大地の記憶
19 Tertius 黒白—Dual小さな天使のような悪魔が残していった微妙な空気は、二人の間でぱちんと弾けて飛び散った。
両親がいない。二人っきり。意識するなと言う方が無理だ。
会話が上滑りしている夕食を終え、彼がお風呂に入っている間、悶々と考える。
やっぱり、まだ、なのだろうか。
待たせているという自覚はある。同じ部屋で寝起きしているこの状況で、それはひとえに彼の忍耐力によるものだということもわかっている。
彼の家に引っ越すことを決めたときに一度は覚悟したことだ。
「優羽、風呂いいぞ」
それまでパジャマを着ていなかったらしく、うちに来て着るようになったパジャマもやっぱり黒い。
お風呂に浸かりながら考えるのは、自分の色に関すること。
今日、久しぶりにゼノたちに会って思い出した。
私の白は、彼が与えてくれたもの。大切にしろと言われた色。
なんの話だったか、その中で祐夏に訊いた。彼女は時に意図せず真実を紡ぐ。
「ねえ、たとえば虹色を持っていたとするでしょ、その色を失ったら何色になると思う?」
「単純に色をなくすってこと? 透明じゃないの? そうじゃなきゃ、灰色かな」
「灰色? グレーってこと? 白じゃなくて?」
「白じゃないでしょ。ほら、色んな色の光を集めると白になるでしょ、色んな色を混ぜると黒になるっていわれているのと同じように」
第七は全ての色を持って生まれた。
私は極彩色や虹色を想像していた。けれど、そうじゃなかったとしたら。失ったはずの色を取り戻していたのだとしたら。もしくはそれ以上の。
私たちは、たとえ失われたとしてもいくらでも代わりは生み出される、その程度の存在だ。世界が必要とする限り次々と生み出される、代わりがきく存在。
今回、ゼノたちの望みがあったとしても、必要であれば代わりはすぐに生み出されたはずだ。
それなのに、どうして──。
訊いてみたい。訊くのは怖い。けれど、訊いてみたい。
ゼノたちがわざわざ姿を見せた意味を深く考えすぎているのかもしれない。けれど、間違いなく意味はある。きっとここで決断しないと先はない。
頭の中にたくさんの真実の欠片が浮遊し、渦巻いている。
何が最善なのかがわからない。
ただ、自分の中にある強い想いに突き動かされているだけかもしれない。
大丈夫。きっと後悔しない。
お湯の中で揺らめいて見える肌の色は、元の色もあってか日本人にしては白い。湯に温まって仄かに色付いた肌は、きれいな薄紅だ。シミどころかホクロひとつない肌。こんなにきれいな身体にしてくれたのは、ほかでもないあの人。
いつもよりも丁寧に髪と身体を洗う。
「一緒に、寝てもいい?」
明かりが消えた部屋の中、青白い月がカーテンの隙間から仄かな筋明かりを落としている。
ベッドに腰掛け、注意深く様子を窺う。落ち着こうとする心とは裏腹に、聞こえてしまいそうなほど大袈裟に大きな音を立てている心臓が痛い。
息をのむような気配。布団に横になろうとした大きな黒い影は、身体の動きを中途半端な姿勢のまま止めた。
「優羽、あの空間と違って、この身体は思った以上に抑えが利かないんだ。ただ一緒に寝るだけでは済まない」
ゆっくりと身体を起こした影が布団の上に留まったまま、ほんの少しの苦みを含んだ声を返してきた。
「それでも、一緒がいい」
着ぐるみパジャマのボタンを外す。
ヒツジの皮を脱ぎ捨て、ショーツとキャミソールだけになる。せめてもと一番大人っぽいものを選んだ。ブラはつけていない。いきなり裸になる勇気はなくて、それでもブラをつけないことが私なりの勇気。
「まるで羽化だな」
その言葉と同時に、本来の色が戻ってきた。背にある羽がゆっくり広がっていくのがはっきりとわかる。どうやってもわからなかった感覚が明確な意思によって広がっていく。
暗闇に浮かび上がる、真っ白な身体と目の端に映るかすかな光を放つ純白の羽。
羽を見せるのは求愛。
ベッドに腰掛けた私のすぐ目の前には、膝立ちになった彼の顔。いつもより近い距離なのに、暗闇の中、その表情はこの距離でもわかりにくい。
きっと拒まれない。わかってはいても、とてつもない勇気が必要だ。
「本当に、私でいい?」
言葉に込めた想いは、きっと正確に伝わる。
「私は優羽がいいんだ。愛されるなら優羽がいい」
その言葉に嘘はない。それだけは真実。
戸惑いを隠さない唇が、一瞬だけ触れて離れた。まるで覚悟を問われているかのようで、自分から唇を重ねる。
知っているはずなのに知らない感覚。知っていたよりもずっとずっと満たされる。怖がっていた自分の想いを解放するだけで、こんなにも満たされる。
初めて本当のキスをしている。今まで何度もして慣れていたはずなのに、震えるほどの歓喜が湧き起こる。
口付けられたその角度が、ほんの少し変わる。下唇を舌先ですっとなぞられる。どこかが覚えている合図。小さく開いた唇の奥へと入り込んできた舌。縮こまった舌をさっきと同じようになぞられると、力が抜けて自然とふたつが絡まり合う。息を継ぐタイミングすらいつの間にか知っている。
口蓋を舌先でなぞられ、口の中に存在する艶めいた感覚が、ゆっくりと確かめるような愛撫に目覚め始める。
いつの間にか彼のパジャマを掴み、必死にしがみついていたことを知ったのは、唇が離れていったあと。
「ずっと、触れたかった」
肩から腕を伝ってゆっくりと指先が滑っていく。たったそれだけのことなのにぞくぞくとした震えにも痺れにも似た何かが体中に広がっていく。自分で触れてもこんなふうにはならない。
その未知の感覚が怖くて、咄嗟にその胸に手のひらをつけると、まるで自分の心臓かと思うくらい、強い鼓動が伝わってきた。
一緒だ。
怖がっていた心がふわっと綻んだ。
何かを確かめるように、肌の上を大きな手のひらが滑る。触れられた場所、手のひらから伝わる熱が肌に移り、熱を灯す。
腕を伝い、腰を伝い、足の先まで伝って熱を灯し続けた手のひらが、ゆっくりと逆戻り、お腹をなぞった末にキャミソールの上から胸を包み込んだ。ゆっくりと形を変える自分の胸が、暗闇に淫靡な姿を浮かび上がらせる。胸の先がその存在を痛いほどに主張しているのが、薄い布越しでもはっきりとわかった。
自分の身体の淫らな変化に思わず目をそらせば、「優羽」と熱のこもった声で呼ばれる。
胸から離れた手のひらが、背中を温めてくれる。抱きしめられて息をつくのは、それまで息を詰めていた証拠だ。
「怖くなったらちゃんと言え」
「怖くない。天哉は怖くない」
この人が光を吸い込むほどの黒を纏うのは、私の穢れの全て引き受けたからだ。
祐夏の言葉が答えだった。
あの世界の様々な色を持つ男たちの精を受けた私は、きっと濁った黒に染まった。本来の半身である第五が色を持たなかったのは、全ての色を持つ第七が染まらないように。
「ごめんね」
「それは、謝罪のために私に抱かれるということか?」
言葉に含まれた小さな棘とかすかな失望。抱きしめられているその身体をぎゅっと精一杯の力で抱きしめ返す。
私のことはなんでもわかるのに、そこに自分が絡んだ途端、わからなくなるのはどうしてだろう。彼のような存在であっても、自分のことはわからないのだろうか。
謝罪──そう思う気持ちがないわけじゃない。けれどそれよりももっと強い衝動。
どうしても手に入れたいと、心の底からこみ上げてくる強い想い。今、手に入れなければ全てを失ってしまいそうな不安。
信じ切れるかと言われれば、その全てを信じることはできない。きっとまだ私の知らないことはある。それでも手を伸ばすのは、彼から伝わる私への想いに嘘がないから。
私の根底にある祈りにも似た願い──。
「違う。同じ色になりたいの。あなたがくれた色を、今あなたが持つ色に染めたい」
「それは、第七世界に戻るという意味か?」
驚いた声。本当にこの人は、言葉の意味を正しく理解する。
どうして隠された髪も瞳も黒かったのか。金や茶、青や緑にした方が自然なほどの肌の色なのに。
そこにあなたの希求を見た。そうであってほしい私の希求をそこに重ねる。
「私は、ちゃんと覚醒できる。だから、全部ちょうだい」
その穢れごと。
あなたの醜さごと。
目覚めさせたのは、私。
いつもどこか余裕めいていたはずなのに、それをなくしてしまったかのように本当に性急に抱かれた。
勢いよくベッドに倒され、胸を揉みしだかれ、その先を弾かれ、咥えられ、あっという間に裸に剥かれ、その指も唇も体中にある艶めく場所を的確に目覚めさせていく。
息が先だったか、声が先だったか、そのどちらもいつの間にか艶混じりに上がり始め、身体の奥が自分でもはっきりとわかるほど潤んでいく。身体が熱を持ち、吐息に熱が孕む。
恥ずかしさなど感じる間もなく足が開かれ、その間に彼の頭が挟まっている光景は、与えられた刺激と相まって、あっという間に強烈な快楽を目にも脳にも身体にも焼き付けた。聞こえてくる淫靡な音が、耳を犯し、一層蜜を滴らせる。
彼の舌がどこに触れ、どんなふうに刺激を与えているのか、どうしてこんなにも気持ちいいのか、何もかもがわからなくなつような生々しい感覚に、ただ、喘ぐだけの生きものになる。
「優羽、力を抜け」
初めて体験する艶めかしい快楽に何も考えられない。けれど、それが聞こえた瞬間に与えられた痛みは、驚くほど鮮明で強烈だった。
「いっ、ど、して、やっ、痛っ」
痛みがあるだなんて思わなかった。聞いたことはあっても、それは自分には当てはまらないと思っていた。いつだって彼から与えられてきたのは快楽だけだったはず。
「その痛みごと、私を刻み込め」
肩の左右に両手をつき、その腕に足がかけられ存分に広げられている。恥ずかしすぎる格好なのに、痛みが強くてそれどころじゃない。
気が付けば目の前にある顔も苦しそうに歪んでいた。
「天哉、も、痛い、の?」
「死ぬほど気持ちいい」
あんまりな答えに思わず身体に力が入る。
「やめろ、力を抜け、抑えが利かないっ、言っただろう、まだ先しか入ってない」
ぐっとそれまで以上にめり込んでくる、圧倒的な圧迫感とたとえようもない熱。
「もうやぁ、いたっ、ずるっ、自分、ばっ、かり」
痛みで涙がにじむ。こんなに痛いなんて知らなかった。メリメリと音が聞こえてきそうなほど、身体が彼の形に拓かれていく。
思わず目を閉じようとした瞬間、「優羽、目を瞑るな!」と驚くほどぴりっとした声が響いた。
「誰に抱かれているか、誰が痛みを与えているか、ちゃんと見ていろ」
怖いくらい真剣な顔に、思わず痛みを忘れて頷いた。
「優羽、優羽を抱いているのは私だ。痛みを与えている私だけを見ろ」
もしかして、私が忌まわしい記憶を思い出すかもしれないと気にかけているのだろうか。
大丈夫なのに。だってもう、私は救われている。
もう消されたくないと思っている。
押して引いてを繰り返しながら、時間をかけてようやく全てがおさまった頃には、鋭かった痛みも鈍いものへと変わっていた。身体が修復し始めている。
身体がひたと重なる。内も外も、ひとつに重なる。
初めて指を絡めて繋がった手が、その全てを象徴しているようで、痛み以上に彼への想いがこみ上げる。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃ、ないよ。こんなに、痛いなんて、思わなかった」
喘ぐほどの快楽が、遙か彼方に遠退いた。息が上がっているのは、鮮烈な痛みを逃そうと必死だったからだ。
きっとしがみついていた彼の腕に食い込ませてしまった爪の痕は、残る間もなく修復されてしまっただろう。
「私は、こんなに気持ちいいとは、思わなかった」
はぁ、と短くも艶めいた吐息と色気を滲ませた声と表情に、身体の奥がひくりと反応する。
「優羽、動くな。ひどくしそうだ」
もういいと思った。きっともうこれ以上痛いことはない。この先はきっと、別のものがそれに変わる。
「いい。ひどくしてもいい。もっと、気持ちよくなって」
ずっと快楽を与えられてきたのは私だ。私だって与えたい。
だからといって、とことんまで貪るのはどうかと思う。
痛みはゆっくりと快楽に変わり始め、容赦なく中で吐き出される度に、それが私を強くしていく。
身体の修復が彼の精によって助長され、もどかしい感覚へと変化する。もどかしい感覚がいつしか心地よさに変わり、気持ちよさへと転じていく。
知っていたはずの心地いい快感は、実際にはもっと鋭く生々しくて、何も考えられなくなるような、ただただ気持ちいい感覚へと塗り替えられていった。
こんなにも息が上がって苦しくて、汗をかいて蜜を滴らせて、声が嗄れて悦楽に震えて、身体の力が入らなくなるほど疲れて満たされて、至る所がぐずぐずにとろけてしまうとは思わなかった。
泣き声のような嬌声が、小さな部屋の壁にぶつかり跳ね返ってくる。声まで吸い込まれるようなあの闇の中とは違い、全ての感覚が自分に跳ね返ってくる。耳を撫でるような自分の艶めいた声に、身体が反応して知らないうちに中にいる天哉を締め付けた。
「やめ、ろ。締めるな」
そんなこと言われても、自分の身体が勝手に跳ねることも、震えることも、それこそ締め付けることも、何一つ自分で制御できない。艶めいた声すら打ち付けられる腰の動きに合わせて勝手に上がる。
ようやく彼が満足したのは、カーテンの向こう側が白み始める頃。
そこら中がべとべとになっている不快感より、体力が尽きかけそうで、腕を持ち上げることすらできず、襲いかかる睡魔に全てはどうでもよくなってしまう。
「大丈夫か? ちょっと歯止めがきかなかった」
顔にかかる髪をそっと払われながら、照れくさそうに言われた。ちょっとどころじゃない。照れるところでもない。
身体が修復されるとはいえ、初めてなのに何度すれば気が済むのか。ただでさえ力の強い精を何度も受けて、死ぬかと思った。割と本気で。
それでも、ちゃんと私のことを確認しながら進めてくれたのはわかる。全てが優しかったこともわかっている。おそらく必要なことなのだろうこともわかる。
あとに残るのはそれまで感じたことがないほどの充足感。
腕の中で眠りに落ちる瞬間に与えられた触れるだけのキスが、とてつもなく幸せだった。