大地の記憶
11 Octāvus 名—Call


 眠りの中で目が覚める。
 矛盾した言い方。けれどそれ以外に言いようがない。

 私は夢を見たことがない。
 眠りの中で目覚める時は誰かがコンタクトしてきた時だけ。今まではゼノとその半身に限られたことだったのに、ここ最近はこの男に限られている。

 ふと気が付けば、浮遊感。
 とろりとした滑らかな黒にのみ込まれている。
 今日は嫌だったのに。

──どうして私の授業をサボった?
 顔を見たくなかったから。
──だから、なぜ顔を見たくなかったんだ。放課後も教室にいなかった。

 苛立ちを隠すその声に、少しだけ気が晴れた。

 触ってもいい?

 実際に触れているわけではないこの空間なら、自分から触れることができるような気がした。

 第八世界から戻って来た直後、あのお守りのような赤い結晶にこの男の血が混ぜられた。第三世界でもこの男に触れることができるように。両親もどうしてかそれに賛成した。父はともかく、母は安心したように笑っていた。

 ねえ、手、繋いでもいい?
──何かあったのか?

 何もないことなど知っているだろうに、今度は心配と不安が滲む。
 声に温度を感じる。声がちゃんと生きている。きっと聴きたいのはこの声。

 何もないよ。確かめてみようと思って。
──何をだ?
 それが何かを確かめたいの。ダメ?

 ゆっくりと伸ばした指先に何かが触れた。確かめるようになぞれば、それは指先の形をしていて、自分より長く骨張っていた。そのままその指をたどって手のひらに触れる。

 手のひらを指先でなぞると、大きな手に握り込まれた。父に似てまるで異なる男の人の手。
 第八世界で感じたような、何かを感じることがない。やはりこの空間ではわからないのだろうか。
 確かにある感触。体温。けれど、何かが違う。

──何かわかったか?
 余計にわからなくなった。

 ふと頬に触れた何か。もう一方の手のひら。指先がゆっくりと優しく頬をなぞる。胸に迫るのは、苦しいような、せつないような、それなのに嫌じゃない、何かを思い出しそうで思い出せない、よくわからない想い。

 触れてみたいと思ったのは確か。今はそれしかわからない。
 闇に吸い込まれていくのは、わからない何か。ここでは深く考えることができない。

 自分が知りたい。この人に何かを感じている自分を知りたい。

──デート、するか? 半分の私と。
 どこで? 第三世界では半分でいることは難しいんでしょ?



「なんでまた来んの?」
「デートだ」
 迷惑そうなひかりさんに、何食わぬ顔で図々しくも当然という態で答えている彼らの同級生。
 ひかりさんの横でのぞみさんが「いらっしゃい」と笑顔を向けてくれた。一瞬彼女に重なって見えた妖艶な表情を慌てて頭の隅に追いやる。

 この二人は、この小さなパラディススの中、閉じ込められているわけでもないのに閉じこもることを選んでいる。
 そこにお邪魔するのは気が引けるというのに、「ここなら半分は解放できる」と抑揚のない声で言いくるめられた。

 私が行き来できる世界は第六世界か第八世界。第六世界は今ちょうど過渡期だそうで、行ったら最後確実に身の危険だと脅された。
 本当に、異種と交わろうとする本能をどうにかするべきだ。そう文句を言ったら、かすかに笑われた。それがどうしてか哀しそうに見えて、そう見えた自分を訝しむ。

 私を、異種との交わりを禁忌とする第三世界で育てたかったと言う、その真意がわからない。
 おぞましさしか感じない行為だけれど、それはこれまでの世界の在り方に逆らおうとしているとしか思えない。それは第三世界のように進化を拒むことに繋がるのではないか。

「お前たちの邪魔はしない。勝手にその辺にいるから気にするな」
「気にするなって言われて、気にしないでいられると思うのか? 霧島は」
「私は気にしない」
「お前……性格変わってないか?」
 嫌そうな顔のひかりさんは、以前見た時よりも明らかに男らしくなっている。ほんのわずかな違い。けれど決定的な違い。

 彼らにとっては、ほんの数日前のことらしい。私たちにとっては、数週間、ひと月まではいかないくらいの時が過ぎている。
 ひかりさんとのぞみさんがこの世界に来て、第三世界では十年以上時が経っていると伝えたら、彼女はひどく驚いた。

「二、三年か、五年は経ってないかと思ってた」
 お土産にした購買のパックジュースを嬉しそうに受け取ってくれ、賞味期限の日付を見て驚いていた。
 放課後、いきなり「行きますよ」と言われ、慌てて購買にお土産を買いに行ったら、パックジュースしか残っていなかった。せめてコンビニに行くべきだった。

「霧島さ、その年で女子高生とデートはどうなの?」
 濃紺の制服の私と喪服のようなスーツの男を指さすのは、全身白を纏う男。その隣でにこやかに笑う半身もまた白を纏う。対照的だ。

「お前は人のことが言えるのか?」
「俺は肉体的にはのぞみと同級生だもん」
 精神的にも同級生じゃないかと、つい思ってしまった。

 確か第八は第二成長までに第三世界の人間の倍の時間がかかっている。私はこれまですんなり成長しているけれど、この先の成長が止まる。

「霧島、次来る時アイスとプリン買ってきて」
「いやだ」
「優羽ちゃん、お願いね。支払いは霧島にさせていいから」
「行くぞ」
 ひかりさんに答える前に、手を取られてその場から連れ出された。手を引かれながら小さな家の前に並んでいる二人を振り返り会釈すると、揃って手を振ってくれた。

 握られている手が妙に恥ずかしい。
 けれどそれより、すぐ前を大股で歩く男が怒っているような気がして仕方がない。手を引かれるまま小走りでついていくことに必死になる。
 淡いきらめきの中にある木立に足を踏み入れた途端、その速度が落ちた。

「なんで怒ってるの?」
「別に」
 その声がふてくされていた。息を整えながら顔をのぞき込めば、むっとした表情に加え、眉間に深い皺を刻んでいる。

「私、何かした?」
「いや。あなたじゃない」
「ひかりさん、何かした?」
 怒りの矛先はのぞみさんじゃないだろう。「アイス買ってきて」が、そんなに嫌だったのか。

「あなたの、名を呼んだ」
「前に来た時自己紹介したからじゃない?」
「そうじゃない!」
 初めて聞いた怒りを含んだ声に、びくっと肩が跳ねて足がすくむ。

「ごめん。あなたが悪いわけじゃないんだ」
 足を止めた私に向き直り、真っ直ぐに見下ろされる。繋いだままの手から伝わってくる体温が、ゆっくりと時間をかけて、縮こまった身体から余分な力を奪っていった。

 じっと見つめ合うことに、恥ずかしさよりも興味が勝る。
 ゆっくりと怒りが解けていき、情けない顔に変化していく。その表情から目が離せない。

 そっと伸ばされた手が、頬に触れる。
 あの闇の中と同じ行為。それなのに、心臓が跳ねた。頬に熱が集まる。
 急に、繋がれている手も、頬に触れている手も、目の前にいるその存在そのものにも、余計な意識がどんどんとあやふやに積み重なっていき、気を抜いた途端崩れそうになる。
 何もかもが恥ずかしくて、俯こうとすれば頬にある手に阻まれた。

「優羽」

 耳を震わせた声に心が驚く。体中の力が抜けてしまいそうだった。
 耳から支配される。
 誰に呼ばれてもきっとこうはならない。そんな気になるほど、自分でも驚くほど心が激しく揺れ騒いだ。
 うるさく痛いくらいに強く脈打つ鼓動。顔に熱が集まっていく。握られた手が熱い。触れられている頬が熱い。息が上がりそうになる。胸が苦しくて、息が詰まりそうで、くらくらする。

「名前、呼んで」
「霧島、さん」
「違うだろう? わかっててはぐらかすな」
 はぐらかしたくなるほど、それは恥ずかしい。見下ろされる真剣な表情がとにかく恥ずかしい。顔を逸らしたいのに、頬にある手がそれを阻む。そっと添えられているだけなのに、絶対の力で私を縛る。

「年上、だし」
「関係ないだろう」
「だって……」
「いやなのか?」
 せつなそうに悲しそうに眉を寄せるのは卑怯だ。

 表情を見たいと思った。声に温度がほしいと思った。何を考えているのか知りたいと思った。何かを確かめたかった。
 けれど、いきなりこれはない。そんな目で見ないでほしい。そんな声を聴かせないでほしい。
 そのせつなさも渇望も、知ってしまえば暴かれそうで怖い。

「天哉、さん」
「天哉でいい」
 そんな顔しないで。そんなふうに笑わないで。

 本当の名前はきっとそれじゃない。そもそも名前などないのかもしれない。それほど遠い存在。
 あまりに嬉しそうに笑うのは、もしかして、ただ、呼ばれたかった? どんな名前だろうと、ただ、その存在を知ってほしかった? 呼んでほしかった? 
 わかってしまったら、もう呼ばずにはいられなくなる。
 だから、知るのが怖い。知れば知っただけ逃れられなくなる。もがけばもがくほど囚われる。

「どうして、泣くことを教えたの?」
「私のために流す涙が見たかった」

 目元を優しく拭われる。
 その指が、涙だけじゃなく頬にも触れた。それに私のどこかが歓んでいる。

「思っていた以上に、嬉しいものだな」

 名前すら呼ばれることもなく、それすら忘れられ、ただ孤独を抱えて果てのない時を彷徨う。
 気付いてしまったら、その孤独を想わずにはいられない。
 心が勝手に震えて、涙を流す。

「天哉」

 嬉しそうに笑うその顔を、ずっと見ていたいと思ってしまう。何度も見たいと願ってしまう。それは、私の身を滅ぼしかねないというのに。