大地の記憶
08 Octāvus 始まりの雫—Genesis何が喜ばれたかって、母が持たせてくれた三段重だ。ちょっと豪華な手作り弁当。
「なんか俺、旨すぎて泣きそう。米粒感が久しぶりすぎて感動する」
ひかりさんは兎にも角にも詰め込めるだけ口に詰め込みながら、それはもう豪快にもりもり食べている。俵型のおむすびなんてひと口だ。きれいな顔して豪快すぎる。
のぞみさんは目を潤ませながらちょこちょこつまんでは、複雑そうな表情を見せる。それが、懐かしむ以上の何かを感じているようで不安になった。
「お口に合いませんでしたか?」
思わず訊けば、慌てたように首を振り否定する。
「違うの。私、こういう手作りのお弁当って食べたことがなくて。羨ましいっていうか、感動したっていうか、自分でもよくわからなくて」
その瞬間、隣に座っていたひかりさんが、彼女を片手でぐいっと自分の胸元に引き寄せ、その頭を抱え込んだ。それがあまりにも自然で、言葉もなくぼーっと眺めてしまう。絵になるとはこういうことか。
彼らの小さな家には全てが二人分しかなく、小さなラグに直接座ってピクニックのようにお重を広げている。
ついでにと用意しておいたステンレスのスプーンやフォークに二人揃って感激された。箸やスプーンは作れたものの、フォークは難しかったらしい。おまけにハサミや爪切り、何より携帯用の裁縫道具に二人揃って歓声を上げた。
隣の席の祐夏は、夏休みなどの長期休みのたびに世界中を旅行している。あったら便利なものを訊いたら、意外と身近なものが返ってきた。日本のトイレットペーパーなどのペーパー類がいかに上等かをこれでもかと聞かされ、大量に用意したのに全て却下だ。しばらく買わなくて済むと母が笑っていた。
何事もなかったかのように食事を再開するひかりさんと、照れくさそうなのぞみさん。
思わず隣に座る男を見上げる。やっぱり、ん? と言いたげな顔をされ、なんとなく恥ずかしくなって目を逸らした。
今までなかった表情があるだけで、その印象ががらりと変わる。跳ねる心臓を諫めながらため息をつきたくなった。
目の前にいる二人があまりにも自然にイチャつくものだから、なんとなく淋しくなったなんて、私も大概感化されやすい。あてられるとはこういうことか。
「そろそろいいですか」
二人の雰囲気があまりに自然だからか、ここは妙に居心地がいい。
おせんべいやチョコレートなど、ひとしきり持ってきたおやつの披露も終わり、まったり寛いでいると、平坦な声に叱咤を混ぜたようなぴしゃりとした音が小さな家に響いた。
「何がそろそろ?」
「あなたは……何しに来たか憶えていますか?」
むっとした表情がなんとも面白い。ちゃんと言葉尻が上がっていることに感動する。言葉に温度がある。今のは妙にひんやりしていたけれど。
「そうだった。霧島、何しに来たの?」
ひかりさんの暢気な声に、いつもは表情が動かない男のこめかみがぴきっと音を立てたように見えた。面白すぎる。
ここに来たのは、不完全な第八を完全にするための調整。たとえ私が覚醒したとしてもできないことを、この男は事も無げにできると言い切った。
ただの第五のわけがないこの男の素性は考えないことにしている。怖すぎて考えたくもない。
「お前の調整だ!」
「俺の?」
いきなり口調が変わった。苛立ちをはっきりと表すその声が聞こえた途端、いきなり二人が同級生に見えた。
そして、そこでようやくのぞみさんの目から怪訝さが消えた。もしかして彼女は──。
淵源を利用して調整するという男二人が外に出たあと、のぞみさんと二人、小さな家に残された。
「色々ありがとう。自作するにも限界があって、細かな道具は諦めていたの」
ハサミをシャキシャキ鳴らしながら、のぞみさんが嬉しそうに笑う。
「よかった。でも、第三世界になら戻ろうと思えばいつでも戻れるはずなのに、どうして?」
「私たちは、どんなに不便でも戻りたいとは思わないから」
穏やかな笑顔とは裏腹に、その声はきっぱりとこれ以上ないほど明確な境界線を描いた。
「訊きたいこと、あるんでしょ?」
彼女は、優しい笑顔で私の躊躇を見透かした。「でも、きっと参考にはならないと思うけど」と、付け加えながら。
「どうして、……」
そのあとの言葉が続かずに言いあぐねていると、目の前に座る彼女がふわっと笑う。
彼女の笑顔はなんだかほっとする。その笑顔は透き通るように透明で、無邪気とは違う純真さが滲み出ている。かなり美人なのに、女性と少女の間のような表情は、驚くほど気さくだ。
「私は、家族がいなかったから、ここに来ることができたんだと思う」
静かに語られたのは彼女の生い立ち。親との縁が希薄だった彼女は、たった一人で必死に生きてきた。その上で、誰も知らない場所に行きたかったのだと聞かされ、何も言えなくなった。
「あなたには家族がいるでしょ。きっと彼と同じで血が繋がっているわけじゃないんだろうけど……でも、すごく大切にされてる」
頷けば、「羨ましい」と、ふんわりほほえまれた。
それは羨んでいるというよりは、大切にしなさいと言われているような、そんなあたたかさが伝わってくる笑顔で、きっとそんなふうに笑えるようになるまでには、たくさんの感情を抱え込んだことがわかるほど、何かを乗り越えたような強さがあった。
この笑顔を彼女から引き出したのは、間違いなくひかりさんだ。
「きっとね、最初から大切なものがある人の方が強いと思う。私は逃げ出すほど弱かったから。でも、ここに来て初めて知ったの。大切なものって、いつの間にかできちゃうんだね。自分でも気付かないうちに」
「いつの間にか?」
「そう、いつの間にか。気が付いた時にはもう遅いの。気が付いた時にはすでに手放せないくらい大切になってる」
「それが、ひかりさん?」
はにかむように笑う彼女からは、本当にひかりさんのことを大切に思っていることがひしひしと伝わってくる。羨ましいくらいに真っ直ぐでひたむきな想い。
「私は、こんなにも誰かを好きになったのが初めてだったから、余計に失いたくないって思うのかも」
だから、あんなふうに彼を守ろうと警戒するのか。あれはきっと母性だ。母が大切な我が子を必死に守ろうとするのに似ている。きっと、女としての本能。
「霧島くんでしょ? あなたのパートナー」
なんと答えていいかわからずに、曖昧に笑う。
「あんなふうに、宝物を見るような目で見られるのって、ちょっと居心地悪いよね。恥ずかしいっていうか」
はにかむように笑うのぞみさんを凝視する。まるで同意を得ようとするかに聞こえ、驚きに思考が止まった。
「そんな、目、なの?」
「そんな目だよ。すごく大切にしてるって感じ。目だけじゃなくて、全身からそんな感じが伝わってきてたから、ちょっといいなって思っちゃった」
あんなにひかりさんに大切にされているのぞみさんが、そんなふうに感じる──。
わからなくなる。
出会ったばかりじゃないと言っていた。向こうにとってはそうじゃなくても、私にとっては出会ったばかりの、まだよく知らない人だ。
「きっとね、好きになるって最初からなんだと思う。単純に好きだから、一緒にいられるんだと思う」
そうだろうか。わからない。好きかどうかを自覚する前に、強烈に惹きつけられてしまうことが怖い。自分の気持ちを勝手に変えられそうで怖い。
「それに、優羽ちゃんも彼のこと頼ってるでしょ?」
その言葉に目を瞠る。目の前でさも当然とばかりに言葉を続ける彼女。何を言われているのか、さっきから頭がついていかない。
「身体がね、さりげなくなんだけど彼の方に寄ってたから、そうじゃないかなって。違った?」
答えられない。
わからない。自分のことがわからない。頭の中が混乱する。
突然の小さな物音にびくっとして振り向けば、戸口に姿を現したひかりさんは、ひどく疲れて見えた。それなのに目に宿る力がとてつもなく強い。おまけにどことなくさっきまでとは雰囲気が違う。存在の大きさがまるで違う。
「のぞみ……」
どこか呆然とそう呟いたあと、靴のまま家に入ってきて、少しだけ乱暴に彼女を抱きしめた。
いきなりの変化にわけがわからず、戸口に立ったままの男に目を向けると、小さく手招きされる。静かに立ち上がり、靴を履き、歩き出した彼の後を追う。
「どうしたの? 調整失敗?」
「まさか」
青く見えていた泉は、近付くにつれ透明に変わる。不思議な泉。ああ、これが聞いていた始まりの雫だ。かつての第一世界に存在した始まりの海の名残。
その知識の御利益に与ろうと、しゃがみ込み水面に手を伸ばそうとしたら、その手を取られた。
「あなたは……ここは第八世界ですよ」
「ダメなの?」
取られた手を引かれ、そのまま立ち上がる。
手を取られた時に感じた何かと、手が離れた時に感じた何か。
聞いたばかりののぞみさんの声が次々と頭に蘇る。混乱する。
「ダメでしょう。今、第八が完全に覚醒したばかりだというのに、そこに第七の影響を混ぜてどうするんですか」
呆れに混じるそれはなんだろう。
「淵源に触れることもダメなの?」
「淵源だからこそ、ダメです」
本当に、表情があるだけでそれまでとは何もかもが違う。どうしていいかわからなくなる。真っ直ぐに向けられる視線が強すぎて、目が逸らせなくなる。それが怖い。
「第八は、ひかりさんはどうなったの?」
「男になりました」
「なにそれ」
「そのままです」
そう言って笑った。
初めて見た自然な笑顔。優しさだけが浮かぶ瞳。柔らかく緩んだ頬。嬉しそうに弧を描く唇。眉目秀麗と言ってしまえるほど男らしくも美しく整った顔が、ふわっと綻んだ。
息が詰まった。胸が痛い。鼻の奥がつんと痛む。わけもわからず泣きそうになる。こみ上げてくる想いをどこに逃がせばいいのかがわからない。
「来た甲斐がありました」
頬に触れた胸から直接伝わってくる音と振動と言葉。
「あなたに触れられる」
抱きしめられている。それに嫌悪よりも安堵が勝る。身体の力が抜けていくような、膝がかくんと抜けて落ちていくような感覚。
夢を見るような、眠りの中のコンタクトとは違う、ありのままの生命がそこにあった。
触れ合うということが初めてわかった。伝わってくる想いが胸に迫って追い立てられる。
本当に、どうすればいいのかがわからない。
「あなたは、あなたの思うままでいい。存分に迷い、惑えばいい。ただ、最後は自分で見付けなさい」
「待っててくれるの?」
「いつまででも」
耳に残るのはのぞみさんの声。
単純に好き……一緒にいられる……始めから好き……宝物を見るような……大切にしてる……全身から……。ぐるぐると頭の中で繰り返される。
いつの間にか握りしめていた黒いシャツ。指先に伝わってくる熱に、身体が理性を裏切ろうとする。心が途方に暮れたように立ち尽くす。
抱きしめられた腕の中、何をどう思えばいいのかがわからない。