大地の記憶
35 Octāvus et Septimus 浄化—Blessing「望むことはあるか?」
抑揚も感情も感じられない天哉の声。それに僅かな身じろぎすらなく、手のひらの小さな粒たちを見つめたまま、ひかりさんも同じだけ無表情な声を出した。
「愛されるように。特別じゃなくていい、ただ、当たり前に愛されるように」
当たり前の愛。そこに感情が込められていない分、その言葉の重みが心にのしかかる。
私が両親に与えられてきた無償の愛は特別なこと。当たり前に愛されることは、得がたい幸福だと思い知らされる。その重みに押し潰されそうになる。
淵源の淵に跪いた白を纏う二人。その傍らに立つ黒を纏うすべてのはじまり。
私はみんなから離れた場所で気配を絶ち、その一部始終を目に心に焼き付ける。
ひかりさんの手のひらにのる小さな命の粒が淵源にそっと放たれる。
叡智の煌めきを纏い、その中心へとたゆたいながら、名残惜しむほどゆっくりと沈んでいく。
まるで祝福するかのように、天哉の指先から透明な雫が一粒、その水面に落ちた。
その瞬間、世界に響いた透徹した音。たったひと滴で世界が震えた。
二人はとても静かだった。静かすぎて何もかもが痛かった。
のぞみさんの目に浮かぶ涙。その雫を流すことなく湛えたまま、瞬くことすらせずに沈みゆく小さな命を見つめ続けている。
ひかりさんの手が力一杯握りしめられ、一度だけその淵を殴りつけた。ついさっきまでそこに二人に繋がる命をのせていた手を苦しそうにゆっくりと開き、のぞみさんの肩を引き寄せると、のぞみさんの涙が一粒零れ落ちた。
せつなくて、やりきれなくて、どこもかしこもちくちくと突き刺さるような傷みに襲われる。
だめだ。私が泣いてはいけないのに、涙が勝手に滲んでしまう。思わずそばに来た天哉の腕を掴めば、すっと涙が引いていった。甘えている自分が嫌になる。大人になれない自分がもどかしい。
「幸せになって」
小さな命が水底にたどり着く瞬間、小さく呟かれたのぞみさんの声は、まるで淵源に吸い取られるかのようにすっと消えた。彼女の祈りを吸い取った小さな命もそれと同時に見えなくなった。
「次に来るときまでに、優羽の血を取り込むかどうか決めておけ」
その天哉の言葉を置いて、第八世界から第七世界に戻った。
散々泣いた。彼は黙って泣かせてくれた。
他人の私がこんなにも悲しい。こんなにも痛い。情けない泣き声が大きな静寂の半球にこだまする。それが自分を責め立てるようだった。私が悲しんだところで仕方がないのに、どうしても涙も嗚咽も止まらなかった。
しがみつく彼のシャツを必死に握りしめ、ただひたすら泣いた。
こんなこと、ひかりさんが望んだとは思えない。泣きながら訴えれば、静かな声が返された。
「こうなるとは思わなかったんだろう。あいつはただ、己の中にある命の欠片を生み出してやりたかっただけだ」
世界を動かすほどの願いは、と彼の言葉が続いた。
「単純で明確でなければならない。だからこそ、数多の可能性が生まれ、意図せぬ方向に進み出してしまうこともある」
それはまるで、私に言っているように聞こえた。
「それでも私は、天哉の半身になれたこと後悔してない。後悔しない」
それに返されたのは、抱きしめる腕の強さだけだった。
触れてくる指も手のひらも唇も、何もかもが愛おしいと伝えてくる。その全てで求められているのがわかるのに、どうして彼は、どこかで私を諦めているのだろう。
こんなにも強い希求をぶつけてくるくせに、手を離さないようしがみつくくせに、どうして彼は、最後には手放さなければならないと考えてしまうのだろう。
その七割まで存在を解放した彼は、狂おしいほどに美しい。
一層黒を濃くした肌に白の肌が絡みつく。
あまりにも美しいから、独り占めしたくて貪欲になる。私のものだけにしたくて仕方がない。
どうして私たちはただの男と女じゃないのだろう。どうして世界など負わなければならないのだろう。どうして私たちの先に見も知らない命が連なっているのだろう。どうしてお互いだけのものになれないのだろう。
しつこいほどに「どうして」が波紋のようにずっと心のどこかに打ち寄せている。
「つよ、い」
吐息のような気怠い声に、吐息のような笑いが返される。
「もう少し抑えるか?」
「ん、いい。早く、全部、ほしい」
吐息の合間の囁きに、背中に回された手が、とん、とん、と相槌のように動いた。
放たれる精が強すぎて、それを取り込むことにありったけの力が使われる。呼吸すらままならないほどの強い力。
繋がったまま彼の上にひたと重なり、全てを預けて甘やかされる。
「あの雫、涙みたいだった」
「涙みたいなものだ。血を落とすわけにいかないからな。代わりに涙を落とす」
「祝福?」
「そうであってほしいが、それを祝福とするか呪詛とするかは、受け取る側が決めることだ」
「私にとって天哉は祝福だからね」
それに返される言葉はなく、頭の天辺にキスが落とされ、白い髪を黒い指がゆっくりと梳いた。
「ねえ、さすがにやりすぎじゃない?」
第八世界から戻ってからというもの、ずっと裸のまま、ずっと繋がったまま過ごしている。中を埋められたまま、激しく動くわけでもなく、ゆったりと交わり合い、時々強い快楽を与えられ、堕とされ、精を受け、力尽きて微睡み、またゆるゆると……その繰り返し。
もう時間の感覚もない。この空間が清浄に保たれているおかげで、身体が汚れることもない。
あの腐敗した大地の下にある清浄は、何かを連想させるようでいて、今の私ではその答えを見付けられない。
「そうか? もう少しでこの私も受け入れられるようになる」
「なら、いい。もっとちょうだい」
何度放たれたのかわからないほど放たれ、少しずつ取り込む時間が短くなり、私の力も蓄えられていく。
緩く長い交わりは、その快楽もたなびくように長く続く。
何もかもを忘れさせてくれるような、こっくりと濃密な多幸感に包まれる。
広げた羽の縁が一層黒を濃くし、そこから葉脈のように細い黒が伸び、美しい紋様を作っている。ゆっくりと進んでくる黒の侵食。羽の次はどこが黒に染まるのだろう。最初は目がいい。見つめる先にある同じ黒の瞳が欲しい。
何もかもが欲しいのに、何も手に入らない気がする。誰かのものになるような存在ではないとわかってはいても、欲しくて欲しくて手を伸ばす。
「いつか、私だけのものって思える日がくるのかな」
「私は、優羽のためだけに存在している」
「私だって、天哉のためだけに存在してるもん」
「それでは不満か?」
「欲張りなだけ」
彼がくくっと笑うと、中にいる彼もひくっと動いた。それに艶めく抗議の声を上げれば、瞬く間に堕とされる。
ふとコマンドの発動を感じた瞬間、彼の表情が一気に険しくなる。
「優羽、滞在を延ばす」
冷え冷えとした声に身体が一瞬にして強張る。微睡みから一気に現実に引き戻される。
身体を起こそうと身じろげば、ずっと繋がっていたそこが空虚を掴んだ。繋がりが解かれた途端に感じた泣きたくなるほどの淋しさに、本当に涙が滲んだ。
「何かあった?」
身体を起こしながら訊けば、一層冷たさを増した声が返ってきた。
「第五だったものが、第三世界に迷い込んだ」
どうして、なんで、そんな疑問ばかりが頭に浮かび、ふと思い出したのは、前に見た夢。私の気持ちを信じて疑わなかった、私の半身だった存在。夢はあくまでも夢だとわかっているのに、どうしてか、それが第五の本質のように思えてならなかった。
愛していたから、歪んだのだろうか。愛していたから、第一手段を失っていた半身への想いが歪んだ憎しみに変わったのだろうか。そもそも私は愛されていたのだろうか。憎まれていたのだろうか。憎しみすら何かの想いだとしたら……。
愛という感情が、私が思うものと同じかすらわからない。第三世界で育った私の倫理観が、その先の思考を妨げる。
「天哉は……」
訊いていいのかがわからなかった。訊くべきではないとも思う。第三世界の倫理観をこの存在に尋ねるのはどうかと思う。
決めかねていると、同じように身体を起こした彼の手のひらが頬を包んだ。それに勇気付けられる。
「私がたくさんの男と交わっても、たくさんの男たちの卵を産んでも、それでも、私を好きになった?」
「だから今、二人でここにいるんだろう?」
「それは、今の私が真っ新だから? 今の私の初めてが天哉だったから?」
「いや。それは優羽が優羽であるために必要だっただけだ。私は、優羽が優羽であればどんな優羽でもかまわない。たとえ泥濘の中に沈んだ腐爛した姿であっても、優羽であればそれでいい」
穂住ちゃんの言っていたことは本当だった。彼は人の外側を見ない。
これがきれいな部屋の中で言われた言葉であれば、きっとここまで心に染み込んではこないだろう。ここが腐敗した死体の下だからこそ、その言葉を信じられる。
私は、そんなふうに彼を想えているのだろうか。
私が手を伸ばした先にあったのは、こんなにも強い想いだったことを、改めて思い知った。同じだけ返せるかもわからないのに、ただ欲しがってばかりいる。
「私は、欲しがってばっかりだ」
「欲しがってもらわないと私は困るな」
手を伸ばせば、優しい顔で抱きかかえてくれる。彼の太ももに跨がったそこは、空虚を抱えたまま。
「欲しいって思うばっかりで、何も返せない」
「その想いの強さが、私にはかけがえのないものだ」
空虚が埋められる。そこから全身に痺れるように広がる満たされた想いが、悦びの吐息へと変わる。
「想うだけなのに?」
「想い続けることは難しい」
そうだろうか。ただ、欲しがりでわがままなだけだと思う。
ただ欲しくて、教え込まれた通りに腰を振る。
微睡みの中、彼の結界に覆われ、何かから隠されたのがわかった。
はっきりとしない目覚めと微睡みの間、半球の天辺にある天窓から、何かが降りてきた。
澱んで濁った黒に覆われた、おそらく生きもの。何かの意識かもしれない。
ゆっくりと浄化されながら降下してくる。浄化が進む度にその凝り固まりがゆっくりと解け、床に着く頃には真っ新な伸び伸びとした存在へと変わっていた。
降り立ったそれは、天上から降り注ぐ光を振り仰ぎ、大きく息をつき、そして、ゆっくりと霞むように消えていった。
夢かもしれない幻のような出来事。
第七世界が天を司るというのはこういうことなのかと、頭の片隅が理解した。