大地の記憶
25 semi-Septimus 自尊心—Conceit天哉の運転手をしている狭霧さんは、彼が子供の頃から仕え、家から見放されている彼の味方だ。彼を育てたと言っても過言ではない。
「奇特な人だね」
「本当にできた人なんだ、狭霧は」
天哉が少し悲しそうでいて照れくさそうにしみじみ頷いているのを見ていると、狭霧さんは家族との交流がない彼にとってお父さんみたいな存在なのだろう。
彼の代わりに掃除をしたり、クリーニングに出したり、時には料理までするお母さんみたいな人でもあるらしい。どうやら彼の甲斐甲斐しさの原点は狭霧さんだ。
一見武道系で厳つく見えるのに、気配り細やかで心が広く、怒っているのを見たことがないという狭霧さんだけは、彼の家への出入りが許されている。奥さんにべた惚れらしく、そんなところも尊敬している、とやっぱり彼は照れたように笑っていた。
その狭霧さんに頼んだらしく、彼の家が見違えた。
ベッドだけがあったリビングには、豪華なソファーや大きなテレビが運び込まれ、ダイニングやキッチンにはテーブルや椅子、食器棚や冷蔵庫をはじめとした各種家電が揃っている。全てがブラック。埃が目立ちそうだが、何も言うまい。
がらんどうだった三つの部屋のうちのふたつがひと部屋に改装され、大きなベッドルームとなり、もう一部屋は物置部屋になっている。
洗面所に鎮座していた洗濯機がうちと同じものだったのには笑った。しかもこれまたブラック。わざわざ特注で作ったらしい。どのメーカーもたいして変わらないのに、「ほかの洗濯機の使い方は知らん」とふてくされていた。もはや呆れたため息しか出ない。お金持ちのやることは理解できない。
彼の学校との契約が切れ、私が第七世界に身体がある程度馴染んだタイミングで、第九世界から姉たちが来ることになっている。滞在するのはほんの三日ほどらしい。
その三日のあと、両親からは姉の記憶が抜け落ちている。
ずっと当時のままを保っていた姉の部屋は、きっと空き部屋に変わっている。姉を失った両親を直視できるか、正直わからない。虚ろを抱えた両親にどんな言葉をかければいいのか、今はわからない。そのときにならないとわからないだろう。もしかしたらわからないままかもしれない。
まずは、私が第七世界で身体を慣らすことから始める。そのためにしばらく休学することになった。
第三世界の人間として生きてきた私は、本来第七世界の生きものだ。第三世界で生きるためにこの世界に合わせた身体になっているらしく、まずは第七世界のパラディススに慣れることから始める。
パラディススと呼ばれる場所は、迷い込んだものたちの安全地帯だ。かつて全ての世界と繋がっていた第三世界は、全ての世界の要素を併せ持つ。パラディススはその第三世界に似せて作られている。
その第七世界と場を繋げられたのが寝室。ここにいるだけで、第七世界のパラディススにいることと同じだと言われたところで、何をどう見ても、ただの広々とした寝室でしかない。
部屋に入る瞬間、無意識下でコマンドの発動を感じた。発動……違う、コマンドが解除されている。
「もしかして、第三世界にいる間って、コマンドでこの世界に身体を合わせてたの?」
第八世界に行ったとき、身体全体が薄い膜のようなもので覆われているような気がしていた。おそらく生命維持的なコマンドが勝手に発動するのだろう。世界に迷い込むものたちは、だから迷い込んだ先の世界でもそれまでと同じように身体を維持できる。
「そうだ。その代わり身体を調整維持するために睡眠が多くなる。優羽もよく寝る子だろう?」
それを知っているのは、両親と天哉だけだ。私は最低でも八時間は寝ないと身体が持たない。できれば十時間は寝たい。だから、両親が旅行に行っている間、寝ずにいることはかなりの苦痛だった。
話ながら身体が妙に軽いことに気付く。まるで重力を感じなくなったかのように、体中に着いていた重りがなくなったかのように、驚くほど身体が軽い。すっごく軽い。
つい、その場で跳んでみた。天井に届くような気がしたものの、それまでとは変わらない、爪先が床から離れる程度の微妙な跳躍距離だった。天哉がくつくつ笑っている。念のためもう一回跳んでみるもその距離は変わらない。ついに声に出して笑われた。
「気持ちはわからんでもないが、かわいいな、優羽は」
明らかに馬鹿にしているのにかわいいとは何事だ。むっとしながら睨みつければ、笑いが爆発した。
笑いながらベッドに腰掛けた天哉に手招きされる。うちのリビングほど広い部屋に、黒に覆われた大きなベッドがひとつだけ。
複雑な思いを抱えながら、確かめるようにゆっくりと近寄っていく。
「一緒に、寝てもいいの?」
「嫌か?」
手を取られ、その隣に座らされる。二人の間にあった距離はなくなった。
両親が旅行に行ったあの二泊三日、その二晩だけ一緒に眠った。それ以降は同じ部屋であっても一緒に眠ることはなく、それまで同様抱きしめられたり軽いキスこそされても、素肌が触れ合うようなことはなかった。
それがずっと不安だったとは言えない。その肌が恋しいだなんて言えるわけがない。
彼の想いを知っている。そこに不安はない。けれど、触れ合わないことへの不安はずっと燻っていた。
「嫌じゃない。本当は一緒に寝たかった」
一度でも一緒に寝てしまったら、別々に寝ていることがおかしいと思えた。どうして一緒に寝ないのかと、毎晩問い詰めたくなるのをぐっと堪えていた。
「一緒に寝たら、寝るだけじゃ済まないと言っただろう。優羽の身体に私の力が馴染むまでは、できない」
俯いていたその顔が勢いよく上がる。目に飛び込んできたのは気まずそうな彼の顔。
「私の身体に飽きたからじゃないの?」
「どこでそんなこと覚えてくるんだ」
呆れたような声に目を逸らし、「色々」と、もごもご言い訳する。誰だ? どんなに好きでも身体の相性が悪いと続かないと言っていたのは。
「くだらない番組を見るのはやめなさい」
あ、両親がいない時に見ていた深夜番組だ。妙にすっきりした頭で隣を見れば、思いっきり呆れた顔をしていた。
なんだか話がズレた。
「あ、そっか。確かに天哉の精は強かった」
ふと直前の会話を思い出し、思わずぽろっと出た言葉に、呆れ顔がうっすら赤く染まった。浅黒い肌が赤らむなんて相当だ。
「女の子がそんな言葉を使うもんじゃない」
どこのおじいちゃんだ。思わず呆れれば、ふいとそっぽを向かれる。うわあ、耳まで赤い。
そういえば、彼も私が初めてだと言っていたような……。
たとえようもない衝動に、思わず隣に座る大きな身体に抱きついた。
これ、私のもの。
頭に浮かんだそれに、思わず照れる。ぐりぐりとその身体におでこを擦りつけて照れ隠しをしていたら、勢いよく身体を離された。
「やめろ、あと一週間はできないんだ」
「え、っと、中で出さなきゃいいんじゃないの?」
ぎょっとした顔。
「そういうことをどこで覚えてくるんだ!」
「普通の女子高生の会話から」
どこが普通なんだ、と頭を抱える彼の方がきっと普通じゃない。その程度の単語でそこまで狼狽えるとは。その歳まで経験がなかったことは普通なのか。
「私の、……精はそう簡単には放てない」
精、と言う時に一瞬口ごもって、片手で顔を隠しながら、もにょもにょと誤魔化すように続いた。
うわぁ、照れている。うわぁ、かわいい。思わず感動してじっと眺めていたら、おでこを指先で突かれた。がくっと頭が仰け反る。地味に痛い。
彼の精はきっと命そのものだ。それが放たれれば、何か新たなものが生み出されてしまうのだろう。そもそもあれほど強い精を普通の人間が受けたらおそらく死ぬ。なるほど、未経験だったことも納得。避妊具越しとか、そういう問題でもないのだろう。
今までどうしていたのだろう。まさか、それであの二日間抱きつぶされたとか? 今まで溜めに溜めた分を一気に解放……。そう考えたらちょっとひく。きっと違うだろうけれど。
「色々面倒なんだね、天哉も」
思わず同情してしまう。それに大きな大きなため息が返された。
「そう思うなら、少しでも早く馴染ませてくれ」
意思でなんとかできることでもないだろうに。
「それで一緒に寝て大丈夫なの?」
「耐える」
本当に堪え忍ぶように絞り出された声に、お腹を抱えて笑った。不安に思っていたのがバカみたいだ。ちゃんと訊けばよかった。
不意に隣の雰囲気が変わった。ごわつくほどの空気に、身体に力が入り、背が伸びる。
「優羽、ここで私に抱かれると、その色に私の色が混じる。本当にいいのか?」
きっと、彼の精を受け入れることと、私の存在を強めるために使われていた力が、彼そのものを受け入れるために使われ始めるのだろう。
きっちり目を見返して、しっかり頷く。透明な黒。恋い焦がれた遙かな黒。
「いい。その色が欲しい」
「私は、どの世界にも一時的にしか留まれない。その意味がわかるか?」
きっとわかっている。彼についてをはっきりと思考することはできない。その表面をなぞる程度にしかわからない。
きっと彼は、形そのものを持たない。唯一象られるのが、自らに似せて作った「人」という形だ。きっと私も、いつか自分の形を失う。
あのとろけるような闇の中、自分の境界がわからなくなるように、きっと互いが互いに触れ合わないと、互いの形を認識できなくなる。
「不安がないわけじゃないけど……ずっと一緒にいてくれるでしょ?」
「優羽、ずっとの意味を軽く考えるな」
厳しい声。けれど、変わらずそこにあるのは希求。それだけはわかる。
「それでも、私はあなたとは違って終わろうと思えば終われるんでしょ?」
そんなに傷付いた顔をしないで。ただの確認だから。あなたがいる限り、終わろうなんて思わない。
「終わらせないために、私のこと、大切にしてね」
願えば叶えてくれる。私はあなたのためにわがままになる。ちょっとは私のわがままもそこに混ぜても怒らないでほしい。きっとあなたに繋がることだけだから。
「どうして、私は目覚めたのだろうな」
そんなふうに言わないで。あなたの永遠に巻き込まれたなんて思っていない。
「うん。だから責任とる」
かすかに震えた声に、わざとらしくもおどけた声で答える。
顔を歪ませたあなたは、涙を流せない。
大丈夫、わかっている。代わりに私が流してあげる。
隣に座る大きな身体に抱きつくと、背骨が折れそうなほどきつく抱きしめ返された。