大地の記憶
14 Tertius モノクロ—Monochrome「ちょっとだけ青ちょうだい。ちょうどなくなった」
キャンバスから目を離さないまま、手のひらが差し出された。
「どの青?」
「どの青でもいい」
どの青でもいいとは、なんて大雑把な。
青と一口に言ってもその数は多い。ちらっと見た祐夏のキャンバスからどの青がいいのかと一瞬悩んでいると、ひょいと手が伸ばされ、二人の間に置かれた絵の具入れから適当に掴んだにしては、手持ちの中で一番高価なセルリアンブルーが持っていかれた。思わず見れば、にやっと笑われる。どの青でもいいならそれじゃなくてもいいのに。狙っていたな。
「優羽の絵ってなんでいつもモノクロなの?」
「モノクロ? どこが?」
隣の席の彼女は、シンガーソングライターのくせに選択しているのは美術だ。どうして音楽じゃないのかと訊いたら、余計なことを学びそうだから、と返ってきて、よくわからないながらもそういうものかと思うことにした。天才の考えていることはわからない。
彼女の詞も曲も独特の世界を構築している。心を鷲掴むように持っていかれ、言葉では説明のしようがないどこかがさざ波のような衝撃に静かに揺さぶられ続ける。
今描いているのはアルバムのジャケットになるはずだ。彼女は何もかもを一人でこなしてしまう、まさに天才。
芸術科は毎日選択授業が二限続けて設けられている。教室の左右には、クラス専用の音楽室と美術室が併設されている。
目の前のイーゼルに立てかけられている小さなキャンバスに改めて目を向けた。
柔らかで淡くも彩り鮮やかな五号キャンバス。小さな白を埋め尽くす色の波。黒はどこにもない。
「んー……なんだろう。黒なんて使われてないのはわかるんだけど、その後ろに黒が見えるんだよね、手前に白が見えるような。逆の時もあるんだよ。実際に使われてる色はそのグラデーションみたいな感じ? 優羽の絵はどれもそのふたつの色が隠されているように見える」
はっとした。
たくさんのことが一度に思い浮かんで、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「祐夏はさ、自分が憶えていないところで恋をした人に巡り逢った時、その人にもう一度恋するのは今の自分の感情だと思う? それとも覚えていない過去の感情だと思う?」
「なにそれ。前世ってこと?」
「どっちかって言ったら、記憶喪失かな」
真四角のキャンバスに思うままに色をのせているようで、彼女の筆先に迷いはない。きっと頭の中では綿密に計算されていることを勢いに任せて再現しているだけなのだろう。彼女はそんなところがある。
その勢いにのっていた筆が止まった。ほんの少し申し訳なく思いながらも、真剣に考えようとしてくれていることが嬉しかった。
「それってさ、考える必要ないんじゃない? 過去の自分も今の自分も同じ自分だよ。そこに生まれる感情も、きっと必然で偶然」
「必然で偶然?」
「そ。考えるだけ無駄ってこと。前世って言われたら他人って気がするけど、記憶喪失なら間違いなく自分でしょ。忘れてしまった過去も自分だよ」
いつも、何も考えず頭の中を空っぽにして色をのせている。ただ、無心にキャンバスの白を埋め尽くしてきた。私の描くものはいつも色に溢れている。指導教師からは色を抑えるよう注意されるほどに。
それなのに、そこには黒と白が存在していると彼女は言う。
彼女もおそらく神喰い人の末裔。ゼノが信用できると私に与えてくれた友人だ。与えられた関係なんてと、最初は反発した。けれど、彼女を知れば知るほど、そんなことはどうでもよくなった。
確かにそうだ。必然で偶然。出会いはゼノが用意した必然。けれど芽生えた友情は偶然。彼女はゼノの存在どころか、神喰い人の末裔であることすら知らないはず。
「なに? なくした記憶を取り戻したとか? 優羽って記憶喪失だったっけ?」
眉間に皺を刻んだ険しい顔。珍しいなと思いながらふと思い付いたことを口にする。
「最初にハンバーグをつまみ食いされたことは憶えてる」
いきなり声を上げて笑われた。周りから何事かと注目され、美術教師に注意されても彼女の笑いはなかなかおさまらない。
「いつの話よ。それ」
「小三の春の遠足」
「よく憶えてるねー」
「食べ物の恨みは恐ろしいんだよ」
ついにはお腹を抱えて笑い出し、「今日はもう無理」と笑いを堪えながら、キャンバスを乾燥棚へと運んでいった。
「なにこれ?」
「イカの一夜干し」
「渋すぎる。酒のつまみ? あ、でもおいしい」
あれだけ大笑いしておきながら、またしても人のお弁当をつまむのはいかがなものか。
私のお弁当は、彼女につまみ食いされることを見越してひとまわり大きくなっている。
子供の頃「祐夏ちゃんが私のお弁当つまみ食いする」とむかつきながら母に訴えたら、「つまみ食いされても大丈夫な大きさにしよう」とお弁当のサイズを変えてくれた。「きっと祐夏ちゃんは優羽が好きなのよ。だって嫌いな子のお弁当はつままないでしょ?」と、笑いながら。
「祐夏って、私のこと結構好きだよね」
「普通嫌いな人のお弁当はつままないよね」
今更何言ってんの? と訝しみながら、もうひとつイカをつまんだ。「これ、くせになる」と言いながら。
彼女が私のお弁当以外をつまんでいるところを見たことがない。
母の言うことはいつだって間違っていない。間違っていないから、わからなくなる。
あのあと、両親が帰ってくるまで代理教師がそばにいてくれた。
「少し眠りなさい。そばにいるから」
そう言って、迷うことなく自室に連れて行かれ、渋る私をあっさりベッドに入れた。どうして私の部屋や家の間取りを知っているのかという疑問は、この存在の前には無意味に思えてしまう。
繋がれた手から伝わってくる温度が体中にじんわりと染み込んでいき、眠らないようがんばっていた瞼があっさり閉じた。
目覚めたら、眠る前と同じようにベッドの傍ら、フローリングに直接座り込んで、枕元に頬杖ついているぼんやりした顔があった。
「眠れたか」
抑揚のない声に頷けば、繋がれていた手が離され、ぐうっとその長い腕が大きく上に伸ばされた。暖房もついてない部屋は身体の芯まで冷やしただろう。
「寒くなかった?」
「いや」
かすかに笑みを浮かべたその顔が優しく見えた。
自分の気持ちに気付いてしまえば一気に心が傾きそうで、怖くなって目を逸らす。それすら見透かされてしまいそうで、慌ててベッドから抜け出した。
すでにお昼を少し回っていて、母が用意してくれていた朝食と昼食を二人で分け合う。
「天哉は、一人で住んでるの?」
「ああ」
「ご飯どうしてるの?」
「ほとんど外食だな。コンビニの時もある」
「自分で作らないの?」
「優羽は自分で作れるのか」
その声のどこにもからかいの色なんて隠されていないのに、からかわれていることがわかる。
むっとすれば、口の端が少しだけ上がった。
「がんばって作ってもお母さんみたいな味にならないんだもん」
「それはそうだろう。彼女は何年家族のために料理を作っていると思う」
母の料理は優しくおいしい。外食するのが馬鹿馬鹿しくなるほどおいしい。父もことあるごとにそう言って母を褒める。それでも時々外食するのは、母が喜ぶからだ。
「そうだけど」
「優羽もいずれ上手くなる」
何かを期待するような言葉に、うぬぼれそうになる。
「両親を見送ってから向こうに戻ることもできる。優羽が納得できるタイミングで私はかまわない」
急に言われたそれに、どう返していいかわからなかった。
両親はどれほど長く生きたとしても、あと二十年か三十年。
彼らはゼノに守られているおかげで病気になることはない。だからこそ、突発的な事故に遭うことが怖い。病気にならないせいで意図して延ばされているかもしれない寿命の反動が起こりそうで怖くなる
食事のあと、何気なくつけた映画チャンネルで放映されていた、少し古い恋愛映画。
画面の恋人たちがキスをすれば、同じようにキスされる。ただ合わさるだけだった唇は、啄むような動きをみせる。映画のヒロインが抱きしめられると、同じように抱きしめられた。
「もう! どうして真似するの?」
照れくささからつい怒ってしまう。
「私は、よくわからないんだ。どうやってこの想いを伝えればいいのかが。あれと同じように真似れば、伝わるような気がした」
抑揚のない声で、ぼんやりした顔で、臆面もなくそんなことを言う。聞かされたこっちが恥ずかしい。
「だって、あなただってこの世界で成長してきたんでしょ?」
「そうだが。こういう経験はないからな」
そう言いながら、ほんのかすかに唇が弧を描いた。ぼんやりとした表情の中の小さな変化を読み取れるようになっている自分に気付き、どれほど観察しているのかと恥ずかしくなる。
「キスがこんなにも気持ちがいいとは思わなかったな。こうして優羽を抱きしめているのもいい」
その目が嬉しそうにほんの少しだけ細められる。
かつて、この男に何もかもさらけ出しているはずなのに、あれは、あの空間での出来事は、はたして現実なのだろうか。
「私たちは、心の交わりだけを行ってきたんだ。こうして実際に身体に触れたことはない。全ての感覚が顕現する空間であっても、実際に触れているわけではない」
だから、身体が歓喜に震えるのか。今度こそはと、恋い焦がれるのか。
「ゆっくりでいい。ゆっくり、私のものになってくれ」
その目に浮かぶせつなさは、見なかったことにした。どれほど求められているのかは、もう十分わかっている。自分が同じように求めていることも自覚している。
それでも、わからなくなる。この気持ちがどこから来たのか。どこに向ければいいのか。
次の映画が動物コメディだったおかげなのか、そのせいなのか、笑っているうちに、考えていたことがうやむやになってしまった。
そして、帰ってきた両親に礼儀正しく挨拶をして、霧島天哉は帰っていった。一緒に夕食はいかがですか、という母の誘いを丁重に断って。どことなくむっとした父を慮ってだろう。
父は父で、やましいことがないからきちんと挨拶したのだろうと、変なところで理解してしまったせいで気持ちを持て余したらしく、その日はずっとむっとしたままだった。
その父がお風呂に入っている間、母と一緒に互いのソファーに座りリビングでテレビを見ていると、急に立ち上がった母がぽすんと隣に腰を落とした。
「優羽、私たちのことは心配しなくてもいいのよ。私たちは美羽は美羽、優羽は優羽だと思ってる。優羽を美羽の代わりだと思ったことはない。それはわかるでしょ」
何を言い出すのかと訝しみながら、義理の姉と比べられたこともなければ、代わりにされていると思ったこともなかったので、ただ頷き返した。自分が勝手に羨んでいただけだ。
「だからね、美羽の代わりに私たちのそばにいなきゃいけないって思わなくてもいいのよ」
「そんなこと!」
「思ってないとは言わせない。優羽はどこかでそう思っているでしょ。これでも私、あなたのお母さんなのよ。娘の考えていることくらいわかるわ」
黙り込んだ私に、優しい笑顔が返される。
「霧島さんのところに行きなさい。行って、ちゃんと自分の想いを確かめなさい。きっとあまり時間はないはずよ。私たちがあなたを育てられるのは、十七歳までと言われていたんだから」
「そうなの?」
驚き、聞き返せば頷かれた。
「あなたが連れてこられた日から十七年後なのか、それとも十八歳になる直前までなのか、そこまでは教えてもらえなかったけど、少なくともそんなに時間は残されていないと思うの」
「でも、私のペースでゆっくりでいいって……」
「あの人ならそう言うでしょうね。あの人は、あなたがゼノと呼ぶ存在よりも大きな存在でしょ? きっとたとえ世界が滅びようとも、あなたの気持ちを優先するわ。そんな覚悟と冷酷さがあるもの、彼には」
「どうして──」
わかるのか、と続けようとして、そのままのみ込んだ。わかる気がした。きっと間違ってはいない。
「年の功ね。お母さん、もういい歳だもの。美羽の相手が霧島さんみたいな人だったら、わからなかったかもしれない。私もまだ若かったから」
「お姉ちゃんの相手は、どんな人だったの?」
「一人はすごく大人だったわ。霧島さんより歳は上じゃないかな。冷静にしっかりと美羽を守ってくれそうだった。もうひとりは霧島さんと同じくらいかしら。とても純真だった。ただ真っ直ぐに美羽だけを見ているような、そんな人だった」
「お姉ちゃん、幸せそうだった?」
「そうね、不安も抱えていたでしょうけど、覚悟していたわ。幸せになるための覚悟があった」
幸せになるための覚悟。
私にはあるのだろうか。あの途方もない存在と幸せになる覚悟。
「あなたはね、ただ、霧島さんに全てを預ければいいのよ。きっと彼が全てを担ってくれるわ。お母さん、あの人はそういう人だと思う」
「でも、わからない。自分の気持ちがよくわからなくて、怖い」
「大丈夫よ。だって、優羽は好きでしょ、彼のこと」
優しい目で、そうでしょ、と追い詰められた。ぽん、と手の甲に慣れ親しんだぬくもりを持つ手が重ねられる。
「その怖さごと、きっと彼は受け取ってくれるから。大丈夫。あなたは素直になりなさい。怖がらないで」
手の甲から今度は頭にのせられた手の重さと優しさは、子供の頃から変わらない。
「初めて会った時の優羽はね、ひどく怯えていたの。でもね、怯えながらも手を伸ばしてくれたのよ、私とお父さんに。私たちの指先を小さなふたつの手でそれぞれぎゅっと掴んで、震えながらも決して放さなかった。それがもう愛おしくて愛おしくて。絶対にこの子のお母さんになろうって決めたの」
溢れた涙を見て、「あらあら、泣くことができるようになったのね」と、母は子供の頃と同じように両手で私の頬を包み、おでこを合わせて安心したように笑った。