大地の記憶
22 Octāvus 奇蹟—Miracle「うれしい! どうしよう、すっごくうれしい! ありがとー!」
きれいにラッピングされたそれを手渡した瞬間、目を輝かせたのぞみさんは、ぱあっとその場が明るくなるような、喜びを全開にしたかのような笑顔を見せた。
そっと丁寧にラッピングを外し、それすら宝物のように大切にとっておこうとする。こんなにも喜んでもらえるとは思わなかった。母と一緒に悩みに悩んで選んだ甲斐がある。
ウサギにしようか、ヒツジにしようか、ペンギンはイメージじゃなくて、ネコがいいのか、それはもうパソコンの画面に並ぶ着ぐるみパジャマを見ながら二人であれこれ頭を悩ませた。
結局、白ネコになった。彼女には白が似合うような気がした。一度そう思ってしまえばそれ以外は考えられず、最後までパステルブルーのウサギと悩んだものの、白が勝った。首輪代わりのベルベットの赤いリボンが妙に彼女に似合うような気がした。次はウサギにする。まずは白ネコ。
ひかりさんのだらしない顔を見て、間違っていなかったことを確信する。これを着たのぞみさんは絶対にかわいい。
鏡がないせいか、しきりに「似合う?」と身体にあてながらひかりさんに訊いている彼女がすごくかわいい。
「赤いリボンが妙にエロい」
「なんで? かわいいじゃなくて?」
首を傾げるのぞみさんに、きれいな顔にゲスい表情を浮かべたひかりさんが、そのパジャマについている長く細いしっぽを触りながらゲスい笑い声までもらした。色々幻滅だ。
思わず隣を見上げれば、呆れた顔をしている。
「ほら、工具」
ひかりさんは工具一式を頼んだらしい。それこそノコギリから各種サイズのクギやネジまで。
必要なものをひかりさんにコンタクトして訊けば、真っ先にマットレスをメーカー指定で希望したらしい。さすがにそれは無理だと答えたら、舌打ちを返されたとむかついていた。
滅多に見られないむかついている様子が面白くて、思わず心の中でひかりさんを褒めちぎった。
「サンキュー」
「感謝が軽い」
むっとしている天哉に、大げさなほどの感謝の言葉をひかりさんが大笑いしながら返している。
「で、その円柱はなに?」
そう、二人の間に挟み、互いに抱きしめるようにしてなんとか持ってきた、まるでサンドバッグのような白い物体。
「マットレスだ。お前の指定したのは無理だったがウレタン系ならなんとかなるかと思って調べたらなんとかなった。通常よりさらに圧縮してあるから、使えるようになるまで時間がかかる」
マットレスだ、のあとは、たぶんひかりさんの耳に届いていない。言葉になっていない叫びを上げ、あっという間に梱包を解き、小さな家のラグの上に広げた。
代わりにのぞみさんがお礼を言っている。
彼が当たり前のように一番大きなサイズのマットレスを注文しようとしていたのを、なんとか阻止した。
この小さな家の続き間にある寝室らしきスペースは、おそらく三畳にも満たない。中央の開口部の左右に造り付けのベッドの台のようなものがあり、中央の通路はうちの廊下よりも狭い。どちらかの台に大きなマットレスを入れたら、完全に入り口が塞がる。
ちなみにひかりさんは迷いなくシングルサイズをひとつだけ頼んできたらしい。二人で寝るのにシングル、しかもひとつはないだろうと、ちょっと通りにくくなるだろうけれど勝手にセミダブルにした。
ちなみに、行ったり来たりを繰り返した。工具だけでもそれなりの荷物になり、それで一度。着ぐるみパジャマやひかりさん用のスウェット、タオル類、プリンやお菓子などでもう一度。最後にサンドバッグ。
しばらく来られなくなるだろうと大量に運んだ。
のぞみさんがしきりにお金の心配をしていたものの、天哉がしれっと「第八研究所の資金を使った」と言えば、あっさり納得した。「少しくらいもらってもいいよね」と、眉を顰めながらひかりさんにこそっと耳打ちしている。その仕草が本当にかわいくて、ひかりさんじゃないけれどぎゅっと抱きしめたくなった。
揃って小さなテーブルに着くと、二人から改めてお礼を言われた。
「で? しばらく来られないって、なんかすんの?」
「優羽を覚醒させるのに時間がかかる」
「あー……なあ、俺ってどうやって覚醒したの?」
まさか、覚醒の方法も知らずに覚醒していたとは思わなかった。驚きながら隣を見ると、なんともいえない顔をしている。
「半身を得ると、おのずと覚醒する」
上手い言い方で逃げた。少し前なら容赦なく「交わりだ」とか言っていただろうに、彼の中で何が変わったのか。
「半身って、のぞみって俺の半身なの? 番じゃなくて? 俺にも半身っているの?」
「当たり前だろう。お前は第八だろうが」
「俺、自分には半身っていないのかと思ってた」
どこか呆然とした声に、言外に「世界に生み出された存在ではない」という呪縛のようなものが未だ彼に残っていることに気付いた。
「のぞみさんって、最初から半身だったの?」
「違う。こいつが半身にしたんだ。こいつにしかできなかっただろうな。ゼノらも驚いていた」
ひかりさんは自分のことなのにわけがわからないという顔をしている。
「お前が唯一心を預けた存在だからだ。後にも先にも彼女だけだと、己に強く誓っただろう?」
「それって当たり前じゃないの? 俺、のぞみ以外いらないし」
至極当然のように返す。それがどれほど異常か、きっと彼にはわからないのだろう。
ただ一人以外何もいらない。それは、かなり歪だ。
私は、天哉以外を選ぶことはないと断言できるけれど、両親だって友人だって必要だと思っているし、実際に必要としている。この先天哉と生きていく上でも、それまで生きてきた過程で関わってきた彼らを切り捨てることはできない。
そのひかりさんの歪みにのぞみさんも応えた。彼女もひかりさん以外はいらないと誓っている。
ひとつの歪みだけでは、きっとただの歪みにしかならない。
けれど、その歪みが寸分の狂いなくふたつ重なると、それは歪みではなくなるのだろう。だから、この第八世界は穏やかな遷移を迎える。
それは、間違いなく奇蹟だ。
第八世界は、ある意味孤立した世界だ。唯一双方繋がっているのは第三世界だけで、第七世界とも第九世界とも一方的な繋がりしかない。
第七世界から迷い込むものはいれど、両性であるがために女しか受け入れない第七世界にこの世界から迷い込むものはいない。
第九世界から迷い込めるものは、この先生まれるものだけ。第九世界は神喰いの末裔だけが迷い込む世界だ。業から逃れられない神喰い人の末裔たちは、第三世界か第九世界にしか存在できない。
唯一繋がりのある第三世界は、ひかりさんが意図して完全に扉を閉じている限り、迷い込めるものはいない。
迷い込んだままのものもいる。けれど、迷い込んで戻ってくるものもいる。そういうものが世界を進歩させる鍵となることが多い。
その第八世界が遷移期を迎えられたのは、ひとえにのぞみさんの存在があるからだ。彼女がいたから、ひかりさんは完全体になった。
世界に繋がっているわけでもなければ、神喰い人の末裔でもない、それこそ第三世界に生きる只人だったのぞみさんが、全ての要。
進化とはこういうことなのかと、なんとなくわかったような気がした。
溶けないうちにとアイスを揃って口にしながら、のぞみさんはマットレスの存在にはしゃいでいるひかりさんを愛おしそうに眺めている。まさしく女神のような存在。今は第八世界の一部となった、けれどそれだけではない、輝ける存在。
姉もすごいと思ったけれど、のぞみさんもすごい存在だ。きっと本人にその自覚はないだろうけれど。
アイスを食べ終わったタイミングで天哉が口を開いた。
「第九を第三世界に呼ぶことになった。その間、あの研究者夫妻をこっちに寄越す。彼女の出産に立ち会ってもらえ」
「薫ちゃんの奥さんって確か医者だっけ? えー……薫ちゃんはいらない。薫ちゃんサンプル集めに下に降りそう。最悪俺たちの卵持ち帰りそう」
ひかりさんがそれはもう嫌そうに顔を歪める。その研究者と仲がいいのかと思いきや、そうでもないのか。
のぞみさんに、「薫ちゃん、本気のマッドなんだよ。本気で容赦ないんだ」と念を押しているあたり、仲がいい云々よりも、研究者の方に問題があるのだろう。なにせ神喰いするような人だ。あの組織の研究員は大概頭がおかしい。
「第八から第九へは持ち込めないと言っておけ」
「言ったところで聞くような人じゃないんだよ。溺愛している奥さんだけをこっちに寄越すような人でもない」
完全否定。余程嫌なのだろう、ひかりさんの顔が険しい。
「だったらどうするんだ? お前一人でなんとかなるわけないだろう」
「なんとかするよ。のぞみのことを誰かに任せようとは思わない」
それに天哉が、ふむと考え込んだ。
「だったら、こっちの出産に合わせてあっちの時期を決めるつもりだったが、あっちを前倒しするか。そうすれば、少なくとも私たちは立ち会える」
「だから、立ち会わなくていいよ。二人でなんとかする」
「無理だ。彼女が生み出すのは新たな生命だ。お前の手には負えない。医療知識のあるものか、私かゼノらの手が必要になる」
「だったら、俺が医療知識を身につける」
さらに言い募ろうとした天哉の腕に触れて止める。
のぞみさんの顔にはいつの間にか覚悟が見える。きっと私と同じで気付いている。
「のぞみさんの身体は出産に耐えられないの?」
「耐えられない。彼女は第八世界の一部となったとはいえ、ただの人だ」
ぐっとひかりさんの目と口元に力が入る。睨みつけるような視線を受けて、天哉をは小さくため息をついた。
「俺は、子供よりのぞみをとる」
「そうだろうな。だが、もう遅い。第八世界は彼女の妊娠を機に遷移期に入った。どうあっても彼女は子を産む」
がたっと大きな音を立ててスツールが倒れた。立ち上がったひかりさんが、小さなテーブル越しに天哉の胸元を掴みあげた。
「お前、わかってて!」
彼の周りが激しくきらめく。強い怒りが光の粒子となって立ち上る。
その彼を落ち着かせようとしているのぞみさんは、ひかりさんとは対照的にすごく落ち着いていた。覚悟を決めた人は、こうまで落ち着いていられるものかと驚く。
「だから、私が立ち会う」
のぞみさん同様落ち着き払っている天哉。
彼ならなんとかできる。それは疑いようもない真実。ひかりさんもそれがわかるからか、彼を掴む手の力が抜けた。
「大丈夫、ひかり。私はいなくならない。ちゃんと子供も生める。大丈夫。私は最後までひかりのそばにいるから」
そう、彼女からは自分の命の危うさに気付いても、諦めない覚悟が伝わってきていた。彼女はひかりさんの最善を選ぶ。その覚悟がある。以前母が言っていた、姉にもあったという覚悟。幸せになるための覚悟が彼女にはちゃんとある。
「いざという時は、霧島くんお願いね」
なんでもないことのように笑って見せたのぞみさんは、静かに立ち上がり、ひかりさんが倒したスツールを起こし、彼の肩に手を置いてそこに座らせた。
すとんと力が抜けたように腰をおろしたひかりさんが、情けない顔で傍らに立つのぞみさんを見上げると、彼女はそれに応えるように、すっと心が澄み渡るかのような透明できれいな笑顔を見せた。まるで何も心配ないと言っているような、美しくも頼もしい笑顔。
「お前も使えるものは使え。私みたいな存在は使ってこそだ」
のぞみさんのお腹に顔を埋め抱きしめているひかりさんにかけた彼の声は、ひどく優しく、私には哀しく響いた。