大地の記憶
32 semi-Septimus et Tertius 現実—Actuality「やっとかぁ。もー、遅いよ。なんでこっちがひやひやしなきゃなんないの?」
ウェスのむすっとした声にまで、自然と笑顔を返してしまう。今は何を言われても平気。
第七として覚醒し、天哉の半身としても覚醒した私に投げかけられたのは、心配と怒りと呆れと、ほかにもたくさんの複雑な感情を含んだ、「とにかくおめでとう?」という、なぜか疑問形の言葉だった。
おまけに、「なんで毎回この部屋に呼びつけるの?」という、疑問形なのにふんだんに怒りを含んだ言葉まで頂戴した。事後の痕跡などまるでない、洗濯も掃除も済ませた、さわやかな光に溢れた昼前だというのに。
とりあえず天哉がそれをさらっと無視したので、私も右に倣った。
どうやら、かつての第五、今は第五世界の一部となっている男が足掻いていたらしい。もう少し遅ければ、その男が第五世界そのものに戻る可能性もあったと聞いて、それを拒んだ第七世界の後押しで覚醒できたこともわかった。
第七世界から戻ってきたときに、妙に身体が熱っていたのは、強制的に発情させられていたというわけだ。天哉が本当に私の意思なのかを確認していたのは、それが原因らしい。
後押しがあったにせよ、私の意思であるのは間違いない。
第七世界はかつてないことになっている。これまで嬲られ続けてきた第七たちの意思が降り積もり、世界を動かす原動力になっている。
その事実だけでも、第七世界が歪んでしまっているとわかる。世界が意思を持とうとするなんて、どれほど危ういことかは言われなくともわかる。
私は、その第七たちの意思を取り込み、それを昇華させていかなければならない。それには天哉の半身として目覚める必要もあった。ただの第七のままでは、昇華させるどころか取り込まれて終わりだ。
「これで、統合もスムーズにいくだろうし、あの男は自然消滅するだろうから、優羽は統合が終わるまで第五世界と第六世界には接触しないようにね」
本来なら第八と第六世界にしか行けない私も、今なら統合されつつある第五世界にも行けるらしい。
「第七世界はいいの?」
「新たな世界は第七世界を基に作られる。そこに、第五世界を混ぜていく」
その天哉の声にウェスが頷いている。幼児が小難しい顔をしながらわかったふうに頷いている様は、ちょっと見、ものすごく違和感がある。
「そこに棲んでいるものたちは?」
「なんとなくいつの間にか第七世界にいるって感じになる。世界が変わったことにも気付かないはず。そこで子孫を残しながら淘汰され、その子孫たちが進化して新たな生きものに変わる」
「いきなり絶滅するってわけじゃないんだ」
ウェスの説明にほっと胸を撫で下ろせば、そのウェスは唇をとがらせ、至極嫌そうな顔をした。
「優羽が望んだからでしょ。本当は完全に絶滅させた後で第四世界と淵源の扉を開く方が簡単なのに」
拗ねたような口調でそう言い残し、ぷいっとそっぽを向きながら消えた。
望んだつもりはなかったけれど、確かにいきなり絶滅はどうなのかとずっと思っていた。
第四世界は始まりの森だ。
あらゆる世界の始まりが存在している。第四世界だけは、一方向にしか扉は開かない。第四世界から別の世界には行けても、別の世界から第四世界には行けない。唯一出入りできるのは、第一であるウェスと第二であるローラ、そして天哉だけだ。
これを知るものは、そこに私とゼノを含めてたった五つの存在だけ。私が知らされているのは、今にして思えば天哉の半身だからだろう。ゼノが知らされているのと同じだ。
元第一世界は始まりの海。
元第一世界に棲むものは、始まりの海を守るものたちだった。今はもうその役割を終え、その痕跡は第八世界のパラディススにある淵源にしか残されていない。今でも新たな命を大量に生み出す必要がある場合は、淵源の底にある扉が開かれる。一時、元始に戻された第九世界にも開かれていた。
「悪いことしたかな」
「第一が面倒なだけだ。気にするな」
相変わらず無情だ。
「ねえ、天哉は第七世界が望んだから、私を……好きになったの?」
ウェスの説明に不安になった。第七世界の後押しで覚醒したとはいえ、そこには間違いなく私の意思があった。けれど、彼の場合は無意識下で世界に応えてしまう。
「それはない。そもそも最初の時点で優羽が望んだのは私ではない」
それこそ、それはないと否定しようとして口を噤んだ。彼の表情は凪いでいる。ここは黙って聞くべきだと、むずむずする口を真一文字に結んだ。
今の私には、かつての私の記憶はない。全て「今の私だったら」という想像にすぎない。
「あの時点では、第七を救い、生涯寄り添ってくれる相手であればよかったんだ。まだその時点での願いはその程度だった」
第七世界と繋がっているこの部屋のソファーは、三人掛けだけれどこの家のリビングのソファーに比べると小ぶりだ。そこに私たちが並んで座り、呼び出されたゼノとウェスは椅子に座らされたのだから、ウェスが怒るのもわかる気がした。
「私も、最初は単なる興味だった。私を目覚めさせるほどの何があるのかと」
単なる興味。その言葉に少なからざるショックを受けるのは、それだけ彼に思いを寄せているからだろう。思わず隣に座る彼の手に、自分の手を重ね指を絡めた。強すぎない力でしっかりと握り返してくれたことにショックが和らぐ。
「初めは、第七自身で相手を定め、そのものの手を取ればいいと思っていた」
彼の口から、彼の声で、繋がる手に視線を落としながら紡がれた言葉は悲しさを連れてくる。慰めるかのように、頭の天辺に唇が落ちた。顔を上げれば、唇にも落としてくれる。
「けれど、何度時を巻き戻しても、救いの手が差し伸べられても、第七はその手を取らなかった」
「もしかして、それってその場限りの救いだったからじゃない?」
「そうかもな。ゼノの手すら拒んだ」
たとえその場限りであったとしても、救おうとしてくれた存在がいたことが嬉しかった。けれど、きっと私が望んだのはその場限りの救いじゃない。それは私の意思だったのか、世界の意思だったのか。私の意思だと信じたい。
「巻き戻される度に第七の願いは強くなっていった。私が手を差し伸べることができるほどに」
「いつからそう思ってくれた?」
「いつからだろうな。ただ一人と望むひたむきな意思が強まれば強まるほど、私が救い出したいと思うようになった。私のただ一人となってくれないだろうかと」
散々したのに、また欲しくなるのはどうしてだろう。心も身体も、彼だけが欲しくて仕方がない。
「正直に言えば、世界に応えたかどうかはわからない。だが、優羽は間違いなく私の半身として覚醒している。それが答えだと思っている」
きっとそれは、私が知るこれまでの半身たちとは違うのだろう。彼の隣に並び立つものがただの半身であるはずがない。
それでも私は、そばにいたいと願う。たとえこの身が滅んだとしても、その終わりまで彼のそばにいたい。最後があるのかすらわからない、遙かなる存在に寄り添いたい。
できれば第五にもそんな存在が現れてほしいと願うのは、私のわがままだろうか。
教室に入った瞬間、ざわめきが起きた。
クラス中の視線が集中する。それに引きつりそうな頬をなんとか堪え、なんとか笑みをつくり久しぶりの挨拶を返しながら足早に自分の席に着く。
「とりあえず、病気が治ったって言ってある」
ひそめられた祐夏の声に小さく頷きを返す。
事前に祐夏には連絡していたものの、ここまで注目されるとは思わなかった。気持ちはわからなくもないけれど。
祐夏の機転で病弱だったその根本治療が成功したことになっている。ひと月休んでいたのはそのせいだと勝手に解釈され、実際にそれまでとは違って今の私は健康そのものに見えるのだから、納得してもらえるだろう。
「こないだ行ったときもずいぶん顔色いいなぁって思ってたんだけど、明らかに健康になった感じがする」
「自分でもそう思う。今まで生きてきて、こんなに顔色いいの初めて」
「だよね。顔だけじゃなく、首や手足の血色もいいから、メイクじゃないってわかるし。めちゃめちゃ美人になった」
本当に、自分でも惚れ惚れとするくらい血色がいい。毎日見飽きていた青白い顔はどこ? というくらい健康的に見える。最初に天哉の精を受けた時にも、ほんのりと頬が薄紅に染まって感動したけれど、覚醒した後はその比じゃない。何より、第三世界でも身体が軽い。
天哉やゼノたちが人として完璧な姿を持つように、私やひかりさんもそれなりに整った姿形を持つ。今まで顔色が悪く、絵に描いたような病弱さだったおかげでそこまで前面に出ていたわけではないけれど、覚醒した途端、自分でも驚くほどその姿が整っていることを思い知った。
「私ってこんな顔だったんだぁって、自分でもびっくりした」
「わかる。今私が思っているのもまさにそれ。優羽ってそんな顔だったんだぁって」
祐夏が面白いものでも見付けたかのように目をきらきらさせながら、じっと人の顔を観察している。気持ちはわかる。私もずっと鏡から目が離せなかった。
クラス中からちらちら盗み見られているのもわかる。以前より存在感も増しているので、今までまるで気にならなかったクラスメイトが急に気になって仕方がなくなっているのだろう。
天哉の家の洗面所は壁の一面が鏡張りになっている。そこで羽を広げてみては、白を縁取る黒の美しさに我ながらうっとりしたものだ。天哉に見付かると「誘ってるのか」とエロボイスでからかわれるので、こっそり広げては、にまにましながら羽を動かしていた。やってみればイメージするだけで自在に動かせる。
ただ、本当に残念なことに、それ以外に覚醒したという実感がない。
第八であるひかりさんが覚醒の条件を知らずとも覚醒していた理由がわかった。覚醒しても今までと何も変わらない。多少コマンドが使いやすくなったくらいだ。とはいっても、私は今までコマンドの制御すらできていない落ちこぼれなので、羽を現すことと隠すこと、広げることくらいしかできない。
お昼休み、購買に行こうとする祐夏を引き留めた。
「プリンのお礼」
そう言って手渡したお弁当。作ったのは母だけれど。
「うっそ。おばさんのお弁当? やった!」
「今週は祐夏の分も作ってくれるって」
「マジで? おばさまにお礼言っとこ」
目を輝かせ、素早く携帯電話に文字を打ち込んでいく。おばさまって……相当嬉しいらしい。
「うわぁ、リクエストも受け付けてくれるって! どうしよう、ひと口ハンバーグかな、やっぱり」
「好きだよね、それ」
「あ、そういえば最初につまみ食いしたのがハンバーグだっけ」
「自分でしといて忘れないでよ」
ハンバーグと、卵焼きと、それから何にしよう……あ、アスパラベーコン! 唐揚げも! ひじきも切り干しも捨てがたい……。ぶつぶつ呟きながら文字を打ち込んでいる祐夏は本当に嬉しそうだ。
プリンのお礼は何にしようかと悩んでいたら、母がお弁当を提案してくれた。
「ねえ、夢ってなんだと思う?」
「寝てるときに見る夢? 深層心理だかなんだかって言われてるよね」
「変な夢ばっかり見るんだけど」
「変な夢見るのって、不安とかがあるからなんじゃないの? 私もよくわかんないけど」
幸せそうにお弁当を口にする祐夏を見ていると、こっちまで幸せになる。同じお弁当を食べているだけなのに、いつもよりおいしく感じる。
「夢ってさ、この世界の記憶だと思う?」
「地球の記憶ってこと? あーなんだっけ、そんな説も聞いたことあるようなないような」
「かつての記憶とか、この先の記憶かもしれないって思う?」
「過去の記憶は納得できるけど、未来の記憶はどうかな。それだと未来は定まってるってことになるよね」
「今が現実かどうかってどうやってわかるの?」
「なんだっけそれ。そんな映画かなんかあったよね。なに? 夢と現実の区別がつかない感じ?」
「区別はついてるんだけど、どこまでが今の自分か、本当の自分かがわからなくなりそうで」
お弁当を食べながらの会話は、つらつら続く。
「んー……なんかそういう時ってあるよね。結局どれも自分でどれも現実なんだろうけど、でもなんかわかんなくなるっていうか。心許ない感じ?」
「やっぱり不安なのかな」
「でもさ、それを言ったら生きていること全部が不安だよね。これが現実かどうかなんて、誰にもわからないもん。痛いから現実とかって言うけど、夢でも痛いことあるし」
「祐夏も?」
「あ、優羽も? 夢ん中で痛いのって結構くるよね。こないだ知らない人に思いっきり腕掴まれた夢見て、ぎゃーって叫びながら飛び起きた。心臓痛いし、冷や汗かくし、なんか怖くて寝れなくなるし、もう本当最悪」
「そっか、祐夏もかぁ。なんかちょっと安心した」
「そ? それはよかった」
そう言いながら、人のお弁当からミートボールをひとつつまんだ。
「なんで! 自分のお弁当にも入ってるでしょ!」
「優羽のお弁当つまむからおいしいんだよ。これまた現実」
なんて嫌な現実だ。仕返しにと祐夏のお弁当からミートボールをつまんだら、確かにどうしてかおいしく感じた。「でしょ?」と得意げな顔で笑うのはやめて。