大地の記憶
09 Octāvus et Tertius 進化—Evolution頭の中がぐちゃぐちゃで、わけのわからないことをしでかしそうで、咄嗟にその場から、その腕の中から逃げ出した。臆病な自分がほとほと嫌になる。
あの男のそばにいると自分がわからなくなる。聞いたばかりののぞみさんの言葉に惑わされる。一緒にいられることの意味がわからない。立ち向かう勇気がない。直視できない。
泉のほとりから十メートルほど離れた場所に、二人の小さな家が建つ。
そこに戻ろうと近付くにつれ、異変に気付いた。家の中から淡い光が漏れている。ふわふわと霧か煙のように立ち上るダイアモンドダストのような光の粒子。
何事かと足を早めると、かすかに漏れ聞こえてくるのは、もしかしてのぞみさんの泣き声だろうか。
思わず駆け出した。
半開きの扉からのぞき込んだ先、目に飛び込んできた光景。
ラグの上で向かい合い、抱き合う二人。
ひかりさんにしがみつきながら、絶え間なくのぞみさんの腰が跳ねるように揺れている。
仰け反るように伸びる首筋。そこに寄せられる唇。くねるように揺れる腰。零れ落ちる甘い声。白い太もも。仰け反る背中を力強く支える片腕。
ついさっきまでは隙もなくきっちりと合わさっていた彼女のワンピースが乱され、外されたボタンの間からまろび出た白い乳房の片方が、大きな手のひらに揉みしだかれ淫靡に形を変えていく。もう片方はその薄紅の先端が濡れたようにてらてらと光り、その先をつんと尖らせている。白い肌にその薄紅だけがことさら鮮明に浮かび上がり、まさに今、ひかりさんの唇がその彩りを食んだ。
耳に響き続ける艶めいた声。動き続ける細い腰。しなるように伸ばされた背筋。突き出される胸の先。
二人の周りには光が満ち溢れ、何かが滴り落ちそうなほど官能的で、それでいて犯しがたい神聖な領域を創り出していた。
「邪魔しないように。新たな生命の誕生です」
耳元に吹き込まれた声に身体の芯が震えた。自分の周りからも小さな光の粒子が浮かび上がる。
「だから、ここで第七の影響を混ぜてどうするんですか」
くくっと笑いながら吹き込まれる声までが艶めいて聞こえる。意味がわからずゆっくりと振り向けば、いつの間にか背後にいた私の半身を自称する男が、妖艶な笑みを浮かべていた。
後ろから抱きしめられた瞬間、まるであの暗黒色の羽に包み込まれたかのように景色が暗転する。
懐かしさすら覚える闇の中、あの男だけが唯一の存在。
──しばらくはここに。あなたもそろそろ快楽を覚えた方がいい。
背後から包まれるように抱きしめられているような気がする。たったそれだけで、身体の奥がさざ波を立てながら震える。その波紋が心まで震わせる。乱される。息が上がる。
怖い。それなのに抗えない。身体が理性を裏切った。
ほんの一瞬前まで目の前にあった情景が、頭の中で執拗に繰り返される。のぞみさんの甘く艶めいた声が耳から離れない。
きれいだった。美しく淫らで艶めいて、見つめ合う度にお互いの気持ちがきらめきのように溢れていた。二人でひとつのように、その周りを光の粒子が包み込んで守っていた。
愛し合う。その全てがそこにはあった。そんな気がした。
ほんの僅か、抱きしめられている腕に力が込められる。たったそれだけのこと。それなのに、身体の芯が強く痺れ、感覚がばらばらになっていく。
小さく上がった驚きともつかない声が自分の口から零れ出たことを知るのはほんの少し後。五十音の最後の音に混じる最初の音が闇の静寂に吸い込まれて消える。
小さく弾けた刹那の強い光は火花のようで、闇にのみ込まれる前にほんの少しだけ、振り仰いだ背後の男を浮かび上がらせるようで……。
目にしたことを後悔した。
宝物を見るような目。そこには、ひかりさんがのぞみさんを見ているのと同じ色と温度があった。
恥ずかしさすらのみ込む闇の中。
まるで宙に浮かんでいるような感覚。
体中の力が抜け、一条の光もない闇の中をたゆたう。
私、ここ知ってる?
──憶えているのか?
わからない。でも知ってる気がする。
──そう、か。
その声がどことなく嬉しそうに聞こえ、同時に哀しそうにも聞こえた。
相反して聞こえた意味がわからない。間違ってはいないと確信できるのに、どうしてそんなふうに聞こえたのかがわからない。
私、恋をしてみたい。
──それで?
ここは、この空間は、どうしてか素直になれる。
暗闇は怖い。けれど、この闇は怖くない。どうしてなのかはわからない。
デートしてみたい。
──それから?
ちゃんと好きになって、それから、始めたい。
──そうか。
ひどく優しく聞こえた。
わからなくなる。私の知るどれが本当なのか。どれも本当なのか。
第八世界は遷移期に入る。
ひかりさんは両性だったらしい。あそこに棲むものが両性だとは聞いていた。けれど、第三世界で生まれた第八がそうだとは聞いていなかったので驚いた。
あのあと、そろそろいいだろう、と耳元で囁かれた瞬間、再び景色が光を取り戻した。眩しさに目が慣れたそこは、始まりの雫の淵。
そこにあった、白いレンガが積み重なったベンチのようなものの上に腰をおろし、しばらくぼんやりとそのさざ波を眺めていた。
黒を纏う男は、ただ黙ってまるで守るかのように背後に佇む。耳に心地いい水音と葉擦れの音、背後の存在に守られながら、うとうとしかけたところでひかりさんたちが家から出てきた。
「霧島くん、ありがとう」
ずっとここにいたの? と穏やかに笑うのぞみさんが、ああ、と適当な相槌を返す黒尽くめの同級生にお礼の言葉をかけている。
まるでさっきのことがなかったような穏やかさ。もしかしたら、二人は憶えていないのかもしれない。この男ならそのくらいのことはできるだろう。
いくらなんでも私たちがいるのに抱き合うだろうか。きっとそれすらこの男の仕業だろう。
彼女は、自分の身体がひかりさんとは違うせいで、なかなか子供ができないのではないかと悩んでいたらしい。
そのひかりさんの身体が単性に変わったことで確実に二人の子供が生まれる。それを説明された二人は顔を見合わせ、本当に嬉しそうに笑い合った。
きっともうすでに、彼女の中には新たな生命が芽生えようとしている。
この瞬間に立ち会うために、この得体の知れない男は第八世界に来たのだろう。
どうして私を連れてきたのかはわからない。
「出産時、第九世界からあれを呼べ。お前の通称を仮の名に変えた男がそこにいる」
「それってもしかして、組織の研究員の?」
そうだ、と答える男の声が、どこか優しく聞こえた。これから生まれてくる新たな生命を歓迎しているような、そんな気がした。
ひかりさんがのぞみさんに説明しているのを聞いて、彼は研究所では番号で呼ばれ、それを不憫に思った研究者の一人がその番号の音にちなんだ漢字を当ててくれたらしい。
それがそのまま、彼のかつての名前になっていた。
「薫ちゃん、第九世界にいるの? 奥さん連れて失踪したんじゃないの? 俺、組織に消されたんだと思ってた」
「あれは……自ら第九世界の一部になったものだ。あの執念にはさすがに呆れた」
苦いものをのみ込んだような声に、思わず見上げた男の顔が見たこともないほど歪んでいた。驚くと同時に面白くて笑いそうになる。本当に、はっきりとした表情があるだけで何もかもが違って見える。
「何それ。どうやったらなれんの?」
「第九に認められ、その半身たちにも認められ、それら全ての肉を取り込みその身体をつくりかえている」
それはまさか、神喰い人と同じことをしたのか。
組織の人間が神喰いのことを知るはずがない。かなりいかれた行為ながら確実な方法でもあり、よく思い付いたなとある意味感心しつつも、そのおぞましさに顔が歪むのが自分でもわかった。
「うえぇ。マジか。薫ちゃんならやりそう。奥さんかわいそうに、絶対知らないうちにやられてるな」
「行き先が第九世界だから可能だっただけだ。ここでは無理だ」
確かに。第九世界だからこそだ。
「別にいい。俺はのぞみさえいればいいから」
その明確な拒絶は誇らしげで、彼に寄り添うのぞみさんが照れた。それがなんだかすごくかわいくて、どうしようもなく羨ましかった。そんなふうにきっぱりと言い切れる関係。それを受け入れている関係。
彼が同じ両性の半身を得ていたなら、遷移は先送られた。けれど、彼が選んだ半身は単性。女の性を持っていた。彼が完全体になることで第八世界は遷移期に入る。完全体とは、まさに「男になる」こと。
それによって生まれてくる彼らの子供は、第二成長時に両性から単性に変じる。
第八世界に生きるものは、この先進化を遂げる。
元の第一世界の生きものたちは、今の第一世界の影響を一番強く受けていたせいで両性だったらしい。それらが移り棲んだ場所が第八世界。両性を保ったまま、時に第七世界に生きるものと交わり、ゆっくりと進化していった。そしてさらなる進化が両性から単性への変化。
「両性から単性って、進化じゃなくて退化じゃないの?」
「あなたは何を以て進化と退化を判じるのですか」
抑揚のない声を懐かしく感じるとは、これいかに。
第八世界から戻って来ても、変わらずコマンドの制御のために放課後の居残りが続いている。
実は第八世界では羽が隠れていたと知らされた時、正直もう覚醒するまで放置しようと本気で思った。自分で制御できていないのは間違いない。どうやって隠したのかがまるでわからない。
どうせ覚醒する。覚醒すれば制御することなく自在に操れるようになる。覚醒するまで第七世界には行かないのだから、放置でもいいと思う。
それなのに、制御できるようにしろと、寝ぼけた顔の男がしつこい。
「だって、両性の方が便利そうじゃない?」
「両性の場合、感情が育ちにくい」
「進化って、感情豊かになることなの?」
「それも進歩の手段です。人間と動物の違いを考えてみてください」
「なにその人間至上主義」
目を細めて見返せば、いつも通り教室の入り口に近い席に足を組んで座る男が、頬杖をついていた顔を上げた。
「人は、そのようにつくられた生きものです。その姿は各世界によって違いはありますが、人として生きるものはその世界の最上位として存在する」
時々この代理教師がどの位置で話しているのかがわからなくなる。今の言い方だと、まるで──。
やめよう。考えても仕方のないことは考えない。
「私は、前にもあなたに会ったことがあるの?」
「ええ。あなたを第三世界に連れてきたのは私ですから」
一瞬にして全身が熱を持つ。強い怒りに頭が一瞬にして沸騰する。
まさか、こいつが諸悪の根源だったとは!
「どうして!」
「言ったでしょう。私だけのものになってほしかったからです」
表情も変えず、当たり前だとでも言いたげな口調。こんな時に表情もなく平坦な声は卑怯だ。何もわからない。何を考えているのか想像すらできない。
「それがどうして第三世界なの!」
「第三世界の人間は進化を放棄した。それゆえ、種の交わりを禁忌とする」
「それがなにか関係あるって言うの?」
「わかりませんか。第七世界の進化は低迷している。遷移を考えればあなたが異種と交わらざるを得ない」
絶句する。何それ。おぞましさしか感じない。人以外の生きものと交わろうなんて到底思えない。
「そんなこと、絶対にしない」
「そう。そう育ってほしかったのです。あなたを何ものにも与えたくない」
私は、これまで訊いたことがなかった。聞かないようにしてきた。聞いたら後戻りできないような気がして。
「第七世界に棲むものって……」
「この世界でたとえられているのはエルフです。妖精のような羽を持つ存在」
それって、もしかして──。頭に浮かぶ黒揚羽。
「虫?」
「ええ。第三世界の鳥や蝶に似ています。触角を持ちますから、見た目だけでいえば蝶に近い姿でしょう」
「第五も?」
「ええ。もともと第五世界と第七世界は同じ種が枝分かれしたものです」
「それが、統合されるの?」
ぼんやりとした表情のまま、頷きが返される。
それは、私のせい? ふと吹き込まれたかのような思考は、突如浮かんで一瞬にして消えた。
「私にも、触覚があるの?」
それに珍しく一瞬言い淀まれた。
「いえ。あなたは私の半身ですから」
いやだ。頭の隅が勝手に思考し始める。考えるな。これの正体など、知りたくもない。
そう、これが私の半身なのではなく、私がこれの半身なのだ。人は、これを元につくられている。私たちやゼノたちですら──。
「どうして、目覚めたの?」
「あなたがいたから」
どこか苦しそうな声。きっとそれだけじゃない。それでも──。
私が、目覚めさせた──。