大地の記憶
10 Tertius 四半分—Quarter


 ん、と引き結んだ唇の、そのさらに奥深いところで音が鳴る。

 第八世界で見た光景が頭から離れない。
 恍惚としたのぞみさんの表情。そのあとに知った小さく弾けるような感覚。その先が知りたくて、けれど怖くて、それでも知りたくて、そっと自分の胸に手を伸ばす。
 ひかりさんがしていたように手を動かしてみても、よくわからない。いびつに形が歪む度に、のぞみさんは気持ちよさそうに喘いでいた。
 あの日から、もどかしさがゆっくりと積み重なっていくばかりで、持て余しそうなほどに膨らんでしまった感覚をどう逃がせばいいのかがわからないまま、その日もいつの間にか微睡みに沈んだ。

 ずるい。
──なにがだ?

 どうしようもなくなったその晩に、コンタクトしてくるのはずるい。
 その漆黒の腕の中に閉じ込められただけで、持て余していた感覚が小さな火花を散らすように飛散した。上がりそうになった声をどうにか喉の奥に押さえ込んだのに、その奥で鳴った音が闇の静寂(しじま)に吸い込まれていく。

 どうして?
──自分が女だということを思い出せ。

 それは、あなたが男だから?
──そうだ。

 ゆっくりって言ったのに。
──ゆっくりだろう? ゆっくりひとつひとつ知ればいい。

 知らないことを知るのは怖い。
──そうだな。だが、知らない方がよかったか?

 わからない。自分が変わってしまいそうで怖い。
──あなたはあなたのまま、知っていけばいい。

 デートしたいって言ったのに。
──これは違うのか?

 違わないけど……なんか違う。
──そうか。ならば、あの私でもいいか?

 ちゃんと表情が見たい。声に温度を感じたい。何を思っているのかちゃんと知りたい。
──あれは半分の半分だからな。色々鈍くできている。

 ここにいるのは?
──半分だ。

 第八世界にいたのは?
──同じく半分。

 全部は?
──覚醒前のあなたには強すぎただろう?

 そうだった。

 浮遊感。
 私を包み込んでいるのは、あの濃密な黒を持つ羽なのか。

 浮かび、たゆたう。
 沈み、たゆたう。

 目を開けても閉じても同じ闇。自分の境界がどこにあるのかがわからなくなる。自分が闇に融け出してしまいそうだ。
 何かを思い出しそうで、その何かすら思い出せないまま吸い取られて消える。

 知りたい、と思うのは、恋のはじまり?
──そうだといいな。



 一緒にいられることと、好きだという感情が結びつかない。
 のぞみさんの言葉の意味がわからない。

 そうだといいな──その声は静かで深く、心を少しだけ揺らした。
 そこに恋しさが紛れていたような気がしたのは、恋の始まりなのか、それとも自分の願望なのか。だとしたら、どうしてそう望むのか。
 自分の気持ちがわからない。
 自然に惹かれているのか、それとも強制的に惹きつけられているのか、それがわからない。

 隣から伸びてきた指が、今日ふたつ目のアスパラベーコンをつまんだ。

「ねえ、人を好きになる時ってどんな感じ?」
「さあ。人によるんじゃない?」
 もぐもぐと口を動かしながら、目を細められた。
「誰か好きな人でもできた?」
「それがわからないから聞いてみたの」
 ふーん、と言いながら、隣の席の彼女はイチゴミルクをひと息分吸い上げる。アスパラベーコンのあとにイチゴミルク。口の中が賑やかそうだ。

「一緒にいたい、もっと知りたい、もっと触れたいって思うんじゃない?」
「その次は?」
「触れ合いたい、わかり合いたい、分かち合いたい、かなぁ。共有したくなるよね、色んなものを」

 今日の彼女はメロンパンだ。手を伸ばし、その端の一番おいしいところをちぎり奪う。

「ちょっ、そこ一番おいしいとこ!」
「アスパラベーコン」
「あれ? 最後に食べようって思ってた?」
 頷けば、好きなものは最初に食べなよ、と笑いながら謝られた。謝られている気がしない。

「一緒にいるのが怖い、知るのが怖い、触れるのが怖い、っていうのはなんだと思う?」
「きょーあい」
「きょーあい?」
 言葉の意味がわからなくて、頭にたくさんの文字が浮かぶ。最後が「愛」だろうことはわかる。

 彼女の背後に見える空は、今日も目を眇めたくなるほどの鮮やかな青。
 その先にある何かを知りたいと思うのも、恋なのだろうか。
 だとしたら私は、ずっと空の彼方に恋をしている。その意味を考えることすら怖い。

「そう、狂いそうなほどの愛ってこと。それって、一緒にいたら自分が自分じゃなくなりそうだから怖いってことでしょ?」
「そう、なの?」
「違う? だから、知るのも怖いし、触ったら後戻りできなくなりそうだから触れない」

 何気なく言われた言葉。そこに大きな意味なんてないのもわかる。訊かれたから答えた、ただそれだけだとわかる。
 けれどそれは、答えのような気がした。
 だから、私は私のままでと言われるのかもしれない。狂わないよう、ゆっくりと、時間をかけて、私のペースで。

「好きな人、できた?」
「わからない。よくわからなくて怖い」
 思わずそう零したら、馬鹿にするでもなく、仕方がないと言いたげに笑われた。

「ゆっくり考えればいいんじゃない? それってきっと一生に一度の恋だよ」
「どうして?」
「んー、単純にさ、好きだから一緒にいたいって簡単に思えないんでしょ? わくわくするとか、きゅんとするとか、そういうのとも違うんでしょ?」
 頷くと、彼女はしたり顔で笑う。

「それって、本物ってことじゃない?」
「本物?」
「そう、楽しいきらきらした想いだけじゃない、苦しい想いって、本物ってことだと思うけど」

 苦しい想い。苦しい──苦しいのだろうか。怖いのは間違いない。窓の向こうに目を向ける。

「優羽はもっと優しくて穏やかな恋の方がいいと思うんだけどなぁ」
 私だってそう思う。思わず祐夏に視線を向ければ、へらっと笑い返された。

 冴えた青空の向こうにある、透明に輝く黒。
 きっと、手を伸ばすタイミングは今なのだろう。それがわかっているから、怖い。届かないことが怖いのではなく、届くとわかっていることが怖い。届いたら、囚われるのは私の方だ。



「ねえ穂住ちゃん、狂愛ってなんだと思う?」
 その日の午後、保健室に逃げ込んだ。次の授業が現文だったから。今、顔を見たら何かを間違えそうだから。

「授業サボって何を言うかと思ったら。なに? 今そういうの流行ってるの?」
「流行ってないと思うけど……今日祐夏に聞いた言葉」
「ああ、小坂? あの子デビュー決まったんだって?」
「よく知ってるね」
「なんだぁ。やっぱ知ってたか。今日の職員室の速報だったのに」
 残念そうな言葉なのに、その顔はまるで残念そうじゃない。

 煎れてくれたお茶を飲みながら、白く大きなテーブルに頬杖ついてガラス越しの空を眺めた。
 手を伸ばせば届くかもしれない空は、けれど私にはどうしたって遠い。

「人気出そうだよねぇ、小坂めっちゃかわいいし」
「年明けから本格的にメディアに露出するから学校に連絡したんだって」
「でも小坂、ちゃんと学校来てるよね? 今一番忙しいんじゃないの?」
「学業優先って本人が決めてるみたい。ちゃんと大学も行くって言ってた」

 視線を窓の外から、「ちゃんと考えてるんだねぇ」と感心したような声を上げる穂住ちゃんに移せば、いつもとは少し違って見えた。

「穂住ちゃん、メイク変えた?」
「わかる? 男受けするメイクってのが雑誌に載ってたんだけど、どう?」
「どうって、私男じゃないし。でも、なんかいい感じ。いつもより色っぽく見える」
 一瞬、のぞみさんの顔が浮かんだ。
 穂住ちゃんは妙に嬉しそうに笑いながら、お茶をこくっと音も立てずに飲んだ。仕草まで変わってる。今までは音を立てて啜っていたのに。

「気になる人でもできた?」
「わかる? やだ、わかっちゃう?」
 身体をくねらし、にたにた笑うのは、照れているのか自慢したいのかがわからない。たぶん両方。

 穂住ちゃんは生徒と友人関係でありたいと考えているらしく、生徒の悩みも聞けば、自分の悩みを話したりもする。自分の言葉で話すよう、無理に敬語を使う必要はないと言ってくれもする。
 だからなのか、元来の彼女の人柄なのか、生徒からの信頼も篤い。
 親には話せない、けれど少し大人を頼りたい、そんなときに頼って欲しい。いつだったかそんなふうに話していたことがある。私たちより年を重ねた分、少しは知恵もあるから、と。

「友達に紹介された人がね、結構いい人なの」
「穂住ちゃんはその人と、一緒にいたい、知りたい、触れたいって思う?」
「そうだなぁ。それよりも、まずは理解したいって思うかな」
「わかり合いたいって思うのが先なの?」
「私はね。きっと人それぞれだろうけど、ある程度わかり合った上で、さらにその先を知りたい、一緒にいたいって思うかな。どれほど気になっても、理解できない人もいるから」
 それは、あの半分の半分の存在でここにいる男のことだろうか。あれを理解しようなんて、穂住ちゃんはある意味すごい。

 柔らかな表情を浮かべている穂住ちゃんを見ていると、それも真実なのだろうと思った。結局、人それぞれ感じ方は違うということか。

「で、何が狂愛?」
「んー、一緒にいるのも、知るのも、触れるのも怖いって言ったら、それって狂愛だって祐夏に言われた。あと、それは本物だって」
 穂住ちゃんは、あからさまに眉を寄せ、嫌そうな顔をする。思わずつられて眉が寄りそうになった。

「なんか、それって身を滅ぼしそうだね」
「そう、そんな感じ」
「確かに、狂愛ってのも間違ってはいないだろうけど、極端だよね、そのたとえも」
 そう呟いたまま、テーブルに肘をつき、眉間に薬指を当て、そこをくにくにと動かしている。

「それって、あの男のことでしょ? 立花にとってあの男ってそんな感じなの?」
「よくわからない。でも、怖い気がする。自分が自分じゃなくなりそうな、そんな感じ」
 ふっ、と鼻に抜けるような笑い方をされた。気を抜いたような笑い方。眉間にあった指が頬杖に変わる。その表情は目を瞠るほど優しかった。

「恋愛って、多かれ少なかれそういうものじゃない? 人を好きになるって、それまで知らなかった自分を知るのと同じだから。だって、それまではその人を好きな自分なんていなかったんだから当たり前だよね。それまでの自分と同じでいられるわけがない」

 ぽろっと何かが剥がれ落ちた。

「何びっくりした顔してんの。もしかして立花、初めての恋?」
 思わず頷いた。

「だったら仕方ないよ。なんでも初めては怖いものだよ。向こうの方が大人なんだから、かなりの勢いでぶつかっても平気だと思うよ」

 あの人が別の世界の生きものだと知っても、私が別の世界の生きものだと知っても、穂住ちゃんは変わらない。もしかして、こういうことなのかもしれない。

「穂住ちゃん、最近変わったことは?」
「今のところ特になし」
「その出会った人、信用できそう?」
「そう言われると、どうだろう。できたらいいなって思ってる。ただ、霧の人間じゃないのは確実」
「組織の息がかかってるかは?」
「さすがにそれはわからないよ」
 情けない顔で笑う。笑えるだけまだ余裕があるということか。

「本気になる前に、霧島先生に素性を確認した方がいいと思う。最悪組織の人間だったら、傷付くのは穂住ちゃんだけじゃないから」
「私だけじゃないの?」
「私も傷付く」
 伸びてきた手が、子供にするように頭をくしゃくしゃと撫でた。彼女には真っ白に見えているだろう髪を躊躇なく触る。

 大切なものはなるべく作らないようにしてきた。それでも、いつの間にか大切になっている。隣の席の祐夏も、穂住ちゃんも、いつの間にか大切な存在になっている。

 初めての恋。
 思わず頷いた。無意識に頷いていた。
 いつの間にか、そうなっている。いつの間にか、その存在を受け入れている。
 自分の無意識に気付かされるなんて、間抜けすぎて嫌になる。