トウメイノチカク
§3 テータ① 七海は夢を見ていた。
夢の中で「これは夢だ、これは夢なんだ」と意識の裏に刷り込まれていく。
彼らは執拗だった。
ミツヤを守るためだ、そうしつこく繰り返された。
絶対に嫌だった。最後まで抵抗した。
それなのに──。
夢の中でさえままならない。
七海は叫び声で目が覚めた。目覚めて初めて、自分の喉の奥から呻くような叫びが絞り出されていたことに気付く。同時に、水の中に長く沈んでいたような息苦しさに襲われ、胸を押さえながら何度も荒い息を吐いた。
そこは淡い光に満ちていた。
薄いカーテン越しの光に違和感を覚え、七海は息を整えながら目を眇めて訝しんだ。もうずっと、何もかもが褪色して見える仄淡い光の中にいたような気がした。
「なな、み……」
ベッドサイドには驚いたように目を見開き、次第にその目を潤ませ、ついには泣き出した美帆の姿があった。
美帆は何度も嗚咽を堪えながら、七海にこれまでの経緯を語った。
七海はひと月以上も行方不明だったらしい。
航空機事故──その記憶は七海にもある。
事故現場から漂流した七海は、とある小島に流れ着いたらしい。運び込まれた島の診療所で意識の回復が待たれたもののなかなか目覚めず、そこから一番近いもう少し医療施設の整った別の島の病院に搬送され、そこでようやく関係各所に連絡がいき、結局意識が戻らないまま日本に搬送されてきたのは事故からひと月以上も経ってからだった。
「私がおたふく風邪にならなきゃ……」
そう言って泣き崩れる美帆に、七海の口から意図しない言葉が紡がれていった。
「ごめんね、美帆には連絡できるって聞いていたのに、ごたごたして連絡できなくて……」
え? と美帆が涙に濡れた顔を上げた。
「連絡?」
「そう、美帆とは連絡取れるって聞いて……いた、はず……なんだけど……」
不意に七海の頭の中が霞んだ。その先の言葉が続かない。自分が何を言っているのかさえわからなくなる。七海の狼狽える姿を見た美帆は慌てて医師を呼びに行った。
その後、駆けつけた医師にさらに詳しく説明された七海は、どうにも腑に落ちない違和感に眉をひそめていた。
ひと月以上寝たきり──その事実が何よりも七海を混乱させていた。それにしては筋肉の衰えもなく、声のかすれもない。多少のふらつきはあるものの、自分の脚で立ち上がることもできる。航空機事故に遭って漂流していたにしては肌つやもいい。どこか怪我をした様子もなければ、その痕跡すら残ってない。七海の躰は正常すぎるほど正常だった。
七海の不審を横目に、医師は何食わぬ顔で診察を続けた。
医師からの質問に答えるうちに思い出した直前の記憶が七海の違和感に拍車をかけた。
飛行機が海に不時着するというアナウンス、機内の混乱した様子、悲鳴に怒号、死の予感……。全て覚えているのに、肝心の何かを思い出せない気がしてならない。
ふと七海の指先が無意識に唇に引き寄せられた。唇に何かの感触が残っているような気がした。躰の中に残る何かの余韻が七海の胸を騒がせる。
様々な検査を経てどこにも異常がみられなかった七海は、目覚めた三日後には退院していた。
家に戻った直後、それこそ玄関ドアが閉まると同時に、七海は目覚めてからずっと感じていた違和感を美帆に打ち明けた。
「何もかもが変な感じ。ひと月以上も意識不明だったいうのがそもそも信じられない」
病院ではどこかに監視カメラがありそうで言い出せずにいた。監視カメラの存在なんてこれまで気にしたこともなかったのに、自分でも不思議なほど気になって仕方がなかった。
七海が目覚めた翌日、両親がそれぞれ時間をずらして面会に来た。
二人とも七海が目覚めたことを喜んでいるようで、その実、二人揃って目の奥に困惑が見え隠れしていた。美帆がそつなく七海が回復するまで一緒に暮らすことを申し出ると、二人ともあからさまにほっとして、そそくさと病室を後にした。
二人が帰ったあとで深い溜め息を吐く七海を、美帆が労りの視線で慰めてくれた。
家の玄関に足を踏み入れるときにも七海は何かを強く感じた。何もないのに何かあるような、なんとも言えないこの不思議な感覚を知っているような気がして、それなのにそう感じることが自分でも理解できない。
家の空気を吸い込んだ途端、七海は懐かしさと同時にやはり微かな違和感を覚えた。
どこかピントが合っていないような、ほんの微かなブレがあるような、目覚めた直後から全てにおいて言いようのない違和感がどうしても付き纏う。
「あのお医者さんも上手く隠していたけど、七海が普通に元気で驚いてたよね」
互いに靴を脱ぎ、勝手知ったる美帆とともにリビングに移動する。
なにより、七海の発見自体が世間に隠されていた。
「私もちゃんと説明してもらってないんだよね。七海のお父さんやお母さんもざっくりとしか知らされてないみたい。機密だとかなんとか言われて、とにかく『無事でよかったですね』の一点張り。実際その時は無事でよかったって気持ちがとにかく大きくて、細かいことに気が回らなくて、そのうち色々わかるだろうって思ってたんだけど……」
事故からひと月経っての生存者発見はセンセーショナルな話題だろうに、マスコミはその一切を報じていない。
美帆が七海と面会できたのは七海が目覚める三日前。まず最初に連絡がいったのは両親ではなく美帆で、日本に搬送されてきた翌日のことだったらしい。
いつもの定位置である、テレビに向かって置かれているソファーに並んで腰をおろす。慣れ親しんだ古びたソファーの立てる軋みにほっと息を吐きつつ、七海はふと、ソファーってこんな座り心地だったっけ? とまたもや違和感を覚えた。確かにこのソファーの座り心地はこんな感じだったのに、別の座り心地を想像していたような気がする。
「ほら私たち、おたふく風のことで直前に航空会社に連絡してたでしょ、それで私のところに連絡が来たみたいなんだけど……でも普通は緊急連絡先に連絡がいくよね」
七海のパスポートの緊急連絡先は父親になっている。にもかかわらず美帆に連絡がいき、美帆の判断で両親に連絡がいった。
「なんで私が最初なんだろうってちょっと疑問で、大使館の人にそれとなく訊いたら、なんとなくだけど、七海とご両親の関係を知ってるような気がして、大使館の職員がなんで七海の家庭事情を知ってるんだろうってすっごく疑問で、ご両親にさり気なくお知り合いですかって訊いても二人とも知らないって言うし……他にも些細なことなんだけどなんとなく、ん? って思うことがちょこちょこあって……」
七海が入院していた病院がそもそも一般の病院とは違っていた。いわゆる要人専用の病院だったようで、湾岸に立つマンションの一室のような病室はトイレやお風呂、付添人用のベッドルームや応接室、キッチンまで備え付けられていた。そんな保険が利かないような豪華な病院なのに、支払いは一切発生しなかった。付き添っていた美帆にも三食きっちり豪華な食事が用意されていたにもかかわらず、それすら請求されていない。
「事故原因が何かの機密とか?」
七海の推測に美帆はかぶりを振った。
「たぶん違うと思う。事故自体は報道されているし、奇跡的に助かった人たちにマスコミが大騒ぎしてたから……」
ふと思い付いたことを七海は口にする。
「ねえ、助かったのってビジネスクラスの乗客? 奇跡の生還って言われてた?」
目を見開いた美帆が「なんで知ってるの?」と驚きの声を上げた。
「わからない。知ってる気がして……ニュースを見たような……そんな気がしただけなんだけど、そんな気がしただけでそんな記憶はなくて……でもそんな気がすごくするっていうか……言ってることわかる?」
たどたどしく説明する七海に、美帆は僅かに首を傾げながら「わかるような気がする」と呟いた。
「既視感っていうか、デジャヴみたいな感じに近い?」
「そうかも。私は助かってるって知っていた気がする。で、私が無事であることを美帆には連絡しようと思っていたはずなんだけど……」
不安に顔を歪める七海を気遣わしげに見つめていた美帆は、はっとしたように「そういえば」と声を上げた。
「あのとき、私には連絡していいって聞いてたって、七海言ったよね」
「たぶん。もうあの時自分が何を言ったのかもちょっとはっきりしないんだけど……」
「それって誰かにそう言われてたってことでしょ?」
窓の外に広がる青すぎる空に、七海は何かを思い出しそうで思い出せないもどかしさに苛々する。
「そうだと思う。でも誰に言われたとか、本当に言われたことだったのか、その辺はっきりしなくて……。妙にはっきりした夢を見て、目覚めた途端忘れちゃった感じ。でも夢だとはどうしても思えなくて、自分でもなんだかよくわからなくて……」
とても大切な何かを失くした気がする。何を失くしたのかはわからないのに、わけのわからない絶望感だけが七海の中に残っている。
「だとしたら、七海が叫びながら起きたのって……」
「すごく抵抗していた気がする。絶対に嫌だって、それこそ泣き叫んでいたような……」
七海にその時の感情がぶり返した。まるで身を切られるような苦痛。
「すごく大切なものを失くしたような……」
七海の感情が伝わったのか、美帆まで泣きそうに顔を歪めた。
七海も美帆も他人の感情を気にしすぎてしまう性質だった。
二人が出会ったのは中学生の時で、その出会いが互いの精神を安定させたといってもいい。別々の高校に進学しても定期的に会い、互いの存在が互いの勇気になるような、互いが互いの絶対的な味方だった。
口にする言葉や表情と実際の感情が同じ人は少ない。本音と建て前を過敏に感じ取ってしまう性質は、神経をざりざりと荒いヤスリで削られるような痛みを伴う。他人から伝わってくるネガティブな感情に振り回されてしまう二人は、二人でいる時は思っていることを素直に吐き出し、どんな表情も取り繕わないことにしている。わかり合えないことはわかり合えないまま、お互いの考えを否定しないでそのまま受け入れる。それが互いの心を安定させた。多感な時期ということもあって、感情の棘に囲まれて凝り固まっていた心が、二人でいるときはゆるゆると解れて楽になれた。
急に立ち上がった美帆は、「お水もらってもいい?」と食品庫に常備していた五百ミリリットルのミネラルウォーターを二本取り出し、一本を七海に手渡した。同時にかちっと音を立ててキャップをひねり、直接ボトルに口をつけて喉を潤す。ふーっと息を吐くタイミングも同じだった。
ひと息吐いた美帆が七海をまじまじと眺めながら、思い切ったように口を開いた。
「あのね、七海には間違いなく何かがあったと思う。七海、最後に会ったときと比べてすごく変わってるから。すごく綺麗になった。女らしくなったというより、女だったことを思い出したって感じ。内側から七海らしさが湧き出ているようなすごく自然な女らしさ。ほら、よく花が綻ぶようにって表現があるでしょ、そんな感じ」
美帆は一気に言い切ると、再びミネラルウオーターをごくごく飲んだ。
このマンションにはもう何年も七海が一人で住んでいる。子供の頃から両親は示し合わせたかのように交代で帰ってくる、そんな家庭だった。両親はそれぞれ自分の帰る場所を他に持っていた。
ふと、七海にも帰る場所があるような気がした。
七海が感じているこの違和感は、長い間眠っていた弊害のようなものなのだろうか。錯覚とは思えない、肌が覚えているとでもいうような、奇妙な感覚が確かにある。
「私、記憶喪失なのかな」
「一ヶ月以上意識がなかったって感じじゃないよね」
そうきっぱり言い切った美帆に七海は頷く。美帆の考えが客観性を欠いて七海寄りになっていたとしても、やはりどこか噛み合わない違和感があるのは間違いない。
「実はね、目覚めてから気付いたことが三つあるの。ちょっとどころかすごく変なことなんだけど……」
「なに?」と美帆が真剣な顔で七海を見る。
「私って、視力悪かったよね」七海は美帆が頷くのを見てから続けた。「今コンタクトも眼鏡もしてないんだけど……」
「でも一歩も歩けないほど悪くはなかったでしょ?」
美帆は視力がいい。そのせいか視界の不明瞭さを知らない。
「そうなんだけど、コンタクトしてないのにしているとき以上によく見えてるの。気持ち悪いくらいくっきりはっきり見える」
「視力が回復してるってこと?」
「回復どころじゃないと思う。子供の頃から見ている景色なのに、今まで見えなかったところまではっきり見える」
窓の外を見ながら話していた七海は、観察するような美帆の視線を感じていた。
「他には?」
「奥歯にあった銀の詰め物がなくなってる」
「あの保険のきかないセラミックの詰め物に替えたいって言ってた?」
「そう、いつの間にかセラミックに変わっていたのかと思ってじっと見るんだけど、そもそも虫歯があった痕跡がない」
口を開けた七海の口内を覗き込んだ美帆が首を傾げた。
「うーん、歯医者じゃないからよくわからないけど、治療の痕って感じじゃないような……」
「でしょ。あの銀の詰め物はずっと気にしてたからちょっとびっくりして。でも病院でそれを言ったら入院が長引きそうで黙ってた」
うーん、と唸りながら美帆は眉を寄せた。
「でも、調べてもらった方がよかったんじゃない?」
美帆は複雑な表情を見せた。僅かに感じる羨望は当然の感情だろう。
美帆は高二の夏に突発性難聴を患い、完治に近い状態までは回復したものの、未だ聞こえづらさや耳鳴りに悩まされている。
「なんとなくなんだけど、こうなってる理由を知っているような気がする。そういう状態になっていた自分を知っていたっていうのかな。おかしいって思っているのに、そのことに不安がないってことがかえって不安って言うか……」
「宇宙人に誘拐されてたとか? なんかそんな話あったよね」
美帆が小さく笑いながら場を和ませようとする。
「さすがに宇宙人はないよ。でも、視力の回復とか治療痕が消えるとか、確かにそれっぽい」
「で、もう最後の一つは?」と訊いてきた美帆に、七海は気まずそうに口にした。
「あそこのね、毛がない」
「あそこって、まさかあそこ?」驚いたように美帆が目を丸める。「まるっきり?」
「まるっきり。脱毛した感じでもなくて、最初から生えてなかったみたいにきれいなの」
脇と鼻はバイトの都合で美容外科に通いレーザー脱毛していたが、アンダーは未施術だった。
「ひと月寝たきりだとしたらそれってすごく不自然だよね。目や歯は何かのショックで回復したとか自己再生能力が爆発したとか、人体の神秘的な何かがあったのかもって思えるけど、あそこの毛は……むしろ剛毛になってる方が理解できるような……」
七海が顔をしかめると、美帆が「だって再生能力が爆発したらもっさもさになりそうでしょ」と苦笑いする。
「まさかそれも七海はなんとなく納得できてたりするの?」
「なんとなくなんだけどね。だからどれもびっくりするっていうより、やっぱりそうだよねって妙に納得しちゃってるのが自分でもわけわかんないっていうか……」
うーん、と再び美帆が唸った。
「記憶喪失かあ……」
眉を寄せながら唸る続ける美帆に七海も眉を寄せ唸るように言った。
「そんな気がするんだけど……」
互いに顔を見合わせ黙り込んだ。
泊まっていくと言う美帆に七海は「一人になって色々考えたい」と正直に告げた。美帆は心配そうにしながらも、七海の意思を尊重してくれた。
玄関で美帆を見送り、一人になった途端、七海は耐えきれずその場にうずくまった。
何を失ったのかもわからないのに胸をかきむしりたくなるほどの耐え難い喪失感が付き纏う。
何もわからないのに一刻も早く何かをしなければ間に合わないという切迫した焦燥感に突き動かされる。
思い出せない苛立ち。
そこかしこに潜んでいる違和感。
何が不安なのかもわからない不安。
まるで躰の半分が消えてしまったかのようで、あまりの心細さに七海は膝を抱えて小さく丸まった。