大地の記憶
05 Tertius コマンド—Commandどうして!
夢のように姿を表したのは、無駄に輝くふたつの存在ではなく、光すら吸い込んでしまいそうなコラプサー。それが彼の本質なら──。
ああ、思考すら吸い取られてしまう。
──覚醒前のあなたに私の本来の姿は強すぎるようだ。
闇に浮かぶ漆黒。どんな見え方をしたらそうなるんだと、頭の中に浮かぶ不自然さすら、その黒に吸い込まれてしまう。
本当に、絶望したくなるほどの美しくも気高い黒。
──それに、ここならこうして触れられる。
実際に触れているわけではないだろうに、頬に伝わる手のひらの感触とあたたかさ。目の前にある絶世の黒から真っ直ぐに伝わってくる愛おしさ。
どうして……。
どうして会ったばかりの存在をそこまで愛おしいと感じられるのか。
──会ったばかりではないからな。
くくっと零れる笑い声に色気すら感じる。あの抑揚のない声と同じだとは思えないくらい、楽しそうな音が私の内に響いている。身体がその響きに共鳴する。声に含まれる色に染められそうになる。
──ああ、夜が明けてしまう。
その言葉のあとに唇に伝わってきた刹那の熱。何もかもが暴かれそうな、痺れるほどの希求が伝わってきた。
いやだ。
私はまだこの世界で生きていたい。
惑わさないで。
暴かないで。
消さないで。
思いが吸い取られていく──。
寝起きに頭痛なんて初めてだ。
あの代理教師がコンタクトしてきたことはしっかり記憶に残っている。けれど、断片的なことしか思い出せない。考える端から思考が頭の中からほろほろと解け落ちていくような、自分が壊れていくような感覚だった。きっとあれと長くいると碌なことにならないという兆しだ。気をつけよう。
あれが半身。
ため息しか出ない。私には荷が重すぎる。
考えなければならないことが多すぎて、むしろ考えることを放棄している。散らばった真実の欠片を拾い集めることすらしたくない。どうせいつか勝手に集まって、そのうち一方的にその形を突き付けてくる。もう考えたくもない。
どうせ逃れられない。
「霧島先生って、たった四ヶ月しかいないみたいだよ」
それはそうだろう、佐藤ちゃんの産休代理だ。
佐藤ちゃんは産休前にしっかり産休について説明してくれている。まあ、それをすっかり忘れていたのはどこの誰だと思わなくもない。
産休は出産予定日から産前六週間、出産日から産後八週間のことを指す。合わせて十四週間、およそ三ヶ月半。佐藤ちゃんは「予定日はあくまでも予定であって、大抵は予定日を過ぎての出産になる」と、お腹を慈しむように撫でながら説明していた。
だから、記憶から消し去りたかったのか。愛おしげに慈しむ存在を得た彼女は、それまでとは違う穏やかさをゆっくりと湛えていくようだった。
「どっかの御曹司なのかなぁ」
周囲のクラスメイトたちの会話は、佐藤ちゃんの産休から霧島の身に着けているものの価値へと移り、彼がかなりのお金持ちなのではないかとの憶測へと変わっていく。御曹司なんて言葉をよく思い付くものだと感心する。一瞬なんのことかわからなかった。
はっきり言ってあれが御曹司かどうかなんてどうでもいい。
適当に相槌を返していて、はたと気付く。
まさか、私のリミットも四ヶ月ってことじゃ……。すでに代理教師が来て三週間が経過している。相変わらず羽の存在を微塵も感じない。このままだと強制体液摂取コースなのでは……。あれは、絶対に羽の存在を隠せとの無言の威圧をぶつけてくる。
恋をしてみたかった。
恋愛というものを知りたかった。
身近にいる等身大の男子たちに何も感じない。テレビの向こうにいるかっこいい男の子たちにひと欠片もときめかない。魅力的だといわれているスクリーンの中にいる男の人たちに興味すらわかない。
それなのに、ただ半身というだけで惹かれ合うような存在は恐怖でしかない。自分が自分じゃなくなっていく絶望なんて知らなくていい。
教室の窓はどうしてこうまで大きいのだろう。
今日も空が高い。秋の空は高いというけれど、私にはいつだって空は高く遠く手が届かない。
晴れた日は嫌い。自分の存在を思い知らされるから。空が遠くて泣きたくなるから。
「まさかとは思いますが、実際に羽が生えていると思っているわけじゃありませんよね」
違うの? 思いっきり顔に出ていたのか、いつもの入り口に近い席に足を組んで座っている寝ぼけた顔がかすかに歪んだ。
「自分の存在の意味を考えればわかるでしょう。実際に私が見せたというのに、あなたの目は節穴ですか」
人を馬鹿にするのは声に抑揚を付けられるようになってからにしろ!
つまりはコマンドということか。
そりゃあ、どれだけ羽の存在を感じようと必死になったところでわかるわけがない。無駄な努力をしていた三週間を返してほしい。思い付かなかった自分の馬鹿さ加減に呆れを通り越して腹が立つ。
どうして羽が実際に生えていると思い込んだのだろう。コマンドだと考える方が自然なのに。
「そうやって無駄にコマンドを使い続けているから、虚弱体質なのでしょう、あなたは」
このやろう。心の中の舌打ちのはずが、うっかり本当に舌打ちしてしまった。あくまでも心の中でだけです、と念を押していた校長先生、やっぱり心の中だけでも舌打ちはダメだと思います。
私たちは病気になることがない。怪我をしても身体が勝手に修復を始める、簡単には死ねない存在だ。
それなのに人よりも身体が弱い、というよりも体力がない私は、体育の授業は最初の準備運動以降はほぼ見学だ。少しでも無理をすると充電が切れたようにくにゃっと力が抜けて倒れてしまう。
もしかして、私がコマンドを上手く使えないのは、常にコマンドを無駄に使い続けているせいなのか。
だとしたら、と考えたところで、無意識に使っているコマンドの制御なんて、どうやってすればいいかわからない。勝手に流れている血流を自分の意思で止めてみろと言われているようなものだ。心臓を止めることしか思い付かない。死んじゃう。
「いいですか、あなたは世界に命じるだけでいい。コマンドとはそういうものだとゼノに教わっているでしょう。明確で単純なコマンドほど強い。先に言っておきますが、願いの強さなど関係ありませんからね。単に強い願いほど明確で単純なだけです」
話の途中で、強く願えば──そう考えたところで、真っ向否定された。いちいち腹の立つ抑揚のない声で。
「それともうひとつ。隠せたら今度は発現できなくなった、などという事態は勘弁してください。きちんとコマンドを認識して制御してください」
本当にいちいち腹が立つ。言う通り過ぎて余計に頭にくる。もう何もかもが面倒くさい。
「覚醒したら制御できるんじゃないの?」
「覚醒の手段を理解していますか」
「半身と出会ったら覚醒するんじゃないの?」
「私と出逢って覚醒しましたか」
言葉尻くらいあげてみせろ!
本当に馬鹿にされているとしか思えない。実際馬鹿にしているのだろう。口角が片方だけわずかに上がっている。口元だけで表情を作るのは感じが悪いったらない。
出会っただけで覚醒しないのは、元の世界に戻っていない時点でわかっている。そもそも目の前のロボットがそう言っていたことだ。触れようが体液を摂取しようが、私の意思がなければ無理だ、と。
気付けば、互いに手を伸ばしてもぎりぎり届かない距離、机を間にふたつ挟んだ向こう側に代理教師が立っていた。これ以上近付くと血の結晶が共鳴する。すでに胸に下がる赤い粒がかすかに熱を帯びている。
二人の間を、忘れ物を取りに来たのかクラスメイトが擦り抜けていく。本当に、この男のコマンドは完璧だ。
「もしかして、自分の意思で覚醒できるの?」
「意思だけではできません。半身の存在が必要です」
結局、半身によって私がつくりかえられるということか。絶対に嫌だ。
「言ったでしょう。私はそのままのあなたが欲しいと。あなたが望まない限り無理強いはしません」
「でも、リミットはあるんでしょ?」
「そんなもの、あなたと比べるまでもない。私はあなたのためだけに存在しているのですから」
大きなため息が出た。
聞きようによっては愛の告白。けれど抑揚のない声で告げられたそれは、単なる自動音声の再生でしかない。
目を逸らした先の黄昏。今日もまたきっと星は高く遠い。
私は、どうして第三世界にいるのだろう。
この世界を知らなければ、こんなに思い悩むことはなかっただろうに。
「あなたは、どうして霧の中にいるの?」
「もうわかっているでしょう。朝霧を第九から隠すためです」
だとしたら、私が生まれる前から第三世界にいることになる。
「ゼノじゃダメだったの?」
「あの頃のゼノに第九を誤魔化せるほどの力はありませんでしたから」
ゼノは全ての世界に影響を与えられるとはいえ、所詮第一世界の一部でしかない。怒りから世界を創り出し、力が枯渇しかけ、半身を得てようやく第九と渡り合えるだけの力を得た。
きっと覚醒したばかりの第九は知らなかっただろうけれど。
「もしかして、第五世界は消えるの?」
「ええ」
「私が拒めば?」
「ただ世界が消えるだけ」
表情も変えず、一瞬の躊躇もない。この男にとって世界が消えることはその程度のこと。
「私の性が女に固定されているのは?」
「私が男だから」
最初から、私は──。つまりこの男は──。
なんとなくわかってきた。
けれど確信までは考えない。答えを出したら私はもう拒めなくなる。
「私は、今の自分を失くしたくない」
「かまいません。私は今のあなたがそのまま欲しい」
何もかも、この男の思惑通り。
「どうして、わたしは第三世界にいるの?」
「私だけのものになってほしかったから」
やっぱり、愛の告白には聞こえない。