大地の記憶
37 Tertius 感謝—Passing両親が家に戻るとの連絡をゼノから受け、私たちも一旦第三世界に戻ることにした。
新学期までは天哉のところにいることになっている。
両親としてはそのまま天哉のところで暮らすのがいいと考えているようで、どうしたって淋しく感じる。
親離れとはこうまで淋しいものなのかと、たとえ天哉であっても埋まらない淋しさに、埋まらないとはわかりつつも甘えてしまう。そんな子供っぽい甘えを受け止めてくれる彼は、やはり大人だと思う。
狭霧さんの運転する車で両親より一足先に家に戻り、家中の換気をした。両親がずっと大切に保管してきた姉の部屋の扉を開けることはどうしてもできなかった。そこに広がる空虚を思うと、伸ばした手はドアノブに届く前に空を掴む。
ふわっと風を孕む髪は、母が第九要塞に出掛ける前に切ってくれた。
色を変えられている私の髪は、切り離された途端元の色を取り戻す。だから美容院には行けず、幼い頃からずっと母が私の髪を切ってくれていた。切り落とされる髪がみんなと違って白いことに、子供の頃は毎回顔を歪めていたっけ。切り終わると必ず父に見せに行った。父はいつだって私を目にした瞬間に顔を綻ばせ、「かわいくなったな」と頭の上に手のひらを乗せてくれた。それがおまじないのように効いて、切り落ちた髪が白かったことを忘れさせてくれた。
今はこの髪の白さを愛おしいと思える。それは、彼が取り戻してくれた色だという以上に、自分が第七世界の生きものだと認めたせいでもある。なによりも両親が愛してくれたから。
最近、家のことを実家と考えるようになってきた。天哉のマンションの方を家と考えてしまう。
そんなふうに自分の考えや感覚が移り変わっていくことも、淋しく感じるひとつの要因だ。
梅が終わり、山桜が散り始め、次はつぼみを膨らませている八重桜が咲き始めるだろう。うちの小さな庭に所狭しと集う植栽たちが、この世界に巡る季節をずっと知らせてくれていた。
リビングの窓から見上げる空は花曇り。
隣り合う家々の屋根に切り取られた狭い空に向かい、手にした悠久の黒の傍らで、決意を胸にその果てにある黒に笑ってみせる。私は、ようやく掴めたこの手を決して離さない。
第五の行方が知れない。
第三世界に迷い込んだのは間違いない。けれど、ふつとその行方が途絶えた。
そもそも、第三世界に迷い込んだことはわかっていても、どの時間軸に迷い込んだのかがわからないらしい。
「天哉にもわからないの?」
「私は万象を負うとはいっても、万能ではない」
第七世界から天哉のマンションに戻れば、そこにゼノたちが待ち伏せていた。一応許可はもらったと言うけれど、不法侵入だと思ってしまう私は、そろそろ第三世界的思考をどうにかしなければならない。
「天哉でもわからないなら、ウェスたちにもわからないよね。ローラは?」
「第五は、世界との繋がりを切った」
そのウェスの言葉に驚く。そんなことできるのか。
「すでに第五世界の六割が第七世界との統合を終えている。そろそろ第七世界に第五世界に棲むものが姿を現すはずだ」
「だから、第五世界との繋がりが切れやすくなってたんだよ。ぎりぎりのタイミングで第三世界に迷い込んで、そこで繋がりが切れちゃったってわけ。世界と繋がってないものを探すのはさすがに難しい。けど、一応探してるから」
うんざりした顔のウェスが、最後に「組織が」と聞こえないほど小さな声で呟いた。
──悪いな。
渋面のゼノは見失ったことを気に病んでいるらしい。ゼノがこんなふうにしょぼくれているのを初めて見た。ゼノにとっても天哉は気を許せる相手なのだろう。
第七世界で、世界との繋がりを強く感じたのはそのせいなのかもしれない。
すでに天哉の半身として七割ほど覚醒しているうえに、第五が只人となれば、特に問題はないとゼノもウェスも言う。この世界で組織の保護なく迷い込んだものが生き延びる率は少ない。
それでも念のために警戒を怠らないよう注意されるのは、やはりかつては世界と繋がっていたものだからだ。コマンドが使えなくなったと断言することはできない。
「私たちの関係は、優羽の想いだけで保たれている」
ウェスたちが姿を消した後、そう呟いた彼はひどく不安そうだった。まるで迷子の子供のように途方に暮れた顔をしていた。
「第五は只人になったんだから、天哉が応える必要はないでしょ?」
「それはそうだが、目の前であまりに強く願われれば、無意識に応えてしまう可能性もある」
「それ以上に私が強く願えばいいだけでしょ。大丈夫だよ」
そう笑って、不安を必死に隠した。
彼が不安を見せることが不安で仕方がない。彼は私以上に不安だろう。己の意思とは別に、己の意思とは反することに無意識に応えてしまうなんて、正直耐えられない苦痛だと思う。
そんなものを与えるつもりはない。私が彼以外を求めることはない。
第五が只人になったのであれば、たとえ私たちが存在しているこの時間軸に迷い込んでいたとしても、天哉や私を認識できるとは思えない。そもそも日本に迷い込んでいるとは思えない。この世界のパラディススが大西洋に集中している以上、そこを中心に迷い込むはずだ。第九要塞は第九世界だけに応える特別な場所だ。
けれど、コマンドが使えないと断言できない以上、可能性は残る。
本当に第五は私に執着しているのか、そこがわからない。
できれば、第五もただ一人の愛する人を見付けてほしい。組織にも霧にも見付からず、できれば生き延びて欲しい。独り善がりの懺悔のような思いだけれど、そう強く願った。
車のドアの開閉音が聞こえてきた。両親の気配を感じ、急いで玄関に向かう。
玄関ドアを開ける直前、今までとは違っているだろう両親をそれまでと変わらない笑顔で出迎えようと心を決める。
「おかえり」
言いながら開いた玄関ドアの向こうに、数日前と変わらない両親の姿を見て、思っていた以上に安堵した。自然と笑顔が零れる。
「ただいま、優羽。天哉さん、ありがとう」
穏やかな笑顔を浮かべた母の声に、背後にいる天哉を振り返ると同じように穏やかな笑みを浮かべていた。
「おかえりなさい」
そう言いながら、彼は母の持つ荷物を受け取り、家の中へと二人を招き入れる。
二人より先に三和土から上がり、二人が靴を脱ぐのに邪魔じゃないよう一歩下がる。二人のスリッパが並んでいるのを見た母が、ふわっと嬉しそうに笑った。
「優羽、美羽が会いたいって言ってたわ」
玄関ドアが閉まると同時に聞こえた母の声に驚きすぎて目を瞠った。母の背後にいた、ドアを閉めたばかりの父が頷いているのが目に映る。
「天哉君の血の結晶だ」
記憶を残してくれた。振り返った天哉がなんてことない顔で笑っている。
二人が出掛けるときに言っていた、「心配ない」とはこのことだったのかと、思わず彼の腕にしがみついた。
「ありがとう。天哉、ありがとう」
「私はそのくらいしかできないんだ」
「そのくらいじゃない。天哉君、本当にありがとう。覚悟していたとはいえ、本当は淋しく思っていたんだ」
父の声に、ほんの少し照れくさそうに笑顔を返す彼が、憎らしいほど大好きすぎて、思わず抱きついてしまう。
彼に抱きついたまま泣き出した私を父も母も笑いながらからかい、一緒になって泣き笑う。天哉から荷物を取り戻した母が父と一緒に一足先にリビングへと消えてしまった。
ぎゅっと抱きしめられ、もう一度ありがとうを言い、その腕に中から抜け出せば、見上げた顔が少し角度を変え降りてきた。知っている、馴染んでいる仕草。ほんの一瞬だけ唇が触れた。
「私のためだけじゃないでしょ?」
「優羽を育ててくれ、私を息子にしてくれたお礼だ。二人の願いも強かった。娘たちを忘れたくないと」
彼の想いも、両親の想いも、嬉しかった。
両親は、それはもう楽しそうに姉たちの話を聞かせてくれた。リビングで一休みする間も、母を手伝い食事の支度をし、男二人はダイニングで晩酌を始めても、夕食を食べている間も、食後にみんなでリビングへと場所を移し、まったりくつろいでいる間も、話題は全て姉たちと第九世界のことだった。
「しっかりと顔を合わせるのは二十年以上ぶりなのに、ほとんど変わってないのよ。こっちは老けちゃってるのに。美羽なんて『お父さんもお母さんも年取ってる』ってびっくりした顔で言うんだから、本当失礼しちゃう」
とは母の言葉。そう言いながらも嬉しそうだ。
「凜が美羽に似てかわいいんだ」
とは父の言葉。デレた父の顔を久しぶりに見た。子供の頃はいつもこんな顔で笑っていた。私はちゃんと大人として接してもらっていたのだと、それを見て気付かされる。
「あら、煉くんもかわいいわ」
「りんとれんって誰?」
「ああ、美羽が子供たちをそう呼んでいるんだ。名前にするにはその意味を考えるとどうかと思うんだけど、それしか思い浮かばないって言ってな。愛称みたいなものらしい」
父が近くにあったメモ用紙に「凜」と「煉」という字を書いた。書いている間もでれでれと緩めた顔を締められないでいる。余程かわいかったらしい。
凜がアウローラのことで、煉がウェスペルのことらしい。言われてみればその言葉の方がしっくりくる。きっと本当の名前はそっちなのだろう。元々アウローラもウェスペルも通称だと聞いていた。
煉は君付けで呼ばれているあたり、男の子として認識されてしまったのか。ウェスの嫌そうな顔が思い浮かぶ。
「煉くんがね、美羽にべったりで、美羽たちが戻っちゃったら今度は私にべったりで、なんだかかわいそうになっちゃったのよねぇ。美羽の世界に私たちが連れてってもらうって決まった時なんて、自分は行けないからもう泣きそうな顔しちゃってて……」
「お母さん、見た目に騙されそうだけど、ウェスもローラも私と同じくらいの年だから」
「そうらしいな。だが、なんというか、見た目が子供だからなぁ」
父まで騙されている。孫という存在はそんなにかわいいものなのか。
「そういえば、凜がどことなく祐夏ちゃんに似ているのよねぇ。凜が大きくなったら祐夏ちゃんみたいになりそうだなって」
その母の声に天哉がふいっとそっぽを向いた。
まさか!
目を細めじとっと見ていたら、気まずそうな笑いが返された。
なんとなくおかしいとは思っていた。
神喰い人の直系である穂住ちゃんはわかる。けれど自分が神喰い人だとは知らないはずの祐夏が、はっきりと私を認識しているのはおかしい。付き合いが長いからそんなものかとも思っていたけれど。
神喰い人どころか第二だったとは……。
というか、どうなっているのだろう。第三世界で芸能界デビューしているのって、姉たちは知っているのだろうか。祐夏の性格を考えると内緒にしてそうだ。頭が痛い。
私の考えていることが手に取るようにわかるのか、要所要所で天哉が小さく頷く。内緒ってことだ。もう祐夏については知らん顔しよう。
思考を中断して、両親の話に耳を傾ける。
第九世界のパラディススは、第九要塞がそのままパラディススとなっている。その中庭は、まるっきり畑らしい。
母が感じ入った声で父と話している。
「ありとあらゆる野菜や果物が育ってて、しかもおいしいのよ」
思わず天哉を見れば苦笑いしていた。ゼノに頼み込まれたのだろう。ゼノもどれだけ肩入れしているのか。本当に第八世界のパラディススを思うとせつなくなる。今度行くときは果物の苗を持っていこう。育つかな。
「美羽は幸せそうだったわ」
「初めは、二人の夫と聞いて戸惑わなかったわけじゃないんだが……間違いなく三人で夫婦なんだな。ようやく本当の意味で納得できた」
「天哉さん、改めてありがとう」
「本当に天哉君のおかげだよ。別の世界なんて、聞いているのと行ってみるのとではまるで違う。本当の意味で在るとは思っていなかったんだと思い知らされたよ」
そう言ったところで、二人は居住まいを正した。
いつものリビングの、いつもの座り位置。いつも通りの穏やかな顔で、二人は天哉にその言葉を放った。
「もう、思い残すことはない。優羽には君がいる」
「いつでもいいわ」
頭が真っ白になった。
「やめろ!」
叫ぶ天哉の声が遠くに聞こえた。
見つめる先にある穏やかな顔。しっかりと握り合った二人の手が目に入った瞬間、両親の思いの強さを知った。
「今まで、ありがとうございました」
慌てて立ち上がり、頭を下げ、急いで上げた。最後まで二人をこの目に焼き付けたかった。
「優羽、幸せになりなさい」
「優羽を頼んだよ」
聞こえてきた二人の声に、胸がこれでもかと締めつけられる。苦しくて苦しくて、必死に笑顔を作った。
父と母は互いの覚悟を確かめ合うように顔を見合わせ、慈愛に満ちた笑顔を最後に浮かべ、そして、はらはらと桜の花びらが舞い散るように儚く消えた。
彼が両親の望みに応えてしまった。