トウメイノチカク
§3 テータ② そこかしこに見え隠れする違和感を一つ一つ拾い集めながら、七海は徐々に日常を取り戻していった。
七海が航空機事故に遭ったことを知る人は少なく、そのおかげで何事もなく日常に戻ることができた。
「ミツヤ?」
バイト先に顔を出すと、事務所内にいた全員の視線が集中した。唖然とした顔が多い中、七海のスケジュール担当者が真っ先に我に返り、一目散に駆け寄ってきた。彼女は問答無用で七海の腕を取り、強引に会議室に引っ張り込んだ。
彼女に腕を掴まれた途端、七海は今まで感じたことのない恐怖にも似た嫌悪感が込み上げた。小さな悲鳴を呑み込みながら、なぜそう感じるのかがわからず困惑する。
「ミツヤ、やった?」
会議室の扉の鍵まで閉めた彼女から、押し殺した声でズバリと訊かれた七海は、直前の嫌悪感を上回る不快感から眉をひそめた。
「何を訊かれているのかわかりませんが、やってません」
おそらくドラッグかセックスのことだろうが、その両方とも身に覚えはない。
「ミツヤ、自分の姿わかってる?」
多少女性らしくなったことは美帆にも指摘されていた。自分でも認めるところだ。ただその変化の理由が七海自身わからないままだ。
「まずいよ、もう今までの売り方ができなくなる」
「クビですか?」
「クビじゃない!」即座に否定した彼女は苦いものを呑み込んだように唸った。「だけど、間違いなく不本意な憶測が流れる。路線変更するには少し時間をおかないと……」
腕を組み考え込んだ彼女はぶつぶつと独り言を繰り返している。
七海はモデルのバイトをしていた。
今は七海のスケジュールを担当している彼女がSNSで七海の隠し撮りを見かけ、七海を口説きに学校まで来たのだ。ジェンダーレスモデルが七海の主な収入源だ。女であることは公表されているものの、これまで男とも女ともつかない存在だった七海を急に女性モデルとして使うわけにもいかないだろう。
ジェンダーレスという言葉の持つ重みとファッションとしての軽さ、七海自身もその均衡を保つことが難しく、いい潮時だと考えていた。
「ちょっとここで待ってて」
そう言って慌てて会議室から出て行った担当は、いつも七海をメイクしているもう一人の担当者を連れてきた。
「あれ、ミツヤ? うそ、やった? やりまくった?」
さすがに七海も彼女たちが何を言っているのかを察した。
マネージャーのようなスケジュール担当は三十代の知的美人、スタイリスト兼メイク担当は年齢不詳の優艶美人だ。モデル業界は裏方まで綺麗な人が多い。造作そのものを凌駕するほどに、彼女たちは仕草や雰囲気が美しい。にもかかわらず、時々口から下品が転がり落ちる。
「やってません」
「そんなわけない。間違いなくやった躰になってる。しかも、ちゃんと感じる躰に」
やだあ、エローい、きゃー、とふざけながら躰をくねらせるメイク担当は、急に真顔になり言った。
「で? 媒体変更する?」
「雑誌以外はミツヤ本人がNG出してますから」
「なに、ミツヤってばショーはダメなの? その身長ならなんとかいけるでしょ」
ふと、七海はそれまで以上に肌の露出を控えようと思っていることに気付いた。それまでは単に男顔の七海が肌を見せる価値はないだろうという卑屈な理由でNGにしてもらっていた。今は肌を見せること自体がNGだと思っている。その変化がどこからきたのかを七海は訝しんだ。
「ミツヤは元々こっちが頼み込んで来てもらってるんですよ。さっきも『クビですか?』って嬉しそうに言ってたほどで……」
七海を置き去りに二人の会話は進んでいく。タイプの異なる美人たちは難しい表情で考え込んでいても絵になる。
「ショーがダメならもしかしてCMも?」
どちらも動きが必要になる。事務所の意向でレッスンは受けていても、アイドルなどの付加価値があるわけでもない七海が使い物になるとは思えない。
「NGです。何度か話はもらっているんですけどねえ、勿体ない」
「あの」と七海が声を上げると、「やめるのはナシだからね!」と美人二人の声が重なった。
「でも、どっちにしてもしばらくは無理そうなので……」
結局、登録はそのまま保留し、当面は休むことになった。
しばらく仕事ができない理由を執拗に尋ねてくる二人に、七海自身よくわかっていないことを正直に告げた。
「自分探しって言ったら笑いますか?」
「笑わない。今のミツヤ見ているとそれもありかなって思える」
メイク担当が艶っぽく笑う。
「ミツヤをここまで劇的に変えた男、見てみたいわあ。何この肌つや」
その言葉に七海は考え込んだ。女という生きものを見続けてきた彼女たちが言うのだ、間違いないだろう。記憶がないだけで自分でもそれまでとの差異を感じている。それまで知らなかった何かを躰は知っている。
「ミツヤ、本当は私の立場でこんなこと言うのは間違ってると思うけど……」
僅かな躊躇いのあとスケジュール担当が続けた。
「でもその彼氏、逃しちゃダメだと思う。不倫とか訳ありじゃないなら追いかけた方がいい」
彼女が何を察したのか七海にはわからない。ただ、しきりに頷くメイク担当と一緒に執拗に七海を焚き付けた。
事務所まで七海は電車で来た。
電車に乗っているときに、極端に他人に触れらることを避けていることに気付いた。それまでも不必要な接触は避けてきたつもりだが、それでも満員電車などでは仕方のないことだと割り切っていた。それが今は、満員電車そのものを避けるべきだという強迫観念にも似た思いがある。
触れたくも触れられたくもない。異性ばかりか同性までも。なぜそう思うのか、そこがきれいさっぱり欠けている。
帰りの電車は行きの電車より混んでいた。
混み合う扉付近は避けて中程まで進み、吊革に掴まる。それまでと同じユニセックスな服装なのに、地下鉄の窓に映る七海はどこから見ても背が高いだけの女性に見えた。これまで七海自身ではどうしても変えられなかった何かが劇的に変わっている。
電車の揺れが胸に痛みを与える。
昨日あたりから胸が張って仕方がない。時間の経過とともに胸が少しずつ膨らみ、皮膚が引き攣れたように痛む。その痛みすら、七海は知っているような気がするのだ。思春期の胸の張りと似た痛みをつい最近もどこかで感じていたような、そんな気がして仕方がない。
病気ではない。具体的に思い浮かぶ病名どころか理由すらもわからないのに、きっぱりと否定できる。周囲に散らすようにマッサージすればいいという具体的な対策まで頭に浮かぶ。
七海は自分が記憶を失っていることを今やはっきりと自覚していた。
このひと月の記憶がない。七海の躰に変化を与え、様々な感覚だけを残して記憶だけが消えている。
乗換駅で足早にホームを移動する。
考え事をしていたせいか足元が疎かになり、思いっきり躓いた。バランスを欠いた躰は傾き、転倒を覚悟したその時、空気が七海を押し上げた。ふわりとした何かの感覚。
「誰?」
転倒を免れた七海は小さくも鋭い声を上げた。間違いなく誰かが傾いた躰を支えてくれた。目には見えていない透明な存在。そんな馬鹿な、と思いながらも、誰かが助けてくれたことを疑う余地はなかった。
七海はしばらくの間その場で目を凝らし、些細な変化も見逃さないよう辺りをじっと窺っていた。
家に戻ってからも駅での出来事が七海の頭を離れない。どれだけ目を凝らしても何も見付けられなかった。美帆が言っていた宇宙人誘拐説が馬鹿馬鹿しくもしつこく頭に浮かび上がってくる。
助けてくれたその腕を七海は知っている。それは確信に近い感覚。あれは間違いなく誰かの腕だった。誰かの腕が七海を抱き留めたのだ。思わず七海が縋り付こうとした瞬間、すっとその気配は消えてしまった。
「いたっ」
顔をしかめながら七海は自分の胸を見下ろした。また少し膨らんだような気がする。痛みが少しずつ強くなっている。
食事する気もおきず、帰りがけのコンビニで何気なく手に取ったゼリー飲料を口に含む。こんな味じゃなかったような、と首を傾げながら、ゆっくりと喉の奥に流し込んだ。
多くの犠牲者を出したあの航空機事故は、もうすでに過去の出来事になっていた。当事者だけが取り残され、途方に暮れたままどこにも動き出せずにいる。
七海は病院で目覚めて以来、ぼんやりすることが多くなった。気付くと平気で一時間や二時間経っている。
今もカーテンを閉めた後、ソファーに座り取り留めもなく思いを巡らせているうちに、気付けば今日が終わろうとしていた。胸の痛みがなければそのまま朝を迎えていたかもしれない。
ゆっくり湯船に浸かりながら胸をマッサージする。やり方が悪いのか、痛いだけで一向に改善しない。このままだと皮膚が裂けてしまいそうで、湯上がりに丁寧にオイルを塗り込む。痛みに涙が滲んだ。やりきれない思いが爆発しそうだった。一体何を忘れているのか。何もわからないのに何かの感覚だけがそこかしこに残っている。
オーバーサイズのシャツだけを羽織り、日課だったストレッチすらする気にならず、七海はベッドに潜り込んだ。今まではきっちりルームウェアを着ていたのに、今はどうしても着る気にならない。
胸の痛みが眠気を遠ざける。仰向けになり胸を揉んでも痛みは引かない。
七海は疲れていた。何もかもが億劫だった。
自分の中に残る感覚に振り回され、自分の感情すらコントロールできない。込み上げてくる何かを必死に呑み下しながら、ふと意識を失うように眠りに落ちた。
吐息に熱がこもる。ゆっくりと胸が揉みしだかれるたびに、躰の中に何かが流れ出す。込み上げてくるものを渡そうとして、どうすればいいのかわからず七海は途方に暮れた。
泣きたくもないのに泣きそうになって顔が歪む。
ふと唇に触れた何かに、七海は込み上げる全てを委ねた。
そうだ、こうやって渡す。その感覚が蘇る。
七海の腕が自然と上がり、目の前の何かをそっと抱きしめた。唇に当たる何かの角度が少し変わった。舌を差し出せば、優しく絡め取られる。もっと確かな繋がりが欲しくて、七海は抱きしめる腕の力を少し強めた。
はっと気付くと、朝だった。
胸の張りが消えていた。
七海は堪えきれずに泣き出した。
圧倒的に何かが足りない。あるはずの何かが足りないことだけしかわからない。それがせつなくて苦しくて、ぐちゃぐちゃになった感情が涙となって流れていった。
「七海? ちょっと大丈夫?」
インターホンの音に七海は気怠い躰を引き摺りながら対応する。訪ねてきたのは予想通り美帆だった。一人になりたいと来訪を断り続けるのも限界だった。
「たった三日でなんでそんなにやつれた?」
心配そうに眉を顰める美帆に、七海は小さく首を傾げた。
「やつれてる?」
「やつれてる。生気がない。ちゃんと食べてるの?」と言いながら美帆はリビングを見渡し、キッチンに向かうとダイニングテーブルの上に無造作に置かれたものを見てしかめっ面で振り向いた。「まさか、この飲むゼリーしか口にしてないとか?」
「食欲なくて」
一層顔をしかめる美帆が大股で近付き、七海のおでこに手のひらを当てた。美帆の手には嫌悪感がない。そのことに七海は、生きていることを実感するのと同じくらい、心の底からほっとしていた。
「微熱。いつから?」
「昨日からかな」
ぺたん、と手のひらで軽く七海のおでこを叩いた美帆は、再びキッチンに向かう。
「原因は?」
コンビニで買ってきたものを冷蔵庫に入れながら美帆が振り向く。
「精神的なもの」
「だろうね。で? 私に話せること?」
美帆が冷蔵庫の扉を閉め、七海に向き合う。
「わからない。わからないことばっかりで自分でもわからない」
泣き出しそうな七海を見上げた美帆は、しかめっ面を緩め、仕方ないなと目尻を下げた。
「わからないことをわからないまま話してみなよ」
小柄な美帆が七海の背に手を当て、そっとソファーに促す。七海をソファーに座らせると、美帆はキッチンでロイヤルミルクティーを丁寧に作った。
美帆からマグカップを手渡され、一口飲んだ七海は、夏の終わりだというのに、躰にあたたかさが染み渡っていくのを感じた。
「私、きっと好きな人がいたんだと思う」
「記憶のないひと月の間に恋したってこと?」
「恋なんて簡単なものじゃなかったと思う。もっと深くて、苦しくて、せつなくて……」
七海の目から涙が零れ落ちる。美帆が手渡すティッシュで涙を拭いながら、七海は思い浮かぶまま続けた。
「躰の中にね、何かが残ってるの。何かわからないけど、でも何かが残ってて、それがせつなくて……」
美帆までせつなそうに顔を歪めた。
「近くにいるような気がする」
そして七海は、駅での出来事と胸の張りが消えたことを包み隠さず話した。
「透明人間ってこと?」
「わからない。でも見えないだけで近くにいる気がする」
「今も?」
ぎょっとする美帆に七海はかぶりを振った。
「今はいない。でも夜中に気配を感じる」
あの日から毎夜、夢の中でキスをしている。それは夢であって夢ではないと七海の中の感覚が告げていた。
「夢の中のキスかぁ。ロマンチックだけど、実際そうだとしたらちょっと怖いね」
しゃくり上げながら七海は首を傾げた。
「なんで?」
「だって、不法侵入だよ? 実際に透明人間なんているわけないんだから、七海が寝ている間に誰かが忍び込んでるってことでしょ? ちゃんとU字ロックもしてる?」
「してないけど……」
あまりに現実的な美帆の話を聞くうちに七海の涙は引っ込んだ。洟をかんだら少し落ち着いた。
「ほら、この家ひと月も空き家だったんでしょ? その間に誰かが忍び込んで合い鍵作ったかもしれないよ」
そういえば、と七海は思い出した。
「ねえ、この家の掃除って美帆がしてくれたの?」
「ん? してないけど……。え? 七海のお母さんがしたんじゃないの?」
「してないと思う。あの人はそういうことしないから。必要ならプロを入れるような人だもん」
「じゃあ、プロが入ったとか?」
「たぶん違う。プロが入ったなら水回りの封水が切れてるはずないから」
「ふうすいって? 風水のこと? 金運アップとかの」
美帆が訝しげに顔を傾げた。
「違う。洗面所の下で配管がぐにって曲がってるでしょ? そこに水が溜まってるから配管から上がる臭気とか虫なんかを防いでいるだって。でも水を流さないでいるとその溜まってた水が乾上がってちょっと臭う」
「臭ってたの?」
嫌そうに眉を寄せる美帆に七海は苦笑いで応える。
本当は何も臭わなかった。からっからに乾いていたにもかかわらず、臭いがしなかった。
ここは築二十数年の古いマンションだ。配管が臭わないわけない。トイレの封水も切れかかっていた。
「そんなことよく知ってるね」
美帆がしきりに感心している。美帆の家はまだ築浅の一軒家だ。彼女の兄が結婚する際、二世帯住宅に建て替えている。
「まあね。ほら、高二の夏休み中美帆のとこにずっとお世話になってたでしょ」
突発性難聴を発症した美帆は、予後の耳鳴りにひどく悩まされた。徐々に回復していったものの、当初はあまりのストレスにイライラを関知しやすい七海が美帆の希望で付き添った。美帆はイライラすると気を許した人に黙って寄り添ってほしくなるタイプだ。七海はその逆で一人になりたいタイプ。
「あー、その時臭ったと」頷く七海を見て美帆は眉をひそめた。「つまりプロなら知ってるはずのことなのね」
「たぶん。そもそも掃除するときに水流すでしょ?」
「まあね。じゃあどうやって掃除したんだろ? 魔法じゃあるまいし」
魔法、という言葉に七海ははっとした。
「魔法、私も前にそんなふうに思ったような……」
ふと耳に蘇る音。記憶ではなく七海の中に残る残響のようなものを慎重に手繰り寄せる。波音と、風と、潮の匂い。
「私、海のそばにいたのかな」
「そりゃそうでしょ。だってどこかの小島に流れ着いたってことになっているんだから」
あきらかに信じていない口調で美帆が言う。
「ねえ美帆、この家に入るとき何か感じなかった?」
「別に何も。いつも通り七海の好きなジャスミンの香りが……あれ、匂い変えた? あ、違う、何も匂わなかった。あれ? でもあのフレグランスいつも通り玄関にあったような……」
不思議そうに首を傾げる美帆に七海は淡々と続けた。
「ねえ、美帆が来てから一時間くらい経つよね」
「経つね」
「窓締めきってるよね」
「締めきってるね」
「エアコン、ついてないよね」
「ついて、ないね」
エアコンを見上げた美帆の顔が引き攣った。「ねえ、なんで涼しいの?」
九月に入ったとはいえ、まだまだ蒸し暑い。窓の外は照りつける太陽光がそこかしこで反射している。冷房なしで一時間も部屋を閉め切っていたら、間違いなくサウナ状態になる。
家に戻ってきたときからこの状態だった。あまりに自然な快適さに七海も初めは気付かなかった。
「ねえ美帆、私の手、思いっきり叩いてみて」
美保に向かって七海は腕を差し出した。
「私が避けられないようなスピードで。たぶん叩けないと思うからとにかく素早く」
「それも何か関係あるの?」
「ある。だから、思いっきりやってみて」
わかった、と言って美帆は容赦なく七海の手のひらに向かって腕を振り上げた。
「なに、これ」
狼狽える美帆の声は震えていた。七海が言った通り、叩けなかったのだ。七海の腕に当たる直前、空気の膜のようなものに美帆の手は跳ね返された。それなのに、怖々伸ばした美帆の手は七海の腕に触れられるのだ。青ざめる美帆に七海は心細く笑った。
「何かにね、守られてるみたい。私も、この家も」