トウメイノチカク
§2 ブーズ③


「なんだ黄かよ。まあ白じゃないだけお前にしては上出来だな」
 室内に入ると同時に吐き出された割れ顎男の声がイヤモニを通して日本語で聞こえてくる。とことんベルクを見下げている態度に七海は苛立ちを通り越して激怒していた。

 モルディブへの移動はまたあの丸い空間で海を渡った。さすがにあんな事故を経験した七海を飛行機に乗せるわけにはいかないとのベルクの配慮だが、アトレーンと呼ばれている空間のような乗り物のようなよくわからない物体での移動は緊急時に限られているらしく、モルディブに到着した途端、割れ顎上司に呼び出されたのだ。
 南国風の水上ビラを想像していた七海は、地下というよりは海中に造られた窓すらない無機質な建物に心底がっかりしていた。せっかくのモルディブなのに海上に出ることすらなさそうだ。

 その割れ顎上司は人種差別な嫌味を言う合間に何かを書き付け、その紙面をベルクに見せた。七海にはわからない記号のようなものが並んでいる。
 ベルクが驚いたように目を見張る。紙上の記号はすっと跡形もなく消えた。
「ほら、いいから黙って始末書け」
 割れ顎上司が真顔で何かのジェスチャーをしている。同じく真顔になったベルクがひとつ頷くと、三人の周りを膜のようなものが囲った。
 周囲を見渡す割れ顎上司の目が驚いたように見開かれ、次第に悔しそうに歪み、そして気を取り直したようにベルクに向き直った。
「いいか、時間がないから一度しか言わない。欧州は天空と繋がっている。ヤツらが来たのはお前があの航空機事故に関わっているからだ。狙いは俺も知らん。ヤツらにお前の等級のことを絶対に悟られるな。彼女がアルビナだってことはまあ、たぶんバレる。自分で守れ。万が一判定されそうになったら俺の血を使え」
 割れ顎上司の至極冷静な声は、途中で発せられたベルクの「まさか」「なんで」「え?」という声を完全に無視し、最後までぶれることなく突っ走った。言い切った直後にベルクの家でも見た小さなナイフで自分の指先を小さく切り付けた割れ顎上司は、血の玉が出来た指先をベルクの目の前に突き出す。
「ヤツらの等級は二人ともⅤの下だ。絶対に誤魔化せ。彼女には何もわからない振りをさせろ。いいな」
 割れ顎上司が言い終わった瞬間、扉をノックする音が室内に硬く響いた。



 モルディブまで丸一日をかけての移動中、アトレーンの光の輪は体内の老廃物や排泄物まできれいになると聞き、七海は思いきってベルクに提案してみた。
「射精、してみる?」
「えっ、いいの?」
 あっという間にベルクはベルトを外し、スラックスの前を開けた。半繭チェアに座る彼の前で七海は膝をついて顔をしかめた。
「ねえ、なんで下着つけてないの?」
「あー、忘れた」
 忘れることなんてあるのか。そういえば彼はシャツの下も素肌だ。
「テータしているせいか、衣服が直接肌に触れることはないし、あんまり下着の必要性を感じないんだよね」
 重力の違いがあるために躰を維持するためのテータは欠かせないらしい。
「じゃあ服の上から触っても感覚ないの?」
「さすがにそれはあるよ。着衣感もある」
 よくわからないな、と思いながら七海はベルクの一部にそっと触れる。軽く握っただけであっという間にに硬化した。最初はグロテスクに見えた彼の一部も、今やなんとも思わない。テータのせいかベルクから体臭を感じたこともない。
「なんだかものすごく昂奮する」
 吐息混じりの上擦った声が七海の頭上に落ちる。七海は聞きかじった知識から彼の一部を咥えた。
「ちょっ! だめ、やめ、うっ、わっ」
 舌全体で彼のものを愛撫し、歯を当てないよう口の中をきゅっとすぼめた途端、ベルクは呆気なく射精した。
「七海、吐いて、早く吐き出して!」
 粘着質な液体が七海の口内を満たしている。思っていたよりも量が多い。吐き出すのもどうかと思い、またしてもかつて聞きかじった知識を信じ、そのままごくりと飲み込んだ。
 ぎょっとしたベルクがすかさず七海を抱き上げ、あの光の輪の空間に駆け込んだ。
 あっという間に七海の口にあった体液の名残が消える。
「なんで飲むの!」
 取り乱すベルクの腕から降ろされた七海は間違った知識だったかと戸惑った。
「ダメなの?」
「ダメ……じゃない、と思うけど、ダメじゃないけど……」
 もしかして地底人の精子には毒素でも含まれているのだろうか。急に不安になった七海は狼狽えっぱなしのベルクを見上げた。
「躰に悪いの?」
「いや、そんなこともないんだけど……」おどおどと視線を彷徨わせた彼は意を決したように言った。「だって排泄物だよ?」
 排泄物……目的以外での排出は、確かに排泄物になるのかもしれない。なんとも言えないでいる七海をベルクは泣きそうな顔で抱きしめた。
「七海と一緒にいると、僕は自惚れてしまいそうだ」
「どうして?」
 七海を抱きしめる彼の力が強まる。
「僕の存在が特別なんだって勘違いしそうになる」
「勘違いじゃないよ。私にとっては特別だから」
「そうやって僕を甘やかさないで。人格が変わりそうだよ」
 泣きそうな情けない声で言われている以上、ベルクの人格が変わるとは思えない。
「きっとそう簡単に人は変わらないよ」
「そうかな」
「そうだよ。それに少しくらい変わっても、きっとベルクは私の好きなベルクのままだと思うよ」
 彼の腕の中から七海が見上げると、ベルクは泣きそうな顔で笑いながら、もう一度ぎゅっと七海を抱きしめた。

 そんなことがあり、ベッドでいちゃいちゃごろごろしながら、あっという間にモルディブに到着した。
 アトレーンを出るときに渡されたイヤホンは万能翻訳機らしく、地上のみならず地下世界を含むあらゆる言語が設定した言語に聞こえるという激レアグッズだ。耳に装着していることが外からはわからない仕様になっており、聞こえ方も装着前後で一切変わらない。
「回りくどい言い方をされると少しタイムラグが生じるんだけどね」
「ベルクも使ってるの?」
「使ってないよ。僕たちにとって言語取得はたいした手間じゃないから。あと、それを着けているからって話せるわけじゃないからね。あくまでも聞こえるだけ」
 という説明を受け、いざアジア統括本部とやらに乗り込めば、ロビーみたいなところで二人を待ち構えていたのは、アルカイックスマイルを浮かべた背の高い美形の男女二名と、あからさまに怒りを見せて仁王立ちしているマッチョな割れ顎上司だった。
「無許可でのアトレーンの使用は感心しませんね」
 口元に美しい笑みを浮かべたにしては目が全く笑っていない女性は、ダーク色のタイトなスーツをクールに着こなしている。彼女の指摘に、スーツの上からでもわかる筋肉質な割れ顎上司が「もっともだ」と大袈裟なアクションで同意し、「先に始末書書け」と有無を言わさずベルクと七海を自分の執務室に連れ込んだのだ。
 執務室のドアには陽炎のような膜が張られており、以前ベルクに見せられたテータが七海にも知覚できた。おそらくこれは割れ顎上司のテータなのだろう。
 ベルクに背を支えられ、揃って膜の中に足を踏み入れる。何も感じないのに何かを通過したような気がした七海は、さり気なく彼を見上げてそれを視線で伝えた。
 そして、扉が閉まった瞬間、割れ顎上司が暴言を吐きながら、ベルクにテータさせ、一方的に不穏な内容を伝えてきたのだ。



 ノックの音が聞こえた瞬間、ベルクは割れ顎上司の指先の血を自分の指先に移し、あっという間にそれを隠した。ベルクのテータが消えると、何食わぬ顔で割れ顎上司が扉を開く。
「そろそろよろしいですか、我々も暇なわけではないので」
 開口一番そう言った先程の作り笑いを貼り付けた女性は、当たり前のように割れ顎上司の執務室に入り、勧められる前に床に浮く半繭型の一人掛けのソファーに腰をおろした。タイトスカートから伸びる足のラインが芸術的に美しい。ヒールの高さはおそらく八センチ。彼女の部下らしきやたらと筋肉質で無表情の男性がその背後に立つ。
「あなたがアフナス・ファスティ?」
 ベルクが「はい」と答えると、彼女が「どうぞ」と対面の半繭型ソファーを勧める。
「いえ、私はこのままでかまいません」
 それに気を悪くするでもなく、彼女は作り笑いを浮かべたまま素っ気なく「そうね」とだけ言って話を続けた。七海には通過儀礼的なやりとりに見た。
「天空側からあなたに関する問い合わせが来ています。あなたが遭遇したあの航空機事故、あなたのテータによって助かった乗客の中に天空側の人間がいたそうで、是非ともお礼をしたいそうよ」
「地上への関与、大変申し訳ありませんでした」
 ベルクが右手を左胸に当てる。
「そうね、まあ、過ぎたことは仕方ないでしょう。以後気を付けてください」
 彼女がちらっと七海に視線を寄越した。
「パートナー登録かしら」
「そうです」
「そういえば、あなたの等級、なんだかおかしなことになっているようだけど……」
「申し訳ない、こちらの手違いで壊れた判定キットを使っていたようだ」
 ベルクの代わりに割れ顎上司がやたらと大袈裟な仕草で答える。ふーん、と声に出しながら思案顔を見せる彼女がさもいいことを思い付いたとばかりに立ち上がる。
「ついでですもの、ここで判定してみたら?」
 七海は聞こえないふりで床を見続けていた。割れ顎上司に渡されたキットでベルクの判定が行われる。
 ソファーの間にある半球テーブルにノートパソコンと小さな楕円のキットが浮かぶ。
「登録は……あら、今まではⅢの下だったのね」
 片手をテーブルにつき、ノートパソコンの画面を覗き込んだ彼女の声にはどこか嘲るような響きがあった。
 ベルクがミントタブレットケースのような楕円のキットに指先を当てる。七海からはノートパソコンの画面は見えない。
「さて判定は……うそ、Ⅳの上。まさか、彼女って……」
 驚いたように目を見張る彼女に、ベルクがすかさず答える。
「アルビナだと思いますが、すでに私と独占契約を済ませています」
 ブーズ、と呟いた彼女は狙い定めるかのようにゆっくり目を細め、そして口元が弧を描いた。
「ねえあなた、血液を売る気はない? 通常のレートより高く買うわ」
 猫なで声が七海にかかる。七海は何もわからない振りをして首を傾げた。
「おい、第三者の直接交渉は規約違反だ。彼女に関しては独占権がアフナスにある。全てはアフナスを通すべきだ。まだパートナー登録したばかりで説明も禄にしていないようだしな」
 割れ顎上司の声に彼女は渋りながらも引き下がった。
「さあて、天空の件ですが、どうしようかしら?」
 気を取り直したように半繭型ソファーに腰をおろした彼女が勿体つけた言い方をする。足を組む姿はトップ女優のように美しい。
「礼は不要と。天界側の人間がその場にいたことすら私は知りませんでしたから。自分のためのテータがたまたま彼らの命を繋いだだけです」
「わかりました。ではそのように伝えます」
 まるで最初からベルクがそう言うこと予期していたようなニュアンスがあった。彼女がずっと浮かべたままでいるアルカイックスマイルのせいか、いちいち小芝居感が透けて見えて七海はげんなりしていた。
「では我々はこれで。あなた、気が変わったらいつでも連絡して」
 指の間に挟んだカードをスマートな仕草ですっと七海に渡した彼女は、護衛なのか部下なのかわからない無表情なマッチョマンを従えて部屋を後にした。

 七海は渡された金属製のようなカードを見ることもなくベルクに渡す。と、彼は渋い顔で割れ顎上司に押し付けた。そして再びベルクのテータが三人を包む。
「俺だってこんなもんいらねー」
 割れ顎上司がカードを宙に放り投げると同時にぱっと消えた。
「どういうことですか」
「天空のことか? 俺も詳しくは知らん。あの言葉通りで、ここにも問い合わせがあった」
「欧州が天空と繋がってるって……」
 まあ座れ、と割れ顎上司がベルクと七海に席を勧めた。彼の家にある半繭チェアよりずっと高価そうなソファーは雲に浮かんでいるような座り心地だった。
 改めて紹介された割れ顎上司はヴェーテ。正確な発音はやはり七海には無理だった。七海は名字の深津屋で紹介された。
「欧州がってより、あの女が、ってのが正しいな」
「まさか。だって彼女、たしか第一都市出身でしょ?」
「天空みたいに地上支配の野望でも抱いたんじゃないか?」
「どこからの情報ですか?」
「地上の地下組織」
「まさか、あなたが関与しているって噂……」
「やめろ、あれはデマだ。関与してるんじゃなくて脅されてるんだよ」
「一体何したんですか」
 ベルクの呆れ顔にヴェーテが気まずそうに顔をしかめる。
「俺ってほら、知りたがりじゃん?」
「はあ、まあそのようですね。噂はかねがね」
「で、興味本位で地下組織にちょっと接触したら……」
「何やってるんですか」
 ベルクのあきれを通り越して哀れむような表情に、ヴェーテがわざとらしい笑顔を作る。
「だよなー、今なら俺もそう思うよ」
「で?」
「色々ごたごたして、ちょっと囲まれて、面倒になって消した」
「当然記録媒体の確認はしましたよね」
「だよねー。そのときは必死で気が回らなかったんだよ、あの頃俺は若かった」
 ふてくされるような言い方のヴェーテに、ベルクは憤然とした表情を見せた。
「はあ? 基本中の基本だって毎回僕らに言ってましたよね?」
「言ってたね。基本中の基本だよねー。身を以て知ったからお前たちにはしつこく言い聞かせてるんだよ。な、説得力あるだろ」
 ヴェーテのウインクにベルクのみならず七海の頬も引き攣った。
「まさか、それで脅されてると」
「そういうこと」
「どれほどコピーされたんですか?」
「動画サイトに上がるくらい? 下手なトリックって馬鹿にされてたけど」
「その時点ですでに脅しの意味ないでしょ」
 ベルクの疲れたような溜め息にヴェーテがへらへら笑った。
「だって、連盟にバレたら俺降格だよ?」
「降格で済めばいいですね」
「お前が上司になるとか、最悪じゃん」
「助けませんよ」
「ごめん、助けて」
 その場でベルクがヴェーテのパソコンを使い何かを打ち込み始めた。指の動きが尋常じゃない。ベルクの背後に回ったヴェーテはほうほうと感心しながら画面を覗き込んでいる。ものの一分もたたないうちに何かの処理を終えたベルクの後ろで、ヴェーテが「お前って評価通りちゃんと仕事できるんだな」とずいぶん失礼な褒め方をした。
「とりあえず彼女の身分証とパスポート、至急発行してください」
「まかせとけ。で、お前の正確な等級は?」
「今のところⅥの下です」
「うわー、えげつなー、なにそれ、Ⅲの下からいきなりⅥの下って」
「まだ使いこなせてませんけどね」
「だろうな。とりあえずこのままⅣの中で登録しておくか。等級の話、誰にもするなよ」と言ったヴェーテが急に真顔になった。「なあ、真面目な話、彼女の血液、少しもらえないか?」
「人工マニは今のところ足りてますよね」
「ばーか。なんだお前知らないの?」
 ヴェーテの口調はわざとかと思うほど七海を苛つかせる。リアクションも大きすぎる。おそらくわざとなのだろう。怒りは人の仮面を剥ぐ。七海の苦手なタイプだ。
「何がですか?」
 不可解そうなベルクに、少し身を乗り出したヴェーテが声を潜めた。
「アルビナの血液を直接摂取すると等級が一時的に上がるんだよ」
「まさか。拒絶反応が出るんじゃないんですか?」
「そのまさかなんだよ。ブーズした地上人のアルビナの血に限って、ってことだけどな。ブーズするアルビナが少ないせいか研究が遅れてるんだよ。ウシルに関してはほとんど進んでいない」
 彼らの話を聞くともなしに聞いていた七海は、アルビナに関する話題になった途端真剣に耳を傾けた。
「よく研究対象にできますね、自分のパートナーを」
「ほーらな。だから研究が進まないんだよ。たまたま研究者のパートナーがアルビナで、たまたま契約に同意したからこその研究成果なんだよ。現状ブーズしているアルビナは彼女一人、本日二人目が発見されたってわけだ」
「よく知ってますね。その情報って、まだ表に出てませんよね」
「なにせ俺様は知りたがりだからな」
 なぜか胸を張り得意気なヴェーテに、ベルクの口元が引き攣った。何かで見たアニメのようにシャツのボタンが吹っ飛びそうな筋肉だ。七海はそっと目を逸らした。
「ちなみにどの程度ですか」
「地上でのみ有効で、一㎖で一等級上がる。効果は最大で四十八時間。ただし一㎖以上は拒絶反応が出る上に、投与の間隔は十五日以上空ける必要がある」
「一等級か。結構大きいですね」
「だろ。一時的とはいえⅦまでは届かないだろうが確実にⅥは超える。それでたぶんあの女は暴走してるんだろうな」
「天空と直接戦う気ですか? 馬鹿馬鹿しい」
「セムが目覚めたからな。用心に越したことない」
「まさか!」
 ベルクがそれまで以上に驚いた。七海は何事かと目を見開く。先ほどから彼らの言う天空が何を指しているのかわからない。
「おい、彼女に天空の説明してないのか?」
「してませんよ。関係ないと思ってましたから。ただでさえアルビナなのに、不要な情報を与える危険まで冒せません」
「お前、意外と独占欲強いな」
「誰だってそうでしょ」
 不快そうに顔をしかめるベルクに呆れたように笑うヴェーテ。
「いや、少なくとも俺はそこまで縛り付けないね」
「あなたのパートナーが自由すぎるんですよ。アルビナでもないし」
「仕方ないだろ、女優なんだから」
 どういうことかと七海がさり気なくベルクに視線を送ると、「ほら、ハリウッドの有名女優で……」と聞かされた名前は七海を十分に驚かせた。
「アカデミー賞常連の? あの?」
「そう、あの。彼女が彼のパートナー」
 驚く七海にヴェーテがウインクを投げた。思いっきり顔を引き攣らせた七海を見てベルクが小さく笑う。
「俺のウィンクにときめかない女がいるとは……」
 大袈裟に嘆くヴェーテに、ベルクはほんの少しだけ得意気に言った。
「残念でしたね」