大地の記憶
06 Tertius 第八世界—Octāvus自室の窓から見上げる夜の空は、透き通るような悠久の黒。
瞬く星のずっと先まで、どこまでも果てしなく続く、遙かな輝きの黒。
部屋の明かりを消してベッドに入る直前、こうしてカーテンの隙間から夜空を見上げなくなったのはいつからだろう。
子供の頃は、あの星がどうしても欲しくて手を伸ばしてばかりいた。空を見上げてばかりいた。
母が読み聞かせてくれた絵本の影響なのか、いつか私のもとにも星が来てくれると信じていた。
今でも信じているのかもしれない。だから、手を伸ばすことをやめたのかもしれない。
私には絶対に来てくれないことを思い知りたくないから。星は道しるべにはならないから。
つい、大きなため息が出た。
いつになったら雨は降るのだろう。大気が澱んでいる。今日もまた、空は遠い。
「なんかあった? ため息つくと幸せ逃げるよ?」
隣の席のクラスメイトが何気なく反応する。
「幸せじゃないからため息が出るわけでしょ? それって逃げる幸せなんて最初からないってことだよね」
「あ、そうかも。でもほら、幸せのため息ってのもあるでしょ?」
視界の端に映る彼女は携帯電話に視線を落としたまま、私は彼女越しの窓の外を見上げたまま、他愛ない会話が続く。
「今のが幸せのため息だったと思う?」
「思わない」
そんなに思いっきり笑わなくてもいいのに。
遠慮の欠片もない笑い声に、窓の彼方に合わせていた焦点を手前に合わせる。けらけらと楽しそうに笑いながらも、彼女の指先はせわしなく小さなディスプレイの上を動き回っている。
ああ、もしかして電子機器と相性が悪いのも、無意識にコマンドを使い続けているせいかもしれない。
お昼休みの教室。
母の作るお弁当はいつだっておいしい。
知らなければよかったのだろうか、愛されることなんて。
「優羽って本当いつもお弁当だよね。いいなぁ」
購買の菓子パンにかぶりつきながら、隣の席の彼女が人のお弁当に手を伸ばす。
このクラスだけなのか、他のクラスもそうなのか、中学の時のように仲のいい子と机を合わせてお昼を食べることはない。みんな各自の机に座ったまま、適当な方を向いて適当に周りと話ながら食事する。
このクラスは学年唯一の芸術科クラスだ。美大や音大に進む人たちが集まっている。携帯電話にひっきりなしに歌詞になりそうな文字を打ち込んでいる、彼女のようなシンガーソングライターを目指している子もいる。
だからなのか、たまたままのか、べったりとした付き合いよりも、ほどほどの友人関係を好む人がこのクラスには多い。
小学校からずっと同じクラスだった隣の席の彼女に誘われてこの高校を受験し、芸術科を選択した。
「やっぱおいしいよね、優羽んちの卵焼き。優羽のお弁当って、まさに母の手作り弁当って感じがする」
「実際母の手作り弁当だからね。自分じゃ作れないし」
「わかる。たまにお弁当作ろうかなって思うんだけど、冷食詰めるだけになるんだよね。だし巻き卵とか無理すぎる」
けたけたと笑う紛うことなき美少女が豪快な音を立てながらパックジュースのイチゴミルクを吸い上げた。隣からかすかに漂うのは人工的な甘い香り。
「ねえ、もし好きな人と一緒なら、祐夏はそれまでの何もかもって捨てられる?」
「へ? なにそれ?」
ストローを咥えたまま、青空を背景にきょとんとした顔が首を傾げた。
「んー……なんとなく、聞いてみたくなっただけ」
「そうだなぁ。捨てられる! って言えば相手は喜ぶかもしれないけど、実際には無理だよね。生きてけないもん」
「じゃあ、生きていけるだけのお金とかがあったら?」
「んー……やっぱ無理かなぁ。親と仲悪かったらそれもアリかもしれないけど、うち親と仲いいし。弟馬鹿でかわいいし」
少し照れたような笑顔を浮かべる彼女は、それなりに複雑な家庭環境にある。父親が二人いると聞いているので、母親が再婚したのだろう。両方の父親と仲がいいらしいことは今までの会話からもわかっている。
「なに、駆け落ちでもするの?」
「まさか。相手いないこと知ってるでしょ」
だよねぇ、と笑いながら、別のクラスメイトに話しかけられた彼女の意識はそっちに移っていった。
「でもさ、そういうのって単なる現実逃避の願望とか比喩であって、実際にそんなことになったら地獄だよね」
最後に何気なく真実を含む言葉を落として。
だよねぇ、と同じように笑い返す。落とされた言葉の欠片がそこら中に散らばった。
そう簡単に捨てられるなら、こんなに悩まない。
第八の半身となった彼女は、どうして捨てられたのだろう。半身かどうかもわからない男と一緒に奈落へ堕とされるというのに。
ざわめく教室の向こう側。ガラス越しの青に浮かぶまだら模様の白。青の遙か彼方にある透明な黒が心の中に染み込んできそうで、思わず目を逸らした。
この世界の生きものではない男がこの世界の文学を教えている様は滑稽だ。
抑揚のない声で読み上げられる文豪の一節。鼓膜を震わす心地いい低音は、素直にいい声だと思う。
この世界の生きものではない代理教師は、読み上げているその心情に思いを馳せることなどあるのだろうか。
私にはわからない。恋とは何かがわからない。
穂住ちゃんが言っていた、淡い恋心──その淡さすらわからない。
どうしてかつての第一、かつてのゼノの半身は、思考を直接伝える方法ではなく、言葉を人に教えたのだろう。だからこの世界の人間は、吐き出す音とは裏腹に別のことを考える生きものになってしまった。
「第八世界に行ってみませんか」
「なに突然。なんで第八?」
半ば羽を隠すことを諦めつつある私は、放課後になってもぼんやりと窓の外を眺めていた。コマンドの発動を感じた瞬間、聞こえたのは意味のわからない誘い。
「ゼノの組織が第八世界への扉をこじ開けようとしています。第八はまだ覚醒して間がないですから」
「こじ開けられそうなの?」
「ええ」
確か第八は組織にあらゆるサンプルを採取されていたと聞いたような。おおかた人との繁殖を諦めて、別の種との繁殖を試みて成功したか、無理矢理人に移植した細胞を活性化させたのだろう。
私たち世界と繋がるものは別の種との交配が可能だ。だからこそ、第三世界に人間は生まれた。本当に嫌になる真実。私たちが人に似ているのではない。人が私たちに似せてつくられた。
「ゼノは?」
「今はあれの力の回収に忙しいですから」
面倒くさい。もうあの組織ごと潰せばいいのに。自然発生した組織とはいえ、さすがに大きくなりすぎている。世界を影で動かす組織なんて碌なものじゃない。霧の集団と紙一重だ。
「第九は?」
「あれらは、なんの事情も知らされていません」
知らせればいいのに。あんな場所で必死に生きている彼らこそ、誰よりも知らなければならないことだろう。自分たちの存在の意味と真実を。
「っていうか、もしかして今までもゼノの代わりに暗躍してた?」
「暗躍……」
珍しく眉間に皺が寄った。とはいえ、ほんの一瞬の僅かな変化。
「そもそもなんで私?」
「あなたは……。自分が第七だと自覚してください。第八世界には第九か第七のあなたが一番簡単に行けるでしょう」
平坦な声の合間に挟まれたため息からは、呆れていることがありありと伝わってくる。こういうときにだけ声に感情をわずかに含ませるとは、ずいぶんとまあ器用なことで。一度くらい嫌味を返してもいいはずだ。心の中でくらい。
「自分だって行けるでしょ」
「あなたが一緒の方が楽ですから」
「覚醒前だから難しいんじゃないの?」
「第八に呼ばせます」
「だったらなおさら一人で行ってよ。呼ばれれば行けるでしょ」
「第八の半身に興味はありませんか」
本当に嫌なヤツ。その一言で、すでに頭の中ではお土産を何にしようかと考え始めてしまった。
「第八世界ってこっちから物って持ち込めないんだっけ? 持ち込めるよね、あなたなら」
一瞬面食らったかのように瞬いたあと、口元が明らかに弧を描いた。
「あなたが望むなら」
相変わらずの棒読み。それでもかすかな表情があるだけマシだ。
ふと気配を感じて窓の外に目を向ける。
夕闇に染まりゆく中、細い糸のような雨が降り始めていた。
ようやく、降った。
天の涙。
涙が流せない私の代わりに、大地に降り注ぐ天からの雫。
少しだけ心が軽くなる、あたたかな雨。
いつからそう思うようになったのだろう。
顔をしかめたまま涙を流せない私に、両親は優しく笑ってくれた。
いつか泣ける日が来る、と。涙はその時までとっておきなさい、と。それはきっと、とっておきの涙だから、と。
あれは、とっておきの涙だったのだろうか。
「どうして、私に泣くことを教えたの?」
「泣きたいと泣いていたから」
背後から聞こえてきたフラットな声。
どうして雨は、今、降り出したのだろう。
彼は、私の半身なのかもしれない。身体は認めている。けれどまだ、理性は認めていない。心は疑ったまま。
私は、何に縋ればいいのかがわからない。
一人で立つには私の存在は大きすぎる。
私は私を支えきれない。