大地の記憶
04 Tertius 黒—Vantablack


「もっと頭を使ってください。気合いや思い込みでなんとかなるわけないでしょう」
 抑揚のない声で嫌味を言われるとこんなにも腹が立つだなんて今まで知らなかった。余程嫌みたらしく言われた方が遠慮なくむっとできる。

 放課後の教室。
 代理教師が張った結界の中で、背中にあるらしき羽を自分の意思で隠す練習をすることになって早二週間。
 学校をやめることはこの男が反対した。
 父も母も複雑そうな表情を見せながらも、この男が第七世界(向こう)に戻るのはまだ先の話だと断言したことに、ほっとしているようだった。

 教室にはほかにも生徒がいる。けれど、私と代理教師の存在は認識されない。かなり高度なコマンドを使っているこの男の存在が謎だ。
 同じ空間にいて、不可視化どころか物理的に存在していないことになっている。意図的に平行世界を生み出すことができるなんて、ゼノレベルだ。

 それまで、自分の背中に羽があるなんて知らずに生きてきた。それを隠せと言われたところで一朝一夕にできるわけがない。まずは羽の存在を意識することから始めてみたのの、まるでわからない。背中に産毛が生えていることを意識しろと言われ、さらにその産毛を隠してみろと言われているようなものだ。

 いざ羽が生えていると仮定して、それはおそらく肩胛骨あたりから生えているのだろうと想定したとして、想像できたとしても実感できない。なにせ自分では見えない、触れない、動かせない、のないない尽くしだ。確定できるだけの要素がまるでない。
 なんの進歩もないまま二週間が経過して、さすがに諦めが入りかけている。どれほどがんばってもわからないものはわからない。

 その間、代理教師は黙って見ているだけだ。
 アドバイスくらいしてくれてもいいのに、ようやくその口が開かれたと思えば、抑揚のない声での嫌味。やる気も失せる。

 文句を言いたくても、どうせならヒントをもらいたくても、あれ以来ゼノたちは姿を見せない。用がなくとも定期的に接触(コンタクト)してきたくせに、用がある時に現れないとは一体何様だ。

「向こうに戻るには、あなた自身の意思が必要です」
 何が言いたいのかと声がした方に目を向ける。

 入り口に近い席に足を組んで座り、頬杖ついた寝ぼけ眼と視線が絡む。その前をクラスメイトが横切った。彼のその存在に気付くことなく、組まれた足に躓くこともなく、なんの違和感もなく擦り抜けている。
 少なくともこの男のコマンドは完璧だ。

 羽と同じ、黒にも見えるダークグレーの身体にぴったりと合ったスーツと真っ黒なシャツ、ご丁寧にネクタイまでもが青みがかった黒だ。ソックスや校内履きのサンダルまで黒い。葬式か。
 全身黒ずくめの高身長、服の上からでもわかる引き締まった体躯、浅黒い肌、後ろから見る限りはかなりのイケメン。ところが、日本人離れした左右対称にも見える彫りが深めの造作は完璧とも言えるのに、その表情がぼんやりしているせいで、惜しいイケメンだと学校中で噂されている。

「何が言いたいの?」
「察しが悪い。つまり、私があなたに触れようが、体液を交換しようが、あなたの意思がなければ向こうへは戻れないということです」
「だからなに」

 この男の抑揚のない話し方にはうんざりする。まるでロボットと話しているみたいだ。それなのにその口元は馬鹿にしたように片方の口角だけがわずかに上がった。どうせ察しが悪いですよ。

「私がその純白の羽に触れれば、あなたはそれを実感することができます」

 どうやら私の羽は白いらしい。色を持たない私の羽も色を持たない。ほんの少しだけ期待していた気持ちがしぼんでいった。どうせならきれいなパステル系がよかった。

「遠慮します」

 あんな何もかもを吸い込んでしまいそうな真っ黒な羽を持つこいつに触られたら、その色が染み付きそうだ。色が欲しいと思っていても、あんな光すら吸い込みそうな黒は嫌だ。どうせ染み付くならきれいな色がいい。どうせなら、輝く透明な黒がいい。
 それなのに、ふと白を縁取る黒の文様を刻んだ羽が一瞬浮かび、これはこれできれいだなと思った自分が嫌になる。美しいものは美しい。それはどうしようもない真実。

 小さく零したため息に、わざとらしいほどの大きなため息が重なった。ロボットもため息をつくらしい。

「いいですか、本来羽ばたきもしないのに羽を見せるのは求愛行為です。あなたは常に発情していると周りにアピールしたいのですか」
 わかっていて嫌味を言うこいつは本当に性格が悪い。そんなわけないだろう! そう叫べばいいのか。それこそこいつの思惑通りな気がして口をぐっと引き結ぶ。

 心の中で舌打ちしながら、平常心、を三回唱える。小学校の校長先生が朝礼で教えてくれたこと。舌打ちも含む。なかなかステキな校長先生だった。その後、保護者からの猛抗議で平謝りしていたけれど。

「私の意思以外で羽を隠す方法は? コマンドで隠せばいいんじゃないの?」 
「可能ですが、いついかなる時でも常にコマンドをかけ続けられますか。第九ですら、いざという場面でコマンドを解いてしまい、朝霧ごときに射殺されたというのに」
 怒りを込めて睨みつけても寝ぼけ顔はどこ吹く風だ。もう少し言い方ってものがあるだろう。穂住ちゃんの言っていた掴み所のなさどころか、掴んで引きずり回して投げ飛ばしたい。

「方法はふたつ。自分の意思で隠すか、私の体液を得て私に隠されるか」
「自分で隠します」

 どうしてどこの世界でも交わりが必要なのか。それが生命の根源だとしても嫌だ。仕方がないと割り切れる気すらしない。そういう行為は愛する人とするものだ。乙女思考だとしても、それは譲れない。

 そもそもこの男が半身だということ自体どうにも怪しい。何も感じない半身なんているだろうか。ゼノが全力で守るほどの、義理の姉がこの世界を捨てる決断をするほどの、そんな強い想いをこの寝ぼけ顔の男には一切感じない。

「どうして自分では隠せないのに、体液を得たくらいであなたが隠せるようになるわけ?」
「半身だからです」
 どんな理由だ。その半身かどうかが怪しいのに。

「そもそもあなたが半身であることの証拠は? 第八の半身は、彼に選ばれたからこそ半身になったんでしょう? 私にも選ぶ権利はあるんじゃないの?」
「あれは世界が生み出した存在ではありません。あなたと第九は世界が生み出した存在です。存在自体が違う」
 だとしたら、義理の姉の存在がわからなくなる。彼女のもうひとりの半身の意味も。
 視線の先にいる男の口元がかすかに弧を描いた。

「第九の半身である彼女は第三世界そのもの。彼は第三世界の一部。第九世界は第三世界が次なる場所へと移行するための通過点。だからこそ、彼女たちはこの世界での肉体を捨てなければならなかった」

 驚きと同時に、突き刺さるほどの強烈な鋭さで疑問が浮かぶ。
 おかしい。目の前の男の得体が知れない。どうして私が知らないことまで知っているのか。たかが世界の一部であるものが知っていい内容(こと)じゃない。

「なにもの?」

 不意に組んだ足を解き、薄らぼんやりとした存在が音もなく空気も揺らさずに立ち上がる。
 そう、空気も揺らさず。
 おかしい。この世界の影響を受けない存在なんて──まさか!



 その背後に濃密な黒が揺らめきながら染み出してくる。

 少し離れた場所にいた薄らぼんやりした曖昧な存在が、その一瞬で豹変する。
 明確で強烈な存在感がその羽とともに解き放たれた。
 まるで強烈な風を全身に浴びたかのような、後退るほどの威圧。


 世界が軋む。


 惹きつけられる。その全てに。その深すぎる黒に。

「私は、第五であり、第七の半身」

 ゆっくりと近付いてくる圧倒的な存在。
 第五だなんて嘘だ。自分と同じ存在だとは思えない。

 逃れられない。(こわ)い。何もかもが吸い寄せられる。私が私じゃなくなる。目が、耳が、全ての感覚が、目の前の黒から逃れられない。

「私はあなたの半身。わかるだろう?」

 あらゆる世界の色と美を集めたかのような畏るべき存在。
 寸分の狂いもない完璧な造形。
 絶世絶対にして唯一。

 それは半身だからそう感じるのか。
 同じ完璧な存在であるゼノたちにも感じたことのない熾烈な希求。

 身体が心を裏切ろうとする。体中が目の前の存在に応えようとざわめく。
 うるさい。自分の中がうるさい。聞きたくない。歓喜に高鳴る鼓動など、聞きたくもない。

「私はあなたを壊す気はない。あなたはそのままのあなたでいい」

 私の全てが熱を持つ。胸に留まる深紅の結晶を冷たく感じるほどの熱に浮かされる。
 身体が目の前の存在を必死に求めている。

 満たされたいと何かを流す。
 今まで知らなかったはずの何かが流れていく。

「いや、だ」
「今はそれでもいい。ゆっくりと、あなたの思うままに」

 目を逸らすどころか、身じろぎすらできないまま、一度も流したことのなかった涙だけが、瞬きすら忘れた眦から零れ落ちる。
 唯一自由に振る舞う涙。
 頬を伝い流れていく雫を、漆黒の指先が掬い上げる。頬には触れず、透明な雫にだけ触れる。それに淋しさを感じる心は、すでにもう──。


 心を占めるのは、どんな意味を持つ絶望なのか。


「私は、あなただけの存在だ。あなたのためだけに存在する」
 指先に掬った涙を、漆黒の舌が艶めかしく舐め取る。その光景に目眩を覚える。体中が涙を羨む。
「や、だ」
 どれほど抗っても抗いきれないとわかっている。わかっていることが嫌だ。

 目の前が黒に塗りつぶされていく。

 心に思い描いていた半身は、もっとあたたかく、やさしく、やわらかで心地いい存在のはずだった。
 こんなに強烈で、絶対で、絶望すら伴うものではなかったはず。
 それとも、半身とはそんな存在なのか。



 気が付けば、白に囲まれた空間にいた。ほっと息をつけるそこは、見慣れた保健室のベッドの上。それをぼんやりと頭の一部が認識する。
 目を覚ましたものの、何も考えられなかった。

「気が付いた?」
 どのくらいそうしていたのか、聞こえてきた穂住ちゃんの声に、ゆっくりと視線と頭を動かす。

「立花、私はたぶん何もわかっていないと思う」
 仕切りのカーテンを開ける穂住ちゃんの静かな声。カーテンを開ける音だけがやけに鋭く響いた。

「けどね、立花は逃げられない気がする。あんな霧島の顔、初めて見た」
 もっと感情をぶつけてくるかと思った。もう心は凪いでいるのか。それとも想いを諦めたのか。

 穂住ちゃんの言葉から、あの男がここに運んでくれたことを知る。
 あのまま第七世界に飛ばされるか、取り込まれるかと思った。思い出した畏れに一瞬にして全身が戦慄く。

 開けきったカーテンをひとつにまとめている手元から顔を上げた穂住ちゃんの表情は、声と同じで落ち着いていた。

「穂住ちゃんはいいの?」
「あれを見たらね。淡い恋心なんて木っ端微塵だよ」
 ほんの少しだけせつなそうに笑う穂住ちゃんからは、負の感情は伝わってこない。

「あれのどこがよかったの?」
「どこだろうね。今となってはそれもわかんないや。恋のきっかけなんて思い込みでしょ?」
「そうなの?」
「そ。間違いなくあれよりいい男は山ほどいる」
「それはそう思う」
 あれは人には扱えない。あんなのに選ばれたら、間違いなく身を滅ぼす。

「立花、私だけは味方だから。実際には何もできないかもしれないけど、どんなことがあっても立花の味方でいるから。私がそう思ってるってこと、忘れないで」
 私が横たわるベッドの端に腰掛け、その細く頼りない指が顔にかかる髪を優しく払ってくれた。その指先のおかげで、戦慄いていた身体から力が抜ける。

 今になって気付いた。
 見える穂住ちゃんには、私は最初から白い存在だった。それなのにそんなことおくびにも出さず、いつも笑ってくれていた。きっとほかの生徒よりも気に掛けてくれていたのだろう。

「穂住ちゃん、ありがと」
 一度流れることを覚えてしまった涙は、もう二度と止めることはできないのかもしれない。どれほど悲しくても流れることのなかった涙が、嬉しさに溢れ出す。

 私は、この世界で生きていたい。

 鼻を啜ったら、穂住ちゃんが笑いながらティッシュを箱ごと渡してくれた。姉とはこんな存在なのかもしれない。
 私の存在すら知らない義理の姉を羨むのは、もう、やめよう。