乃さんはその目をしきりに動かして悩んでいる。その様子を見た河野さんが「可愛い」を連発し、その都度渡辺さんが「そうだろう」と笑顔で答え、雅さんと基さんが呆れていた。河野さんの言葉に恥ずかしそうに俯く由乃さんがこれまた可愛くて、河野さんが悶えている。
「由乃さんっていくつ?」
「……十九、です」
「がーっ、未成年! 渡辺さん私よりふたつ上よね、二十七よね、八歳差! この可愛さ! たまらない!」
河野さんが壊れた。河野さん、お酒飲んでないよね?
「私と基さんは五歳差ですね」
「俺とちひろも五歳差だな」
ん? ちひろ? 思わず雅さんの顔を見れば、ん? って顔を返される。河野さんを見れば真っ赤な顔をしていた。
「そう言えば河野って、ちひろって名前だったね」
にやりと笑う渡辺さんの言葉に、ついに河野さんはその顔を両手で隠した。基さんを見ればにやにやと笑いながら雅さんを見ている。雅さんはしれっと「付き合うことになったんだ」と何食わぬ顔だ。
つまり、ここに来ることは二人とも互いに知っていて、河野さが照れて動きがおかしくなっていただけらしい。河野さんがこんなに照れ屋さんだったとは。きっと本当は一緒に来たのだろう。
「河野さんも可愛いですね」
「だろう?」
雅さんに当然という顔で返されて、思わず河野さんを見れば、河野さんは真っ赤な顔で絶句していた。
雅さんも基さんと同類だ。「由乃が一番可愛いよ」と由乃さんの頭を撫でている渡辺さんもだ。都会の男の人はみんなしれっと恥ずかしいことが言えるらしい。
お昼過ぎに水内さんと一緒にやって来た山本さんは、雅さんの側でほんのりと顔を赤くしている河野さんを見て、にやりと笑った。由乃さんに「久しぶり」と声をかけているあたり、以前からの知り合いなのだろう。
水内さんと河野さんは互いにこそこそと報告し合っているようで、お互い恥ずかしくてはっきりとは言えなかったらしく、照れ合いながら「よかったね」と言い合っていた。
山本さんの引っ越しも無事終わり、渡辺さんだけじゃなく山本さんもReMontoの家具を購入していたらしく、午後からは蓮さんも一緒になってそれらをみんなで組み立てる。気付けば渡辺さんと由乃さんの姿が見えなくなっていて、どこに行ったのかと思っていたら、二人で仲良く鶏肉を買いに行っていた。
由乃さんがちまちま食べる様子に水内さんまで壊れてしまい、河野さんと二人「由乃ちゃんを愛でる会」を結成している。
由乃さんは最初のよそよそしさが少し和らぎ、それを渡辺さんが目にしたこっちが恥ずかしくなるほど愛おしそうに見つめていた。