トウメイノチカク
§1 アルビナ④「七海」
やけに愛おしそうな声が聞こえた。何がそんなに嬉しいのだろう。訊いてみたいような、訊かずに大切に覚えておきたいような。夢と現の境で七海はこれまで感じたことのないぽわぽわした幸福感に包み込まれていた。
「七海、そろそろ起きて」
そう、この声。
「いい夢だったなあ」
つい声に出てしまうほどの感慨が七海の中に溢れた。これまで独り言など滅多に言わなかったのに。くすぐったいような嬉しいような、じんわりとしたあたたかさに包まれているようで、七海は、ふふ、と小さな笑みまで漏らした。
「君はどうしても現実だと思えないみたいだね」
面白がるような声が聞こえ、声の主がぱっと頭に浮かんだ。
「ベルク?」
「そう。夢じゃないからそろそろ起きて。日本に着いてるよ」
瞬時に覚醒した七海が慌てて起き上がれば、ベルクは半ば寝そべりながらあの機内で読んでいたミステリーを手にくつくつと笑っていた。
「寝なかったの?」寝顔を見られた恥ずかしさから慌てて目元を擦る七海に、「寝たよ。少し前に目が覚めた」と柔らかな声が返る。
ぐうっと伸びをしながらベルクから顔を背けるようにあくびを一つ。
いつの間にか七海側のベッドサイドに半繭チェアが移動していた。その背には見覚えのあるワンピースがシワにならないよう広げられている。
「もしかして、クリーニング済み?」
「そう、クリーニング済み」
ベルクがおかしそうに笑う。
ワンピースの裾をめくればその下にベアトップや下着が畳まれ、足元にはサンダルが揃えて置いてある。
「ごめん、さすがに他の荷物は回収できなかった」
それはそうだろう。七海がどんなトランクを持っていたかなど、彼は知る由もない。
「着替えはとりあえず適当に僕が買っておいたから」
のんびりと起き上がったベルクも伸びをひとつして、ベッドから足を下ろした。まだ素足なものの、彼はすでにシャツとスラックスを身に着けていた。
「いつの間に?」
「ネットで。もう届いていると思う」
地底人がネットショッピングとは。七海のなんともいえない顔を勘違いしたベルクが慌てたように付け加えた。
「僕の感覚で選んだから気に入らないかもしれない」
「あ、違うの。ちょっと地底人とインターネットが結びつかなかっただけで。着替えありがとう」
ジャケットを羽織ったベルクの姿に七海は惚れ惚れした。機内では新入社員のように見えた。今は体付きがしっかりしたせいかモデルのように凜々しい。
顔を洗う代わりにあの光の輪できれいになる。七海一人ではどうにも不安でベルクにも付き合ってもらう。たったそれだけのことなのに、彼は頼られたことが嬉しいのかやけにご機嫌だ。
部屋に戻るときにふと気になって七海はじっとベルクの腰を凝視した。
「なに?」とたじろぐ彼に七海は疑問をぶつけた。
「伸縮しないんだよね」
「しないよ」
「どこにあるの?」
「見た目わからないようになってるだけでちゃんとあるから」
んん? と七海は首を傾げる。膨らんでいるようには見えない。ウエストからすっと真っ直ぐ生地は下りている。左右の太ももにも違和感はなく、比較的スリムなラインが裾まで続いている。
「そんなに気になるなら触ってみなよ」
どこか呆れを含んだベルクの声に七海は苦笑を返しながら、「失礼します」と腰の周りに手を這わせた。
「え? ないよ?」
「地上人は知覚しにくいんだよ。ほらここにちゃんとあるでしょ」
ベルクの手が導く場所に存在を感じた。
「さっきはなにもなかったのに」
軽く握るように両手でその存在を確かめる。間違いなく付け根からおへそに向かって真っ直ぐ伸びる彼の一部があった。なぜか硬い。
七海は気まずさからそっと窺うようにベルクを見上げた。途端、がしっと両頬を掴まれた七海に噛みつくようなキスの襲来。
「せっかく我慢してたのに」
唸るようなベルクの声と辛そうな表情に、七海は申し訳なさ以上に笑い出しそうになった。
「ごめん、でも気になって」
いつの間にか側に移動してきたベッドに七海は押し倒された。素早くシャツのボタンが外され、あっという間に裸にされた七海は、ベルクから仕返しのように胸の先を舌で勢いよく嬲られ、小さく悲鳴を上げる。
「ごめん、痛かった?」
慌てて胸元から顔を上げたベルクが心配そうに七海を窺う。
「違うの。大袈裟に反応してごめんなさい」
恥ずかしさに俯きながら七海は彼のシャツのボタンをひとつずつ外していく。いつの間にかジャケットは脱ぎ捨てられていた。
「気持ちいいって感覚に慣れないからびっくりしちゃって。痛いときは痛いって言うと思う」
スラックスからシャツの裾を引っ張り出し、全てのボタンを外し終えると、七海はそろそろと顔を上げて妙に静かになった彼を見た。
ベルクの顔は赤く染まり、「七海」と呟く彼の瞳が揺れた。
「びっくりさせてごめんね」
七海は未だ慣れない感覚に自分で思う以上の反応をしてしまうことが恥ずかしかった。
「僕は今、とてつもなく幸せなんだ」
「え? なんで?」
ゆっくりとベルクがベルトを外し、一旦ベッドから降りて下着ごとスラックスを脱ぎ、七海のシャツをベッドから拾い上げて床に落とした。すると、どこからか現れたお椀を伏せたような直径六十センチほどの白っぽい物体が掃除機のように音もなく床に散らばる服を吸い込んでいった。
「あれなに?」
「掃除機であり洗濯機でもあるものかな。一人用だから小型だけど」
謎の物体の行方を目で追っていた七海は、その行く先を知る前に再びベルクに押し倒され、その両腕の間に閉じ込められた。
「七海は僕を拒まないんだね」
真上から見下ろすベルクが瞳を揺らした。
「なんで拒むの?」
「わからないけど、なんとなく」
途端にベルクは自信をなくしたようにしょんぼりする。
「嫌なときは嫌って言うと思うけど……」
言いながら七海はベルクの首に手を回し、背を浮かせながらキスをした。
「今はできるだけ色んなことに応えたいって気持ちが強いかな。もっとベルクのことが知りたいっていうか、その延長上に応えたいって気持ちがあるのかな。自分でも上手く説明できないけど、一緒にいたいって思うし、ずっと触れていたいって思う」
話ながらどんどん恥ずかしさが募って、顔に熱が集まっていく。顔が赤くなっているだろうと思うと七海の恥ずかしさはさらに増していった。さらっとクールに決めたいところなのに上手くいかないのは、きっと目の前のベルクの顔も赤いせいだ。
「七海かわいい。僕幸せ。すごく幸せ」
片言を呟きながらベルクが七海を強く抱きしめた。七海のことをかわいいと言ってくれる男の人はきっと彼くらいだ。こんなふうに誰かに愛おしそうに見つめられたこともない。
不意に七海は泣きたくなった。愛おしさが胸に溢れた。衝動的に口走る。
「大好き」
ぱっとベルクが顔を上げた。大きく見開いていた目が今にも泣き出しそうに歪んだ。
「僕も大好き。七海に出会えてよかった」
全てを委ねるように七海は目を閉じた。唇が重なる。薄く開いた七海の口の中にベルクの舌が入り込む。いつまでもキスしていたいと願うほど、彼とのキスは気持ちがいい。彼の舌が七海の口の中の形をひとつひとつ確かめていく。上顎をなぞられ、下顎をなぞりながら七海の舌を持ち上げ、まるで踊るように互いの舌を絡ませ合う。
胸を揉んでいたベルクの指がその先端を優しく捏ねる。七海は込み上げる何かを気持ちよさごと彼に渡した。
ベルクの手のひらがもどかしいほどゆっくりと七海の全身を撫でる。七海も同じように彼の肌の感触を手のひらで感じた。
「七海、触ってもいい?」
どこを指しているのか察した七海は、小さく頷いた。
ベルクの指が触れると小さく、くちっ、と鳴った。もうずっとだ。彼と一緒にいる間、もうずっと七海の内側は潤んだまま。光の輪がきれいにしてくれたはずなのに、気付けばいつの間にか潤んでいる。
七海も手を伸ばし彼の一部に触れた。その途端ベルクの躰が跳ねた。
「うわっ、なんだこれ」
慌てて七海は手を離した。躰を起こしたベルクはじっと自分の一部を見つめている。
「ごめん、痛かった?」
「あ、違うんだ、大丈夫。びっくりしただけ。すごいな、初めてだ」
余計なことをしたのかと七海は不安になった。
「射精の衝動なんて初めて感じた。びっくりした」
心底驚いている様子のベルクに七海の方が驚く。
「初めてなの?」
「初めてだよ。話には聞いていたけど……僕って七海との子供がほしいんだなあ」
ベルクはどこか不思議そうでいて妙に感慨深げに呟いた。意味がわかるようなわからないような、七海は首を傾げる。
「地上の男と違って、精子の排出は滅多にしないんだ。それこそ子供をつくるときくらいで、通常はマニに変換されるものなんだけど……射精の衝動なんて滅多に起こらないって聞いていたし、僕自身初めてだったからびっくりした。僕は、自分が思っているよりずっと七海が好きみたいだ」
本当に彼は地底人なんだな、と七海はようやく実感できた。二十四にもなって射精をしたことがない地上の男はそうはいないだろう。
「七海は僕の触ちゃダメだからね」
「射精ってしない方がいいの?」
「しても平気だけど、万が一七海の中で射精しちゃうと確実に七海は妊娠する。僕たちの精子は子宮の中で最長ひと月は生きるんだ」
なんて生命力。七海は驚きすぎて何も言えなかった。
「地下都市は人口制限があるから勝手に子供をつくるわけにはいかないんだよ。地上で育てるなら別だけど、それはたぶん難しいから……」
「人口制限があるの?」
「あるの。都市の収容人数が決まっているんだ。だから、僕みたいに地上人としかエナジー交換できないタイプは早々に淘汰されるんだよ」
説明しながらベルクの指が七海の胸の先を弄ぶ。
「射精、してみたくないの?」吐息混じりに七海が訊けば、ベルクは驚いたように指の動きを止めた。
「考えたこともなかった。うーん、興味はあるかな。うん、いつかしてみたい」
「今じゃないの?」
「今は七海の中に入りたいから……」
ベルクの指が七海の入り口をなぞる。さっきよりも大きく音が響く。彼の指が動くたびにくちっくちゅと聞こえてくる淫靡な音と、敏感な場所を擦られる強い刺激に、七海はベルクにしがみついてその胸に顔と込み上がる声を隠した。
「指、入れてもいい?」
ベルクの肩に頬を寄せ顔を隠しながら、七海は頷いた。ゆっくりとベルクの長い指が入ってくる。彼の一部に比べ優しい圧迫感に七海はほうっと息を吐く。ゆっくりと指が出し入れされる。息が上がる。ベルクのもう片方の手が乳房を捏ね、指先が七海の胸の先を掴まえる。中に埋まるのとは別の指にすぐ上の敏感な場所を同時に擦られ、七海の躰はびくびくと震えた。
七海の躰のそこかしこにぞくぞくとした寒気にも似た快感が走る。中で蠢くベルクの指が特に敏感な場所を擦った。
「んあぁ」
うねるような快感が七海の背を走った。込み上げる何かも、声も、吐息も、快感も、全てをベルクの唇に預ける。
七海の中で快感が弾ける。
大きく息を吐く七海の躰をベルクの一部が割開いていく。強すぎる圧迫感はそれまでとは違い気持ちよさを連れてきた。全身にぴりぴりとした強い快感が湧き起こる。
「すごい、中がひくついてる。全部一度に持っていかれそうだ」
耳元で囁かれる吐息混じりの声に、七海の躰が一際跳ねた。
唇が重なる。ベルクとの繋がりが生まれる。口づけながらベルクの腰が動くたびに、七海の中にそれまで以上に込み上げた熱が彼の口内へと流れていく。
どこか単調だった快楽の波が大きくうねる官能の波へと変化する。
彼と自分の境界がどこにあるのかもわからなくなるほどの快感に、七海は悲鳴のような嬌声を上げた。さっきまで指で擦られていた敏感な場所を今度はベルクの一部が擦り上げる。強すぎる快感に七海は耐えきれず、全てを手放し彼に委ねた。ベルクと繋がる快感だけを七海は必死に受け止め続けた。
すっかり腰の抜けてしまった七海を自称ヘタレが軽々と抱き上げる。一体どこがヘタレなのか。
「ごめんね」
彼の首筋が色っぽかった。意味もなく耳朶に噛みつきたくなった。思うだけで悪戯する気力もなく、七海は躰に力が入らないという初めての感覚に困り果てていた。
「いや、本当はもっとゆっくりさせてあげたいんだけど、さすがに日が暮れそうだから。できるだけ今日のうちに七海の今後を修正しないと」
七海を抱えたベルクはすたすたとあの光の部屋に移動し、きれいになった七海を半繭チェアに座らせると、下着を始めとする全ての衣類を甲斐甲斐しく着付けていった。
あまりの恥ずかしさに七海はいっそ泣いてしまいたかった。
ベルクが着替えている間によろよろと立ち上がることができた七海は、彼に支えられながらまた別の小部屋に通される。
「外に出る前に、いくつか注意事項がある」
神妙に頷く七海にベルクは真剣な顔で続けた。
「外に出るときは全ての息を吐ききって、外に出たらゆっくり鼻から吸い込むこと。ここを満たしているものと地上の空気は少し違うから」
七海が頷くのを確認したベルクはさらに続けた。
「今の七海の胃や腸は空っぽだから、消化のいいものからゆっくり食べること」
言われてようやく気付いた。おそらく三日以上何も食べていない。水すら飲んでいない。それなのにお腹がすくことも喉が渇くこともなかった。トイレにも行っていない。
「わかった?」
確かめるようなベルクに七海は頷きを返す。
「わかった。ちょっとびっくりしてた」
「あと、重力が少し変わるから、躰を重く感じると思う。それから太陽光を強く感じるかも。しばらくの間はできるだけ目を伏せて、なるべく日陰から出ないよう気を付けて」
七海が頷くのを見て、彼も頷く。
「じゃあ行くよ。思いっきり息を吐いて」
ふうーっと苦しくなるほど七海が息を吐ききった瞬間、ぷしゅっと軽い音を立てて円形の開口部から強い光が射し込んできた。
ベルクに導かれるまま一歩踏み出すと、まるで水面に出たかのような、何かの膜を通り抜けたような、不思議な感覚がした。
そこは古い木造の桟橋だった。太陽は厚い雲に隠れ、辺りはどんよりと薄暗い。それなのに暗所から出た瞬間のようにやけに眩しく感じる。急に襲いかかってきた息苦しさに、思わず勢いよく呼吸しかけたところで彼の言葉を思い出し、極力ゆっくりと鼻から息を吸い込む。
潮と微かな腐敗臭、枯れ草と湿った土の匂い、他にも様々な匂いが七海の鼻を衝いた。そこでようやく、今まで匂いを感じていなかったことに思い至った。
吸い込む空気が肺に重く溜まる。軽く咳き込んだ七海の背をすかさずベルクの手がさすった。
「大丈夫?」
空気の違いなのか、耳に響くベルクの声がそれまでより僅かに重さと厚みを増したようだった。
「大丈夫。吸い込む空気が重い」
「たぶんすぐ慣れると思うけど、吐き気はない?」
「大丈夫。本当に躰が重い」
倦怠感に似た感覚は手足に錘がついているようだった。普段意識しない頭の重さに、七海は子供のようによろめいた。
「僕にもたれて。立っていられる?」
「ちょっと無理かも。しゃがんでもいい?」
言い終わる前に足元に荷物を置いたベルクが七海を抱きかかえた。
「ベルクは平気なの?」
「マニの交換しているから。僕自身驚くほどなんともない」
それはよかった、と小さく呟きながら七海は彼の胸にもたれた。
どうやらそこは小さな入り江のようだった。
行く先には、潮風になぶられたような木々に囲まれて、ぽつんと佇む古い木造の建物が見える。よくよく見れば到底人が住んでいるとは思えない、朽ちかけた廃屋だった。
まさかと思いながら七海はベルクを見上げた。
「見た目はまあ、あれなんだけど、中は快適だから」
苦笑いするベルクに、あそこに住んでいるのかと七海は驚いた。
近付いていくうちに総二階の壁の一面が大きな開口部になっていることに気付いた。両開きの大きな扉は倉庫の入り口のようだ。
「もしかして、船の倉庫?」
「そうだったみたいだね。中はがらんとした何もない空間だった」
大きな両開きの扉の脇には、人が出入りするための扉もある。まるで巨人用と小人用の扉が並んでいるように見える。
「あっ、しまった。鍵が鞄の中だ」
七海を抱えたせいで鞄は桟橋の先に置いたままだ。
「ここで待ってる」
「確か脇にベンチがあったはずなんだ」
七海を抱えたままベルクが家の角を曲がると、そこには確かに朽ちかけたベンチが置かれていた。元は赤かったのだろう、すっかり剥げた塗装の残滓が哀愁を漂わせている。
「座って待ってて」
七海をベンチに降ろしたベルクは走って桟橋に戻っていく。
風雨に曝され続けたであろうベンチの表面を指先で確かめる。ざらつきもなければ指の腹に汚れもつかない。七海を降ろす直前、さっと何かが通り過ぎるようにベンチの色が少し変わったのだ。おそらくベルクが汚れをどうにかしたのだろう。魔法みたいな力というのもあながち間違いではないのかもしれない。彼の言葉を借りるならば、原子を操り汚れを除去したのだろう。
いくつか並ぶ格子窓はどれも汚れで濁っていた。アルミサッシではなく木枠にはめ込まれた窓ガラスはビビや割れが目に付く。レトロな網戸は青い網が破れて垂れ下がっていた。どこからどう見ても人が住んでいるとは思えない。壁の板目に隙間まである。ベルクの快適と七海の快適がイコールではない可能性が頭をもたげた。
鈍色の空と鈍色の海。その結び目は曖昧に濁っている。
廃屋の周りに生い茂る夏草を海風が渡っていく。繰り返す波音と葉擦れ、それに海鳥の鳴き声。それしか聞こえない。