隣にいる人
第十三話「楽しかったですね」
静まり返った家に残された基さんと二人。互いにお風呂に入ってさっぱりしたあと、照明を落とし、大きなスクリーンに映し出されたヒーリング映像をぼんやり見ながら、ソファーベッドに座りゆっくりとお酒を飲んでいる。基さんは琥珀色のお酒を、私は最初に開けた一本目のお酒の残りを未だちびちびと。すっかり温くなったそれは、何度も冷えた新しいものを飲むよう勧めてくれるみんなの声に反して、一本飲み切ってみたいが故に飲み続けている。負けず嫌いだなぁ、と山本さんに笑われた。
「柚は渡辺の事情なんて聞いてないよな」
「聞いてません。でも、彼女のことでしょうか? 何か抱えているような感じはしましたけど……」
「そうなんだよなぁ。ちらっと彼女とは少し年が離れてるとは聞いてはいたんだけど、あれは年上って感じじゃないなぁ」
合間合間に落とされるキスがゆっくりと深くなっていく。基さんからもたらされる濃密なアルコールの香りにくらくらする。
「雅は河野さんを捕まえるつもりだろうな」
「そうなんですか?」
「多分ね。河野さん、雅のこと良さそうだった?」
「雅さんに彼女がいるかを聞かれました。あと素を見せて失敗したって言ってましたよ」
「雅はああいう裏表のない子が好きなんだよ。河野さん媚びがないだろう? 雅はああいう職業だからかその手の女性に辟易してるんだよ」
「じゃあ、大丈夫ですね」
思考がふにゃりととろけ出す。基さんのキスは気持ちよくて、ふわふわとくらくらが一層強くなっていく。
「山本と水内さんもいい感じだったし」
「水内さん、可愛かったですよね」
さりげなく少しだけ山本さんを優先する水内さんが、すごく可愛かった。上手くいくといい。
「俺は柚が可愛かったよ」
本当にもう、どうしてそういうことをさらっと言うのだろう。
なんだか悔しくて、隣に座る基さんの肩にぐりぐりとおでこを擦りつける。
「私だって基さんが一番素敵だって思ってます。一番格好いいし、一番優しいし、一番いい声だし、一番大好きだし、全部が一番なんです」
ぐりぐりしながら思い付いたことを上げていく。とろけ始めた頭で必死に想いを紡ぐ。
「基さんじゃなきゃ嫌なんです」
なんだか泣きそうだ。どうしてこんなに好きなのだろう。
自分の全てが基さんに向かってる。こんなに誰かを好きになったことはない。
「俺も、柚じゃなきゃ嫌だな。柚が一番大事だ」
肩に回された腕の先、その指が髪を梳くように動く。それがすごく優しくて、それが心の底から嬉しくて、どうしてか涙が零れる。幸せすぎて涙を流すなんて、基さんと出会うまでは知らなかった。
涙を唇で受け止めるなんて、そんな映画のワンシーンみたいな事を自分がされるとは思わなかった。
びっくりして涙が引っ込む。そんな私を見て、基さんが優しく笑った。
今日からこの優しい顔で見つめてくれる人と一緒に暮らす。
「今日からよろしくお願いします」
「こちらこそ」
「あの日、声をかけてよかった」
「俺も匂いにつられてバルコニーに出てよかった」
「隣の人が基さんでよかった」
「隣じゃなくても柚とは出会っていたって思いたいよ。出会うべくして出会ったって」
どうしてそんな言葉がさらっと出てくるのだろう。嬉しくてまた涙が浮かぶ。
くらくらするような口付けが基さんから落とされた。ぞくぞくと何かが背中を駆け上がる感覚に、自分の内側が基さんに応え始める。
入籍は基さんの負債を返済し終わる春を予定している。負債があるうちに入籍するのを基さんが嫌がった。
春には私も今の事務所を辞めることになっているので、丁度いいタイミングだと思う。
雅さんが冗談ではなく本当に結婚指輪を作ってくれることになって、河野さんが羨ましがった。
蓮さんと遙香さんの結婚指輪も雅さんが作ったのだそうだ。見せて貰ったそれは、仕事中指輪が出来ない遙香さんのために、指輪を通すチェーンもデザインの一部になっていて、指輪にチェーンを通すのではなく、知恵の輪のように指輪をはめ込むような素敵なデザインだ。
河野さんの目がそれに釘付けになっていて、それを見た雅さんが目を柔らかに細めていた。
河野さんは見ただけで分かるほど、以前から雅さんのデザインが好きだったそうだ。今日耳を飾っていたピアスも雅さんが初期の頃にデザインした数少ないものだったらしく、雅さんが嬉しそうだったと基さんが教えてくれた。
実は山本さんは、雅さんや蓮さんと同じ大学だったらしい。基さんは別の大学に行ったそうだ。聞けば私でも知っている有名な大学で、基さんたちが通っていた高校は有名な進学校だったらしい。
そんなことはまるで知らなくて、少しショックを受けていたら、河野さんに「本当に内面に惚れたんだねぇ」としみじみ言われ、すごく恥ずかしかった。山本さんや渡辺さんと普通に会話出来ている時点で、基さんも賢い人なのだろうとは思っていたけれど。ちなみに私の出身大学は誰も知らなかった。建築学科だってあるのに……。
とりとめもなく昨日のことを思い出しながら、いつもより遅めの朝食の準備をする。
基さんはダイニングのテーブルに座りタブレットでニュースサイトを見ながらコーヒー豆をガリガリと挽いている。
漂うように流れているのはメロウなジャズで、耳に心地よく通り過ぎていく。時々基さんがそれに合わせてメロディをなぞり、耳に届いたそれに穏やかな幸せを感じた。
基さんとの暮らしは、時々自分との違いに驚くことがあるものの、概ね穏やかだ。
最初の頃は仕事部屋で仕事をしていた基さんは、どうにも集中出来ないらしく、結局ダイニングで仕事をしている。集中すると周りが何をしていても気にならないらしく、私が側を通ろうが、掃除機をかけようが、まるで気にしていない。最初は遠慮していた私も、今は自分のペースで家の中を整えている。
ただ、時々行き詰まるといきなり腕立て伏せや腹筋をし始めてびっくりする。
基さんから何かを強要されたことは一度もない。
それはきっと基さんが大人だからだと思う。口出しせずに人に任せられる余裕があるからだ。
元々一人暮らしをしていた所為か、食事を作る以外の家事はそうするのが当たり前かのように自然と手伝ってくれる。洗面所を使った後に周りに水が飛び散っていたことすらない。父はよく母に怒られていたのに。
最初はドキドキしていたおトイレ事情などの知られたくない恥ずかしいアレコレも、今のところ何とかクリアしている。基さんが「トイレ使っていい?」と聞いてからトイレを使う時と、黙って使っているときがあることに気付いて、直後に入られたくないときは同じように声をかけてから使うようになった。事前告知もそれなりに恥ずかしいけれど、直後に入られる方が嫌だ。使った後、誤魔化しも兼ねてついでにトイレ掃除もしている。一人の時には必要ないと思っていたトイレ用洗剤の爽やかな香りが頼もしい。
一人の時の気楽さはなくなったけれど、生活に少しだけ緊張感があって、今はそれが楽しく思える。何より一緒にいられることが嬉しくて仕方がない。
クリスマスイブには遙香さん自らがクリスマスケーキを届けてくれた。ポッケのサイトに載っているどれとも違うデザインのケーキは、遙香さんが私たちのためだけに作ってくれたものだそうで、暇に任せて作った夕食に毎日蓮さん共々招待してくれたお返しだと笑った。
「クリスマスイブまでお邪魔してよかったの?」
「そのつもりで用意しましたから」
「正直すごく助かってるんだぁ。もう疲れ切ってて、この時期は蓮に頼ってばかりですごく嫌だったから。だからってゆうちゃんに頼っていいことじゃないんだけど」
「私は野菜が減るので助かってますから。今は私も暇ですから遠慮なく頼って下さい」
気分転換したいと言う基さんと一緒に出掛けたデパ地下で、チキンの丸焼きを買ってきてしまった。二人じゃ到底食べきれない。本当は、ずっと家に籠もりっぱなしの私に気分転換させてくれたのだろうと思ってる。ほんの二時間ほどの外出だったけれど、クリスマス気分が一気に盛り上がって、小さなクリスマスツリーまで買ってきてしまった。
「こういうクリスマスらしいクリスマスって、久しぶりすぎてはしゃいじゃう」
楽しそうに笑う遙香さんを目にした蓮さんも嬉しそうだ。
遙香さんは25日が仕事納めだそうだ。蓮さんの仕事納めもそれに合わせ、翌日一日ゆっくり体を休めたあと、イタリアとフランスに行く。ゆっくり色んなものを吐き出して、そして吸収してくるのだそうだ。
基さんはそんなことすっかり忘れていたみたいで、「あれ? そうだっけ?」と笑って誤魔化していた。
「柚、結婚式や新婚旅行はどうする?」
お風呂を出た基さんが髪をタオルで拭きながら声をかけてきた。ちゃんとドライヤーで乾かさないから寝癖が付くんだと思う。ドライヤーを持って来て渡せば、これまたいい加減に髪をわしわしと乾かしている。
「んー。どうしましょう。基さん、結婚式ってしたいですか?」
「柚はしたくないの?」
「実は憧れてはいたんですけど、いざ基さんと一緒にいられるようになったら、どうでもいいかなって思えてしまって」
「じゃあ、新婚旅行兼ねて夏にスウェーデンに行く? 結婚の報告と挨拶を兼ねてうちの親に会いに」
基さんのご両親には基さんが結婚する旨の連絡はしているらしい。さすがに簡単に挨拶に行ける距離ではないので、直接ご挨拶出来るならしたい。
「夏だからオーロラは見られないけど」
「でもオーロラって常に見られる訳ではありませんよね。運だって前にテレビで言ってましたよ」
「代わりに夏は白夜だよ」
「そっちの方が見てみたいです」
オーロラは映像で疑似体験出来るけれど、白夜はきっとその場にいないと分からない感覚だと思う。都会に出てきたときに夜が明るすぎてびっくりした。実家の辺りでは国道でさえ街灯の明かりが届かない場所があるのに。
翌朝目が覚めると枕元に小さな小箱。
慌てて基さんを起こして、MIYABIのリボンがかかった箱を開ければ、中には指輪やブレスレットと同じデザインのピアスで、高価だと知らされたピンクダイヤがついていた。びっくりしすぎてベッドの上に正座して怒ってしまう。
「だって、ネックレスがクリスマスプレゼントだって」
「柚に似合うと思ったんだよ」
「私、ブレスレットしかあげてないのに」
「俺があげたかっただけだから。柚が俺のものって印だから」
「でも──」
続く言葉は基さんの指が唇に触れて遮られる。
「柚、嬉しい?」
「嬉しい。ありがとうございます」
肘をついて寝そべる基さんに抱きついた。
「基さん、私にお金使いすぎです」
「柚に使わなくて誰に使うの?」
「基さんに。基さんのお金なんだから、基さんが自分で使って下さい」
ぎゅっと抱きしめ返される腕に力が込められた。同じようにぎゅっと抱きつく。
「俺が柚に使いたかったんだ」
「一生分貰いましたから。二十五年後は何もいりませんからね」
「もっと欲張りになってもいいんだよ」
「欲張りですよ。基さんのひとかけらも誰にも渡したくありませんから」
思わず勢いで零れ出た言葉に、自分の中の真実を見付ける。
ひとかけらも取り零したくない。全部が欲しい。
驚いたように目を見開いている基さんの唇に、自分から顔を寄せた。
「柚、リサイクル業者が来るから隣に行ってる。柚はゆっくりしてて。何かあったら電話して」
そうだった。お昼前にリサイクル業者が来てくれることになっていた。
基さんと初めてエッチをした日から、そうするのが当たり前の日々を送っている。でも、まさか明るい朝からするとは思わなくて、色々恥ずかしい。
ベッドの中からお願いします、と小声で言えば、「いってきます」と返され、「いってらしゃい」を言う。
今までも基さんの家にいるときにも言ってきた言葉だけれど、一緒に住むようになってからは、それまでとは違う響きを感じる。少しずつ少しずつ、基さんと一緒にいることに慣れていく。それがどこかくすぐったいような嬉しさを感じさせてくれる。
気怠さの残る体を起こし、のろのろと部屋着を身に着ける。
用意出来なかった朝ご飯の代わりに、お昼はしっかり食べて貰おう。
基さんから新しく貰ったピアスは、キャッチじゃなくフープになっていて、後ろでフープの先を安全ピンのように留めることもでき、付けっぱなしでも落とさないよう作られている。鏡に映るのは恥ずかしいほどの笑顔だ。
こんな事なら私も何か用意すればよかった。それにしてもいつの間に買ったのだろう? 打ち合わせに出掛けたときだろうか。
小麦粉を計りながらそんなことをぼんやり考える。
昨日のチキンは四人でも多くて、少し残っている。お昼はそれでサンドイッチを作ろうと思い、ホームベーカリーのスピードコースでパンを焼く。
洗濯をしながら、掃除機をかけ、お風呂の掃除やトイレの掃除をし、アイロンがけをしていると基さんが戻ってきた。
「ただいま」と「おかえりなさい」もやっぱり今までと何かが違う。
「基さん、今日仕事や打ち合わせは?」
「もう年明けまで打ち合わせ自体はないよ。でも昼からちょっと仕事する」
あの本体だけになったシングルベッドも引き取って貰えたそうだ。ただ、全部合わせても二束三文にしかならなかったらしい。
「でも処分することを考えたら、引き取って貰えた方がいいですよね?」
「まあね。でも柚の洗濯機なんて三年も使ってなかっただろう?」
「三年も使っていれば十分なんじゃないですか? リサイクルショップ的には」
丁度焼き上がったパンの香りにつられたのか、基さんのお腹がぐうっと鳴った。少し早いけれどお昼にしよう。
「すごいな。柚のおかげで今まで以上に仕事が捗る」
「そうなんですか?」
「いいタイミングで飲み物用意されてたりするから、集中が切れなくて一気に終わる」
基さんは気付いてないようだけれど、手が止まり、モニタからも目が離れる瞬間がある。それまで聞こえていたパチパチとキーボードを弾く音が止み、更にモニタから目を離しているのを確認してからお茶を用意している。それだけのことだ。
「楊枝全部刺しだし」
今お茶請けに用意している実家から送られてきたリンゴは、ひと口サイズにして全てに楊枝を刺している。手を汚さずに、モニタから目を離さずに摘まむには、刺すときにどうしてもモニタから目を離さざるを得ないフルーツフォークを用意するよりも、最初から全部に楊枝が刺してある方がいい。自分がそうだったらいいなと思うことをしているだけだ。
「喜んで頂けてなによりです」
「俺専属で柚を雇いたいよ」
「この程度のことなら誰でもしてますよ」
「そうかなぁ。地味なことだけど案外出来ないと思うよ」
「それはきっと今だからで、相手が基さんだからですよ」
こんなにじっくり人が仕事しているのを観察することなんてないからだと思う。自分も仕事を抱えていたらそれどころではない。そもそも基さんじゃなかったらここまではしない。大体基さんの私に対する採点が甘すぎる。
仕事をしているときの真剣な表情の基さんがすごく格好いい。
時々ふとモニタから目を離した瞬間に視線を彷徨わせ、探されていることが分かる。視線が絡めば、その目が優しく細められ、その口元に笑みが浮かぶ。たったそれだけのことなのに、気持ちがちゃんと伝わってきて、言いようのない幸せを感じる。
年末と言うこともあって毎日が穏やかに過ぎていく。
クリスマスの数日後には基さんも仕事を納め、実家から送られてきたいくつものダンボール箱にちょっと呆れながらも栗きんとんに喜び、のし餅に驚いていた。切り餅と鏡餅しか見たことがなかったそうで、初めて見たと妙に感動していた。
蓮さんに押しつけようと思っていたのし餅は、渡辺さんが喜んで貰ってくれた。ついでに栗きんとんやあんこ、リンゴや野菜もたくさん押しつけてしまった。
渡辺さんも山本さんも、年明けにクリーニングが入り次第引っ越してくるそうで、すでに不動産屋さんとは契約を済ませてあるらしい。
お休みに入った基さんと一緒に、必要な家具などを選んでいく。
ReMontoは基本的にはウェブカタログらしいのだが、有料で販売されているカタログもあって、それは写真集かと思うほどにしっかりとした作りのすごく綺麗なものだった。眺めているだけでうっとりしてしまう。ただ、何故か英語版だった。
蓮さんがソファーベッドの背もたれ用のクッションと専用のカバーを注文してくれていたおかげで、一見するとソファーベッドだとは思えない姿になった。
食器棚もコーヒーテーブルも蓮さんのデザインのもので統一し、リビングの窓には木製ブラインドが下がる予定だ。
それまでリビングの窓を遮るものは何もなく、公園から丸見えなのかと思ったけれど、角度的に見えそうで見えないらしく、蓮さんのところも日を遮るためだけにブラインドが設置されているらしい。
元々使っていたカーテンは寝室と仕事部屋に使われている。偶然にも互いにアイボリーの無地のリネンのものを使っていた。
仕事部屋にはワイド一千二百のシェルフがふたつ。基さんの仕事の資料や本が並べられる予定だ。私が使っていたラグはそのままリビングでも使われることになり、時々そこに転がって本を読んだりテレビを見ていると、基さんに猫みたいだと笑われる。
まったりとお正月を迎え、それまでたくさんのことを話していたのとは逆に、言葉少なに過ごす時間と空間が心地よく、お互いの存在に寄り添いながら、ゆったりと時が過ぎていく。ずっとこのままこんな風に過ごせたらいいと思う頃に、互いのお休みが終わり、私の長すぎる休みも終わった。