大地の記憶
30 Septimus et semi-Septimus 覚醒—Absoluteそこは、たとえようもなく色鮮やかな世界だった。
冴え冴えとした濃い青の空は、第三世界の空色よりもずっと深く鮮やかな青藍。
遙か彼方にまで数え切れないほど浮かぶ、逆さの錐体のような大地。その全ての中心には大樹がそびえ、その巨木に咲き誇る色鮮やかな花と枝もたわわに実る同じ色の果実。そのには同じ色を持つものが棲んでいるのか、ひとつの大地には大樹の葉の色と花実のふたつに彩られていた。
巨木の葉の色も様々で、緑の濃淡のほかに、黄色、オレンジ、赤など、第三世界で見る紅葉に似た色がある。そこに咲く花はそれこそ数え切れないほどあり、幹の太さがおそらくその色の生まれた歴史なのだろう。
木の枝にまるで蓑虫のようにいくつも吊り下がっているものが住居なのか、しきりに出入りしている鮮やかな羽を持つ存在が見える。アンティークのガス灯やランタンみたいな形がかわいい。
大樹は、自らが抱えている大地を覆うほどに枝を伸ばし、光り輝く透明な雫から己の大地を守っている。それぞれの色をさらに鮮やかに映す手伝いをしているプリズムのような雫は、天気雨のように絶えず降りしきり、まるで星のような煌めきを放っている。
香るのは大樹に咲く花かその蜜かその実か。甘くさわやかで心地いい。不思議なことにひとつの樹が同時に花も実もつけている。ともに鮮烈な色にもかかわらず、その匂いはかすかでさり気ない。きっと色によって香りも違うのだろう。
天哉の腕に抱えられ、完璧な遮蔽に隠されながら、浮遊する大地と同じように浮いている。
どうしても第七世界に行かなければならない。
そのわけのわからない衝動を伝えると、「行くか」の一言で、あれほど怖がっていた第七世界にあっさりやってきた。
すったもんだがあると気合いを入れて身構えていたのに、あまりにあっさりと許可されたものだから、ついその場にへたり込んでしまい逆に驚かれた。
すでに覚醒が始まっている上に彼の血を取り込んでいる私は、自由に第七世界と第三世界を行き来できるはずだということにようやく気付いた。そもそも、彼のマンションの一室が第七世界のパラディススに繋がり、そこに滞在していたのだから第七世界にいたも同義だ。
そりゃあ、あっさり許可もされる。
目の前には鱗雲のように浮かぶ逆さにしたピラミッド型の大地。そこに大樹が根を下ろし、大きく枝を広げ、風に流されるかのようにゆっくりと移動しながら浮かんでいる。
かつては繋がっていたという世界。この光景から第三世界の人たちが様々な影響を受けだろうことがわかる。ピラミッドも、ユグドラシルも、きっとこの光景が元になっている。
「きれいだけど、ちょっと派手だね」
目にも鮮やかとは、まさにこのことだろう。ほんの一瞬でどれほどの色が目に飛び込んでくるのか。まるで脳がそれを処理しきれていないようで、こめかみを襲うずきずきとした痛みに眉が寄る。
ふと足元を見下ろして、悲鳴を上げそうになった。
浮遊する大地の下にある本当の大地。おそらくこの世界の核となる大地は、一面の黒だった。それは彼が待つ透明な黒とも、吸い込まれるほどの暗黒色とも違う、濁り澱み爛れた黒。
少し降下してもらいわかったそこは、死の大地だった。
様々な色が混ざり合い、絶えず降り注ぐ雫にぬかるみ、その大地はヘドロのような色をしていた。鼻につくかすかに饐えた匂い。散らばる死骸はどろりと溶けるようにその形を崩し、そこから覗く白い骨だけがどうしてか清冽に見えた。
頭のどこかが、この世界でも骨は白いんだな、と現実逃避している。
「ここでは埋葬という概念がない。死したものは浮遊する大地から堕とされて終わりだ」
かつては罪を犯したものなども、その羽先を切られ、浮遊する大地から堕とされていたらしい。
「第七世界に棲むものが堕とされるのを怖がるのって、そのせい?」
「それ以前に、羽が傷付けばこの世界では生きてはいけない。あの大樹に咲く花がつける実やその蜜を糧とする。飛べなければ食べることもできない。堕ちるとは、飢えて死ぬことも意味する」
話ながら浮上する。饐えた匂いが鼻につく前に薄れて消えた。代わりにさわやかな匂いが漂ってきて、思わず勢いよく吸い込んだ。
「羽が傷付いた人にあの実を持っていってあげればいいんじゃないの?」
「蜜も実も、大樹から切り離された途端腐り毒となる。自らと同じ色を持つ実しか食べることもできない」
「ほかに食べ物ないの?」
そういえば、第八世界のパラディススも食べ物が限定されていると言っていた。あそこも大地が浮遊しているとも。そんなふうに感じたことは一度もないけれど。
「目の前に不自由しないだけの食料があれば、ほかを探すか? ここに棲むものたちは第三世界に棲むもののように、深く思考しない。椎茸のような菌を食べようなどとは思わないだろう」
椎茸だけじゃなくキノコ類全般が嫌いなことは、その表情からよくわかった。
「第三世界から迷い込んだものは、羽を持たないゆえに、ただ堕ちて終わる。第六世界から迷い込むものは、与えられた色鮮やかな実を毒とは知らず、喜んで口にする」
第六世界から迷い込むものは、この世界に棲むものにとって脅威でしかない。けれど、第三世界から迷い込むものから知識を得ていれば、何かが変わっただろうに。
「それで。何か、わかったか?」
静かな声に、首を横に振った。
何もわからない。来てみれば何かを感じるだろうと思ったのに、強く何かを感じることはない。あの吐きそうなほどこみ上げた衝動はなんだったのか。
遙か上空に見える一際大きな逆さ錐体が、統治の大地なのだろう。下からではどんな色を持つのかまでは見えない。
そこには近付かない彼の意図がなんとなくわかる。きっとあそこには、私にとって何もいい思い出がないのだろう。
この世界はすでに第五世界との統合が始まっている。ここに来れば、統合に反発するような何かが伝わってくるかと思っていた。
実際は、拍子抜けするほど何も感じない。
それは私がこの世界と離れかけているせいなのか、それとも、世界は統合を受け入れているのか。統合は自然の成り行きなのか。そのとき、何が淘汰されるのか。
ゆっくりと近付いて来た大地。
目の前に見える羽を持つ人たちは、その大樹に咲く花と実と同じ色をもっている。その長く艶めく髪、細く頼りない触角、煌めく瞳、意外と鋭い爪、それらが夕日のような茜色に染まっている。その肌すら薄らと茜色が滲んでいる。
本当に、エルフか妖精のようだ。
身に纏うシースドレスのような細身で薄手のワンピースも同じ茜色。足首まで隠しているのに身体のラインを隠さず、羽の邪魔にならないようその背は大きくお尻まで開いている。きっと下着は着けていない。
思わず彼に目を向ければ、その瞳にセクシーな彼女たちは映っていなかった。映っていたのは私だけ。それにほっとしてしまう心の狭さに我ながら呆れてしまう。
首に腕を回したまま、その匂いを吸い込んだ。誰とも違う、もしかしたら人とは違う独特な香り。決して嫌ではない、むしろ好きな香り。日常にある香りに紛れて今まで気付かなかった、仄かな彼だけの香り。
ふと見れば、幼子を腕に抱き、大樹の実にその小さな口を近付けさせている母の姿があった。小さな手で茜色の実を掴み、ストローのような器具を使って、幼子は必死にその果汁を飲んでいる。
どこからどう見ても我が子を慈しむ母の姿がそこにあった。
この世界でも愛されている子がいる。周りを見渡せば、そんな母の姿はたくさんあった。子をあやし、子を抱き、子に笑いかけ、子の世話をする母たちの姿。
その大地は、核となる大地に近い場所にあった。中央に生える樹もまだそれほど太くはない。
おそらく、この世界における地位はそれほど高くないものが棲んでいるのだろう。
枝を駆け回る小動物、梢を渡る鳥のような翼を持つ生きもの、浮遊する大地を駆け回るのはロバに似た生きものやキツネのような生きものも見える。
「たとえ統治者がどうであろうと、世界がどう変わろうと、あの人たちは何も知らず、ただ必死に生きているだけなんだよね」
「そうだな。それはどの世界でもそうだろう。大半はただ生きることで精一杯だ」
私だってそうだ。愛され恵まれているとはいえ、生きることに精一杯だ。たとえ他人から見ればくだらないことであっても、日々一喜一憂し、うじうじ悩み、ぐずぐず考え、ふらつきながらも足元を確かめ、頼りなくも懸命に生きている。
自分を生かす以外に、誰かを生かせるかなんて考えたこともなかった。
本当にわからない。
なにが最善なのか。
ただ、今のままでいいとはどうしても思えなかった。
「そもそも、どうして第五世界と第七世界はふたつに分かれたの?」
爪先立って彼の唇に唇を寄せる。あと少しだけ背が足りなくて、軽く跳ねるようにしてその唇を奪った。
「さあ。私はその全てを知りはするが、その全てを記憶に留めておこうとは思っていない。私が元となって生まれたものであったとしても、生まれた瞬間から私とは切り離された存在だ。私が眠りについている間に何があったかは、ゼノが知っているだろうが……どうだろうな、あれも半身以外に関心を持つ方ではない」
私の行動に驚いた顔をしながらも、緩く腕の中に囲われ、ちゃんと説明してくれる。
「天哉は肩代わりしている第五世界より、第七世界の方が詳しいよね」
彼の胸に手をつき、背伸びして見上げたまま待っていた。細められた、私だけが映るその瞳に訊かれる。ゆっくりと頷いた。
「当たり前だろう。自分の半身の世界だ、多少調べはする」
目を閉じれば、それは互いの息をのみ込むようなキスから始まった。
戻って来たのは彼のマンションの寝室。
ここから、第七世界に飛んだ。
唇を塞がれながら、服が脱がされていく。
服の上から揉まれていた胸が、直接その手のひらに包み込まれ、手のひらの温度が伝わり、指先がその形をなぞり、胸の尖りをくにっと転がすように押し潰され弾かれる。喉の奥が甘い音を立てた。
どうしようもなく興奮していた。一刻も早く欲しかった。
どうしてなのかはわからない。身体が熱って仕方がない。
キスしただけで今まで以上に自分の中がしとどに潤んでいく。
初めから彼とのキスは気持ちよかった。今は気持ちよさ以上に体中にある快楽のスイッチを次々と入れられるようで、舌がなぞる唇に背が震え、歯列をなぞられれば内股が痺れ、口蓋をなぞられると胸の先がこれでもかと尖り震える。舌が絡めばお腹の奥がひくつき、空虚を埋めてほしいと体中に伝えてくる。
同じように彼の服を脱がしているのに、どうして彼のシャツを一枚脱がせるだけで、私はすでに全裸にされているのだろう。しかも、脱がしながら肌をなぞられ、私だけが息をあげ、胸の先を尖らせ、足の間をぬめらせ滴らせている。
興味本位でそっと触れた場所は、すでに熱を持ちその質量を増していた。触れた瞬間、咎めるように手を取られる。抑えが効かない身体だと言って、彼は私がそこに触れることをやんわり拒む。うっかり、なんてことになったら困るからだと聞いてはいるけれど、この存在にうっかりなんてあるのか、とも思う。
それでも、触れた瞬間そこが小さく跳ねたのを感じた。私だけじゃないことがわかれば、一層欲しくてたまらなくなる。
ベルトを外すのに手間取り、その間に胸の先を食まれ、舌で転がされただけで身体が跳ねる。結局ベルトから手を離し、喘ぎながらその頭を抱える羽目になる。悔しくて仕返しに浅黒い耳たぶを食んだ。
「もう、ちょうだい」
とにかく欲しかった。埋めてほしかった。
恥ずかしいほどの水音を響かせて、ほんの少しの引っかかりを感じつつもあっさりとのみ込んだ彼のものが、私の中を、心を、思考をも埋め尽くし、その奥が突き上げられた瞬間、驚くほどの安堵とともに、たったそれだけで彼のもとに堕ちた。
彼のものが入り込んできた瞬間から湧き起こったかつてないほどの高揚に、四肢の先までぐっと力が入り、奥をひと突きされただけであっけなく上り詰めた。
堕ちていく瞬間に必死にしがみつくも、意思とは裏腹に体中の力が抜け落ちていく。代わりに彼がぎゅっと抱きしめてくれることに、全てを委ねて悦楽に浮遊する。
「どうした?」
「わからない。欲しくて、たくさん、欲しくて」
零れる涙はいきなり襲われた強すぎる快感のせいなのか。
ようやく落ち着きを取り戻したというのに、今堕ちたばかりだというのに、もっと欲しくて仕方がない。貪欲に、ただ、もっともっと欲しかった。
「優羽、自分の意思か?」
「わからない。でも、欲しい。天哉、お願い」
自分でも意図して、中にいる彼を締め付けた。
彼は鋭く艶めいた息を吐き出し、ゆっくりと動き出す。その動きに合わせて腰が自然と動いてしまう。
何度でも、彼のもとに堕ちていきたい。たとえヘドロのように澱んで濁った黒に染まったとしても、爛れたそこが彼の場所なのであれば喜んでその黒にまみれよう。
きっとそこは、あたたかくやわらかい。
その日、私は覚醒した。