大地の記憶
31 semi-Septimus 阿吽—ΑΩ放課後の教室。
男女入り乱れる空間に、ふと何かが足りないような気がして隣の席に目を向ける。
「優羽、帰るよ」
「あ、うん。ねえ、たまには友達と遊んだりしなくていいの?」
「優羽と一緒にいる方がいいに決まってるだろ。優羽だって一秒でも俺と一緒にいたいだろ?」
私の気持ちが真っ直ぐ自分に向けられていると信じて疑わない。一度たりとも私の気持ちを確かめたこともない。まるで生まれたときから一緒にいるのが当たり前だとばかりに振る舞われる。
確かに彼は私の半身で、決して彼のことを嫌っているわけじゃない。
ただ、言い知れない違和感を抱く。気付けばいつも心が渇いている。
誰かを好きになるとはこういうことなのか。もっとこう、自分が自分じゃなくなるような、そんな不安を抱いたりはしないのだろうか。
学校帰り。
見上げた空は今日も遠い。
天上に伸ばした手は、遙かな何かを掴むことなく、隣を歩く彼に取られて下ろされた。渇いた心がかさかさと音を立てて散らばっていく。
並んで歩けば当たり前のように手を繋がれる。男の子にしては白く透き通るような滑らかな肌。その感触は嫌いじゃない。嫌いじゃないのに、いつまでたっても馴染めない。
「ああ、そうだ。数学でわかんないとこがあったんだ。ちょっと寄ってかない?」
学校からの帰り道、彼の家に先に着く。私の家はその三軒先。
いつもの歩調。いつもの会話。授業でわからないところがあると互いに教え合うのもいつものこと。
ふわっと漂ったのはなんの花の香りだったか……。
優しい両親。子供の頃からずっと一緒にいる彼。穏やかな日常。一欠片の不満もない愛おしい日々。
その中に紛れる些細な違和感。常に感じている喪失感。それが私に不安と疑問を抱かせる。
ブルー系で調えられた彼の部屋。
何かが違うと来るたびに目をこらし見渡しても、その違和感の正体は掴めない。
ひとしきり復習を終えると、水色に染まるベッドに押し倒された。
「そろそろいいだろう? もう優羽も十七になったんだし。第一覚醒はしてもいい頃だよね」
その言葉に納得しながらも、心のどこかが悲鳴を上げる。
私たちはこの世界の生きものじゃない。別の世界の生きもの。この世界に避難させてもらっている。それぞれが繋がる世界の統合が始まり、ふたつの世界は終焉を迎え、ひとつになった今は黎明の混沌の中にあるがための措置。
のしかかる身体。強烈な違和感。
私に痛みを与えるのは、本当に彼なの?
欲が浮かぶ色のない瞳に射貫かれる。戦慄く。
目の前に迫る荒い息。顔を背ける。
胸に触れる手のひらの感触。おぞましい。
違う。
違う。
違う!
自分の叫び声に飛び起きた。
「優羽」
名を呼ばれ、私が私を取り戻す。
視界が心許ない暗闇の中、聞こえた声、抱えられた腕の強さ、共鳴する鼓動、伝わる体温、吸い込む匂い、聞こえる息遣い、重なる素肌、抱きしめられている全ての感覚に違和感がない。
目覚めた瞬間、また消されたかと思った。
虚ろを抱えた心には、鬱々たる絶望が広がっていた。
「夢、見た」
背中をさする大きな手のひら。
切り取られたシーンが繋ぎ合わさったような夢。どうせなら楽しい夢が見たいのに、どうしていつも変な夢ばかり見るのか。
「私ね、ずっとわからなかったの」
「なにがだ」
耳元でゆったりと囁かれる続きを促すような静かな相槌。同時に、彼の膝の上に向かい合うように抱え直される。
私は、わからなかった。
何度も時を巻き戻されて、何度も嬲られた。記憶がないから憎しみを抱けないのか。
絶望の最深に堕とされて、何度も救われた。覚えていないから怒りが湧かないのか。
ひとつだけはっきりしていることがある。
彼を忘れることだけは嫌だ。それだけは心が拒む。
どれほど嬲られようが、何度絶望の奥底に堕とされようが、幾度巻き戻され救われても、彼を憶えていないことがなによりも耐えがたい。その喪失感に耐えられない。
暗闇の中に浮かぶ純白の煌めきを受けて、仄かに浮かび上がる漆黒。
「私ね、何があっても、もう消されたくない。どれほど歪んでも、どれほど狂っても、もう消さないで。消すくらいなら、いっそ殺して」
腕に中から睨みつけるように見上げれば、暗闇にかすかな白を反射する透明な黒の瞳が穏やかに瞬いた。
「優羽、わかるか? 優羽の羽の縁が私の色に染まっている」
広げていた羽を、手前に動かす。抱きしめられている彼をも包み込むように。いつも包み込まれていた暗黒色の羽と同じように。
目に映るその純白の羽が黒く縁取られ煌めいていた。
それは、あまりにも美しかった。
何を目にしたときよりも深い魂の震えは、心の芯を寧静に揺さぶる。
「優羽は、嬲られるより、堕とされるより、二度と私を失いたくない、そう強く希った。違うか?」
「違わない。あなたを憶えていられるのなら、どれほど嬲られようと、何度絶望に堕ちようと、きっと私は狂うことも歪むこともない」
「優羽は、第七として覚醒した。それはわかるだろう?」
頷けば、その目が愛おしむように細められた。背に回る腕に、さらに身体が引き寄せられ、乳房がその胸に押し潰される。
「同時に、私の半身としても、覚醒している」
驚きに目がこれでもかと見開かれた。
「本当?」
言われて気付いた。
合わさった鼓動が共鳴している。そうだ、飛び起きたときに鼓動が重なっていることに安堵した。
そして気付いた。
それが信じられなくて、けれど間違いじゃなくて、それでも信じられなくて、しつこく何度も確かめずにはいられない。
私の力が、彼の力を、中和している。私の力が、彼の力を──。
ああ、と声を上げながら零れ落ちた吐息は、自分の中にあった不安が全て吐き出されたかのような重さと軽さを持っていた。
これでもう彼は己を抑えなくていい。もう自分を削らなくていい。それが何よりも嬉しい。嬉しくて嬉しくて、頬が綻び涙が滲む。
「同時に覚醒するとは私も思わなかった」
さらにしっかりと抱きしめられ、耳元で囁かれた感謝の言葉。ありがとうを言うのは私の方だ。間違いなく私一人の力じゃない。
「もう、消されない?」
「とうに消せなくなっている」
もう二度と手放せない。何ものにも与えたくない。耳に吹き込まれた一縷の声は、鼓膜を震わせ、心を震わせ、私の全てを震わせた。
やっと終わった。
やっと始まる。
向かい合い、抱きしめられながら、ゆっくりと腰を落としていく。
この最初に入り込んでくるときの、覚えている形をなぞるように開かれていく感覚が堪らない。
強い刺激を与えないようになのか、ことさらゆっくりと開かれていく。
「ねえ、本当は両性だった?」
「いや。私と第一、第二は性が定まっていない」
半ばまで進んで、一度止められる。宙に浮いたように留まる腰は、しっかりと両手で掴まれたまま動きを止められた。もどかしくて中に力を入れると、ふっと息を吐くように笑われ、また少しずつ彼の形をなぞり始める。
「でも、第二は女の子だよね」
「あれは自分でそう定めたんだ」
一番奥まで届くと、軽く火花が散る。満たされた吐息が熱を孕んで零れ落ちる。気持ちよさにしがみつく。
「そうなの?」
「あれの父親らが女の子を望んでいたからだろう」
ゆっくりと揺さぶられながら、耳元で囁かれる心地いい声に酔いしれる。
しっとりとした闇に浮かぶ黒に縁取られた純白と僅かに輝きを取り戻している濃密な黒が、擦り合い、重なり合い、二人を閉じ込める。羽から伝わる微細な気持ちよさまで、背を伝い体中に広がっていく。
「じゃあ、天哉が男なのは?」
「優羽が女だからだ」
ぐりっといいところに押し込まれる。小さな火花がいくつも散った。
片手で腰を支えられ、片手で乳房をゆっくりと包み込むように揉まれる。乳房だけを捏ねるように揉まれているせいで、もどかしさからその先が一層尖る。
「ねえ、なんでこんなにゆっくり?」
「今までは精を放つことを最優先にしてきた」
だからあんなに……。思い出すと恥ずかしい。
ゆったりとした快楽は、繋がっていることをより強く意識する。身体だけじゃなく心まで気持ちいい。
けれど、今までのような勢いがない分、それまでよりずっとずっと恥ずかしい。
「あんまり見ないで」
「優羽も見ていいぞ」
そういうことじゃなくて。意地悪く笑っているのがむかつく。これ見よがしに胸の先をれろんと舐めないでほしい。うっかりしっかり見てしまい、待ち望んだ気持ちよさとともに目にも脳にも焼き付いた。
ゆるゆると動かされる腰。抱き合うように向かい合って繋がるのが初めてだからか、いつもとは感じ方が違う。奥まで届いているのに、気持ちいいのに、もどかしさが積み上げられていく。
「なんだか、いつもと違う」
「いつもとは別の場所に当たるからだろう。自分でいい場所に当たるよう、動かしてみろ」
この意地悪な顔。わざと違う場所に当てている。ただでさえいつもと違って恥ずかしいのに。
言われた通りおずおずと腰の位置を動かしてみる。自分の中の一番いい場所に彼の先が当たるよう、少しずつ腰をくねらせていく。それなのに、ここぞという場所には腰が引けて強く当てられない。もどかしさがどんどん積み重なって、泣きそうになりながら懇願する。
「天哉がして」
その瞬間、引けていた腰の奥にずんっと打ち込まれた。積み上げていたもどかしさが一気に崩れる。それだけで堕とされてしまう。
堕ちていくことがこんなにも幸せだなんて、きっと第七世界に棲むものは知らない。
いつか知ることができるだろうか。できれば知ってほしい。一人じゃない心強さを。重なる存在の安らぎを。
「あ、そういえば、こっちに泊まるって連絡してない」
身体が落ち着くまで、ただぎゅっと抱きしめてくれた。彼はまだ終わっていないのに。
「しておいた。彼女はどうしてあんなに動じないんだ? 普通、娘の外泊はいくら婚約しているとはいえ、不快に思っても応援はしないだろう」
「なんか前に年の功って言ってたよ。応援されたの?」
「された。生きているうちに孫を見せろと」
思わず身体に緊張が走る。うっかり中にいる天哉を締め付けたのか、小さく呻きをもらした。
「急にどうした」
「孫、産めるの?」
「すぐには無理だろうが、生み出せるだろう」
「本当?」
「ああ」
ぽろぽろと止めどなく零れ落ちる涙を、吸い取るように啄まれる。
自分の子供のことなんてほんの少し前までは考えたこともなかった。彼と出会って、それは無理だと知った瞬間、どうしようもなく淋しかった。
「二人が生きているうちに?」
「それは無理だな。だが、見せることも抱かせることも可能だ」
どれほど先のことなのか。けれど、彼が断言するなら可能なのだろう。
ゆったりとたゆたうような心地よさ。
ゆっくりと高まっていく気持ちよさ。
互いの肌の感触を確かめ合いながら、そこに愛おしさを染み込ませていく。
ようやく掴めた漆黒を、己の胸に抱き寄せた。