トウメイノチカク
§2 ブーズ①


 ロフトにある大型クローゼットの半分が七海のスペースとして空けられた。届いていた服を一枚一枚仕舞っていく。ベルクが選んだものは、七海がいつか着てみたいと憧れていたデザインばかりで、しかもそのどれもが上質だった。
 ワンピースが多いのは、他はよくわからなかったから、インナー類はさらによくわからなかったから肌触りがいいと書いてあるものを選んだ、と困った顔のベルクが言い訳するようにもごもご話す。
 華奢なデザインのパンプスは六センチヒール。下着にしろ靴にしろ、なぜサイズがわかったのか首を傾げたくなるが、これまで目にした近未来的な設備の数々を思えば、複雑な思いはするものの納得できてしまう。
 クローゼットのもう半分には同じようなデザインのダークスーツと同じようなブルー系のシャツ、同じようなネイビー系のネクタイが並ぶ。ベルトやソックスなどの黒系の小物も目に付いたものの、それ以外の部屋着やパジャマ、いわば休日に着るようなカジュアルな服が一切なかった。

 廃屋の中身は高級マンションのモデルルームのような空間だった。実際にそれを真似たらしい。
 広々とした吹き抜けのLDK。その一部はロフトになっていて、手摺りすらない二階は寝室になっている。リビングとロフトを繋いでいる階段は、踏み板が壁から突き出た猫が喜びそうな作りになっており、ここにも手摺りはない。
 家具は全体的に白っぽく丸い。ただしここではちゃんと脚がついている。
 パートナーにできるだけ気に入ってもらえるよう設えたのだと、ベルクが照れくさそうに話していたのは、ほんの数十分前のこと──。

 七海をベンチに待たせて鍵を取りに行ったベルク。それにしては、今にも壊れてしまいそうな廃屋の扉は施錠などされておらず、軽く触れるだけで簡単に開いた。立て付けが悪いのか、経年で歪んだのか、扉は開けたままにならず勝手に閉じた。
 中はがらんどうで曇った窓や隙間の空いた板目から淡い光がこぼれている。足元は踏み固められた砂混じりの土。所々雑草が生えている。
 小人の扉のすぐ内には、いくつかの段ボールが無造作に置き配されていた。
「ああ、よかった。届いてた」
 ベルクのほっとした様子に七海は顔をしかめた。屋内と言うのも憚られるような、何もないだだ広い空間。一体彼はどこで寝起きしているのか。
「靴は履いたままでいいから」
 さすがにこの場で脱ぐつもりはない。七海は一層顔をしかめてベルクを見上げた。
「あれ、知覚できていない?」
 まだ僕のマニが馴染んでないのかな、と呟きながらベルクがいきなり七海の唇を奪った。彼から何かが七海の中に渡ってくる。
 その瞬間、廃屋が激変した。
 目を見張る七海にベルクがにこやかに笑う。
「ようこそ、我が家へ」
 そう言って、透明な扉の脇にある銀色のパネルに光でできたようなスティック状の鍵のようなものを翳したのだ。



「七海、必要なもの注文するから選んで」
 階下からの声に、ロフトにいた七海は壁にしっかり手を這わせながら、壁から板だけが生えている階段を怖々と下りる。壁から生えている板の先を踏んだらバキッと折れてしまいそうで、できるだけ壁側に足を置く。上るときより下りるときの方が怖い。
 万が一足を踏み外しても落ちることはない、とベルクは事も無げに言っていたし、実際に手を伸ばすと見えない膜のようなものを感じるのだが、視覚的に怖いものは怖い。
 軽やかに階段を上ってくるベルクは、七海の手を取るとゆっくり階下へと導いてくれた。
「ベッド下に降ろす?」
「高いところが苦手なわけじゃないから、そのうち慣れると思う」
 大きな円形のテーブルの側にはデザインの違う椅子が二つ並んでいた。繭を斜めにカットしたような椅子とそれよりも小振りなやはり斜めにカットされた半円型の椅子。小振りの椅子に座ろうとした七海をベルクが止めた。
「こっちの方が座り心地いいから」
 ベルクは半繭型のチェアを七海に勧める。
「それはさっき座ってみたから、今度はこっちでもいい?」
 座ってみれば背もたれの高さが違うだけで座り心地は変わらない。斜めにカットされた枠のカーブが丁度いい肘掛けとなり、七海の躰をすっぽり包んだ。クッションは硬くも柔らかくもなく、低反発クッションのようにゆるく躰に沿う。しばらくすると座っている感覚を忘れるような、不思議な座り心地の椅子だ。
「注文の前に七海のことを決めないと。生きてることにするか死んでることにするか、どうする?」
 ベルクが半繭チェアに座りながら七海に問い掛けた。彼はあまりに軽く死を語る。
「私って死んだことになってるんじゃないの?」
「それなんだけど」
 テーブルの上にあるノートパソコンの画面を向けられた。
 奇跡の生還。
 そんなテロップが見えた。
「脱出するときに僕たちの席の周りを一応テータしておいたんだ」
 テータが何を意味するのか七海にはわからない。ニュースサイトにはビジネスクラスの乗客がほぼ救助されたことが報じられている。私たちの席の周りどころか一区画全てだ。
「だから、七海の生存もそこに紛れ込ませることができる」
「できるの?」
「できるよ」
 当たり前のように言われ、逆に七海は悩んだ。
「七海のことを考えたら、元の生活に戻る方がいいことはわかっているんだ。だけど……ごめん、僕とマニの交換をしたばっかりに」
 どうしてベルクが謝るのか。最初にそれを望んだのは七海であって彼ではない。結果そうなったのは、七海のせいでもある。
「ねえ、ここって日本のどこ?」
「三浦半島の先っぽの方」
 七海が暮らしていたのは東京の多摩地域だ。同じ関東圏とはいえ、そう簡単に会える距離ではない。大学も同じ地域にある以上引っ越しも容易ではない。
 そこでふと七海は思った。そもそも大学に通っていることに日々疑問を感じていたのだ、やめたところで問題はない。両親ももういまさらそんなこと気にしないだろう。彼らにとって七海はいてもいなくても変わらない存在だ。
 鬱屈した思いを振り払うように、七海はベルクの意見を求めた。
「ベルクにとって私って戸籍上生きている方が都合がいい?」
「そうだなあ、正直に言えば僕にとっては死んでいる方が都合がいいかな」
「だったら、あのまま死んだことにしておけばよかったのに」
「それはできないよ。七海が選ぶことだ」
 一方的に決めることのないベルクに七海の心は決まった。
「死んだことにすると私ってどうなるの?」
「別の戸籍というか、別の身分を用意する。その方が地上での待遇も各段によくなる」
 ただ、とベルクは不安そうな顔をした。
「正式に僕のパートナーになる必要がある」
「それってつまり……」
「地上では結婚って意味だね。しかも離婚はできない。おまけに君はアルビナだから正式に僕との独占契約を結ぶ必要もある。はっきり言って僕に多大なメリットはあっても君にメリットはない」
 あまりにきっぱり言い切るベルクに七海は反発を覚えた。
「でもそれってベルクにも言えることでしょ」
「君はアルビナの意味を正しく理解してないんだ。アルビナはある意味選ばれた存在なんだよ。僕よりもずっと条件のいい人が現れたら君は僕とブーズしたことを後悔するかもしれない。アルビナにはその権利があるんだから」
 むっとする七海を宥めるように、ベルクはアルビナの権利を説明しようとする。
「ごめん、権利とかはどうでもいい。ベルクは私がベルク以外を選ぶとでも思ってるの? 後悔すると思ってるの?」
「思いたくないけど、僕はそこまで条件がいいわけじゃない」
 情けない顔のベルクに七海は苛立つ。
「条件なんてどうでもいいよ。私はベルク以外を好きにならないから。ベルクがいいなら独占契約でもなんでもする」
 勢いよくそこまで言うと、七海は大きく息を吐いた。地上の空気が重すぎて大きな声を出すだけで疲れる。
 心配そうなベルクが七海を抱き上げ、丸みを帯びた大きなソファーにそっと降ろした。
「勢いで言ってない?」
「言ってるかもしれない」
 座面の広いソファーに横たえられた七海が素直に答えると、ソファーの端に軽く腰掛けるベルクが優しく笑った。
「後悔しないかな」
 彼の長くきれいな指が乱れを整えるように七海の髪を梳く。
「たぶんしないよ。喧嘩しても好きでいると思う」
「僕は本当に条件がいいわけじゃないんだ。階級も等級も高くない」
「そんなこと言ったら私だってそうだよ。大学だってぱっとしないし、家柄だっていいわけじゃない」
「でも君はアルビナなんだよ」
 そのアルビナが七海には理解できない以上、彼の気持ちを理解することもできない。
「他の地底人ってどんな感じ?」
「地上人から見て比較的美形らしい。僕よりも躰はしっかりしているし、力も強い」
「もしかして、マッチョ系?」
「少なくとも僕よりはずっといい体格だよ」
「ごめん、その時点で私に選択肢はない」
 ぽかんと口を開けたベルクが、ゆっくりと顔を歪め、声に出してさも可笑しそうに笑った。
「ごめん、怒らないで。でも、だって……」
 笑われた七海がむっとしているうちに、ベルクは息も絶え絶えに笑いながら次第にその表情を泣き出しそうに歪めていった。
「僕がどれほど幸運に思っているか、七海にわかる?」
「私がどれほど幸運に思っているか、ベルクにわかる?」
 彼の選んだ服を見ているだけで七海は自分がどれほど女性として見られているかがわかった。どれも着てみたいと思いながらもなかなか手が出せなかった淡い色やフェミニンなデザインばかりだった。それがどんなに七海を喜ばせたことか。宙に浮いて見える階段を怖がったときでさえ、からかうどころか心配そうな顔でエスコートしてくれる。当たり前のように手を貸してくれ、あまつさえ抱き上げてもくれる。素直に誰かを頼れることがこれほど心強いだなんて、七海はベルクに出会うまで知らなかった。
 キスがこんなに気持ちいいことも、ふわふわと舞い上がるような幸福感も、ベルクに出会って初めて知った。
「もっとよく考えなくていいの?」キスの合間にベルクが問う。
「もっとよく考えたら何か変わるの?」キスの合間に七海も問い返す。
 キスの合間にベルクが答えた。「きっともっと好きになる」
 キスの合間に七海も答えた。「きっともっと独り占めしてほしくなる」
 初めて知った満たされるような幸福は底なしの渇望と痛みを伴う。心の奥に抱える寂寞をちくちくと刺激してくる。永遠に手に入らないと思っていた渇望と結ばれ、今度はいつしか失う痛みを予期し耐え続けることになる。



「七海、ハチミツをスプーンに一杯ってあるんだけど、どの大きさのスプーン一杯にする?」
 大きさの違う五つものスプーンを見せられ、七海はその中から二番目に小さいティースプーンを選んだ。ちなみに一番小さかったのはマドラースプーンだ。
 キスが深まり始めたいい雰囲気の中、七海のお腹が思いっきり鳴った。それはもう盛大に。恥ずかしさに顔を熱くする七海をよそに、ベルクはほっとしたように「よかった、胃が動き出したんだ」と言葉通りの安堵を見せた。今はホットミルクを作ろうと奮闘中だ。
「あー、ブランデー切らしてる。七海、ブランデーの代わりは何がいい?」
「ブランデーも入れるの?」
「入れるって書いてある」
 どんなレシピだ? と思いながら、七海は彼の様子を見に行った。大きな楕円のテーブルの一部に牛乳の瓶とハチミツの瓶、それとなぜかウォッカの瓶が並んでいる。
「ウォッカじゃダメかな?」
「ウォッカは合わないんじゃない?」
 そっか、といいながらベルクが手を翳すと、ウォッカの瓶がテーブルの中にすうっと沈んで消えた。代わりに少し離れた別の場所からウィスキーの瓶が浮かび上がる。
「じゃあ、ウィスキーは?」
「アルコールはいらないよ。私そんなにアルコールに強くないから、悪酔いしちゃいそう」
「あっ、そっか。地上人はアルコールで酔うんだっけ。じゃあ、やめた方がいいな」
 再びウィスキーの瓶がテーブルの中に沈んでいった。どんな仕組みになっているのだろう。そう思いながら、七海は彼との会話で気になったことを訊いた。
「地底人はアルコールで酔わないの?」
「アルコールでは酔わないね。代わりにカフェインで酔う」
「そうなの?」
「そうなの。まあ、分解を早めればいいだけだから泥酔することはないけどね」
 タブレットを見ながら「牛乳は華氏百四十度に温めます」とベルクが口に出しながら手を翳すと、マグカップの牛乳から仄かに湯気が上がった。少なくとも日本のレシピではないようだ。
「どうやったの?」
「電子レンジの原理」
「ねえ」と七海は湯気の立つ牛乳を見ながらさり気なく訊いた。「それって人も殺せるよね」
「殺せるね。死体すら残さず」
 彼の表情を見て、七海は口を噤んだ。おそらくそれ以上は訊かない方がいい。表情を隠したベルクはそれまでとは打って変わって全てを突き放すような冷酷さすら滲ませていた。
「ねえ、ベルクって地上で何してるの?」
 わかりやすく話を変えた七海に、表情を取り戻したベルクは苦笑交じりに答えた。
「僕は娯楽の収集。主に映画や小説の買い付けとそのデータ変換だね」
「買い付けって?」
「ネットで注文することかな」
 困ったように笑う彼を見て、七海は声を上げて笑った。途端にお腹がぐうっと鳴る。気まずさにお腹を押さえる七海を見て、今度はベルクが声を上げて笑った。

 ホットミルクをゆっくり胃に流し、彼に勧められたゼリー状の完全食で胃を満たした七海は、楕円のソファーに寝そべりながらベルクが行っている様々な手続きをぼんやりと眺めていた。
 地底人もインターネットをフル活用しているらしい。ただし、独自のネットワークなのだとか。
 彼の上司に当たるアジア地域の担当者に七海の新たな身分証の交付とパートナー登録の申請をしている。顔をしかめながら「なんだこれ、わかりにくいな」などとぶつぶつ文句を言いながら、ベルクは奏でるようにキーを打ち込んでいく。
 七海はふと、さっきの彼の表情を思い出した。あの全てを突き放したような顔。ベルクは誰かに殺人を強要されているのではないかと七海は考えた。七海自身、あの表情には見覚えがある。あれは強要を拒むときの表情だ。地底人と地上人の喜怒哀楽の表情に大きな違いはないような気がする。
「うわっ、なんだこれ」
 突然の奇声に七海はソファーから身を起こす。
「どうしたの?」
「七海とエナジー交換できたから僕のレベルも上がっただろうと思って、ついでに等級変更もしておこうと思ったんだけど……」
「あんまり上がってなかった?」
「逆。上がりすぎてびっくりしてる」
 この家にもあの掃除機兼洗濯機マシンがいる。床は食器並みにきれいだと聞いて、七海は早々にサンダルを脱いだ。裸足でぺたぺた歩くのもどうかと思い、ベルクのルームシューズを借りている。同じデザインが色違いで五足もあった。どの色も欲しくなったらしい。七海はその中からベルクの瞳の色だった紫を貸してもらっている。地上に出た途端、彼の瞳は青みがかり、色も薄くなってしまっている。太陽光から瞳を守るために薄い人口膜がかかっているらしい。
 七海はソファーから立ち上がり、何度も何かのキットと画面を見比べているベルクの側に移動する。
「等級って一級二級みたいな、なんだろ、資格みたいな感じ?」
「そんな感じかな。レベルの方がわかりやすい?」
 そう言うとベルクは大きく息を吐きながら椅子の背にもたれた。七海ももう一脚に腰を落ち着ける。
「等級はⅠから始まってⅦまであって、僕はこれまでⅢだったんだよ」と彼は自嘲気味に笑った。「本当にたいしたレベルじゃなかったんだ。一つの等級の中にも三段階あって、僕はレベルⅢのいわば下。地上に出られる最低等級がⅢで、ぎりぎり滑り込めたんだ」
「もし地上に出られなかったら?」
「僕は地上人としかエナジー交換できなかったから、成人後三年の猶予をもって終わっていただろうな」
「成人っていくつ?」
「十七」
「二十歳で終わるってこと?」
「そう。それ以上はコアに戻らない限り生きられないから」
「戻れないの?」
「戻れない」
 七海の理解を超えている。正しく理解するには時間がかかりそうで、ひとまずそういうものとして頭の中に仕舞った。
「今は等級いくつ?」
「レベルⅤ。Ⅴの下。たった数回のエナジー交換で等級一つ飛び越えた」
「エナジー交換すればするほど等級って上がるの?」
「あがる。でも通常だとせいぜい一つ上がる程度で、しかも数年かかる。七海がアルビナだからってのもあるんだろうけど、それにしても……」
 ベルクははっとしたように目を見開き、何かを思い付いたのかノートパソコンに文字を打ち込み始めた。画面には七海には理解できない文字がびっしり並んでいる。
「やっぱりそうだ。何かで聞いたような気がして……伝説だと思っていたのに……」
 少し興奮気味のベルクは「そういうことかあ」と画面を見ながら一人納得している。
「マニには相性があるんだ」
 ますます血液型みたいだ、と七海は思った。
「ごく稀にその相性が合致すると、力が飛躍的に伸びるらしい」
「最終的には?」
「レベルⅥを超える」
 そこでノートパソコンが警報のようなものを発した。驚きから互いにびくっとする。
「ん? 緊急ってなんだ?」
 訝しみながらベルクがリターンキーを押すと警報が止まり、画面一杯に顎の割れたごつい顔の男性が映った。
 そこからしばらく、七海にはわからない言語でのやりとりが始まった。七海はそろそろとソファーに戻り、横になって顔をしかめっぱなしのベルクを眺めていた。