大地の記憶
26 semi-Septimus 記憶—Dream「ひっ」
自分のあげた声に飛び起きたのは、私だけじゃなく隣で眠っていた天哉もだった。
「どうした! なにがあった?」
焦ったような声と、まるで私がどこかに行ってしまうかのようにきつく掴まれた手首の痛みに、慌ただしく現実が戻って来た。どくどくと脈打つ鼓動は痛みすら伴うほど強い。それなのに身体からは血の気が引いている。荒い呼吸に嫌な汗が背を伝う。
今まで感じたことのない、言い知れない恐怖に身体が強張る。
飛び起きた暗闇の中、瞬時に彼の声が聞こえなければ自分を保てなかったかもしれない。手首から伝わってくる力と体温だけが、私をここに繋ぎ止めているかのようだった。
「誰かがコンタクトしてきた」
恐怖で声が震える。歯の根が合わずカチカチと音を立てていることが一層恐怖を煽る。
「それはない。ここには私の許可なく入り込めるものはいない」
眉間に皺を寄せつつも警戒を顕わにした天哉の言葉に間違いはない。
だとしたら、あれはなんだというのか。
まるで自分が描くキャンバスの中に入り込んだような色の洪水。自分が思い描き、実際に目に映してきた極彩色は本物ではなかったと思わせるような、脳に強烈に叩き付けられた鮮烈な力を持つ色。
「優羽、おそらく夢だ」
ほっと息をつくような声。
「夢? 私、夢は見ないよ」
「それは今まで第三世界にいたからだ。夢はその世界で生まれたものだけが見ることのできる、世界の記憶だ」
その時感じたのは、間違いなく悪寒だ。
ぞくぞくとした気味の悪い感覚が全身を舐めるように走る。肌が粟立つ。
捕まれていた腕に繋がる存在に、必死に縋りつく。
「やだ、怖い。見たくない」
あれは、私の中の何かをこじ開ける。暴かれる以上の何かを叩き付けてくる。一方的に。一切の思いやりもなく暴力的に。
「大丈夫だ。初めて見たんだ、驚いただろう」
そっと抱きしめられ、ゆっくりと耳元に吹き込まれる穏やかな声に、全身の力が抜け落ち着きを取り戻す。鼓動が緩やかにいつもの調子を取り戻し、身体に彼の体温が染み込んでくる。
初めて見たからだろうか。あんな、勝手に頭が乗っ取られたような感覚……。
ずっと夢を見てみたいと思っていた。夢は面白くて、愉快で、時々怖くて、思いがけない超展開だと聞いていた。けれど、あれはそんな生易しいものじゃない。気が狂うかと思った。
「そのうち慣れる」
背中をぽんぽんと叩かれて、叩かれるたびに脳に叩き付けられた何かが抜けていった。もう自分が何を見たのかすらわからなくなるような、記憶がおぼろに消えていく。それもまた怖かった。
自分の頭の中が自分で制御できない。あんなにはっきり見たはずの情景が、あっという間に薄れていく。一緒に自分の中にあった何かまで消えていきそうな不安に震える。
抱きしめられているあたたかさと、背中を優しく叩くゆったりとしたリズムに、忘れていた眠気が再び訪れた。
その日から毎晩、私の頭の中に流れ込んでくる色の奔流。
毎晩息をのみながら暗闇の中飛び起きる。まるで聞いていた悪夢だ。
「大丈夫だ」
飛び起きる度に、そう言って抱き寄せられ背中を慰められる。
どうあっても慣れるとは思えない。
「そんなに怖い夢か?」
なにより、彼が何も感じていないことに疑問を抱く。すごく心配はしている。けれど、その根本に対する不安を見せない。今までであれば些細なことにすら気付いて先回りしてくれていたはずなのに。
夢とはそんなに暢気なものなのだろうか。
再び眠りにつくと、夢を見ることなく朝を迎える。朝を迎える頃には自分がどんな夢を見ていたかすら曖昧だ。だから、できるだけ飛び起きた時にその夢の話をしている。覚えてる限りの景色を伝える。
それは、第七世界の景色らしい。
それが一層彼から警戒心を奪う。私は一層警戒心を募らせていく。
世界の記憶。
あの時感じたのは間違いなく悪寒だった。
「や、なん…か、へ…ん…」
「大丈夫だ、そのまま堕ちてこい」
それまで感じたことのない、小さく弾けるような快感とは違う、大きく盛り上がるようなうねりに襲われる。身体の表面で弾けていた快楽が、ただの前哨だと気付かされる。思考が霞む。
体中に力を入れ、必死にしがみつき、そのうねりに逆らおうとした瞬間、耳元で名前を呼ばれた。途端に逆らえなくなる身体は、息をのむほどのうねりにのみ込まれた。
まるで打ち上げられた花火だ。強烈な閃光は身体の芯まで大きく震わせる。いつまでも続くその余韻に身体の力が抜け落ちる。
空に打ち上げられるというより、空から地に放たれたような感覚。堕ちていくようだ。自分の全てを支えてくれる存在がなければ、恐怖すら覚える快楽。
放たれた彼の精がそれがそれまで以上の熱になって私の中に染み込んでくる。染められる。
前回の精が馴染んだ途端、またもや抱きつぶされる勢いで精を放たれる。
そんな中、腰を打ち付けられながらその近くの敏感な場所を指先で捏ねられた。いつも弾けるような快楽を与えてくれるそこは、初めて大きなうねりを連れてきた。
小さく上がっていた嬌声すらのみ込むうねり。自分が花火のように弾けてばらばらになってしまうかと思った。
「これが、覚醒?」
「そうだ。繰り返すうちに、覚醒に向かう」
息をあげているのは私だけじゃない。大きく息をつけば、覆い被さる大きな身体からも同じように吐き出された熱っぽい呼気。
確かに、これは身体だけじゃなく心を預けられないと怖い。
まだ余韻に震えている。身体がぴりぴりと放電しているかのようで、彼と触れている場所から穏やかな気持ちよさがさざ波のように広がり続けている。
ちゃんと引き戻してくれることが信じられないと、全てを解き放つことはできない。堕ちることが怖い。
「もっともっと深くなる」
「これ以上に?」
「そうだ」
耳元で囁かれる低く色を纏う少しかすれた声に、身体の奥がきゅっと期待して、さらにのみ込もうと涎を垂らす。それに彼がひくっと身体を揺らした。
ひと月ぶりに触れ合った素肌は、それまでよりもずっと恥ずかしくて、一度経験しているせいかその先を期待して、みっともないほど身体の奥を潤ませた。
「第七世界で生まれたものは、堕ちることに本能的な恐怖を覚える」
「羽を持つから?」
「そうだ」
覆い被さっていた身体が体重をかけないよう腰を動かし、ころんと横に転がった。私の中に全てが染み込んでから彼は身体を離す。私の中から彼がいなくなってしまうのが淋しい。繋がりが解かれてしまうことが虚しい。
横に転がったその腕にしっかりとつかまえられながら、その胸に頬を寄せる。しっとりと汗で湿った肌は、それまで必死だったことを教えてくれるようで嫌いじゃない。
どうして汗は簡単に流れるのに、涙は簡単には流せないのだろう。
彼もいつか、涙を流すときがくるのだろうか。
「ひっ!」
飛び起きた瞬間縋りつく。縋りつく存在があることに心の底から安堵した。
「どうした? いつもより汗がひどい」
「掴まれた」
夢の中で何かに腕を掴まれた。気持ち悪いほどの悪寒をともなった感触に、咄嗟に力一杯振り払った。
夢は感覚を伴うこともあるらしい。
初めて夢を見た日から、暇に任せてウェブサイトで色々調べた。
基本的にこの部屋で日がな一日を過ごしている私は、自習したり、スケッチしたり、自分のペースで過ごしている。
ここにも三人掛けのソファーと椅子二脚と小ぶりなテーブルが用意されたものの、テレビは顔をしかめられ却下された。
彼は彼で時々コマンドを発動させてゼノたちとやりとりでもしているのか、まず手始めに第八研究所の研究員の入れ替えが始まったと教えてくれた。
保管されていたサンプルは、全て偽物と入れ替えられたそうだ。ゼノの手足となる、組織の中でも特殊な人たちがいるらしい。
それ以外は楽しそうに私の世話をしたり、ノートブックパソコンで仕事をしている。
抱きしめられている腕の中、恐怖から気を逸らそうと彼の過保護っぷりを頭に浮かべながら、頭の中を整理していく。
「ねえ、世界の願いに応える時って、天哉は応えている意識ある?」
「いや、ない。そうじゃなければ眠りにはつけないだろう?」
やっぱり。
答えは、穂住ちゃんから来たメールの中にあった。
彼女の家が、彼女を強引に取り戻そうとしているらしい。家が決めた結婚相手と血を薄めろとの勝手な言い分に、穂住ちゃんの反発と愚痴が綴られていた。
すでに組織の庇護下にある穂住ちゃんを拉致することは難しい。とはいっても絶対ではないので、気を抜かないよう書き添えて、メールの返信をしたのは昨日のことだ。
以前彼女との会話の中で浮かんだ、世界と家の違いこそあれ、私と穂住ちゃんは同じだと思ったこと。
「第七世界が私を取り戻そうとしている可能性は?」
暗闇の中でもはっきりわかるほど目を見開いた彼は、瞬時にゼノたちを呼んだ。
二人が現れた途端、慌ててシーツを身体に巻き付ける。
闇に沈んでいた寝室が思い出したかのように煌々とした明るさに浮かび上がる。頭の片隅がゼノたちを便利扱いしている。
呼びつけられたのが明らかに事後の痕跡が残る寝室だったことにぷりぷりしているウェスに状況を話す。たかが夢だと笑っていたその顔が、掴まれた腕を見た途端強張った。
ずっと気持ち悪いと思っていた。
話しながら何気なくシーツから腕を出したそこに、夢で見たような極彩色の痣がまるで枷のように手首をぐるっと囲っていた。
あまりの不自然さに背が冷える。急に冷たい血が背中を流れていくようなぞわぞわとした悪寒。耳の後ろから冷気を吹きかけられたような薄気味悪さ。
すかさず天哉にその場所を掴まれた瞬間、気持ち悪さがすっと引いていく。その手が離れたときには、グロテスクにも見えた痣はきれいになくなっていた。
また彼から輝きを奪った。ぐっとのみ込んだ後悔に涙が滲みそうになる。
「ちょっとローラに聞いてみる」
ウェスの声が低い。子供の声とは思えない、ぞっとするほど低い声。
通称アウローラはウェスの双子の妹だ。遍在する第二世界そのものである彼女は、おそらく誰よりも全ての世界を知っている。
──いま、統合はどの程度進んでいる?
「三割ほどだ。ここのところ動きが鈍くなっているとは思っていたが……」
ゼノに応える天哉の顔が険しい。
ゼノは声を持たない。頭に直接語りかけてくる。これもウェスが第一世界に戻り、そこで覚醒すれば解消されることだ。ゼノは怒りによって第九世界を創り出したときにその代償として失ったものがいくつかある。声もそのひとつらしい。
「なるほどね。ごめん、原因は第五を解き放ったからかも。はっきりとはわからないけど、その可能性が高い」
「どういうこと?」
「あれが優羽に執着した。正しくは、優羽になる前の第七に。色を失っていくことに変態じみた執着を覚えたらしい」
幼子の口からもたらされたそれは、遠退いていたおぞましさを蘇らせようとした。
全ては、私が願ったから──。