大地の記憶
21 Tertius 居心地—Cozy九州旅行から帰ってきた両親を玄関で出迎えると、母はにんまりと、それはそれは面白いものを見付けたと言わんばかりの笑みを浮かべた。
「よかったわ。優羽が親不孝な娘じゃなくて」
そのわざとらしさといったらない。
天哉の携帯電話に『娘を勝手に連れ出したら、お土産に買った老舗料亭のとってもおいしい明太子、食べさせませんからね!』と文字を送ってきた怖いもの知らずのくせに。それを見た天哉が珍しく声を上げて笑っていた。
「お母さん、私が向こうに戻る時は天哉も一緒だからね」
「知ってるわよ。何言ってるの?」
何言ってるの、は母の方だ。明太子程度であの存在を釣ろうなんて。
「それより優羽、顔色がよくなったわね」
母の手のひらに頬を包み込まれ、したり顔で笑われる。もしかしてバレてる?
元々第七世界に生きるものである私は、第三世界にいるだけでそこそこ体力を使う。以前はコマンドすら垂れ流すように使い続けていたのだから、それはもう本気の虚弱体質で、顔色も悪かった。
今はコマンドの垂れ流しが止まり、おまけに天哉の精を受けたせいか、顔色が格段によくなっている。今朝鏡に映った頬がほんのりピンク色になっているのを目にして、感動のあまり泣きそうになったほどだ。
父と一緒に荷物を運んでいた天哉が様子を見に来た。揃って父がお土産を広げているというダイニングに向かう。
「天哉さん、優羽はまだ学生ですからね」
ダイニングのドアをくぐる直前、母が念押しまでした。お土産をダイニングテーブルに広げていた父の背がぴきっと固まる。しっかり聞こえたらしい。
「ああ、ご報告が遅れました。学校の方には問題なく話を通しておきましたので」
しれっと答える方もどうかしている。父は固まったまま動かない。
「で、いつまでいられるのかしら、優羽は」
低くなった母の声に父が振り返り、二人揃って彼に視線を定めた。
「彼女の姉を一度この世界に戻します。彼女たちは同時にこの世界にいられるほど小さな存在ではありません。入れ替わるように、優羽は第七世界に戻ることになります」
その天哉の声に、揃ってダイニングテーブルに着き、話を聞く姿勢になる。正面に並んで座る両親の目が真剣だ。
「戻ったら、二度と会うことはできないのか?」
「いえ。私のマンションの一室を第七世界と繋げますので、会おうと思えば会えます」
「え? そうなの?」
父に答えている天哉の声に驚いて、思わずダイニングテーブルの上にあった彼の腕を掴む。
「え、なんで?」
隣に座る彼が嬉しそうに目を細めた。それに一瞬首を傾げかけ、はっとする。
うっかり両親の前で彼の腕に触っていた。今までそんなことしたことなかったのに。そそくさと引っ込めた手を見た母がにまにましている。父は複雑そうな顔をした。間違いなくバレている。いたたまれない。
「言っただろう、第五、第七世界は統合される。第七世界と場を繋いで優羽の覚醒を促しながら、統合を進めていく」
「ごめん、統合って具体的にどうなるの?」
話の腰を折って悪いと思いつつも、実は、統合についてよくわかっていない。
平行世界が統合される場合、元は派生世界なだけあって主軸となる世界に派生した世界が重なり、それが融け合ってひとつの世界に戻っていく。それに近いものだと勝手に思っていた。
「平行世界と基本的に同じだ。平行世界とは違い、重ね合わせるまでが一苦労だが、まあ、今のところなんとかなっている」
「第六世界は?」
「特に問題ない。あそこは今ちょうど過渡期だ。扉が閉じられたところで、己の世界で糧を探せばいいだけだ」
まあ、それはそうだ。最初から第六世界に棲むものたちが自分の世界で糧を探していれば──そう思わずにはいられない。
両親は、揃って何も言わずただ耳を傾けている。そう、いつも二人はこうだった。全てが語られているわけではないのに、すんなり理解してあっさりその事実をのみ込む。それがどれだけ異常なことか、まるでわかっていなかった。
第三世界の人は、物事を複雑に考えるきらいがある。
ゼノたちの存在を神や天使のようにたとえたり、そこから悪魔のような存在を創造したり。見えていない部分をこのうえなく悪い方向に考えたり、たまたま見えているだけの部分をまるで神の啓示のように崇めたり、何かと大げさで面倒くさい方向に考える。
おかげで様々なことが複雑に伝わり、単純にそういうものと捉えることができなくなっている。
「美羽とは会えて、優羽とは会えなくなる」
不意に父がぽつりともらした。
「ええ。ただ、彼女の姉は一時しかこの世界に留まれません。今第九世界を長く離れるわけにはいきませんから」
「美羽が自分の世界に戻れば、優羽はまたこの世界に戻れるんだな」
念を押すような父の声が意外だった。母の目にも、真っ直ぐに天哉を見つめる父と同じものが浮かんでいる。
「ええ。優羽と完全に会えなくなるのは、まだ先です」
それに二人がほっと息をついた。
突如、両親とのたくさんの想い出が一気に浮かび上がり、胸に迫って言葉にならない。愛されている。私は、私が思うよりもずっと愛されている。
「優羽は美羽と違って寂しがりだから、もう少し一緒にいられるならその間に親離れしないとね」
母の声が優しく胸に響く。胸にこみ上げるものに息がつまりそうになり、嗚咽とともに涙が溢れた。父の目が優しい。
「最近は泣き虫にもなったわね。もう少し強い子にならないと」
どうしてそんなに優しいのだろう。鼻を啜れば、すかさず隣からティッシュが差し出される。
「優羽はね、見返りを求めないの。親だから当然だって甘えないのよ。あなたは本当にただ一途に私たちを求めてくれた。その想いの強さに私たちは応えたかったの。愛されて当然と思わない、あなたのそのひたむきな想いに私たちも精一杯応えたいのよ」
「たとえ優羽が向こうに戻り、私たちが優羽のことを忘れたとしても、それでも、優羽は私たちの娘だということに変わりはない。甘えることが下手でも、優羽がどれほど私たちを想ってくれているかは、お父さんもお母さんもちゃんとわかってる。だから、最後はちゃんと自分で決めて、きちんと別れを言いなさい。お父さんたちは優羽の決断を応援するから」
母の優しい声、父の穏やかな声。ずっと甘えてばかりだったのに。
止めようと思っても止まらない涙に、二人揃って目を細め愛おしむように笑う。
「もしかして、こうなるってわかってた?」
鼻声で再び渡されたティッシュを受け取りながら隣に訊けば、優しい目で頷かれた。
「たとえ何も残らずとも、お別れはちゃんとするべきなんだ。私は第三世界に心を残した優羽が欲しいわけではない」
諭すような言葉にただ黙って頷いた。
私の浅はかな考えなど、大人たちには通用しない。
本当に、委ねてしまえば、彼は最善を用意してくれる。
ただ素直に甘えていればいいとわかってはいても、そう簡単にはいかない臆病な自分が嫌になる。
「もし私がお姉ちゃんに会いたいって言ったらどうするつもりだったの?」
「会わせるつもりだが。会いたいのか?」
会いたいか否かと問われれば、会ってみたいと思う。それは興味にも似た気持ち。
第三世界か、第八世界でしか会えないだろう私たちの存在は、彼が言う通り、両親とともにこの世界で会う場合、肩代わりしているゼノたちに負担をかける。それを承知の上で会いたいと言えるほど、私は子供でもなければ無情でもないつもりだ。
「訊いてみただけ」
「気が変わったらちゃんと言え。ゼノらが呻くだけだ」
無情はここにいた。
「あと、第八世界にもう一回行きたいの。ひかりさんに必要なもの訊いてもらっていい?」
「そうだな、優羽が覚醒するまではしばらく行けなくなるだろうから、近いうちに行くか」
どこか嬉しそうな声がふわっと軽やかに少し下から浮き上がってきた。
明かりが消えた暗闇の中、ベッドに横たわる私と、ラグの上に敷かれた布団に横たわる彼。
この先はもうずっと一緒に寝るものだとばかり思っていたら、「節度ある交際を」と真面目な顔で諭された。人を抱きつぶし、さらにその翌日も抱きつぶし、至極嬉しそうに世話を焼いていた人のセリフだとは思えない。
「天哉は高校のとき、ひかりさんと仲良かったの?」
「悪くはなかった。小さな町に、小さな学校、誰もが顔見知りの集落だった」
「どうしてその田舎の高校に?」
「そこに霧の、忘れ去られたような別荘があったんだ。子供の頃、喧噪に疲れるとよくそこに逃げ込んだ。静かでいいところだった」
懐かしむような声が暗闇に融ける。
その霧の別荘に休みのたびに通い、いつの間にか周りの子供たちに認知され、同じ学校に通っていないながらも、まるで幼馴染みのように馴染んでいたらしい。
本家の人間が通う有名な進学校へは進まず、その田舎の高校に進んだ彼は、その時点で家族から見放された。
「だって、わざとでしょ? その高校選んだの」
「まあな。あれのそばは何気に居心地がよかったんだ」
それはわかる。彼らだけじゃなく、二人が暮らすあの小さな家の居心地もすごくいい。
「そばにいればあれの不安定な部分を調えることぐらいはしてやれた」
その優しさは義務からか、それとも……。
「同じような存在だからだろうな、気が許せた」
友達だからか。そうじゃなければ放っておいただろう。
第八世界は今、たとえ穏やかであっても遷移を迎える必要などなかったはずだ。それでも彼を完全体にしたのは、きっと二人揃って強く願ったのだろう。世界がそれに応え、それに彼が応えた。
きっと私にも、応えてくれた。