大地の記憶
12 Tertius 暗闇—Obscurity


「覚醒してから第七世界に戻るんだから別にいいでしょ?」
「覚醒は第七世界に戻ってからになる。ここで覚醒するわけにはいかないだろう。第七世界を第三世界に引き寄せたいのか」
 言われた意味がわからなくて、思わず首を傾げた。

 第八世界でのデート以降、口調が崩れたことが少しだけ嬉しい。
 相変わらずぼんやりとした表情に平坦な口調なのが少しだけ淋しい。

 覚醒はその世界で行う必要がある。第八も第九も、己と繋がる世界で覚醒している。第三であった義理の姉は、第三世界を第九世界に一旦移すために、第九世界で覚醒している。
 そう聞いて、だから羽を隠せと執拗に言うのかと納得した。

「覚醒すると向こうに戻されるのかと思ってた」
「あなたの意思だと言っただろう」

 一瞬、名前を呼ばれなかったことにショックを受け、ショックを受けたことに動揺する。呼ばれたかったのは私もなのか。
 一度呼ばれたらずっと呼ばれるものだと思っていた。口調が崩れて喜んだのに、名前を呼ばれないことにショックを受ける。少しどころかかなりショックだ。なんだか突き放されたような気持ちになる。

 胸にある結晶が共鳴せず、近くにいられるようになったというのに、放課後の教室での距離はそれまでと変わらず縮まらない。

「そういえば、覚醒ってどうやってするの? いきなり変わるの?」
 誤魔化すように言葉を続けた。自分すら誤魔化すように平静を装う。

「いや。徐々に切り替わっていく」
「どうやって?」

 その瞬間、世界が闇に包まれる。

 なんで? なんでわざわざこの空間?
──半分の半分は嫌なんだろう?

 心を見透かされていることに心臓が跳ねる。笑って誤魔化そうとして、この闇の中でそれは不可能だと諦めた。

 で? どうやって?
──交わり、が、必要だ。

 言い淀んだことに、私よりもずっと大人のこの男も、こと性に関しては口にし辛いのかと、変なところで感心する。だから、直接顔が見えないこの空間なのかと腑に落ちた。

 どうしてなんでもかんでも交わりが必要なの?
──命の根源だからな。

 そうだけど。で、つまりそれをしたら覚醒するの?
──いや。ただ交わるだけでは覚醒しない。身を預け、心を預けて初めて繋がる。繋がりが強まれば強まるほど、覚醒に向かう。

 最終的にどうなると覚醒するの?
──その時になればわかる。

 なんで教えてくれないの?
──察しが悪い。そういうことは自分で察するものだ。

 なにそれ。わざわざこの空間に連れてきてそれ?
──優羽。自分で考えなさい。

 ここで名前を呼ぶのはずるい。あとで穂住ちゃんに訊こう。

──自分で考えなさい。

 念を押された。感じ悪い。

 世界に光が戻る。

 いつも通り、入り口近くで足を組んで座っている男が、珍しいことにぼんやりとした表情のまま、腕を組んで眉間に皺を寄せていた。余程むかついているらしい。
 薄々察してはいるけれど、確かに口にするには気まずいものがある。ちょっとからかっただけなのに、そこまでむっとしなくても。

「そういえば、穂住ちゃんが出会ったっていう人、大丈夫そう?」
「ゼノの組織の人間だ」
「うそ! どうするの?」
「どうもしない。ゼノの選んだ男だ、信用できるだろう」
「穂住ちゃん、組織に取り込まれるの?」
「その方が安全だからな」
「つまり、霧が狙ってるってこと?」
「そうだ。あれは目が良すぎる」
 穂住ちゃんのことをわかっているような口調が、なんとなく面白くない。

 世界に生み出された存在だとしても、ただの人で、ただの女だ。
 くだらないことに一喜一憂する、ちっぽけな存在。それなのに世界を負わなければならない、大きすぎる存在。
 考えてしまうと足元が崩れていくような、そんな心許ない気持ちになる。



「ねえ、お父さん。どうして私のこと引き取ろうと思ったの?」
「どうしてだろうな。一目見た瞬間、そう決めたんだよ、私も、お母さんも」
「白い子供だったのに?」
「それは関係なかったな。ただ、なんていうのかな、単純に愛おしかったんだよ。優羽の存在そのものが」

 父が迎えに来てくれた車の中、久しぶりに降り出した雨が、フロントガラスに水玉模様を忙しなく作っている。
 父の声が優しい。少し前までは、そこに義理の姉に向けるものとの違いを探して、勝手に羨んでいた。今はもう、ただ嬉しいだけ。
 その心の変化の中心にあるものを考えると不安になる。

「今年は雨が少ないよね」
「春に何度も大雨が降ったからだろう」
「そうだっけ?」
「そうだっただろう?」

 ワイパーに邪魔にされた雨粒が、身を寄せ合ってひとつにまとまり、小さな流れをつくる。何度も何度も邪魔される度に、身を寄せ合ってひとつの塊になる。

「今回はどこの温泉だっけ?」
「下田だ。伊豆の」
「そうだった。気を付けて行ってきてね」
「優羽もな」

 組織に監視されている我が家は、ある意味防犯レベルがかなり高い。それを逆手にとって、父と母に一泊旅行を勧めたのは私だ。その間家から一歩も出ないことを条件に、定年後の楽しみとしてときどき二人で温泉旅行に出掛けている。

「そうだ、下田なら帰りに小田原に寄ってかまぼこ買ってきて。あの焼いたやつ」
「優羽はあそこのかまぼこ好きだな」
「うん。温泉まんじゅうよりかまぼこがいい」
「お父さんは干物の方がいい」
「イカの一夜干しは私も好き」
 そうだろう、と笑う父の穏やかさに救われる。楽しみで仕方がない様子に、一晩くらいと思える。

 彼らが出掛ける時、万が一を考えて私の胸に留まる血の結晶を二人に持たせている。だからこそ、私は家から一歩も出ない。
 あの結晶は、その空間を守る。万が一交通事故に遭おうが、飛行機が落ちようが、その結晶を持つものと同じ空間にさえいれば命を失うことがない。
 組織の監視がついていたとしても、突発的な事故は防げない。それこそ、姉の肉体が狙撃されたように。

 そのせいで一晩眠れなくなることくらい、二人の安全を考えれば些細なことだ。



 土曜日の芸術科はフリーだ。登校せずともよい。各自師事している先生のところでレッスンを受けるも、アトリエで一日過ごすも自由。美術を選択している私は自宅での活動を申請しているので登校しない。

 朝早くに出掛けた両親を見送り、冷蔵庫にしっかり用意されている今日の昼食夕食、明日の朝食昼食。母の作るご飯はおいしい。それをありがたく口にしながら、カーテンを閉め切った家の中で一日中新たなモチーフを考えたり、デッサンしたり、本を読んだり、映画を観て過ごす。
 日が暮れれば家中の明かりを全て灯し、家の中を明るくしたまま夜を明かす。

 あの男の闇は怖くないのに、一人きりの暗闇は怖い。

 あの血の結晶がないと、眠った瞬間おぞましい感覚に襲われる。
 初めは夢かと思った。けれど私は夢を見ない。
 調べてそれは、フラッシュバックではないかと思うようになった。

 それは、全てが鈍い感覚から始まる。
 何かが肌を這い回る気持ち悪さ。何かが身体の中に入り込んでくるおぞましさ。何かが身体の中から出ていく虚しさ。それが延々と続く。決まって最後には身体が引き裂かれるような痛みと、身体の中から何かが引きずり出される感覚で終わる。
 全ては曖昧で鈍いながらも、確かな感覚。
 何度も何度も、執拗に繰り返される行為。はっきりしないからこそひどく恐ろしく、おぞましい。
 私は、狂っていく私を止められない。

 初めてそれを体験したとき、目覚めた瞬間嘔吐した。体中をまさぐり、無事であることを必死に確かめた。

 両親にあの血の結晶を貸す度に浮かび上がる感覚。
 眠ることをやめた。
 たった一晩の我慢で、両親が羽を伸ばせるのであれば、眠ることなど簡単に諦められる。

 私は過去に嬲られたことがある。そう思うようになった。
 かつて私は嬲り殺された。執拗に。何度も。そう思うようになった。

 誰にも言えない。
 ゼノたちにさえ隠している。
 けれどいつか、あの男には暴かれる。私の半身だというあの男がそれを知った時、私はどうなってしまうのだろう。それを思うと怖くて仕方がない。

 二十六時を越えてなお、眠らずにただ映っているだけのテレビを眺める。
 深夜番組の妙なテンションに疲れ、コーヒーでも飲もうかとキッチンに向かおうとして、窓の外にある気配に気付いた。

「天哉?」

 ほんの少しだけカーテンを開けると、その隙間から見えたのは、完璧な遮蔽で姿を隠し、黒羽を広げて宙に浮かぶ代理教師。
 同じ存在の私には、そのコマンドは無意味だ。あの時のひかりさんの遮蔽も効果はなく、全てを見せつけてくれた。

 カーテンを開けると私の存在が組織の監視に見られる。今は、色のない本来の姿だ。見付かるわけにはいかない。
 慎重に、カーテンに姿を隠すよう、何気なく部屋の空気を入れ換えているふうを装いながら、窓をその存在が通り抜けられるほど開けた。
 監視はきっと親がいない合間に夜更かしでもしていると思うだろう。真冬の真夜中に換気するのは十分不自然だけれど、暖房が効きすぎたとでも思ってくれればいい。多少の不自然さは目を瞑ってほしい。

 窓を閉め、分厚いカーテンをきっちり閉め直し、振り向いた瞬間抱きしめられた。
 気持ち悪くないだろか、真っ白な私は。

「どうしたの? こんな夜中に」
「眠っていないことが気になった」
 分厚い胸板に顔を埋めたままそう聞けば、いつもと変わらない声音が返ってくる。
「逢いに、来てくれようとしたんだ」
「ああ」

 両親が一泊旅行に出掛けていると説明すると、そういうときは呼べ、と怒られた。抑揚のない声なのにそこに温度を感じたような気がして、肩の力が抜ける。
 ゆっくりと顔を上げれば、いつもと変わらないぼんやりとした表情。そこにそれまでとの違いを見付けられない。

 白い私を見てもそれまでと変わらなかった。色のある時と何一つ変わらない。
 あのとろりとした闇であれば、一人の夜も怖くないのかもしれない。

「私の体液を取り込むのは嫌か」
「それって、するってこと?」
「いや。血を取り込むだけでいい。一縷でも繋がっていたい」
「私は、つくりかえられる?」
 腕の中から見上げて訊けば、ほんのかすかな怪訝さを見せた。半分の半分であるこの存在に表情が浮かぶ時、それは強い感情を意味する。

「どうしてそう思う。あなたは何も変わらない」
 どうしてそう思ったのだろう。何かが変わるような気がしていた。まるで強迫観念のような、強い思い込み。どうしてそう思い込んだのだろう。

「何か、気になることでもあるのか」
 ぼんやりとした表情の中に、鋭く光る何かが浮かぶ。まさか──。

「あなたは、知ってるの?」
「何を思い出した」

 知っている。

「私は……、何回目の私なの?」

 その瞬間、彼の存在が解放された。

 世界が軋む。ゼノたちの悲鳴が聞こえたような気がした。

 本当だ。いざというときにコマンドを制御することは難しい。



 とろけるような闇の中。
 浮かび上がる白い存在。それを受けて浮かび上がる黒い存在。

 闇に消えていく艶めく声が、自分のものだと知るのは、たとえようもない快楽にのみ込まれた瞬間。

「や、消さないで。もう消さないで」

 揺さぶられ、知らなかったはずの快楽が解放される。

 私は知っている。この男の全てを知っている。
 どんな角度で口付けるのかも、どんな快楽を与えるのかも、どう支配するのかも、何もかも知っている。
 私の中にいるその形も、その指も手のひらも、舌の温度も柔らかさも、その肌の感触も、その腕の強さも、その想いの強ささえ、当然のように刻み込まれている。

 私は知られている。この男に全てが知られている。
 どうすれば重なる唇が開くのかも、どうすれば蜜が滴るのかも、どうすればひくつくほどに悦ぶのかも、どうすれば果てを迎えるのかも、何もかもが知られている。
 私の中がどうなっているのかも、どこをなぞれば色めくのかも、どこに唇を寄せれば音を奏でるのかも、どれほど愛しているのかさえ、当たり前のように知られている。

 それなのに、全てを消される。
 愛したことも、愛されたことも、全てを消され、再び始まり、そしてまた、狂う。

「お願い、教えて。ちゃんと教えて。消さないで」
 私の白に照らされて、かすかに浮かび上がる苦しそうな顔。その漆黒に口付ける。

 お願い。今の私を消さないで。好きになりかけているの。きっともっと好きになるから。かつて愛したどの私より、もっと愛せるから。今度こそ、覚醒するから。お願い。もう少し待って。
 世界より、あなたが──。