トウメイノチカク
§1 アルビナ③


 初めて男の人に認められた安堵からか、急な眠気が七海を襲った。込み上げるあくびを一つ二つとかみ殺す。
「ああ、そういえばエナジー交換に慣れるまでは疲れるんだよ」
 言われてみれば気怠い。布団の中に深く潜り込んで丸くなって昏々と眠りたい。かみ殺せなかったあくびに七海の口が小さく開いた。
「あー、でも、訊きたいことがもうひとつあって……」
「なに?」
 七海にベッドを譲った彼は、自分はどうしようかと迷う素振りをみせた。遠慮している様子が見て取れて、七海は重さを一切感じない布団の端を軽く持ち上げる。楕円形のベッドはおそらく七海が知るダブルサイズよりもずっと大きい。
「横にいて気にならない?」と彼は不安そうに言った。
 七海には誰かと同じ布団で寝た経験がない。気になるかどうかはきっとこれから知ることになる。
「今はそばにいてほしいかな」
 無防備な笑顔を見せた彼が七海のすぐ隣に入ってきた。彼の素直な表情は七海を安心させる。何を考えているかわからない人より、わかりやすい人の方が一緒にいて安らげる。
 肌掛けのような薄い布団は空気のように軽く肌触りもいい。薄明かりの空間は暑くもなければ寒くもなく、快適な温度に保たれている。だからなのか、彼はずっと下着一枚だ。恥ずかしがる様子がないのは彼の個性なのか地底人だからなのか。
「ちょっと言いにくいんだけど……」
 七海の計算ではたぶん大丈夫なはずだ。はずだが、絶対に大丈夫かといわれると自信はないし、絶対はないともいわれている。
 七海の硬い表情を見てか、「なに?」と聞き返す彼の表情も引き締まる。
「避妊、してないよね」
「ああ、そうか、説明してなかった」
 そんなことかと言わんばかりの彼を見て、七海はおそらく大丈夫なのだろうとひとまずほっとした。
「エナジー交換をするときは、えっと、なんだっけ、射精? しないんだよ」
「えっ、しないの?」
「そう、しないの。そこはね、地上の男とちょっと違うんだ」
「もしかして、気持ちよくないの?」
 驚きながら七海が訊けば、はにかむように彼が照れた。
「その逆。射精よりエナジー交換の方が気持ちいいって言われている」
「そうなの?」
「そうなの」
 彼はオウム返しするのがクセみたいだ。確認するように頷きながら繰り返す様子はなんとも和む。
「何かの研究で、マニの交換に関しては男女の感覚は同じだっていってたけど、どうなのかな」
「あのぴりぴりする感じも?」
「それは……うーん、ちょっと違うかな。個人差があるのか、僕が鈍いだけなのかも。他を知らないからなんとも言えないけど、やっぱりそれはアルビナ特有の感覚かもしれないし……」
「ちょっと待って、あなたも初めてだったの?」
 そのわりに手慣れていたような気がするのは気のせいか。七海の嘘だと言わんばかりの視線に、彼が心外だとばかりに反論する。
「だから、モテなかったって言ったでしょ」
「でも、なんていうか、スムーズだったし」
「そりゃあ、ちゃんと実習してるからね」
「え?」七海は一瞬のうちに様々なことを考えた。「実習って?」
「エナジー交換の実習。人工体と人工マニを使って練習するんだよ。さすがにいきなりできるわけじゃないから」
「なんだ」
 ほっとした七海に彼の訝しげな視線が突き刺さる。
「ごめん、女の人と練習したのかと思った」
「女の人っていうか、人工の女性体だけど……」
 マネキンのようなものだろうか。想像するとそれはそれで微妙だ。
「変なこと想像しちゃった」
「ああ……まあ、そういう人もいるみたいだけど……僕はちょっと無理かな」
 そのマニの交換を目的とした人とは別のパートナーをもつ人も中にはいるらしい。彼らは互いに自立した上でパートナー関係を結ぶため、生きるために必要なマニの交換を割り切った行為とみなす人もいるのだとか。
「マニの交換は自分の全てを相手に委ねる行為だから……マニの交換だけを目的とした関係ってちょっと僕には無理かな」
 七海も同じだった。マニの交換が必要な彼らとは根本的な捉え方が違うとしても、実際にその行為をしてみれば誰とでもできることではないと改めて感じる。
「自分が自分でなくなるような感じ?」
「そうそう、そんな感じ。あの時、君も怖いんだって思ったら、なんだか急に僕がしっかりしないとって自信が湧いてきて、大丈夫って思えたんだよ」
「もしかして、あなたも不安だった?」
「そりゃあね。最初は勢いでできたけど、ちゃんと意識してするのは初めてだったし」
 照れながら言われて、七海は嬉しいような恥ずかしいようなふわふわした心地になった。
「あのね、少しくっついてもいい?」
「もちろん。ねえ、僕もお願いしていい?」
「なに?」
「腕枕、してみたいんだけど」
 互いに照れながら、もぞもぞと躰を動かし、七海は彼の腕の中に収まった。
「あー……なんかいいなあ。夢だったんだよなあ、こういうの」
 感慨深げに彼が呟く。七海もだ。どれほど憧れたとしても、男の人の腕に抱かれる自分の姿など想像もできなかった。
「あの、名前。さっきパスポート見せてもらったのに読めなくて」
「ああ、ヴェルクやベルクって発音する。君はななみで合ってる?」
「合ってる」
 彼から正しい発音を聞いたところ、七海の知るどこの国の発音とも違った。どうしても同じように発音できない。ヴの音に近いようでヴェとベにも近く、ヴェよりもベに近い。三つの音の間のようでいて少し違う音にも聞こえる。手こずる七海に彼が優しげに目を細めた。
「ベルクでいいよ。地上の発音と実際の音とはどうしても違うから」
「そうなの?」
「そうなの。あまり口を動かさないから、もっとくぐもった音になる」
 なるべく口を動かさないよう、ベルク、と何度か試すうちに、彼がくつくつと笑い出した。
「全然違う?」
「全然違う。根本的な発音の仕方が違うんだ」
「ごめん、ベルクでもいい?」
 彼の発音はちゃんと日本語の七海と聞こえるのに、七海は彼のことを正しく呼ぶことができない。それが悔しくて申し訳なかった。
「いいよ。ほかに訊きたいことは?」
「年齢、訊いてもいい?」
「二十四歳。ギリギリだった」
「ぎりぎり?」
「そう、僕みたいに地上人としかマニの交換ができないタイプは二十五歳までにパートナーを見付けないと終わるんだ」
「終わるって?」
「あー、死ぬってことかな」
 首を微かに傾げながらあまりに軽く死を口にする彼に七海は戸惑った。
「死ぬことを終わるっていうの?」
 七海の声に僅かな怯えが滲み、彼は困ったように眉を寄せた。
「地上と地下だと最後が少し違うんだ。根本的には同じなんだけど、どう言えばいいのかな、説明が難しいな」言葉を探すように彼は少しのあいだ口を噤んでから続けた。「生命活動が停止すると、その瞬間から肉体は分解され始めるだろう?」
「たぶん。そうはっきり認識したことはないけど」
 七海は死ぬということをそんなふうに考えたことがない。
「地上だとその速度が緩やかに進む。でも地下ではそれよりもずっと早くて、あっという間に分解が終わるんだ」
「骨だけになるってこと?」
「骨も分解される」
「何も残らないの?」
「いや、原子に還るんだよ」
 またもや七海の理解を超えた。意味はわかる。あらゆるものは原子からできているのだから、人体も原子に還るのだろう。
 七海が眉間に力を入れながら原子についえ考えていると、彼が「ああ! そうだった」と何かを思い出したように声を上げた。
「言い忘れていた。君は結晶摂取してるんだ。なかなか意識が戻らなかったからちょっと心配になって」
「結晶?」と七海が呟くと、彼は「そう、結晶」と小さく返した。
「結晶は……これも説明が難しいな。マトリクスってわかる?」
「子宮とか基盤って意味の?」
「んーちょっと意味が違うかな。日本語だとなんだろうな……生命の源、かな。たしかエリクサーとか賢者の石とか変な呼ばれ方もしていたはずだよ。コアの欠片なんだけど……」
 原子の次は錬金術だ。一気に胡散臭い話になった。七海は苦笑しながら眉を寄せた。
「信じてない?」
「あんまり」
「君、視力矯正してたでしょ?」
「コンタクトのこと?」
「そう、目の中に異物を入れるやつ。あれ、今してないでしょ?」
 言われて気付いた。そういえばそうだ、コンタクトレンズの感覚がない。
「ごめん、私のバッグ……」
 起き上がってバッグを取りに行こうとする七海を彼が制した。彼が手を翳すと半球のテーブルがベッドの周りをぐるんと廻って七海側に移動してきた。律儀に七海のバッグが手前にくるようくるんと回って停止する。
 彼の腕の中から寝返りを打ち、手を伸ばしてバッグの中から手鏡を取り出す。鏡に映る目を見れば、彼の言う通りコンタクトレンズがなかった。それなのにはっきり見えている。
「あと、歯の治療痕が一カ所あったんだけど……」
 すぐさま口を開けて右下の奥にあった小さな銀色の詰めものを探す。ずっと気にしていた治療痕が綺麗さっぱり消えていた。
「どういうこと?」
「結晶を摂取すると最適化されるんだ。たぶん今まであった慢性的な不調も解消されているはずなんだけど……」
 最適化、と呟いた七海は、ぱたんと小さな音を立ててテーブルの上に手鏡を伏せた。まだまだ気になることはあるのに頭が追いつかない。
「少し寝てもいい?」
 混乱しすぎて疲れがどっと出た。あまりに七海が情けない顔をしたせいか、彼は苦笑しながら七海を自分の腕の中に引き込んだ。
「僕も少し寝るよ」

 地底人と地上人。
 七海にはその違いがよくわからなかった。実際には様々な違いがあるにしても、見た目は七海たちと変わらない。彼の胸元をよく見れば薄らと産毛だって生えている。
 気になるのはアンダーヘアーのことだ。彼は元々生えていないのか、最初から見た覚えはない。ただ、七海のそこまでなくなっていた。びっくりして彼の目を盗んで確認したところ、剃ったわけでもなければ抜いたわけでもなさそうで、よく見れば薄らと産毛が生えていた。自然な仕上がりといっていいものか、とにかく最初からそんな存在などなかったかのような状態になっている。
 ものすごく気になる。それなのに、いざ口にするのは恥ずかしい。

 うつらうつらしかけた七海は、ふと足に当たるものに手を伸ばした。
「ちょっ!」
「ごめん、でもこれ、辛くないの?」
「あー……僕たちのは、どう言えばいいのかな、その、伸縮しないんだよ」
 伸縮……間違ってはいないような、と考えながら七海が下着越しにその存在を確かめていると、みるみる硬さが増していく。硬くはなるのか、と考えたところで一気に眠気が吹き飛んだ。何をしてるんだ、私!
「ごめん」
 慌てて手を離して彼を見れば、困ったように眉を寄せていた。自分のしでかしたことに羞恥を覚え、七海は俯いてもう一度「ごめんなさい」と口にした。
「僕は……エナジー交換以外の、その、女の人との直接の経験がないから……上手くやれてるのかわからないんだけど……」
 言葉通り自信のなさそうな声がぽつぽつと零れてきた。
「それは私だって……。私もちゃんとできてるのかわからないから……」
 もごもご言いながら、ふと七海は、こういうことこそちゃんと話し合った方がいいような気がしてきた。思い切って口にしようとするものの、恥ずかしさが拭いきれず、彼の胸元を眺めながらぼそぼそ言う。
「色々、二人で試してみたい、かな」
「うん。僕もそう言おうと思っていたんだ。できれば気持ちよくなってほしいから」
 七海がそっと顔を上げると、照れくさそうに笑う彼と目が合った。
「あなたのこと、名前で呼んでもいい?」
「いいの?」
 飛び起きるように身を起こした彼は、驚きからか目を見開いて七海を見ている。何事かと七海も驚く。
「何か意味があるの?」
 つられて起き上がろうとする七海の肩をそっと押さえる彼が「そうだよね、知らないよね」と独り言のように呟いた。再び横になった七海は彼の次の言葉を待った。
「名前を呼び合うのはパートナーの証の一つで、通常は家族名で呼ばれるんだ」
「家族名って名字のこと?」
「家名とは別の、その家族だけの名前なんだけど……あー、これも地上とは色々違うから説明が難しいな」
 もぞもぞと布団に入り直し、しっかり七海を腕に抱いた彼は、しばらく上を向いたまま難しい顔で考えていた。思考がまとまったのか、彼は七海に目を向け訥々と語った。
「地上って、子供は最初から親と一緒に家族の中で育つでしょ」
 七海が頷くと彼は続けた。
「僕たちの場合、子供はだいたい十歳前後までコアの中で育つんだ。それがさっき言ったマトリクス」
 コアが何かわからず、七海は小さくその言葉を繰り返した。
「コアは、なんだろうな、僕も詳しくはわからないんだけど、そういう空間というか場所というか……つまりマトリクスなんだけど……」
 全くわからない。託児所のような場所だろうか。七海はひとまず置いておくことにした。
「子供が親元で育つのは十歳以降ってこと?」
「そう、そこから成人までは親と一緒に生活する」
「で、それと名前がどう関係するの?」
「家名って親の血筋を辿るから、一つの都市に多くて五つくらいしかないんだ。個人名は系統こそあれその家系に代々続くものを何代かおきにつける傾向にあって、そうするとまるっきり同じ名前を持つ者が多くなる。それを避けるためにその家族だけの独自の呼び名というか家族名がつけられるようになったんだ」
 七海の理解を確かめるように、彼は七海をじっと見つめた。
「それはなんとなくわかる。地上人でもそういうのってあると思うから……」
 自分たちのことを地上人と呼ぶことに七海は違和感を覚えずにはいられない。
「特にコア内では家族名で呼ばれて育つせいか、対外的にもそのまま家族名がメインになる。家族の中だけで個人名が呼ばれるんだ」
 そこまで言われて七海はなんとなく察した。
「呼ばない方がいい?」
「呼んでくれるなら呼んでほしい」
「でもそれってつまり……」
「そうなんだけど、地上では別にそういうことはないんでしょ? だったら気にせず呼んでほしい」
 彼にしては押しの強い声だった。
 少し悩んだものの、いつまでも「あなた」と呼ぶのもどうかと思うし、七海には一応そういう関係なのだからできれば名前で呼び合いたいという願望もある。
「じゃあ、ベルクさんって呼んでもいい?」
「さんはいらない。ベルクでいいよ。僕も七海って呼んでいい?」
 彼に名前を呼ばれただけで七海の胸に嬉しさが込み上げる。
「ちなみにフルネームはなんていうの?」
「日本語の発音だと、ベルク・アフナス・ファスティ、かなあ」
 完璧とも言えるカタカナ発音だった。七海はなんだか申し訳ない気がした。
「深津谷 七海です」
 今更自己紹介する滑稽さに顔を見合わせ笑った。笑っているうちに七海は再び眠気に襲われる。
「少し眠ろう。目覚める頃には日本に着いているはずだから」
 そういえば今は海の底にいると言っていたな、と思ったところで七海は微睡みに包まれていった。