大地の記憶
36 Septimus 泥濘—Warmth


「第五と話し合った方がいいのかな?」
 言葉の意味を正しく理解した彼はわかりやすく顔をしかめた。

「価値観が違うもの同士が真に共感し合えるなど幻想だ。大抵はどちらかがその価値観を曲げなければわかり合えない。第三世界の宗教を発端とした争いなどいい例だろう」
 言われてみればそうだ。それはそれとして認めることだと勘違いしていた。

「えっと、じゃあ、理解? し合えるかな」
「あれの場合は無理だろうな」
 彼が無理だというなら無理なのだろう。私の甘い考えなど通用しないということだ。
 お互いに話せばわかるかも? そんな甘っちょろい考えを見透かされたようで恥ずかしくなる。

 そもそも私の倫理観では、たとえ何があろうと自分の半身だったものを不幸にしたいとは思わない。目の前で嬲られる自分の半身を見て執着するなんて、ウェスじゃないけれど、第三世界的に言えば変態じみている。それもひとつの愛情だなんて到底思えない。
 確かに、話し合ったところで理解し合えないだろう。

 私に天哉がいるように、第五にも絶対の存在が現れるといい。そう強く願った。ずっとそればかりを願っている。


 冴え冴えとした空に浮かんで見える星屑のような煌めく雫。雪が舞うようにゆっくりと小さな光が降りしきる中、目の前に広がる色とりどりの大地を見上げながら、ふうっと細く長く息をついた。どうしてかこの場所に光の雫は堕ちてこない。

 あの半球の天辺にあった天窓は、窓ではなく穴だった。このパラディスス唯一の出入り口。

 彼に導かれながら初めて羽を広げ、その穴に向けて飛んだ。飛ぶというよりは、浮かぶように滑るように移動する。揚力とか羽ばたきとか、色んなことが頭に浮かんだけれど、それは第三世界でのことであり、おまけに私の羽はコマンドだと思い出し、こんなものかと拍子抜けした。
 ふわっと浮かび上がる感覚は、彼の闇の中の浮遊感と似ている。もしかしたら無重力空間に浮かんでいるのと同じなのかもしれない。一切の抵抗がない。

 穴から顔を出せば、そこは泥濘を免れた小高い丘で、ちゃんと緑の大地が存在していた。第八世界のパラディススで見たような瑞々しい草で覆われている。その先にある腐敗した色んなものは、視界に入れないようにした。どうしてもアンデットが這い出てきそうで怖い。

「あれは、第七が己のものにならなかったことに苛立ちを感じているだけだ。優羽の前に存在したあれの半身でもある第七たちも、同じように覚醒の第一手段が奪われていた」

 第一手段は、あくまでも肉体的第一手段であって絶対ではない。互いに身を寄せ合い、心が結びつけば、それが確固たる繋がりとなって、おのずと覚醒へと向かう。
 それは私の考えすら覆した。今の私は真っ新だから、初めての痛みを与えたのが天哉だったから、彼の半身として覚醒できたのだと思っていた。

「本来の優羽は、それこそ第一手段どころかその全てが破綻していた。それでも優羽が覚醒したのはそういうことだ。肉体が全てではない」
 後ろから抱え込むように座っている天哉に目を向けると、満足そうに笑っていた。

「私が覚醒して嬉しい?」
「当たり前だ」
 振り返りながらのキスはちょっと首が疲れる。それでも嬉しくて、いつまでもキスしていたい。離れた唇に名残惜しさを感じていたら、目を細められ、再び唇が重なり、宥めるように優しく啄まれてから離れていった。それだけでなんとなく満足してしまう自分の単純さに呆れる。

「お父さんとお母さんは?」
「そのまま第九要塞に留まっている。ついでに第九世界のパラディススを見せておくとゼノが伝えてきた」
「そっか。お母さんはしゃいでそう」
「第一がべったりだそうだ。今まで甘えたくとも甘えられなかったのだろう。私の結晶のおかげだと礼を伝えてきた」
 両親もゼノたちが見えるようになったの。

「もしかして……お父さんもお母さんも本当はもう死んでるの?」
 不意に思い浮かんだ瞬間、そのまま口から零れ出た。自分の言葉に自分でも驚く。それ以上に驚いた顔の天哉を見て、それが間違っていないことを嫌でも理解した。

 ずっと、両親の寿命が意図して延ばされているのではないかと思っていた。神喰い人の末裔たちは、無意識に力を使うせいで、その分命を削る。長く生きて六十を超える程度だと聞いていた。
 当初は父だけが神喰い人の末裔だと思っていた。母より父が先に逝くだろうと覚悟していた。けれど、母も神喰い人の末裔。しかも姉を生み出した存在とあれば、その寿命は父より短かったはずだ。

「二人は知ってるの?」
「知らないはずだが、きっと彼らなら察しているだろう」
 痛みを堪えるような表情は前にも見た。もしかして──。
「狭霧さんも?」
「そうだ。狭霧は知っている」
 だから、裏切れないと言っていたのか。万が一裏切ったところで、彼はそれすら認めるだろうに、狭霧さんはきっと裏切らない。あの人はそんな人だ。

 狭霧さんは事故だったそうだ。彼を迎えに行く途中で起きた事故。彼がその場に飛び、最後の声を聞こうとしたときに「妻と子供を残して死ねない」と強く願われたそうだ。
 彼はその場で自分の存在を明かし、狭霧さんの願いに応えた。
 生まれ逝く命は、彼であってもどうすることもできない。けれど彼は時を操れる。狭霧さんは覚悟の上で己の時を止めた。生まれたばかりの子供が成長するまで。子が母を支えられるようになるまで。

「応えなくてもいいことに応えてしまったのは私だ」
 だからといって、そのせいで彼が己を削る必要なんてないのに。それでも感謝したくなる。私にも応えてくれた。それはきっと優しくも残酷なこと。

「ありがとう」
「優羽にそう言われると、無駄じゃないと思える。本当にこれでよかったのか、私も狭霧もわからないでいる」
「無駄じゃないと思う。私が狭霧さんの奥さんなら、やっぱりそばにいてほしいって思う」

 全てに応えることはできない。けれど、応えようと思えるだけの強い願いを持てるものは少ない。そう、頭上に浮かぶ大地を見上げながら、彼が呟いた。
 誰もが今際の際に「今」を願うわけではないらしい。大抵はそれを知らず識らずのうちに受け入れる。知らず識らずのうちに生まれるのと同じ。


 ふと目の端に映った、彼方に浮遊する大地から堕ち逝くもの。絶命の音色は美しく儚く尊い。腐敗の大地がやわらかくそれを受け止めた。
 その瞬間、今まで感じていた恐怖がぷつんと途切れるように消えた。不意にこの世界との繋がりを強く実感した。一層この世界が鮮やかに映った。

 そうだ、あの泥濘はあたかでやわらかい。ゆっくりと肉が解け、清冽な泉にも似た真白な骨が晒され、清浄の中で昇華する。
 天気雨のように降りしきる雫が泥濘を作り、何もかもを溶かし、大地に還り、また新たな何かを生み出していく。
 淵源に落ちる始まりの雫も、この世界に降りしきる終わりの雫も、どちらも同じ雫だ。命の雫。世界の涙。
 命が世界に寄り添っている。

「もしかして、第七世界って、元の第二世界の代わりに作られてる?」
「よくわかったな」

 第八世界が元の第一世界だとしたら、第七世界は元の第二世界だ。
 便宜上付けられている番号は、世界が生み出された順番とは違う。そもそも世界は常に移動し、変化している。初めから同じ場所に留まっている世界などない。第三世界も何度かその場所を移している。

「だから、第五世界じゃなくて第七世界を残すの?」
「それもあるが、元々同じ世界だ」

 第五世界も第七世界と同じ。便宜上、番号が振られているだけ。それは平行世界に似て異なるもの。メビウスの輪のようなものかもしれない。

「だから、天哉が肩代わりできたの?」
「そういうことだな」

 天上の至高の半身となれるような存在が現れるとしたら、それは天を司る世界から。第五か第七世界から。

 後頭部を彼の胸にもたれさせ、浮かぶ大地を見上げながら、掴むことができた存在を第七世界に感謝する。この世界の後押しがあって、私は彼のそばにいる。ここに第五がいてもおかしくなかった。私に繋がるこの世界は、私に厳しくも優しい。

「私が今、幸せ噛み締めてるって言ったら、笑う?」
「いや。私も同じだ。笑うか?」
「笑わない」
 そう言いながらも零れる笑顔は隠しようがなく、ぐっと顎を上げ真後ろにいる彼を見上げる。真上から見下ろされているその目が同じように笑みを浮かべていた。背後から抱き込んでいるその腕の囲いが狭まり、おでこに唇が寄せられた。

 あなただけが、私を望んでくれた。

 できれば、第五にも唯一の存在が現れて欲しいと願うのは、私の独り善がりだ。半身であるはずの私が別の存在を望んだのだから、そう願うことなど偽善でしかない。
 私はとても残酷なことをしている。それでも、彼のそばにいることを後悔しない。