大地の記憶
23 Tertius 元—Origin


「最初からわかってたの?」
 第八世界から戻った直後、真っ先に上げた声。
 できるだけ声に感情が滲まないよう、かつての彼のように平坦な声を出したつもりだ。

「ああ」
 ねえ、目を伏せたままなのはどうして?
 それは、どっちの答え? どっちもの答え?

 最初から彼は知っていて、最初から彼女を救うつもりだった。
 それはいい。そこは私も理解できる。

 休日の昼下がり。
 今回は荷物が多いこともあり、彼らの了承を得て、自室から直接彼らの家の中に飛んだ。
 冬の陽射しが入り込む、明るくぽかぽかとあたたかい部屋で見る彼は、その明るさやあたたかさに反し、その輪郭がひどく頼りなく見えた。

「どうして、私をあの瞬間に立ち会わせたの?」
 どの瞬間か、彼ならわかるはずだ。
「必要、だったんだ」
 虚を衝かれたように一瞬口ごもった彼は、再び目を伏せ、私と同じように平坦な声で答えた。
「私は必要だったとは思えない。他人のセックスなんて、勝手に見ていいものじゃない」
「そう、だな」
 疲れさえ滲ませたかすれた声。

 否定してほしかった。必要だと言い切ってほしかった。
 装っていた冷静さが音を立てて崩れた。

「また私を消すの? また最初からやり直すの? 一体何度やり直すの? この私は本当の私なの?」
 驚いたように顔を上げた彼の目に浮かぶのはなんだろう。今は冷静に見極めることなんてできない。
 頭の中がぐちゃぐちゃだ。ちゃんと話そうと思うのに、順序立てて話せない。口を衝く言葉が感情に逆らえない。

「私をどうしたいの? あなたの相手は、のぞみさんがひかりさんの相手になったのと同じようなことなんでしょ? ただの第七が、あなたのような存在の相手にはなれない」
「知っていたのか?」
 呆然とした声に、表情に、ほっと息をつく。意図してやっていたわけじゃない。それに心の底から安堵した。
 さっきの「ああ」は私のことじゃない。

 あなたを目覚めさせたのは、あなたに手を伸ばしたのは、私。
 透明な黒から輝きを奪ったのも、私。

 私が絶望の底から己の全てを懸けて手を伸ばした。世界がそれに応えた。だから、彼が目覚めた。
 絶望にのみ込まれ、その奥底に堕ちた私の、最後に残されたたったひとつの苛烈で熾烈な希求。
 それがこの存在を目覚めさせた。

「私を覚醒させて、それからどうしようと思ってた? 私を独り立ちさせたあと、あなたはどうするつもりだった?」
「それがわかっていて、なぜ私に抱かれた?」
 咎めるような声に隠された、けれど隠しきれない希求。それをなかったことにしないでほしい。それを見たから、感じたから、だから私はあなたに抱かれた。「私がいい」と言ってくれた、その言葉に嘘はなかったから。

「わからない? 私にも覚悟はあるんだよ。お姉ちゃんやのぞみさんとは違うけど、あれほどの存在にはなれないけど、それでも最初から私が望んでいたのは第五じゃない。最初からあなただけを(こいねが)った。世界より、あなたを望んだ」

 どうしてそんなに驚くの?
 この世界の倫理観に縛られながら育った私が、初めてを捧げる意味を軽く考えないでほしい。
 そう育ってほしかったと私に言った自分の言葉を信じてほしい。私は、あなたが望む通りに育った。

「私が欲しいのは、覚醒後、新たな世界に生み出されるはずの私の半身じゃない。今目の前にいるあなただよ。たとえこの身が滅ぶとしても、それでも私が望むのは、今、苟且(かりそめ)の半身として存在している天哉だよ」

 私はきっと最初から、ただひとつの存在をずっと強く希っていた。だからきっと、私の半身であったはずの第五は私を守らなかったのだろう。当然の報いだ。

「もう消さないで。何度消されても、何度巻き戻されても、私はあなたのためにしか覚醒しない。世界のためには覚醒できない」

 目の前に呆然と佇む存在に手を伸ばす。
 私は、世界のためではなく、あなたのために覚醒する。

「今度こそ、覚醒させて」

 あなたの矛盾した行動に潜む、その醜さごと、私に染み込ませればいい。

「欲しかったんだ」
 心に染み込んでくるような静かで深い声。まるで、声が涙を流したようだ。
「私は何も望めない。応えることしかできない。あなたに、優羽に望んでもらわなければ、私はあなたの半身にはなれない」

 あんなに堂々と「半身だ」と言い切っていたのに。
 割り切っていられたのは、きっと名前を呼ぶまで。

 私がここに生きるあなたを知れば知るほど逃れられず囚われたように、あなたもここに生きる私を知れば知るほど諦めることができなくなった。そう思ってもいいだろうか。

 伸ばした指先が黒いシャツに届き、その先の体温に触れる。
 この腕に囚われたい。
 掻き抱かれた腕の中、これほど強く望んでおきながら、私が覚醒したあとで自分の存在を消そうとするなんて、バカじゃないかと思う。
 残された私が心に虚ろを抱え、再び歪むとは思わないのだろうか。
 この人は、私のことはよくわかるのに、そこに自分が絡むと途端にわからなくなる。本当に、馬鹿馬鹿しいほど人と同じで臆病だ。

「天哉の存在はそんなに軽くない。何度消されても忘れられない。きっと私はあなたを求めてまた歪む」

 たとえ彼の半身として覚醒できたとしても、きっとこの存在の子供を生み出すことはできない。
 本来の姿と並び立つことすらできないかもしれない。
 新たな生命の誕生に立ち会わせたのは、私に望んでほしかったから。彼の子供を望んでほしかったから。
 のぞみさんの覚悟を見せたのは、私にも同じ覚悟が必要だから。
 それでも、新たな生命を授かれるかはわからない。それほど彼の存在は遠い。

 彼の存在は生み出されたものではない。(はじめ)からそこに在ったものだ。
 世界を生み出し、その世界に応え、それなのに自分の望みに応えてくれるものはいない。

「いつから知っていた?」
「わからない。最初から気付いていたのかもしれない。さっきあの二人を見ていて、あの二人の存在の意味を考えて、そしたら、頭の中が整理されたような気になって……。今勢いで話ながら、自分でもやっとはっきりわかったって感じがする」

 呆れ混じりのため息に愛おしさが含まれていると思うのは、さすがに図々しいかもしれない。

「本当にわかっていて、私に抱かれたのか?」
「そこはちゃんと覚悟した。ちゃんとわかってる」
「その色を……()くすことになるんだぞ」
 抱きしめているその腕の力が強まる。それに心の底から安堵する。ここでほんの少しでも力を抜かれたら、身体を離されたら、きっと立ち直れない。ほんの少しでも戸惑いを見せられたなら、私はもう手を伸ばせない。

 私を再び黒に染めてしまう覚悟を彼はちゃんとしている。その上で、私が望んだから、私を抱いた。
 いつか私が全てを望んでくれはしないかと、ただ、それだけを願って。私の穢れを全て引き受け続けたように。たぶん、そういうことだ。

「それでもいい」
 そうか、と聞こえた声はほんの少しだけ震えていた。

「あなたはきっと、覚醒できることを見届けたあとで、また私の時だけを巻き戻そうとしたんでしょ。でも私は世界のためには覚醒できない。あなたのためじゃなきゃ覚醒しない」
 その胸に、心臓に、唇を当てたまま囁く。私の想いが言霊になって心に染み込めばいい。

「私言ったよね、その色に染まりたいって。ちゃんとあなたの色に染まりたいって」
「どんなときも、唯一最後まで諦めなかったんだ。その色を」
 だからあなたは、私の色を取り戻してくれた。全ての穢れを自分に移し、己の透き通るような輝きを失ってまで。
 けれど、私が最後まで諦めなかったのは透明な黒。私が諦めなかったのは自分の色じゃない。欲しくてたまらなかった色は、自分だけの色じゃない。

「今でも諦められない。でも、それでも天哉と一緒にいたい。私は、のぞみさんがただひかりさんだけを望むように、ただあなただけを望むことはできない。あなたが欲しいのが一番だけど、自分の色もどこかに残しておきたい。お父さんやお母さんのことも忘れたくない。祐夏や穂住ちゃんのことも、忘れていいとは思えない。今の私を失いたくない」
「欲張りだな」
「あなたなら、叶えてくれるでしょ」
 腕の中から見上げたその黒の瞳が、ゆっくりと近付いてきた。触れ合う唇が熱を伝える。

 私は、今の私を手放さない。
 ずっと手放さなければならないと思い込んでいた。実際に何度も手放してきたはずだ。

 けれど、さっき彼自身が言っていた──私のような存在は使ってこそ。
 だから私はわがままなほど全てを願う。私の望みを全て叶えてくれようとするあなたに、あなたのことも望む。

「私ね、ずっと覚醒したくないって思ってたの。半身になんか出会いたくないって」
 抱きしめる腕が、ぴくっと不自然に動いた。ちょっと面白くなってしまう。この人は、どうして自分のことになると自信がなくなるのか。途端にわからなくなってしまうのはどうしてだろう。

「当たり前だって今ならわかる。第七世界のためには覚醒したくないし、第五世界に生まれる半身なんかには出会いたくない」
 見上げた黒が煌めいて見える。その瞳にだけは、恋い焦がれた透明な黒が残っている。

「私を、望んだからか」
「きっとね、そうだと思う。だからあなたが第五であり半身だって言った時、めちゃくちゃ反発した。それなのに心のどこかではちゃんとわかってた。第五のわけないって。この人が私の絶世絶対の存在だって」

 のぞみさんの言っていたことは本当だった。
 放課後の教室で、たった二人だけの空間に一緒にいることができたのは、彼だからだ。
 今ならわかる。本当はわかっていた。認めたくないだけで。

 それに、間違いなく最初は突き放されていた。
 彼も最初は割り切ろうとする思いの方が強かったはずだ。

「私って、自分が思うより頑固なのかもしれない。思い込みが激しいのかな」
「そうじゃなければ私など望まない。私を望むなど、生半可なことではないはずだ」

 その通りだろう。
 彼の本来の姿は、畏れが強すぎて好きになろうだなんて思えない。そんな感情が芽生えるような存在じゃない。そんな次元の話じゃない。
 それなのに、どうしようもなく惹きつけられるなんて、頭がおかしいとしか思えない。
 まあ、どうせ私は歪みきった存在だ。その歪みを彼に正されたのだから今更だ。開き直ろう。

 私があなたの希求に応える。そんな存在になる。