大地の記憶
28 Tertius 願い—Prayer


 眠りの中で目が覚めた。
 その瞬間、泣き出しそうなほどの懐かしさと安堵に、大きく吐き出したつもりの息は、実際にはか細く震えながら頼りなく漂って、あっという間に闇にのまれていった。

 天哉。
 呼んで。私の名前も呼んで。

 自分の境界すらわからなくなるほどのとろけるような闇の中、心細さに耐えきれず懇願する。
 おずおずと手を伸ばせば、その指先がかすかに触れたのは、馴染み始めていた温度と感触。
 逃がさないようになのか、逃げないようになのか、自分でもよくわからないまま、その指に自分の指を必死に絡めた。たった指一本分だけでも繋がったことが、どうしようもなく嬉しかった。手を伸ばせば届くことがたとえようもなく幸せだと思えた。

──優羽。

 耳に馴染む低い声に滲んだのはなんだろう。いつもよりずっと低く重く響いて、あっという間に闇に綻んで消えた。ここは、深く思考することができない。今一番知りたいことなのに。

 逢いに来てくれてありがとう。呼んだの、すごく呼んだの。わかった?
──ああ。

 教えられていた番号は通じず、勝手に訪ねていいのかがわからず、心細さの中、全身全霊で必死にその名前を呼んだ。声に出してしまえば何かが薄れてしまいそうで、心の中で必死に叫んだ。

 あのね、私、天哉のことが好きなの。きっとずっと好きだったの。はじめから好きだったの。
──あなたは、許せるのか?
 わからない。それでも逢いたかった。

 それに対する答えはなく、繋がっている指先だけが頼りで、必死に縋った。
 ほんの少し、力が込められたような気がしたけれど、気のせいかもしれない。

 憶えてないから言えることだってわかっている。
 覚えていないからこの指に縋れるってわかっている。
 それでも、今も好きな気持ちは変わらない。恋しさはただその厚みを増しただけだった。許すも許さないも、どれほど考えても、最後にたどり着くのはただ逢いという想いだけ。
 最初に手を伸ばしたのは私だ。

 ねえ、どうして私は半身じゃなく、ただ一人を望んだんだろう。半身は唯一の存在じゃないの?
──第七世界に棲むものと第五世界に棲むものにはそもそも三倍ほどの寿命差がある。第七より第五は長く生きる。第五の半身は複数存在する。

 どうして?
──精を放つだけの第五世界の生きものより、産卵する第七世界の生きものの方が生きるための力をより多く使う。第七世界に棲むものは、双方の世界の卵を産まなければならない。その分生命を削ってしまう。

 だから、私はただ一人を望んだ。
 ずっと不思議だった。いくら代わりがきく存在であっても、半身はただ一人だと思い込んでいた。ひかりさんとのぞみさんのように。
 絶対の存在を求める意味が自分でもわからなかった。半身より強い繋がりが欲しいと願うのはどうしてなのかがわからなかった。
 半身すら代わりがきく存在。だから簡単に捨てられた。わざわざ助けずとも、新しい半身が生まれてくるのを待てばいい。

 無くした記憶の中には、きっと嬲られるよりも深い絶望がある。そんな気がした。
 私の前にも存在した第七たちは、どんな思いで生きていたのだろう。

 明日、会いに行ってもいい? 会いに行って迷惑じゃない?
──いや。私が行こう。



 目が覚めたとき、泣いていたのはどうしてだろう。
 どんな意味のある涙なのか、なんだか自分の涙ではないように思えて、よくわからなかった。



 朝食を食べ終わってひと息ついた頃、ずいぶんと早い時間に訪ねてきた天哉は、私が知る全てを両親に包み隠さず話した。

「それで、君は私たちに何を期待してるんだ?」
 いつもの一人掛けソファーに腰掛けた父の怒りをも含んだ静かな声の意味がわからず、向かいのソファーに浅く腰をおろしている母に目を向ければ、目を閉じたままじっとしていた。

「わかりません。ただ、聞いてほしかっただけなのかもしれません」
「だろうな。それで? 聞かされた私たちは、どう応えればいいんだ?」
 その父の突き放したような声に、祐夏の言葉が思い浮かんだ。
『聞かなきゃ知らないでいられるもん。知らなきゃ自分には関係ないって知らん顔できるでしょ』
 その時の祐夏の声や言い方、プリンの甘い香りまでが蘇る。

「優羽が許している以上、私たちが何を言っても仕方ないだろう」
「彼女は、まだ若い。きっとわかっていない──」
 咄嗟に隣に座る天哉に反論しようと父から視線を移したその瞬間、ぱん! と彼の頬が打たれた。

「天哉さん。女が犯される意味を軽く考えないで。たとえそういう世界であったとしても、望まない行為を強いられ、望まない子を命をかけて機械的に産まされる女を軽くみないで。その上で、それでも優羽はあなたを求めているんですよ! その覚悟を若さのせいにして見ないふりをするのはやめなさい! 覚悟が必要なのは、あなたの方でしょう! 優羽にこの先も責め続けられる覚悟を持ちなさい!」

 間にあったローテーブルの上に身を乗り出した母が、見たこともない怖い顔で天哉をきつく睨みつけている。
 不自然な姿勢のまま怒りに震え、涙を流して、私のために怒ってくれている。彼の頬を打った手は固まったかのように開かれたまま真っ赤になって震えていた。

 それなのに、咄嗟にしがみついたのは天哉の腕で、心配したのは天哉の頬で、そのことに呆然とする。
 立ち上がった父が母の肩を抱き、そっとソファーに腰掛けさせ、自分もそのすぐ横に腰をおろしたのが目の端に映っていた。
 じっと見つめているのは、彼にしがみついた自分の両手。
 ふとその腕の主に見られていることに気付き、その頬の赤みを見て、慌てて冷蔵庫に保冷剤を取りに行った。

 おしぼりを水で濡らし、小ぶりな保冷剤を包む。
 一人になった途端、自分を取り戻した。どうして彼の頬が修復されずに赤いままなのか。あえて修復しないその意図、あえて両親に話したその意味、それを考えると彼の孤独を思い知らされる。

 保冷剤を包むおしぼりが冷たい。それを持つ手は、咄嗟に母ではなく彼にしがみついた。いつの間にか両親より天哉を選んでしまっていることに複雑な気持ちになる。

 リビングに戻れば、父の声が聞こえてきた。
「──難しいな。世界など、話が大きすぎて見当もつかない。私にとって、優羽は優羽でしかなく、美羽は美羽でしかない。天哉君だって天哉君でしかないんだ」
 ぽたりぽたりと滴るような父の声を聞きながら、母と天哉に保冷剤を渡し、再び彼の横に腰をおろす。母が小さく囁いた「ありがとう」の声に後ろめたさを感じながら。彼も囁いた同じ言葉に泣きそうになりながら。

「その第五世界に生きるものが人なのだとしたら、私たちと同じ一人の人間なのだとしたら、夫婦のようにただ一人とだけ、生まれくる自分に繋がる命を育て合いたいという気持ちがあるんじゃないだろうか。ただ繁殖のためだけに目の前の女性と繋がるのを苦痛に感じる男もいるんじゃないかと思うんだ。この世界の生きものだって、人以外にも番という概念があるだろう? それは生きるものが持つ、本能とは別の願いじゃないのかと思うんだが……」
 まあ、それは私がこの世界で生きているから、そう感じるのかもしれないな、と続いた父の声は粛として聞こえた。

 第五世界と第七世界に、この第三世界の倫理観が通用するとは思わない。同じ思考を持つとも思わない。けれど、母が言っていることも、父が言っていることもわかる。それは、私がこの世界で生き、二人に育てられたからなのか。
 統合そのものがもしかしたら違うのかもしれない。枝分かれした世界だから再びひとつになればいいというのは、違うのかもしれない。もう、別れてしまった世界だ。

 不意に閃いたのは、あの手首につけられた痣の意味。第七世界は、本当はどうしたいのだろう。私とは離れかけてしまっている、私と繋がる世界。

 人は、彼に似せてつくられた。
 彼がただ一人を求めるのであれば、彼が負う万象も、彼が肩代わりしている第五世界に棲むものも、ただ一人を求めるのではないだろうか。それは、今までとは違う、進化につながる進歩なのではないだろうか。

「私は、優羽のことしか考えていませんでした。ただ、優羽のことだけを考えていた」
 天哉の声がせつなく揺れる。
「それでいいのよ。守ろうと思ったのなら、それでいいんだと思うわ」
 母の声が優しく包み込む。

 ふたりとも泣きそうに顔を歪めながら、それでも必死に笑顔を作っていた。それはきっと私のため。

「ただ、あなたはそれ以上にたくさんのものを背負ってしまっている。それを忘れてはいけないんだわ。それはとても、とっても、残酷なことなのね」
「だが、それに囚われすぎてもいけないのだろう。君は君のまま、ただ真摯に生きるしかないと私は思うよ」

 急に父と母が年を取って見えた。唐突に二人の年齢が七十に手が届こうとしていることに気付かされる。年齢を感じることなんて今までなかったのに。私は二人の孫であってもおかしくない。

 頭に浮かんだのは、ひかりさんの言葉。

「前にね、ひかりさんが言ってたの。俺たちは、ただの人なんだよって。ただそこに世界がくっついてるだけだって。それは十分重い枷だけど、普段それを意識して感じることじゃないって。心がけはするけど、それに縛られることじゃないって。天哉もでしょ。きっと私たちよりもずっと重い枷なんだろうけど、でもやっぱり、天哉は天哉だよ。今はそう思う」

 泣きそうな顔で笑うあなたを抱きしめたいと思っているのは、きっと私だけじゃない。

「天哉君、君はやっぱりこの家で暮らした方がいいんじゃないか? 毎日爺婆の説教を聞きながら、よく考えるといい。年寄りの言うことも、聞いておいて損はないぞ」
 そう言ってほほえんだ父。それに同じようにほほえみながら頷いた母。立ち上がった彼が深々と頭を下げた。