大地の記憶
18 Tertius サンプル—Specimen


 互いに時々戸惑いながらもそれすら楽しく、彼が家族に加わった我が家は、それまでの穏やかさに加えずっと賑やかになった。
 母は「おいしいおいしい」と笑みを浮かべ、上品でありながらもりもり食べる彼が嬉しいらしく、それまで以上に食事の支度に精を出している。
 冬休み明けの私のお弁当のおかずが、祐夏曰く「男らしくなった」のは、間違いなく同じお弁当を持っていく彼のせいだ。
 おまけにお金持ちの彼が高級食材を差し入れてくれるので、我が家の食レベルが格段に上がった。
 父は父で話し相手ができたことが嬉しいのか、彼の帰りを心待ちにし、ニュースを見ながら世の中の動向などの難しい話を楽しそうに語り合っている。

 彼は、朝私と一緒に遮蔽で隠れながら家を出て、コマンドで自分のマンションのバルコニーに跳躍し、何食わぬ顔でそれまで通り運転手つきの車で学校に通っている。帰りも一旦マンションに戻り、そこからうちに帰ってくる。代理教師なので残業などもないらしく、父が夕刊を取りに行くのに合わせて姿を隠して家の中に入る。合図は父の血の結晶がふるっと震えるらしい。
  傍目には、父が夕刊を取りに行く時間が少し遅くなった、ただそれだけのこと。

「どうして私みたいに存在自体は公にしないんだろう」
「彼の実家は霧の一派とかなんとかだろう」
「あ、そっか。なんか、面倒だね」
 学校帰りの車の中、父がそれまでより若返ったような気がする。

「お父さん、天哉来てよかったね」
「そうだな。こういう時間は持てないものだと思っていたからなぁ。天哉君に感謝だな」
 ははは、と朗らかに笑う父は、彼が来てからというもの、毎日本当に楽しそうで機嫌がいい。

 彼が、彼らの娘の真実を伝えたのも大きい。彼はきっぱり、彼女はすでに第九世界で自分の家庭を築き、幸せに暮らしている、そう言い切ったことが両親を逆に安心させた。



 少しずつ日が長くなり始めた冬の空。
 夕日に照らされた緋色の雲が、強い北風に追われるようにちぎれながら流されていく。
 彼がそばにいるようになってから、見上げる空の色が変わった。ただ、きれいだなと思えるようになった。
 けれどそれでも、あの空の彼方の透き通るような黒に手を伸ばしたくなる。



 ずっとこんな時間が続けばいい。
 そう思った瞬間に、何かが起きるのはどうしてだろう。

 その日、両親は天哉がうちにいるのをいいことに、初めて二泊三日で旅行に出掛けた。今まではどれほど勧めても、私が心配で一泊で帰ってくる。一泊ではそれほど遠出もできず、本州から出たことがなかった両親が今回初めて九州に足を延ばす。
 組織の監視下にあって得だと思うのは、旅行の際、決まって豪華な宿に泊まれることだ。しかも破格値で。護衛の関係なのだろう、組織の息のかかった宿に強制的に宿泊させられる。強制的とはいえかなり豪華な宿に部屋だ。儲けもの、と母は毎回ほくそ笑んでいる。

 今にも雪が降りそうなどんよりと垂れ込める灰色の雲。
 両親が朝早くから出掛けた一月の三連休の初日の土曜日、彼は学校に出勤し、私はぼんやりとネイチャー系番組を観ていた。この世界の(いにしえ)の痕跡や壮大な自然の風景は、ただただ美しく偉大だと思う。

 ふと感じた視線。
 瞬時に身体が強張る。

 この家は組織の監視下にある。うちの敷地に無断で入り込んだ瞬間、義理の姉が組織と関わった直後に新設されたというすぐ近くの交番から、警察官がすっ飛んでくる。
 それなのに、リビングの掃き出し窓から感じる視線はどういうことだろう。

 知っている気配じゃない。それなのに知っている感覚がある。ありえない感覚。
 どうして第三世界でひかりさんを感じるのか。

 第八世界の扉をこじ開けようとしている──天哉の平坦な声を思い出す。

 ひかりさんの血液を培養して、その全ての血を入れ替えた。ひとつの可能性が浮かんだ瞬間、さりげなく携帯電話に手を伸ばし、天哉に文字を送る。声が聞きたいのをぐっと堪えた。

 さすがに家の中には入れないらしい。舌打ちが聞こえる。遮蔽の精度が低いのだろう、姿だけを隠して音までは隠せていない。本人は気付いているのかいないのか、しきりに舌打ちを繰り返している。

 コーヒーを入れ直すふりをしてマグカップ片手にソファーから立ち上がり、さりげなく視線が流れた端に一瞬その姿を捉える。
 黒いコートのようなものを着ている。目だけが不気味なほど血走った、明らかに異様な男。何が目的かがわからない。
 考えられるとすれば、義理の姉に関わることだろう。

 携帯電話が震えた。表示された文字は、優羽の部屋の窓の外。
 音を立てないよう急いで階段を駆け上がると、表示された文字通り、遮蔽で身を隠した天哉が自室の窓の外、バルコニーの手すりの影に隠れるように屈み込んでいた。
 そっと静かに窓を開けると、するっと部屋の中に入り込む。こんな時でもしっかり靴を脱いでいるのを見て、強張っていた身体からいい感じに力が抜けた。

「学校は?」 
「腹痛で保健室にいることになっている」
「ごめんね」
 抱きしめられてほっとする。外の匂いと冷え切ったジャケット。安全だとはわかっている。それでも怖いものは怖い。ゆっくりと腕の中で凍えた心が温められていく。

「大丈夫だ。ゼノには伝えた。おそらく暴走だろう」
「あれ、ひかりさんの……」
「そうだ」
「どうなるの?」
「第八の全てのサンプルは処分されるだろう」
 それは、そのサンプルを体内に入れた者も処分されるということだ。本人が望んでひかりさんの培養血液を体内に入れたのか、それとも……。

「傲ったものは身を滅ぼす」
 自ら志願したということか。
 だとしたら、第八であるひかりさんを人として扱わなかった彼らに同情の余地はない。どちらにしても、私たちの体液を大量に取り込んだ只人がそれまでと変わらず存在できるわけがない。

 天哉の言葉はただの比喩ではなく真実だ。特に、血を濃くすることは破滅しか招かない。第三世界に生きるものはそういうふうにできている。近親婚が禁忌とされるのは、当然のこと。それなのにそれに囚われるのは、傲った神喰い人たちが始めた因習だ。神喰いを行わなかった人の中にも欲を持つものがいる。彼らは力を得たものに倣ってしまった。
 この世界に残された神喰い人の末裔たちが決して結ばれないのも、血を薄めようとして無意識に互いを避けるからだ。力が互いに反発し合う。

 そもそも、世界の扉をこじ開こうなど、只人が行っていいことじゃない。
 かつて繋がっていた世界が次々とその扉を閉ざしたのは自然の摂理だ。必要になれば自ずと扉は開かれる。必要がないから扉は閉まったままなのに。
 第五、第六、第七世界の扉が開かれたままなのは、哀しいけれどそれもまた自然の摂理だ。

「第三との間に子を成そうとしているようだな。そのために第三に繋がる細胞が残っているこの家を狙ったのだろう。培養して人口皮膚を作り出し、あのコマンドに守られた身体に触れようとしている」
「それって、残された身体からってこと? 死体なのに?」
「第八の研究チームは入れ替えた方がいいだろう。極論に走りすぎる。第八の存在が助長させたか。あれはゼノが望んだからこそ生み出されたというのに」
 ぶつぶつと呟きながらもコマンドの発動を感じる。おそらくゼノに伝えているのだろう。

「確かお姉ちゃんたちのサンプルも採取されてたよね」
「あれらのサンプルはあのいかれた研究者が全て破棄している」
 ひかりさんに薫ちゃんと呼ばれていた研究員か。容赦ないと言われていた通りだ。だからひかりさんは組織から消されたと思い込んだのか。
 その研究者の奥さんは姉の半身の妹だそうだ。彼女を守るために第九世界の一部となることを望んだらしい。
 彼らの両親は生涯を終え、すでにゼノの指示で火葬されているらしく、残る可能性はここにしかない。ゼノ直下の組織の護衛が張り付いている両親よりも、その細胞が残されているこの家を狙った。髪の毛一本でも採取できれば、ということだろう。この家のゴミは組織が回収し、処分している。そこからの入手はさすがに無理だったのだろう。

「優羽、姉に会いたいか?」
「会えるの?」
「あの肉体を処分する必要がある。本人たちにさせるのが一番だ」
「天哉やゼノたちはできないの?」
「できるが、私たちは介入しない方がいい。あれの持ち主はあくまでも彼らだ」
 ただ、と声が続いた。
「残された肉体を処分すると、この世界から彼らの存在が消える」

 両親の記憶からも消える。
 それは、私が決めていいことじゃない。

 階下が騒がしくなった。
 インターホンが鳴る。

 遮蔽で姿を隠したままの天哉を背後に従え、インターホンに映る見慣れた顔の警察官を確認し、玄関の外で対応する。不審人物が敷地内に侵入した形跡があるため、しばらく警察官がパトロールに当たる、そんな説明をぼんやりと聞いた。

 気が付けば、雪がちらちらと降り出していた。吐く息の白さに一層寒さが増す。

 一度学校に戻るという天哉を再び窓から見送った。この家の中にいるだけじゃなく、そもそも彼の血を取り込んでいる私に危害を加えられる存在などいない。それでも来てくれたのは、単純に私を心配したからだ。

 姉の存在が消える時、私も同時に消えようと思う。
 実の娘の存在を失い、次いで義理の娘の存在も失う。二度の喪失は記憶がなくなるとはいえ、きっと心は耐えがたい。

 だって私は知っている。記憶がなくとも、心が揺さぶられてしまうことを。虚ろを抱えてしまうことを。手を伸ばそうとしてしまうことを。

 ひかりさんの存在をぞんざいに扱う組織のやり方に、強い、自分でも持て余すほどの強すぎる怒りに支配される。
 それは、かつてぞんざいに扱われたという事実を、記憶はなくとも心が覚えているからだ。
 姉の身体にすら手を伸ばそうとする。おそらく第九は許さないだろう。たとえこの世界から姉たちの存在が消えるとしても、迷いなく肉体を処分する。姉もそれに同意するだろう。

 それがわかるからこそ、両親を思うとやりきれない。
 存在そのものが消えてしまえば、当然記憶も消える。元からいないものとなる。
 けれど、人の心はそんなに単純にはできていない。

 一度に失った方がマシなのではないかと考えて、思考が止まる。
 わからない。大きな悲しみがふたつと、より大きな悲しみがひとつ。どっちがマシなのだろう。

 それを両親に選ばせるのは酷というものだ。だからといって私が決めていいことでもない。
 堂々巡りの思考の中、不意にゼノたちが幻影ではなく実体で現れた。

「よくこの結界の中に入れたね」
「ちゃんと許可をとったから」
「ってことは、天哉も本当なら直接ここに飛べるってこと?」
「あれは、ここの流儀に倣おうとするからね」
 確かに。結婚の挨拶を思い出した。ついさっきも窓の外にいた。常に父に招かれるように玄関から入ってくる。律儀すぎる。

 珍しくゼノの腕から降りたその半身は、ソファーに座る私の隣に、幼児のようになんとかよじ登って座った。ゼノは向かいのソファーに座る。
 どうして二人ともいつも神話風のコスプレなのだろう。まるで名画から抜け出たようだ。

「第九たちをね、呼ぼうと思うんだけど、どうする? 彼女を親に会わせる? 会わせないって選択もある」
「会わせないまま、存在が消えるのは酷なんじゃない?」
「そうかなぁ。会わせて消す方が酷だと思うけど。彼らにとってはもう二十年以上も前のことなんだよ」
 確かにそうかもしれない。懐かしむような目をしていることもある。

「それでも、私が決めていいことじゃないよ。お姉ちゃんが決めることだと思う」
「優羽は、大丈夫?」
 手に触れてきたのは、小さくて柔らかくて高い体温。

 通称ウェスペル(Vesper)と呼ばれる小さくて大きな存在。最初に綴り通りベスと縮めて呼んだら、なんとなく嫌がられたので、音が濁らないようウェスと呼んでいる。

「ウェス、ウェスはお母さんに会いたくないの?」
 天使のような顔が歪む。ゼノがわずかに身じろいだ。

 彼の半身である双子の妹(Aurōra)は親と一緒にいられるのに、この子は親といることができなかった。両性であるがゆえに。ゼノの半身でもあるがゆえに。
 最初はその理由がわからなかった。けれど、第九世界が第三世界の一時移転先であるならば、黎明期の第九世界に両性であるこの存在はいられない。第三世界は単性の世界だから。この子の親も単性だから。この子の存在は強すぎて、そこに存在しているだけで世界に影響を与えかねない。

「ウェス、おいで。たまには女子にだっこされるのもいいもんだよ」
 両手を広げると、おずおずと遠慮がちに膝にのってくる。ぎゅっと抱きしめると、腕の中の存在がかすかに震えた。
 どうあっても、半身であるゼノの存在は絶対だ。それでも、母を恋しく思う気持ちがないわけじゃない。

「一回だけ、だっこしてもらったことがある」
「そっか。大切な思い出だね」
 抱きしめている小さな頭がこくんと揺れた。

 ふと感じた大きな存在。その瞬間、抱きしめていた小さな存在がゼノに向かって放り投げられた。

「優羽、これは子供の姿をした大人だ。騙されるな!」
 そういえばそうだった。ソファーをよじ登る仕草が完全に幼児だったからうっかり惑わされた。

「女の人の胸がどんなものか触ってみたかっただけじゃん! ケチ!」
 さりげなく胸を触られていたような気がしたのは間違いじゃなかったのか。
 開き直ったクソガキほど始末に負えない。ゼノが珍しく腕の中の存在にむっとしている。
 とはいえそこに厭らしさはなかったと思う。本当に単なる興味なのだろう。

「お前は……優羽が私の半身であると知っていて……私ですらまだ……」
「えー……、まだなの?」
 クソガキ! 余計なこと言うな! 何そのやれやれ感満載のジェスチャー。

 ほんの一瞬、ウェスから鋭い視線が向けられた。なに? と問い掛ける間もなく、ふつとふたつの存在が目の前から消える。一体何しに来たのか。
 
 ちらっと彼を盗み見る。目が合いそうになって慌てて逸らした。気まずい……。