大地の記憶
17 Tertius 人—Individual


 目の端に映るのは、同じように驚いている両親の顔。
 しばらく揃って目の前に見えるつむじを眺めていた。真っ黒な髪だな。そんなどうでもいいことが頭の隅に浮かぶ。

 最初に立ち直ったのは父。慌てたように、「頭を上げてください」と声をかけ、その声に我に返り、思わず出た言葉が、「なんで、それ?」だった。

 もっと言い方はあるだろうと思いはしたものの、それ以外に言いようがない。
 どうして何もかもを好き勝手できるはずの存在が頭を下げて結婚の許しを請うような真似をするのか。

「それ以外にどう言えばいいんだ?」
 顔を上げ、むっとしたように言われると、間違ってはいないような気がしてしまうから不思議だ。

「ひとまずは婚約という形をとらせていただこうかと。学校には私から説明します。どちらにしても来月いっぱいであの学校との契約は終了しますから、さして問題にはならないでしょう」
 よどみない声がリビングに響く。

 なんで? どうして? それが頭の中をぐるぐるしている。
 まるで普通の人みたいだ。普通の男の人が、普通に交際相手の女性の家に来て、交際、ひいては結婚に向けての挨拶を彼女の両親にする。テレビで見た光景。

「天哉さん。そうお呼びしても?」
「もちろんです」
 なぜ母は嬉しそうなのか。それに応える方もなぜ嬉しそうなのか。見ればなぜか父までが複雑そうな表情の中にも隠しきれない喜びを見せている。

「優羽の相手が君でよかった。優羽をよろしくお願いします」
 父からそんなセリフまで飛び出した。

「どうせなら、このままうちに住めばいいのに。ねぇお父さん」
「そうだな。どうだ? 天哉君」
 嬉しそうに笑う彼を見た両親は、揃って腰を上げ、いそいそと動き回り始めた。


 ついていけない。


「なんで?」
 ジャケットを脱ぎ、隣に座り直されたその距離は拳ひとつ分。軽く見上げれば心外だと言わんばかりの顔があった。
「これが普通じゃないのか?」
 普通すぎて頭が混乱する。この存在と普通が結びつかない。

「なんで?」
 同じ言葉を繰り返したことに、声に出してから気付いた。
「なんで普通なの?」
「普通じゃまずいのか? もっと派手な方がよかったか?」
 そこじゃなくて。訝しそうに見つめられる。

「嫁にもらうんだ。挨拶するのは当然だろう」
 よめ、という言葉が頭の中でぽかんと間抜けに浮いている。嫁?
「嫁、なの?」
「嫁だろう? 一生添い遂げるんだ、それ以外に何がある」
 何を言ってるんだ? そんな顔をされる。

 急に、隣に座っている存在が霧島天哉という一人の「人」に思えた。
 大きすぎてぶれていた存在が「霧島天哉」という人物と重なり、はっきりとした輪郭を持ち始める。
 急に焦点が合ったような、目が覚めたような、ぱっと色付いたような、霧が晴れたような、そんな感覚。

 彼だって私と同じ、この世界に生きてきた「人」だ。第七世界そのもので在ったとしても、私は「立花優羽」という一人の人として生きている。
 どうして同じだと思わなかったのだろう。あまりに途方もない存在だから、そんなふうには思えなかった。

「あなたは、霧島天哉、なんだね」
「最初にそう挨拶しただろう?」

 だからひかりさんは真実を知ってなお、同級生として接していたのか。
 どうしてひかりさんやのぞみさんは同じ人として当たり前に接することができたのに、彼に対してはそうできなかったのだろう。
 彼はそんな私をどんな思いで……。

 隣に座る人を改めて見上げる。見下ろしてくるその目は、変わらず優しい。
 毛先に少しくせがある少し長めの黒髪は、無造作に後ろに流されている。左右対称の彫像のような造作。すっと通った鼻筋にきりっとした眉。少し細められた目は見開かれるときれいな二重だ。くっと口角が上がり、上より下の方が少しだけ厚い唇が動いた。

「優羽は色々考えすぎなんだ。私も所詮ただの人だ」
 万象を負う、けれどただの人。
 表情がある、声に温度がある目の前の人は、男らしいその顔を優しく緩めた。

「天哉」
 初めて名前を呼んだ。今までは、ただ記号のように呼んでいただけだったと、今声に出してみて初めて気付いた。同じ音を紡いでいるのに、そこには確かに今までにはない温度がある。
 この人は、霧島天哉だ。

 ちゃんと伝わっている。
 だって、目を瞠っている。

 間違いなく気付いていたのに、それでも名前を呼べば嬉しそうに笑ってくれていた。ずっと待ってくれていた。
 そんな泣きそうな顔しないで。

「待っていてくれてありがとう」
 本当は恥ずかしかった。けれど、そうするべきだと思った。自分からするべきだと思った。
 それでもほんのかすかにかすることが精一杯で、目の前にある驚いた顔に見つめられるのが恥ずかしくて、すぐそこにあった腕におでこをつけて熱を持つ顔を隠す。大きな音を立てて騒ぐ心臓がうるさくて痛くてくすぐったい。

 触れた唇。ほんの一瞬かすっただけなのに、その感触がはっきりと残っている。
 背中に回された腕が優しかった。シャツ越しに伝わってくる体温に頬が緩む。

 どうしてあれほど怖がったのだろう。
 暴かれそうだった。けれどそれは最初から知られていた。惹きつけられてやまなかった。今となればそれも当然だと思える。

 過去の私も、今の私も、同じ私。
 祐夏の言葉を思い出す。

 何もかも知っているはずなのに、何も知らない人。
 きっと彼も同じだ。
 私と同じ、ただの人。

 ぱたぱたと急ぎ足のスリッパの音が聞こえてきた。慌てて彼の腕の中から抜け出し、何食わぬ顔を必死に作る。
 音を立ててドアハンドルが動き、リビングのドアを開けたのは母。

「とりあえず優羽の部屋に霧島さんのお布団運んでおいたから」
「なんで?」
 何を言い出すのか。開いた口がふさがらない。

「だって、うちに客間なんてないでしょ?」
「お姉ちゃんの部屋空いてるじゃん!」
「優羽、よく考えなさい。美羽の部屋に天哉さんが泊まってもいいの?」
「あ、やだ」
 思わず出た言葉に、母がにんまり笑う。
「でしょ? そろそろお昼ができる頃よ。お父さん、張り切って焼きそば作ってるから」

 なぜか父は、焼きそばを作るのが上手い。ちゃんと麺におこげがついたあんかけ焼きそばは、父の自慢料理であり、彼のおもてなし料理で、我が家のクリスマスのお昼は必ずこれだ。
 あとは全て出来合いを父がケーキと一緒に買ってくる。母に楽をさせるため。おせちもそう。母が作る方がおいしいけれど、出来合いで済ます。

「焼きそばなんて、って思わないでね。お店で食べるより断然おいしいから!」
 思わず力説すれば、「それは楽しみだ」とふっと力を抜いたように彼は笑った。



 そして彼は、本当にお正月まで我が家に滞在した。

 毎日同じ部屋で寝起きした。
 すでに見られているウサギの着ぐるみパジャマのほかに、実はペンギンとヒツジもあったりする。一度見られていたのをいいことに開き直った。
 何をするでもなく、ただ同じ部屋で、私はベッド、彼はラグの上に布団を敷いて寝た。

 彼の存在に少しずつ慣れていく。

 間近で見る彼の仕草に心が跳ねることが増えていった。
 何気なく新聞を広げる腕や、さりげなくカップを持つ指、足を組んで座るすっとした背筋、穏やかに笑うときの口元、柔らかに見下ろす目元、本当にさりげない、見過ごしてしまいそうな些細な動き。
 ふと目に入る首筋や、シャツを捲り上げたときに見える腕の筋、手の甲に浮かぶ筋、自分には見られないそれから目が離せなくなるときがある。男の人だと意識する。
 そんな小さな心の動きが積み重なって、少しずつゆっくり心が傾いていく。


 そして、彼がとんでもないお金持ちだということも判明した。
 なにせ高級ブランドの下着やソックスは一度身に着けたらゴミ箱行き。ほかの洗濯物は全てクリーニング。移動はお抱え運転手付きの無駄に大きな高級車。コマンドで移動した方が早いとぼやいていた。ぼやくところはそこじゃない。

 霧の一門の表の顔は世界規模の大手総合商社だとは聞いていたけれど、それだけではなくあらゆる分野に関連会社があるらしい。その日本支社? 支社でいいのだろうか、よくわからないけれど、そこの役員として在籍しているらしい。
 それがどうしてひかりさんと同じ田舎の高校に通い、女子校の産休代理教師などしているのか。本人曰く「出来損ない」らしい。絶世絶対の存在をつかまえて、出来損ないが聞いて呆れる。どう考えても本人がその気にならなかっただけだ。

 代々仕えるお手伝いさんがいるような家。それぞれが忙しい両親との触れ合いはほとんどなく、年が離れていた兄たちとは一緒に遊ぶこともなかったらしい。どこかで聞いたことがあるような境遇。
 彼は、第三世界の霧島天哉として、ちゃんと地に足をつけて生きていた。若干の胡散臭さ込みで。


 一緒に大掃除もした。毎年こっそりサボろうとする父と一緒になってサボろうとして、母に父を唆すなとついでのように怒られていた。
 年越しそばを食べて年末恒例の番組を揃って観た。おそばをずずっと音と立てて啜っている様が、なんとなく面白かった。

 いつもなら翌朝に行く初詣に、二年参りだと張りきった父を諫めきれず、真夜中に揃って繰り出した。出掛ける時はしっかりと遮蔽している彼の存在は、両親が身に着けている彼の血の結晶のおかげで二人にもちゃんと見えている。
 人混みに紛れて何気なく遮蔽を解いて引いたおみくじが小吉だった時の微妙な顔に、母と二人、大吉のおみくじをこれ見よがしに見せびらかした。その悔しそうな顔といったら。中吉だった父に肩を叩かれ、揃って神社の結び所に結びつけていた。

 おせちを食べ、甘酒を飲み、連日の晩酌のお供に父はご機嫌で、父よりお酒が強いことも知った。
 実は田作りが苦手なことも、椎茸が嫌いなことも、伊達巻きが好きなことも、栗きんとんは栗ばかりを拾って食べるちょっとわがままなところも知った。
 箸の使い方がきれいで、食事の仕方も上品で、些細な仕草が整っていて、さすがお金持ちだと感心した。
 知れば知るほど、彼は普通の男の人で、少し不器用で、かなり面倒くさがりで、私たち親子を大切に思ってくれていることが伝わってきた。

 すごくいい年末年始だった。しみじみそう思った。
 彼が両親に普通を与えてくれた。

「こんなふうに、息子と酒を飲むのが実は夢だったんだ」
 酔った父が、何度もそう言って彼の背を嬉しそうに叩いていた。
 泣きそうになった。
 きっとそのために彼は頭を下げ、両親に挨拶してくれた。

 だから、三箇日の最後に両親が揃って彼に頭を下げたとき、私も同じように下げることができた。
「天哉君、優羽をよろしくお願いします」

 翌日、私は最低限必要な道具と着替えが詰まった大きな鞄を持ち、うちから駅ひとつ分離れた彼の家に引っ越した。



 そして、その日のうちに出戻った。どうして誰も訊かなかった!

「天哉の部屋何もない! ベッドしかない! せっかく豪華なマンションの最上階なのに! 冷蔵庫も洗濯機もない! あそこで生活は無理!」
 目を丸くする両親にそう叫び、大荷物を再び家に運び込んだ。

 それはもう広々としたリビングに、大きなベッドがぽつんとあった。それだけ。ソファーもなければテレビもない。ロボット掃除機が三台も動いていた。三つもあった部屋は全てがらんどう。カーテンすら掛かっていない。
 家に人を入れたくない。けれど掃除は面倒。ロボット掃除機に任せる。結果、ベッドのみになったらしい。「寝に帰るだけだった」と開き直るのはどうかと思う。
 よくあんな部屋に「一緒に住むか」と誘えたものだ。その神経を疑う。

 結局、彼が我が家に住み着いた。着替えはやっぱりコンビニの袋に入れて持ってくる。下着もTシャツもソックスも、捨てずに自分で洗濯しろと指導した。彼は生まれて初めて洗濯機の使い方を覚えた。