トウメイノチカク
§8 エクリプシ④ 背後に立つベルクからかすかな緊張が伝わってくると、目の前の景色がほんの少しぶれたような気がした。目を凝らしながら瞬きを繰り返していくうちに、七海の視界は闇に塞がれていった。
辺りを覆い尽くす黒い影の正体は、ファスティ博士亡き後、この世界を維持してきたキメラだ。
二人揃って全体を眺めるために数歩下がった。ゆっくりと近付いて間近から見上げる。迫り来る長い牙。凄絶な獰猛感。
背後から深く息を吐く気配を感じて、七海もつられるように息を吐いた。あまりの迫力に自ずと息を詰めていたことに気付いた。
野生の獣。飼い慣らされた愛玩動物や檻に入れられた動物とはまるで違う、人工的につくられているとはいえ、目の前のキメラは野に在る獣そのものに見えた。
「大きい……マンモスみたい」
ただ大きいというだけで意味もなく畏怖してしまう。
ふと、七海もただ背が高いというだけで意味もなく怖がられたことを思い出した。実際は七海の方が怖がっていたというのに。外見と内面が一致しないことを七海は知っている。はたしてこのキメラはどんな性質の持ち主なのか。
「七海はマンモスを見たことがあるの?」
「実物はないけど……たしか社会科見学で博物館に行ったときに等身大の模型か何かを見たような……あーでもあれってマンモスじゃなくてナウマンゾウかも」
時空のズレをほんの少し調整したとかで、今まさに歩き出そうとしている大きな黒い生き物は、陽炎のような曖昧な存在として動きを留めている。
相変わらず時間を引き延ばされた世界では耳鳴りがする。一切の音がぼやけたように消えた世界はどこか歪だ。
「時空ってきっちり合わせなくていいの?」
「このキメラには僕の匂いだけを覚えさせればいいから、姿は見せない方がいい」
「匂いだけ?」
博物館の模型のようでもあるキメラの足の下を七海は面白半分にくぐってみる。墨のような真っ黒な毛がふわふわと柔らかそうで、思わず手を伸ばしてみても指先は空を切るだけで何にも触れることはない。
「五感の中でも嗅覚だけはダイレクトに本能に伝わるんだよ」
「本能?」
「そう、本能。このキメラの本能に僕の匂いを刷り込む」
「この世界の主として?」
ユカの真似をして七海は両手を大きく広げてみせる。言った後で気付く。こういう時、彼女なら「主」ではなく「神」や「創造主」と言いそうだ。ユカは何かを誤魔化すときに限って宗教的な言い方をするような気がする。
「管理人として、だよ」
呆れたように笑うベルクに、ユカの真似が失敗した七海はへらっと笑ってなかったことにした。
「管理人として、匂いだけ?」
「匂いだけ。それ以外の情報は必要ない」
ベルクにしては珍しく断言した。
「もしかしてベルクたちって、コアで育つ子供に親の匂いを覚えさせたりする?」
七海の思い付きに、ベルクが目を見開いた。
「よくわかったね」
「んー、なんとなくそんな気がしただけ」
思い出したくもない記憶が蘇る。子供の頃、どうしようもなく寂しくなると両親の部屋にこっそり入って、かすかに残っている彼らの匂いで寂しさを紛らわせていた。ベルクという絶対の安心を得たせいなのか、これまで認めてこなかった寂寥感をこのとことよく思い出すようになった。あの頃の自分は本当は寂しかったのだと認められるだけの心の余裕がベルクの存在によって生じたのかもしれない。
「ねえベルク」
触れることのできない存在に触れようとする。黒い影は輪郭が曖昧で、七海の指先は何も捉えない。時を止めた世界の重力が腕に纏わり付くだけだ。
「ん?」
「このキメラにもいつかこの子と同じ存在を作ってあげて」
この世にたった一個体しか存在しないなんて、どれほど寂しいだろう。もしかしてキメラには人と同じような感情はないのかもしれない。それでも、自分と同じもう一つの存在がこのキメラにだって必要だろう。
「んー、始祖獣の遺伝子は厳重に管理されているからなあ……このキメラから作り出すことは可能だろうけど……今の僕ではまだ無理かな」
ベルクがやけに長い牙を持つ黒獣を目を眇めて見上げている。七海が何を思っているのか、ちゃんと伝わっているのだろう。ベルクがキメラを見上げながら小さく頷いた。
「そうだな。いつか、ね」
うん、と七海も大きな牙を見上げて頷く。
「このキメラの研究は、小間井さんとセリアーテが続けるようだから、もう一体つくれないか伝えておくよ」
「へえ、コマくんが?」
「子供の頃、古代生物が好きだったらしい」
そういえば、大志はこのサーベルタイガーのこともマカイロドゥスと呼んでいたような。七海にとってはサーベルタイガーに聞き覚えはあってもマカイロドゥスは聞き覚えがない。そもそも二つが同じ種を指すのかも知らない。ネコ科の古代生物は十把一絡げにサーベルタイガーで済ませてきた。
「あー、やっぱり尾の先がない」
ベルクの後を追ってキメラの背後に回ると、しっぽの先が千切られたように無くなっている。
「本当だ。ケンカでもしたのかな」
「このキメラと戦えて、しかも傷を負わせることができる生物はこの世界にはいないよ」
「じゃあ、やっぱり自分で?」
「多分ね。人間並みの知能を持っているから、色々思うところがあったのかもしれない。自己再生できるはずなのに、あえてしていないことに強い意志を感じる」
キメラを見上げるベルクの感心した口振りに、目の前の存在への敬意が伝わってくる。
「大変だっただろうな、この世界の維持は」
「ベルクも大変?」
「いや全く。いまや僕のマニでできた世界だから、僕に負担はない。でも、いくらファスティ博士につくられた存在だとしても、このキメラのマニで維持するのは相当な負担だったはずだよ」
再び正面に移動したベルクは、意を決したように七海に言った。
「そろそろ、……始めるよ」
そろそろ、の後でしばらく言葉を探すような間があった。どうやらマーキングとは言いたくないらしい。
「先に戻っていようか?」
一歩後ろに下がった七海に、ベルクは少し驚いたようだった。
知りたいという思いがどんなに強くても、無理強いする気はない。ベルクが本気で嫌がるなら七海は大人しく引き下がろうと、今朝のあの微睡みの中でじんわりと沁み込むように心が決まっていった。
七海の顔をじっと見ていたベルクが力を抜くようにふっと笑った。
「七海には僕の匂いを覚えていてほしいって、今朝、七海と話していて思ったんだ。だから一緒にいて」
「今朝?」
「そう、今朝。あの時間がなんだかとても幸せだったからかなあ、僕の全てを知ってもらいたいって思ったんだ」
七海が感じていたことをベルクも感じていた。偶然なのだろうか。それとも繋がっているからこその必然なのだろうか。七海がベルクを想えば、同じだけベルクも七海を想ってくれる。一方通行ではない想いがこんなにも嬉しい。
腕を差し出すベルクに向かって、七海は飛び込むように躰を預けた。
「思いっきり嗅いでもいい?」
見上げるベルクの眉間にくっきりと皺が寄った。
「だから、そういう変態的な発言は控えるように」
至近距離から見下ろす澄んだ夜明け色の虹彩に見つめられ、七海はこの先もこの人と一緒に生きていける喜びで満たされた。きっと、結婚式で互いに見つめ合っている新郎新婦もこんな感情を抱くのだろう。まあ、そうじゃないカップルもいるかもしれない、とまたもやリアルがちらつく。一度でいいから甘い思考に酔いしれてみたい、と七海は溜め息を呑み込んだ。
「どうかした?」
ベルクが優しく問いかける。この人はどんなときでも優しい。
「ん、なんでもない」
七海はサースナクス中に自慢したくなった。この世界の管理人はとても優しい人ですよーと。
「で? マーキングってどうするの?」
マーキングという言葉に反応したベルクの耳がぽっと赤くなる。あからさまな反応に七海は段々面白くなってきた。
ベルクは気を取り直すように深く息を吸い込んだ。
「よし! やるぞ!」
気合いが空回りしている新入社員のようなセリフを吐いて、ベルクは七海をぎゅっと抱きしめた。
ベルクのテータが解けた。
七海の鼻先にふわっと心地いい匂いが広がる。何にもたとえようのない、けれど間違いなく人肌の匂い。汗臭いわけでも垢臭いわけでもない、それでいてボディーソープのような人工的な匂いでもなければ、どこかで嗅いだことのある匂いでもない。
ベルクだけの匂い。
喉の奥から熱の塊がぐっとせり上がってきた。
堪えきれなかった。
七海は声をあげて泣いた。
「落ち着いた?」
「落ち着いた。ごめんなさい、びっくりしたよね」
突然泣き出した七海にベルクは慌てに慌て、自分の体臭が七海を傷付けたと誤解し、それまで以上に分厚くテータをかけ直し、腕に七海を抱えながら右往左往していた。
ベルクの匂いのせいではない、と言葉にすることもできないほど、込み上げてきた感情に七海自身も振り回された。ようやく誤解が解けた頃には二人ともぐったりしていたほどだ。
「七海もびっくりした?」
「した。すごくびっくりした。嗅覚ってすごいね」
一言で言えば、心の底から安心したのだろう。ベルクの匂いに包まれた瞬間、マニのような柔軟な塊とは違う、もっとごつごつとした荒々しい熱の塊が込み上げてきた。慟哭と一緒に七海の中にあった頑なな殻のようなものに亀裂が走り、ぱりぱりと音を立てて剥がれ落ちていった。
泣き止んでみれば、それまでとは違う剥き出しの自分がそこにいた。
赤ん坊が産まれた瞬間に泣き声を上げるのも、こんな感覚なのかもしれない。ベルクたちの世界で子供が親の匂いを覚える瞬間も、こんなふうに激情に呑まれるのだろうか。
匂いの刷り込み。
本能へのマーキング。
再びテータを解いたベルクと並んで、七海はキメラの鼻先を見上げた。
このキメラも時が元に戻ると同時に泣いてしまうのだろうか。泣くという行為は人間だけのものだろうか。人間以外の生き物にとって、涙を流すのは単なる生理現象であり、感情によって涙を流すことはないのかもしれない。
でも、このキメラは……、と七海は思いを馳せる。人と同じ知能を持つこのキメラなら、自分の意志で尾を噛み切ったこのキメラなら、何かしらの感情が動くのではないだろうか。
「このキメラも泣くかな」
「どうかな。そんなにロマンチックなものではないと思うけど」
「えっ? 私の考え方ってロマンチックなの?」
驚いた七海はベルクの顔をまじまじと見た。
「僕からすれば比較的。七海はかわいらしい考え方をするなあって思うことがある」
何をそんなに驚いているのだと言わんばかりのベルクの目を見て、七海は再度驚く。
「私って、浸れないタイプだと思ってた」
「浸れる? ああ、感情に振り回されるってこと?」
「そう。どこか皮肉めいたっていうか、天の邪鬼なところがあるっていうか……自分のことをリアリストだとまでは思わないけど、でも、どっちかと言えばそっち寄りかなあって思ってた」
七海の感情の端にある、妙に冷静な部分を言葉で表現するのは難しい。
うーん、と少し考えるように唸っていたベルクが軽く首を傾げた。
「そういう一面もあれば、ロマンチックな一面もあるのが七海なんじゃないかな。人は多面体だって何かで読んだことがあるよ。たしか、日本の作家だったと思うけど……」
そういえば、ベルクは機内で日本のミステリー小説を読んでいた。
「ベルクって、本読むの好き?」
「そういう仕事をしていたからというのもあるけど、好きでなければできない仕事だって最初に確認された上で就いたからね。最初から物語を読むのも観るのも好きだよ」
「ベルクたちの世界にも本はある?」
「もちろん。ただ、基本はナーレで済ますことが多いから、読書や鑑賞は完全に趣味でしかない。そもそも本はまだしも、映像媒体はそれを見るための専用機を用意する必要があるし、それ自体高価な物だから個人で所有するより、映画館に行くことの方が多い」
「映画館があるの?」
「シスの映画館と全く同じではないけど、図書館や博物館もあるよ」
そういうところは同じなのか、と思ったところで七海は直前の考えを否定する。おそらくベルクたちの文化を真似たのがかつての地上人たちだ。
「そろそろいいかな」
七海を包み込んでいた匂いがふつりと消えた。消えたことで匂いに包み込まれていたことに気付いたという方が正しいかもしれない。
「もういいの?」
ベルクの匂いが消えた途端、少しだけ不安になった。その心細さが気付かせたのかもしれない。不意に七海は、世界がベルクの気配に満ちていることに気付いた。ベルクのマニでつくられた世界。初めてそれを実感した。
「七海だって一瞬で刷り込まれたでしょ」
それもそうか、と七海はベルクを見上げる。テータを解き、直後に七海が泣き出し、落ち着くまでおよそ三十分くらい、再びテータを解いてからものの十分ほどしか経っていない。わずか十分でも充分だということは誰よりも七海がわかっている。
急に耳鳴りが気になり始めた。そろそろ研究所に戻る頃合いだ。
ベルクは最後にキメラを見上げて、ぼそっと呟いた。
「一方的なマーキングなんて、したくなかったなあ……」
なんともいえない表情のままキメラを見上げ続けるベルクの手を、七海はそっと握った。