トウメイノチカク
§8 エクリプシ③「もしかして、彼らにとって美帆や大志って……」
「いや、一度仲間と認識したなら同等の存在だよ。あくまでも、それ以外のサブは、ってこと」
そうだよね、と改めて思う。ここ最近のサブに対する彼らの対応を見ていると、もやもやした気持ちになるものの、モニタ越しに見ても彼らは美帆や大志を自分たちと同じ存在として扱っている。美帆の作るロイヤルミルクティーをこよなく愛し、美帆のロイヤルミルクティーにかける研究心を理解し、作り手である美帆に賛辞を欠かさない。決してペットという存在ではないはずだが……最近では種が違えどもペットを家族として同等に扱う人もいる。オリジンの中にもそういう考えの人がいるとすれば……確信が持てなくなる。
「ヴェーテはどうなんだろう……」
つい思っていることが七海の口から零れた。サースナクスチームの中で一番疑わしいのはヴェーテだ。美帆や大志に執拗に骨髄移植を勧めていたことを思い出す。初対面でいきなりの人種差別発言は忘れようと思っても忘れられない。
「彼は……どうなんだろうなあ」
作業の手を止めたベルクは思わずといった感じに首を傾げた。
研究所に戻ってきたベルクと七海は、明日に備えて不要になったランプの整理に追われていた。今はまだここで使用できるランプの数は限られているため、どうでもいいメモのようなランプを初期化し、明日の作業で発生する膨大なレポートの記録に回すのだ。
「口は悪いけど、単純に度が過ぎた知りたがりなだけじゃないかな。まあ、何があったとしても小間井さんなら心配ないよ」
作業を再開したベルクを七海も手伝う。ベルクが不要と判別したランプを専用の装置に入れると、一度ぽこんと手のひらサイズにまで膨らんですぐにしゅるっとビー玉ほどの大きさに凝縮される。七海はそれを初期化済みランプ箱に入れていく。そのときにランプ同士が軽くぶつかり合ってしゃららという澄んだ音が立つ。七海はその音が好きだった。
「あの二人に何かあれば、ユカやベルクを敵に回すってことだから……」
「僕はともかく、ユクムスナの保護下にあるというのは絶対だから。まあ、そそのかしはするだろうけど、小間井さんには通じないと思うよ」
「ベルクって大志のこと買ってるよね」
「そうだね、彼は感情のコントロールができている人だから。何より常に冷静であろうとする姿勢は評価できるし、周りをよく見ているから咄嗟の判断も速い」
大志は同い年の七海よりもずっと大人だ。出会った頃はそうでもなかったはずなのに、いつの間にか大きな差がついている。その差は悔しいというよりは感心するほどで、本人には気恥ずかしくて言わないけれど、七海は大志のことを尊敬している。
「彼は増田さんを守ることに必死だから。守るものがあると強くなれるという見本みたいな人だ」
いつだったか、美帆を守るために七海ごと守る、と言われたことを思い出す。改めてすごい人だと思う。
「だから、コマくんなら大丈夫なのかぁ」
「そう、小間井さんがいれば増田さんも大丈夫。それに、何かあったら増田さんは必ず七海か小間井さんに相談するだろう」
これまで美帆のことで、七海か大志のどちらかしか知らないことはあっても、どちらも知らないことはなかった。七海とは違って、美帆はちゃんと人を頼れる。それは、美帆の強さでもある。そんな美帆のおかげで、七海も美帆や大志を頼れるようになった。
「離れているからかな、なんだか色々よく見えるようになった気がする」
ビー玉サイズになったランプが入っているガラス瓶に似た容器を軽く振る。しゃらら……と澄んだ音が立った。
『ほい。完了。あとは任せた』
軽い声と同時にモニタからユカの姿が消えた。
サースナクス儀が動きを留めている。実際は時が止まっているわけではなく、極限まで引き延ばされた状態らしい。まさに、一瞬が永遠になっているようなものだ。
七海とベルクはそれを受けて移動用の小型アトレーンに乗り込み、この世界の中心に移動する。逆円錐の小島なのか岩場なのかはっきりしない、遠目には足元が心許ない全方向崖っぷちのような場所に降り立つ。
逆円錐の上部は水を湛えたまさにカクテルグラスのようで、その中心に遺跡のような建物が存在している。ヨーロッパの古代遺跡に似た白い円柱が規則正しく並んでいる。
「ここが研究所の上部?」
「そう。しばらくはここが我が家になるかな」
「ベルクの家みたいに改造して?」
「あの家をそのまま再現するつもり。七海の家も再現できるよ」
「私の家はいらない。ベルクの家がいい」
ベルクが嬉しそうに笑う。
一切の音も動きも無い世界。テータで護られているとはいえ、無音の世界に耳鳴りがする。動きを止めた空気が重い。まるで普段意識することのない重力をダイレクトに肌で感じているかのように思える。
『アフナス、準備はいいか。そろそろ始めるぞ』
ベルクの近くを浮遊していた小さな通信機器からヴェーテの声が聞こえる。
「いつでも構いません」
地下から一緒に運んできたスツールが大きなソファーに姿を変える。何度見ても不思議な感覚だ。魔法のような突拍子のないものではなく、ちゃんとマニで変化させていることがわかるだけに、七海はいつも内心で、いつかは自分も! と思ってしまう。
ベルクがソファーに腰をおろして七海に手を差し出す。七海も隣に腰をおろし、ベルクの手のひらに自分の手のひらを重ねた。
ベルクがゆっくりと目を閉じる。すると、その躰から小さな小さな煌めきがゆったりと立ち上り始めた。ゆらゆらと宙にたゆたう煌めきがゆっくりと時を留めた世界に融けていく。
ただひたすらに美しい光景だった。
「七海、終わったよ」
呼ばれて一気に覚醒した。ベルクに寄りかかっていた躰を慌てて起こす。
「ごめん、寝てた」
ベルクがにこにこ笑っている。それはもう満面の笑みだ。
「七海がいつも以上にリラックスしていたおかげで、作業が予定よりずっと早く終わった」
あまりにきれいな光景だった。つい目蓋に焼き付けようと目を瞑ったら、そのまま寝落ちしたという情けないオチだ。これで何度目だろう。これまでもベルクの作業中に七海が寝落ちすること数回。その度にベルクに今回と同じく、作業が捗ったと嬉しそうに言われてきたのだ。自分が役に立っていることは心底嬉しいが、寝落ちはさすがに情けない。
それでも……と七海は思う。目蓋に焼き付いた光景は本当にきれいだった。寝落ちしていたものの、ずっとその光景を眺めていたような気がする。
「すごくきれいだった。ベルクから小さなコアが立ち上って、きらきら光りながら大気に融けていくの」
「見えたんだ。そっか、僕のマニだからかな」
「本当に、すごくきれいだった」
そっか、と嬉しそうに笑うベルクがソファーから立ち上がり、大きく伸びをした。
「キメラの処理も終わったの?」
「終わったよ。無事にマニが入れ替わった」
「エクリプシの移動も?」
「それも無事終わった。ただ、」
とベルクの表情が曇った。
「どうも、博士が残していたヴェルーシナが作動していたらしくて、直前に別のエクリプシが潜入した可能性が高い」
「どうするの?」
「今確認中だけど、まあ仕方ないからそのままかな。エクリプシの呼び寄せはこの世界の文化でもあるから、この世界の人間が作動させていたのなら僕たちが干渉することではないかな」
「その別のエクリプシはどうなるの?」
「さあ。アトラスが消失している以上、これまでのエクリプシよりはマシな扱いになるんじゃないかな。ただ、エクリプシが二人になるから、多少は混乱するかもね」
ソファーをスツールに変えながら、ベルクは至極どうでもよさそうに話している。
「そんなもの?」
「そんなものだよ。基本的に僕たちはこの世界で起きることに干渉はしないからね」
「エクリプシを送り込んでいるのに?」
「別のエクリプシが潜入するってわかっていたなら、多少は時期をずらしたかもしれないって程度だよ」
世界の構築には関係のない、ヴェルーシナ単体の作動状況まで把握しているわけではない、とベルクは事も無げに言う。
「そんなもの?」
「そんなもの。よし、一旦研究所に戻って、最終確認しないと」
ベルクがぐるっと時を留めた世界を見渡した。
「あそこ、雨が留まっている」
ベルクの指差す先には、時を留めた雨雲の下で小さな雨粒が光を細かに反射していた。まるで繊細なラメが織り込まれたベールが大地を覆い隠しているようだ。
「なんだか、静止画の中にいるみたい」
「実際に静止しているようなものだからね」
移動用のアトレーンに乗り込むときに、七海はもう一度振り返って時を留めた世界を目に焼き付けた。
『よし、あとは、キメラにアフナスの匂いを覚えさせるだけだな』
シス時間で一週間近くをかけて構築の微調整を行い、その最終段階ではキメラの調整も行われている。無駄に牙の長いキメラもあの遺跡にいたらしい。ただし、あの遺跡は空間がねじ曲がっているとかで、キメラのいた空間と七海たちがいた空間は重なり合わないようになっている。三浦半島にあるベルクの家も同じような原理なのかと思いきや、あそこは単にテータで隠されていただけらしい。その違いが七海にはまだわからない。
「匂い?」
思わず七海の腰が浮いた。モニタの向こうにいるヴェーテがそんな七海を見て大袈裟なジェスチャーで呆れている。
『なんだ、聞いてないのか? 俺たちは個人認証を体臭で行うんだよ』
モニタの前で暇を持て余して半繭チェアをゆるゆる回していた七海とは別に、ベルクはシスから送られてくる最終データのチェックを行っていた。七海は最近ようやく半繭チェアを自力で動かせるようになってきた。とはいえまだまだスムーズに動かせるわけではないので、暇にかまけて割と真剣に練習している。
「聞いていましたけど……」
七海がベルクを盗み見ると、思いっきり無表情でモニタを見つめていた。七海には動揺を隠しているようにしか見えない。
「すぐに取りかかりますか?」
『いや、マーキングは明日でいいだろう。今日はもう終了だ! 美帆、ミルクティー入れてくれよ。ロイヤルなやつ』
ヴェーテが美帆に猫なで声でオーダーしている。
『まいどありー』
ちゃっかりしている美帆は一杯五千円で受けているらしい。しかもそれはあくまでも技術料であって、高価な茶葉などの材料費は全て日本支部持ちだ。
「匂いって?」
通信が切れた途端、七海は自分史上最速でベルクに詰め寄った。
「訊かれると思った」
ベルクの渋い顔に、七海の期待は高まる。
「私も一緒に行く!」
「言うと思った」
ますますベルクの表情が苦々しく歪む。
「そんなわざとらしく渋い顔しなくてもいいから。私にとっては恥ずかしいことじゃないから」
「僕にとっては恥ずかしいんだよ。破廉恥って言葉知ってる?」
「知ってる知ってる」
七海は自分でもにこにこを通り過ぎてにやにや笑っている自覚がある。ベルクの眉間の皺がいよいよ深まっていく。
「ベルクがどんなに臭くても嫌いにならないから」
「臭くないから!」
ベルクの顔が真っ赤になった。耳や首まで赤い。そんなに恥ずかしいのか、と七海は不思議な気持ちになる。
「ねえベルク、私の匂いって不快?」
「いや全く。七海の匂いだな……って、あー……」
言いながらどんどん恥ずかしさが募ったのか、ベルクは手のひらで顔を覆ってしゃがみ込んだ。
「変態みたいだ」
変態なのだろう、と七海は思う。体臭を隠す文化で育った人が、パートナーの体臭をこっそり嗅いでいたのだから、それはつまり変態ということだ。
「サメルでほとんど体臭って消えてるんじゃないの?」
七海自身、汗をかいたときに体臭を自覚したことはある。ただ、ここ最近はサメルやテータのおかげで全く感じない。自分の匂いだからわからないのかもしれないが、元々体臭が強い方ではないし、テータのおかげで汗をかくことがそもそもない。ベルクたちの嗅覚が七海たちよりも特別優れているというわけでもなさそうだ。
「ほとんど消えてる。でも、それでもかすかに残る七海だけの匂いってあるから……」
「不快?」
「まさか。いい匂いだから!」
そう言ったあとで、ベルクは頭を抱えた。
「僕って変態だったんだなあ」
「そうなるよね」
ついつい七海が口を滑らせた途端、顔を上げたベルクの顔が情けなく歪む。
「軽蔑する?」
「しない。私だってベルクの匂い知りたいもん」
好きな人の匂いを知りたいと思うのは変態ではないと思う。あーでも……一方的に好意を寄せている人の匂いを勝手に嗅ぐのは変態かもしれない。一歩間違えれば犯罪だ。そこはお互いに想い合っている同士というか、相互関係が必要な気がする。つまり、ベルクと七海はいわば夫婦なのだから大丈夫。……だと思う。
「お互いにそこのところわかり合っていれば変態ではない、と思う、かな」
きっぱり言い切れないところが情けない。でもまあ、七海もベルクの匂いを知りたいのだから、変態同士で変態は相殺される。……と思う。
「ベルクは私の匂いを嗅ぎたい、私もベルクの匂いを嗅ぎたい、お互い様って事で、多分、大丈夫」
ベルクの顔が真っ赤だ。
「七海、自分が変態発言しているって自覚して」
きっぱり言い切れないものの、フォローすればするほど変態度が上がっていくようで、七海はもうどうでもよくなってきた。
「とにかく、私もマーキングしてもらうから」
七海はベルクに襲われた。それはもう、執拗なほどに。
「も……む…り……」
息も絶え絶えに七海が懇願すると、七海の中で暴れ回っていたベルクの一部が少しだけ柔軟になる。七海の片足をぐいっと持ち上げ、体位を入れ替えたベルクは満足そうな顔をしている。
背後位で快感だけをこれでもかと与え続けられた七海は、体位を入れ替える際にまたしても喘がされ、最後の力を振り絞ってベルクの頭を引き寄せてキスをした。溜まりに溜まったマニが一気にベルクに行き渡る。
小さく呻いたベルクの一部が再び硬直する。七海も思わず呻いた。仕返しのつもりのキスで、大きなしっぺ返しが来た。しかもようやくマニが循環したおかげで七海の体力まで回復している。
「待って、一回休憩しよ、ね」
「自分のせいだってわかってる?」
「わかってます。もう変なことは言いません」
とはいえ、マーキングには何があっても同行しようと思っている。そんな七海の心を読んだかのように、ベルクは何かを諦めたような大きな溜め息を吐いた。
ふと、意識の浮上を感じた。
ベルクとマニの交換をするようになって、七海は目覚めの直前の感覚に気付くようになった。
意識的に目覚めを体感する。意識が躰に宿るとでもいうのか、五感と体感が交わるとでもいうのか、言葉にすると何か違うような、言語化できない不思議な感覚の中、意識と躰の繋がりをどこか深いところで覚える。
同時に、ベルクの存在を自分の意識と同じように知る。ああ、私にはベルクというもう一つの存在があるのだと全ての感覚が教えてくれる。
ゆっくりと目を開く。
仄白い光の中、すぐそこにいつか見た同じ輪郭がある。顎から首筋、そして肩に繋がるライン。全てを包み込むように抱きしめられている七海は、静かに指を伸ばした。あの日の心細さを思い出した指先がかすかに震えた。そっと触れた肌の感触。あの時とは違ってベルクは間違いなくここに居る。顎の先に触れた指先は、耳の縁をなぞって白銀のような柔らかな髪を梳いた。
「僕はどこにも行かないよ」
「ん。起こした?」
「いや。七海と同時に起きた」
「同時に?」
「同時に」
ゆったりとした微睡みの中で、いつもよりのんびり言葉を交わす。七海の何もかもが満ち足りる。あらゆる感覚の中に幸せが染み渡る。
「こういうときに、ベルクの匂いに包まれたいって思うのは、やっぱり変態なのかな……」
何気なく呟いた七海に、ベルクはふっと息を吐くように小さく笑った。
「僕も同じように思うよ。こうして七海を抱えているときに七海の匂いを感じて安心する」
「ベルクの常識ではそれって変態なの?」
「どうなんだろうなあ……あまり聞いたことがないから一般的ではないかもしれないけど……でも、きっとあえて口にしないだけでみんな同じように思っているんじゃないかって今は思える」
「言われてみればそうかも。私も小説や漫画のモノローグで知っているだけで、実際に誰かから直接聞いたことはないかも」
「僕たちにとって自分にかけているテータを解除することは余程のことで、そうそう行うことじゃないんだ」
ベルクたちにとっては身を守るためのテータだ。
「ベルクたちからすると、私たちサブは無防備に見えるんだろうね」
「そうだね。言葉は悪いけど、野蛮だといわれている」
そうだろうな、と七海も思う。そういう感覚は七海の中にもある。後進国での不衛生な状況を目にするたびに、野蛮とまでは思わなくても、文化的ではないと思ってしまう。それそのものが彼らの文化であることを忘れてしまう。
「テータの解除って、ベルクたちにとってはリスクしかない?」
「そうだね。特に地上においてはテータなしでは生きられないだろうな」
そっか、と口にしながら、七海は単なる興味でベルクを追い詰めていたことにようやく気付いた。
「ただ──」
と言ったまま言葉の続かないベルクを七海はその腕の中でじっと待った。
「ただ、この世界は今や僕のマニでできているから、僕には一切のリスクがないんだ」
思わず七海は目の前にベルクを見上げた。
「それって……」
ベルクはこの世界ではテータなしで生きていける。
それは、ベルクにとって体臭云々よりもずっとすごいことなのだと七海が知るのは、もう少し先の話。