大地の記憶
03 Tertius 黒揚羽—Spangleあの光り輝くふたつの存在は、かつての第一が失われて以来扉が閉ざされたままになっている第一世界に還ろうとしている。
その扉はゼノが生み出した第九世界にある。
第一世界の扉を開けるには、世界そのものである存在が五つ必要。その五つの存在が揃うことによって、第一世界への扉が開かれる。
光そのものであるといわれている第一世界。闇そのものであるといわれている第二世界。天を司る第七世界。地を司る第八世界。そしてそれらの間に存在する獄である第九世界。
これらは平行世界とは違う自立した世界だ。だからこそ、互いの影響を受けもする。
「第七世界そのものである優羽は、その扉が開かれたあとどうなるの?」
母の不安そうな声に、心のどこかがほっと息をつく。私はちゃんと愛されている。それは紛れもない事実。嬉しくてせつない事実。いっそ愛されていなければ、逃げ出すように別の世界に行けるのに。
「わからない。そのあとのことは何も聞いてないから。ただ、半身に出会うと元の世界に戻されて、その世界に存在することが扉を開くことにも繋がるって、そう聞いているだけ」
「扉が開かれたら、美羽は帰ってくるのか?」
父の声に期待がこもる。姉が愛されているという疑いようもない事実が突き付けられる。比べても仕方のないことなのに、心のどこかが卑屈に笑う。
「それもわからない。お姉ちゃんはすでに第九世界の一部になっているから……」
両親の悲痛な様子に申し訳なさを覚える。
もう彼女は第九世界に生きるものだ。第九世界そのものである半身と交わった時点で、この世界の生きものではなくなる。
それを両親には言えない。
彼女は後悔していない。この世界と切り離されると知っても、彼女は半身を選んだ。そこに迷いはない。
それは実の娘だからこそできる決断だ。血の繋がりがあるからこそ迷わない。
もしかして母は気付いているのかもしれない。同じ女として、同じ娘として、その気持ちが理解できるのかもしれない。父に比べると母の表情の方が落ち着いている。
私の心の全ては、どこまでもこの世界で培われたものだ。両親にきちんとこの世界に生きるものとしてしつけられ、当たり前にこの世界に馴染んでいる。このまま死ぬまでこの世界で生きたとして、私が別の世界の生きものだと言い当てられる人なんていない。そう自惚れるほどに、私はこの世界で生きてきた。
彼らの一人娘のように、恋しさや愛おしさからこの世界から切り離されてもいいとは思えない。
それは、そんなふうに思えるほどの存在を知らないからなのかもしれない。それは、私がこの世界の生きものじゃないと知っているからかもしれない。
知らないから、知っているから、だから生まれる思いだとしても、この世界で、たとえ血が繋がらなくとも、この両親の元で生きていたい。
「それで、さっきのあの人が、優羽の半身なのか?」
「たぶん?」
両親が揃って訝しげに目を細める。この二人はよく似ている。一緒にいると同じような表情をしていることが多い。
「たぶんって、優羽もわからないの?」
「なんか、衝撃的に何かを感じるのかと思っていたけど、なんにも感じなかった」
父と母に交互に答えると、二人揃ってなんともいえない顔をした。
ほんの数時間前にひと目見た人を思い出す。
浮かぶのは背の高い男の人という輪郭だけ。どんな顔をしていたかが思い出せない。扉の端を掴んでいた指が長く、その爪がきれいに切り揃えられていたこと、髪は短くもなければ長くもなかったこと、黒っぽい服を着ていたこと。
憶えているのはそのくらいだ。
それまで黙って隣で聞いていた穂住ちゃんが口を開いた。
「彼は、おそらく喜んでその第七世界に行くんじゃないかな。全てのしがらみから逃れたいと常々零していたような人だから」
「そんなことないよ。私の本当の姿を知れば、一緒に行こうとは思わない」
それに両親が悲しそうな目をした。
私の本来の姿形は、第三世界の人間と同じだ。ただ、一切の色がない。何もかもが白い。肌も髪も瞳も。そのうえ背中に羽まで生えているだなんて、自分でも嫌になる。
「たとえ立花がどんな姿だとしても、気にしないんじゃないかな。あの人は人の外側を見ない人だから」
そのときの穂住ちゃんが心に引っかかった。ぽたりと雫が滴り落ちたような声だった。
一度学校に戻ると言う穂住ちゃんにお礼を言って、リビングで見送る。玄関の外に病人ということになっている私が姿を見せるわけにはいかない。代わりに母が見送りに出てくれた。
この家の内はゼノに守られている。けれど外は、護衛という名の組織の監視下にある。
「優羽、あとどのくらい残されている?」
「どのくらいでも。あの人と接触しなければ、きっといつまででも」
静かな父の声に、同じだけ静かに返す。
「本当にこのまま学校をやめていいのか?」
「いい。私は、できるだけこの世界で生きていたい。彼らにとって一年や二年、それこそ十年や二十年なんて、瞬きする程度のことだよ。できるだけ半身には接触しない」
「だが……」
そう。だが、と続く。
私の成長はそろそろ止まる。この世界の生きものではない私は、この世界で普通に成長できるのは身体が成熟する直前まで。覚醒しない限り永遠に子供のままだ。
誤魔化せるのはきっと数年。組織に監視されている両親と過ごせる時間はもっと短い。
それでもこの世界にしがみつきたい。知らない世界になんか行きたくない。
けれど、物事はそう都合よくはいかない。何かが動き出してしまったことを否が応でも感じずにはいられなかった。
その日の夕方、穂住ちゃんからあの人を連れて行くと連絡が入った。彼は何もかも知っていたらしい。
あのクソガキ! 今度会ったら絶対に一発殴る。子供だって容赦しない。どのみち第一は子供の姿をしているだけの成熟した生きものだ。
申し訳なさそうな顔をした穂住ちゃんと一緒にやってきたその人は、やはりぼんやりした印象だった。あまり表情が動かない。無表情というわけではないものの、感情が半分抜け落ちたような、なんとも言い難い、まさに掴み所がない、揺らぐような印象を受ける。
なんだろう。どうしてかはわからないものの、その存在に違和感のようなものを感じる。半分寝ているような、半分死んでいるような、半分で生きているような、そんな感じがする。
見れば見るほど違和感が強くなり、首を傾げたくなる。これが本来のこの人ではないような……。
すでに靴を脱いで上がり込んでいる穂住ちゃんに、呆れた顔で軽く小突かれたことで我に返った。不躾にじっと長い間眺めていたらしく、目の前の人がほんのかすかに苦笑いしている。
玄関先で何をやっているのかと、恥ずかしさに俯きながら、スリッパを勧める。
「ごめんなさい。どうぞ、上がってください」
お邪魔します、と言いながら真っ黒な革靴を脱ぎ、真っ黒なソックスを履いた爪先が、グレーのツイードのスリッパの中に隠れた。
目の前に立ったその人は、最初の印象通り背が高かった。
脱いだ靴を揃えようとその脇に屈もうとした瞬間、突然、胸元に留まる血の結晶が熱を帯びた。痛いほどの耳鳴り。
慌てて一歩後ろに下がり距離を取ると、耳鳴りがマシになり、結晶の熱が和らぐ。
もしかして、この人も血の結晶を持っている? 今のはきっと共鳴だ。だとしたらそれは、私と同じで本来の姿は別にあるということを意味する。
何者?
ゼノがわざわざ血の結晶を与えるほどの人。
目を細め見上げると、半分寝ぼけたような表情のまま、その口元だけがわずかに弧を描いていた。
「お初にお目にかかります。私、霧島天哉、霧の一門本家三男として存在しております」
存在、という言い方に引っかかりを覚えたのは、私だけじゃなかった。
この家のリビングには三人掛けのソファーがローテーブルを挟んで向かい合うように並んでいる。
最初は三人掛けと一人掛けがふたつの三点セットだった。私と母がともにソファーに寝転がりながらテレビを見たいと、常に場所の取り合いをしているのを見かねた父が、一人掛けのソファーのひとつを三人掛けに買い換えてくれた。父は残されたもうひとつの一人掛けにいつもお行儀よく座っている。
その一人掛けに当然のように座る父。三人掛けに私と母、その向かいに穂住ちゃんと彼が腰をおろしている。
「つまり、本当は違うということですか」
父の確信の声に、霧島と名乗った男がゆっくりと、もったいつけるほど緩慢に頷いた。
「こことは別の場所から参りました。ゼノと、同じ目的で」
「つまり、優羽を探しに、ということですか」
父の尖った声を気にするでもなく、別の世界から来たとあっさり明かした男は、またしても口元だけに本当にかすかな笑みのようなものを浮かべながら頷いた。それがぼんやりとした表情と食い違って、まるでボタンを掛け違えているようなちぐはぐさを見せる。
「霧……一門って、もしかして……」
母の声までがちくちくと尖って震えていた。
「ええ。娘さんのこの世界での肉体を死に追いやった、朝霧も霧の一門です」
その抑揚のない声に、両親は歯を食いしばった。
あまりの怒りに拳を持ち上げかけ──。
「霧島! 言い方ってもんがあるでしょうが!」
穂住ちゃんの叫びに止められた。
ゼノが存在する組織の敵対勢力。日本では霧と呼ばれるそのうちの一人に、義理の姉は半身とともに射殺された。表には出ていない事実。そこまでは両親も知っている。実際には第九世界で生きていることも。
けれど真実は、この世界での肉体を捨てるための布石。彼女たちは第九世界に残されていた細胞から構築された新たな肉体を得ている。第九世界の生きものとなるために。
両親はそれを知らない。彼らの娘は魂のような存在になっているのではないかと思っている。射殺された肉体が朽ちることなく保存されているがために、そこに魂が戻れば生き返るのではないかという淡い期待を捨て切れないでいる。
全ては、ゼノのコマンド。
コマンドは世界と繋がっているものがその世界に命じることによって使える特殊能力だ。世界と繋がる私たちの最大のコマンドは、願うだけでそれが叶えられてしまうこと。世界がコマンドに応えてしまう。
ゼノは全ての世界に影響を与える第一世界の一部。表向きは世界そのもの。真実はゼノが全力で守っている半身が、第一世界そのもの。
つまり目の前にいる霧島という男も、私の半身であることが本当であれば、おそらく彼も第七世界の生きものであり、その世界の一部でもあるということなのだろう。
「証拠、見せられる?」
私の声も尖っていた。彼が敵対勢力に潜り込んだのもゼノによるものだろう。本当に腹が立つ。彼らは人を駒のようにしか思わない。
私は、天を司る第七世界そのものだ。ゼノたちと対等に渡り合える存在。その私の半身がゼノを守る組織の敵対勢力に存在するというのはどういうことなのか。
すっと音もなく空気を揺らすこともなく立ち上がった彼の背後に、突如として染み出るように現れた純然たる黒。光すら吸い込むほどの、視線すら吸い込むほどの暗黒色。広がりゆくそれは──黒揚羽。
「あなたも、羽を隠す方法を覚えてください」
眠そうな顔で、抑揚のない声で、嫌味を言われた。