大地の記憶
33 Tertius et Septimus 最後—Last


 私が彼の半身として覚醒したこともあり、天哉は第三世界でも半分の状態で過ごせるようになった。
 今まで薄かった表情が人並みに出るようになった分、周りからの反応が激しいらしい。運転手の狭霧さんは笑いかけただけで涙ぐみ、週に一二度しか顔を出さない会社では、今まで同様あまり表情を出さないよう振る舞っているにもかかわらず、やはりどこか違って見えるのか、「遠巻きにひそひそされている」と、本人が面白そうに教えてくれた。

 私の覚醒を受けて、姉は三月の末にこの世界に来ることが決まった。両親の、最後に桜を見せたい、との提案を天哉が聞き入れた。
 急遽決まったことに慌てたのは第三世界側で、黎明期である第九世界側はまだ時の流れが定まっていないせいか、第三世界よりも余裕があるらしい。
 その間、両親は第九要塞に滞在する。姉たちのことは第九研究所の職員以外には知らされない。第九研究所の職員たち、とりわけ研究員たちは、なぜか組織の中でも団結力が強い。姉たちの肉体も第九要塞の地下に保管されている。
 同時に私は、第七世界のパラディススで過ごす。第八世界のパラディスス並みに不便らしく、下見を兼ねた滞在だ。途中、第八世界に遊びに行こうとも思っている。無事覚醒したことを彼らに伝えたいし、のぞみさんの様子も気になる。

 私の存在は組織の一部、ゼノの手足となって動く人たちには知らされたらしい。穂住ちゃんの出会った人は、表向き護衛として存在しているゼノの手足のうちの一人。それ以外には知らされていない。第七研究所にもまだ知らされていない。

「そういえば、第七研究所ってどこにあるの?」
「大西洋にある群島だ」
「群島? どこの?」
「地図に載っているわけないだろう」
 それもそうか。わかったからそんなに呆れた顔をしないでほしい。今まで聞いたら最後とばかりに訊かずにいた私の気持ちもわかってほしい。これからも知らなくてもいいことは知らなくていいと思っているいい加減さは見ない振りをしてほしい。

 実は、デートだ。
 初めて一緒に出歩いている。映画館なのに個室のような場所でソファーに座りながら映画を観て、かなり豪華なランチを食べて、気後れしそうな高級店で買い物をして、今はホテルのカフェでひと息ついている。
 雑誌に載っているような定番デートの高級版。ずっと定番デートに憧れていたと言ったら叶えてくれた。
 腕を組んだり、手を繋いだり。母と一緒に選んだ一番かわいく見えるとっておきのワンピースを着て、自分でもどうかと思うくらいはしゃいでいる。もう歩いているのかスキップしているのかもわからない。まさに足が地に着かない。
 きっとここでは最初で最後のデートだ。こんなふうに第三世界で一緒に出歩けることがこの先あるとは思えない。

「第九研究所だけが日本にある」
「そっか。何気に詳しいよね」
「第九研究所に関してはな」
「あ、そっか。あそこの調整したの天哉だっけ」

 だめだ。嬉しすぎてどれだけ表情を引き締めようとしてもにやけてしまう。おまけに天哉までが嬉しそうに笑っていて、それがまた嬉しさに拍車をかける。うへへ、と不気味に笑ってしまいそうで、声にだけは出さないよう必死だ。顔がにやけるのはもう仕方がない。

 彼のそばにいると鼓動が共鳴し合い、信じられないほど安らぐ。おまけに身体が一層軽くなり、力が漲ってくる。浮かれるなという方が無理なほど、心身ともに高揚する。
 そのうち慣れるとは思うけれど、まるで話に聞いていた浮かれた恋愛と同じだ。とにかく胸の高鳴りが止まらない。周りに知らせたくなる。だから、のぞみさんたちに会いにいこうと思ってしまう。

「買い忘れはないのか?」
「うん。ごめんね、全部出してもらっちゃって」

 両親から月々のお小遣いというものをもらったことがなかった私は、今日初めてお小遣いというものをもらった。結局使わずにお財布に入ったまま、全ては彼が支払ってくれた。
 今まで必要なものは父や母と一緒に買いに行っていたし、のぞみさんたちへのお土産は毎年もらうだけで貯まっていたお年玉から出した。
 さすがに普段一円も持っていないといざというときに困るだろうと、常にお財布には五千円ほどが母によって入れられていたけれど、半年以上そのままになっていることの方がざらだった。
 両親を優先してきた私は、友達同士で出掛けることも滅多になく、せいぜい祐夏と遊ぶくらいだ。何より虚弱体質だった私は、家と学校の往復だけで体力を使い果たし、子供の頃から家で遊んでばかりいた。

 今日は、第七世界のパラディススに持っていくものを買い込んだ。どうせ誰にも見られないだろうと、恥ずかしげもなくペアのものをたくさん買った。初めての彼氏だもん。少しくらい浮かれても許される。たぶん。
 おそらくないだろうベッドは、以前ひかりさんのお土産にしたのと同じものを彼が用意してくれた。第八世界並みに何もないと聞いている。天哉はそんな場所に留まる必要がない存在なので、今まで気にしたこともなかったらしい。

「ねえねえ、天哉ってちゃんと働いてるの?」
「ちゃんとは働いてないな」
「だよね。なんでお金持ってるの? ちゃんと働いてないのにお給料ってもらえるの?」
「子供の頃から生活費として振り込まれていた分を狭霧が運用している。お給料は、そうだな、無駄にもらっているかもな」
 これが噂の腰掛け役員か。テレビの中のことかと思っていたのに、目の前に実在した。社会の闇だ。まあ、霧の一門は実際に闇組織だけれど。

「もしかして、お金の管理って全部狭霧さん任せ? なんだっけ、着服? とかの心配はないの? 狭霧さんはしなそうだけど」
「狭霧は私を裏切れない」
 その時の彼の表情がどうしてかすごくせつなく見えて、それ以上は聞かなかった。何か弱みを握っているとかそんな感じではなく、まるで痛みを堪えるかのような顔をしていて、聞けなかった。
「ねえ、狭霧さんも一緒にコーヒー飲めばいいのに」
「そうだな、今度誘ってみるか」
 そう言って笑った。それは半身だからわかる、作られたものだった。



 荷物は全て彼のマンションの寝室に運ばれた。すでに場を繋げているここからなら一度に荷物を運べるらしい。
 運んでくれたのは狭霧さんだ。何度もお礼を言ったらはにかまれた。ごつい筋肉質の年齢不詳な狭霧さんのはにかみは、かなりの破壊力だ。思わずじっと見つめていたら、天哉がむっとして、それに狭霧さんが感動していた。むっとしてさえ感動されるとは。

「そういえば、第七世界のパラディススって、どこにあるの?」
「聞くか?」
 うわぁ、その言い方。聞きたくない嫌な感じがそこはかとなく漂っている。聞かないわけにはいかないのが嫌すぎる。

「一応聞いとく」
「核となる大地の地下だ」
 聞かなきゃよかった。なにそれ。あのネクロポリスの地下に楽園(パラディスス)があるってこと? ありえない。映画か何かで見た地下聖堂みたいなイメージしか湧かない。古い教会の地下からアンデットが這い出てくるような……。

「なんでそこ?」
「さあ。私が作ったわけではない」
 誰が作ったかはこの際どうでもいい。

 買ってきたものの包装を解きながら、思わず顔をしかめてしまう。
 こっちの世界のものを向こうの世界で捨てるわけにはいかない。第八世界に行ったときも、ゴミは全て持ち帰ってきている。
 彼は私が何に嫌がっているのかがわからないような顔をして、同じく包装を豪快に破り捨てている。
 なんだろう、私って第三世界に感化されすぎなのだろうか。時々自分がどっちの生きものなのかがわからなくなる。

「そこに籠もるの?」
「地下はいやか? 第五と第七世界のパラディススは荘厳だと聞いているが……」
 ますます教会の地下墓室的イメージに近付いた。地下が嫌なわけじゃなく、死体の下が嫌なだけだ。脳内にどこかで聴いたようなパイプオルガンの不安を煽るような旋律が再生される。まだ洞窟の方がマシだ。

 ふと見れば、シーツを広げながらエロい顔で笑っている。
「まさか、ずっとしてるわけじゃないよね」
「それもいいかと思ったんだが、嫌か?」
 嫌じゃないけれど、嫌だ。もうちょっと健康的に過ごしたい。爛れた生活はもう少し大人になってからでいい。
「私の半身としての存在も強めておきたいんだが……嫌か?」
 嫌か? と言うときの色気ダダ漏れの顔をなんとかしてほしい。思わず嫌じゃないと口が滑りそうになる。女子高生を誑かす大人は碌なものじゃない。



 次に顔を合わせるとき、両親はそれまでと同じであって同じではなくなっている。
 私たちから姉の記憶がなくなることはない。けれど、彼らの記憶からは失われる。もしかしたら夢に見るのかもしれない。この世界は姉のことを記憶しているはずだから。

 ゼノが寄越した迎えの車に乗り込む両親。

 笑顔で別れた。両親も覚悟している。私はただそれを見ていることしかできない。自分の娘を忘れる覚悟なんて、させていいわけないのに。
 だから、私も笑顔で別れた。どうすることもできない私が悲しむなんて、彼らの覚悟を踏みにじる行為だと思う。

 遠離っていく無駄に黒光りした高級車をただじっと見送った。

「優羽、心配ない」
 本当に、何も心配ないと思わせてくれる穏やかな声。
「うん。私たちも行こうか」
 隣に立つ天哉は、すでに存在を隠していない。婚約を機に堂々と我が家に出入りしている。

 どうやら彼の存在は、私と同じく曖昧にぼかされているらしい。私たちがはっきり彼について思考できない以上に、普通の人間は彼の存在を認知することができるだけで、それ以上は考えられない。だから婚約も書類上の手続きのように流されて終わりだ。

 ただ、その事実だけが波紋を広げた。最後に残っていた霧島本家三男の婚約は、それなりの人たちにそれなりの衝撃を与えたらしい。しかも相手は女子高生だ。私の存在も曖昧になっているせいで、我が家の周りにマスコミが張り付くことはなかったけれど、まあ、色々言う人はいるらしい。本人たちを認識できもしないくせに好き勝手なことを尤もらしく言うのだから、どれほどいい加減なのかと呆れてしまう。



 荷物と一緒に飛んだ第七世界のパラディススは、イメージしていたよりもずっと荘厳で美しかった。
 枝の広がりのような柱に支えられる丸天井。その天辺にある丸い明かり取りから零れ落ちる光は、まるで薄明光線のようだ。ドーム型のそこは、どこかの歴史的建造物の内部だと言われても納得できるほどの、優美な曲線と力強い直線でできていた。

 白い柱。ドームの天井には四角いモチーフがぐるっと彫られている。どこかで見たことがあるなと記憶をたどれば、ローマのパンテオンに似ている。ドームの半球型の天井を支える柱が妙に白く浮き上がって見え、それがまるであの泥濘(ぬかるみ)で見た骨のようで、一度そう見えてしまえばやはりそこは墓場のようにも思えてしまう。

 美しく荘厳で優美でもある空間は、言い換えれば畏れを抱く空間でもある。
 おまけにそこは、どこまでも清浄だった。塵ひとつなく、吸い込む空気は澄み渡り、まるで自分が浄化されているように思えてならない。

「何にもないね」
「何にもないな」

 見渡す限りだだ広い空間だけがあった。モザイクタイルのような複雑な幾何学模様の床には何もない。びっくりするくらい何もない。体育館よりもずっと広く大きな空間には、潔いくらい何もなかった。
 第八世界のパラディススの方がよほど住むに適している。ここはまさに避難所だ。

 どうして、地を司る第八世界のパラディススが天上にあって、天を司る第七世界のパラディススが地下にあるのだろう。
 ふと浮かんだ疑問に答えはない。彼が作り出したわけではないのであれば、訊いたところでわからないだろう。

 こんなだだ広く薄暗い空間、しかも頭上には屍、そこにたった二人しかいないことが妙に怖い。
 てきぱきと丸めてあったマットレスを広げ、まだ膨らみきっていないそこにベッドパットやシーツを広げている天哉は何も感じていないようだ。第三世界のホラー映画を見過ぎたせいで、恐がりになっているだけじゃないかと思えてきた。頭上の丸い天窓から、わらわらと屍が降ってきそうで怖い。完全に映画の影響だ。

「ねえ、水とかどうするの?」
 ベッドメイキングを終えた彼が己の手際に満足そうに笑っている。ちょっとかわいい。

「必要ない。本来私は食べ物を必要としない。優羽も私の精を受けている限り本来食べ物は必要ないはずなんだ。食べることは単なる嗜好でしかない」
 振り返りながら言われ、そういえば以前ウェスに第三世界で普通に過ごせていることを責められた記憶が浮かんだ。

「もしかして、本当は私、食べ物を受け付けない身体だったの?」
「いや。ただ、基本は生まれた世界の食べ物に限られる。食べられないわけではないから、ゆっくりと身体を慣らしながら、移動した先の食べ物に慣れていく必要がある」
 何かを誤魔化しているように聞こえた。ウェスがあれほど怒るのだ、その程度のわけがない。
 半身として覚醒したせいだろうか、今までであれば聞き流せていたことに妙な引っかかりを覚える。

「それは、天哉の精を受けた後の話でしょ。それまでは?」
「私の血の結晶が力に変えていた」
 苦いものをのみ込んだような表情と声。

「もしかして、最初まで巻き戻されたのは、生まれた瞬間まで巻き戻されたのは、今の私が初めてなの?」
 それまで以上に歪んだ表情が答えだ。

 どの段階まで巻き戻されていたのか、そこまでは聞いていなかった。
 今の私が第三世界に連れてこられた意味。真っ新な身体。取り戻した色。彼が第三世界にただ存在しているわけではなく私と同じように成長している理由。

「今の私が、──」
 言葉にならなかった。怖くて言葉にできない。

 今の私が、最後の私。

「そうだ。それで覚醒できなければ、優羽を諦めるようゼノらに請われていた」
 震えだした身体が知らぬうちに手を伸ばす。当たり前に包み込まれたその体温が、奇蹟だと知った。