トウメイノチカク
§1 アルビナ②「アルビナって何?」
ようやく元の大きさに戻った胸にほっと息を吐いた七海は、そういえば、と気になっていたことを口にした。
「マニ、そうだな、エナジーって言った方がわかりやすいかな。最上級のエナジー交換できる女性のこと。男はウシル」
隣に寝転ぶ彼から返ってきたのは、七海がすんなり理解できるものではなかった。
「アルビノに関係する?」
彼の白い肌に由来するものなのかと思いきや、ゆるくかぶりを振る彼を見ればどうやら違うらしい。
「いや、全く違う。アルビナは地上だとエトルリア神話の女神の名前」
「エトルリア……聞いたことない」
呟く七海に、仰臥する彼はふと遠くを見るように目を細めた。
「古代のイタリアに大使館みたいな小国を作っていたんだ」
「誰が?」
「僕たちの先祖が」
「イタリア人なの?」
「いや。地下に生きる人間」
「犯罪者……って意味じゃないよね?」
イタリアといえばマフィアを連想しながら、七海はふと、彼が言った「地上」という言葉に引っかかりを覚えた。
「君は、地底人と言っても信じないだろう?」
「そりゃあね、どこから見ても人間でしょ?」
「地底人だって地底に住んでいる人間だよ」
少しふてくされるように彼が言った。
「そうなの?」
「そうだよ」
出し抜けに気付いてしまった。今は関係ない話だとわかってはいても、七海はいてもたってもいられなくなった。
「ねえ、さっきよりもさらに筋肉増えてない?」
第一印象が激変している。手足の長いひょろっとした痩躯だったはずが、今はマッチョとはいかないまでもそれに近い印象に変わっている。間近に見る胸板が明らかに厚くなっている。
「だから、君がアルビナだからだよ」
「ごめん、意味がわからない」
「僕たちに必要な物質を最大かつ最上に体内変換できる女性がアルビナ」
「どうやって?」と言いながら、七海は薄らわかっていた。あの込み上げてくる熱のような何かが彼の言うエナジーだとしたら……。
「本当に地底人なの?」
「本当に地底人なの」
躰を彼に向けると、いつの間にか彼も七海に躰を向けていた。肘枕している彼の脇は手入れされているのかつるんとしている。人知れずほっとした七海は、昔から男の人の脇毛がどうにも苦手だった。
「地底人って人間なの?」
「地上人だって人間でしょ」
そう言われるとそれが自然なことのように思えてくる。仄かな照明に浮かぶ彼の瞳は機内で見たよりもずっと色が濃い。まるでアメジストのような紫。
「地底に国があるの?」
「地上にだって国があるだろ?」
七海はなんとなく丸め込まれているような気がしてきた。
何もかもをさらけ出したせいか、彼に対する遠慮はなくなっていた。七海は隠すことなくむっとする。
「地底人って証拠は?」
「君が地上人って証拠は?」
言い返されて七海は言葉に詰まった。言われてみれば確かに地上人の証明なんてどうすればいいのか。
「んー……、パスポートとか?」
違うだろうと思いながらも、今七海が携帯している写真付きの身分証はそれと学生証くらいだ。
「じゃあ僕もパスポートでいい?」
「地底の?」
「いや、地上で発行されてる」
彼が手を翳すと、浮かんでいた半球のテーブルがすっと音もなく近付いてきた。白っぽい空間は遠近感を曖昧にさせるのか、思っていたよりもずっと大きなテーブルの上には、七海のバッグと彼のものとおぼしき黒いビジネスバッグが無造作に置かれている。
「地底人ってパスポート取れるの?」
「専門機関経由でね」
見せられたパスポートは七海が持っているものと瓜二つだった。開いてみれば彼は写真写りが悪い。名前はなんと読むのかわからない。姓に二つの単語、名に一つの単語が並んでいる。
「これのどこが地底人の証明?」
「よく見てよ、ここ」
白い指先が示すのは表紙の一部、「日本国」の下に「旅 券」と書かれている「旅」と「券」の間に全ての対角線が結ばれた十二角形が小さく描かれていた。証明写真のページにもホログラムのように同じマークが浮かんでいる。これが地下都市を表すエンブレムのようなものらしい。
「特殊な照明下でしか見えないから、一般的には日本人で通る」
「ブラックライトとか?」
「ブラックライトは特殊じゃないよ。もっと特殊な照明」
この仄暗い明かりは特殊な照明ということなのだろう。薄暗いのに妙にはっきり見えることが七海はずっと気になっていた。
「地底にも日本があるの?」
「いや、地上の日本という国に派遣されているだけ」
「派遣……」
彼が嘘や誤魔化しを言っているようには思えない。パスポートは一見して七海のものと同じだった。よく出来た偽造だとしても、わざわざ地底人を名乗る意味がわからない。
「侵略とか?」
「まさか。今は友好関係にあるよ」
冗談で言ったら、真顔で否定された。今は、という不穏な単語は聞き流すことにした。
「なんで一般に知られてないの?」
「押し寄せられても困るから。過去に色々あったんだよ」
彼のどこか困ったような顔が好き──閃くように七海は思った。特別強い感情ではなく、ふと気付いたような、ごく自然に湧き起こった感情。
「私ってどうなるの?」
「君はたぶん、地上では死んだことになっているんじゃないかな。ニュース見る?」
驚く七海から気まずそうに視線を外した彼は、鞄の中からタブレットを取り出した。日本のニュース番組に繋がる。そこに映し出されている映像は、一言で言えば惨状だった。海面に機体の欠片が散らばっている。
「最後はコントロールを失って、海面に叩き付けられた」
「私、どうして助かったの?」
七海の茫然とした声に彼は静かに答えた。
「君がアルビナだったからそれまで以上のマニが使えた。それでも君を連れて脱出するだけで精一杯だった」
画面の中で砕けた機体の一部がまさに今、海に沈んでいった。七海は思わずタブレットを伏せた。
「助かった人は?」
「今のところいない」
「私はどのくらい寝ていたの?」
「丸二日」
それにしては躰が清潔だ。髪や肌にベタつきはない。
「おいで」
ベッドから降りるときにボクサーパンツだけを身に着けた彼に手を差し出される。七海も何かを身に着けようとあたりを見渡すも、着ていた服が見当たらない。彼が自分のシャツを手渡してくれた。それを羽織り、楕円のベッドから降りる。
ふと振り返って見たベッドも当たり前のように床から浮いていた。
壁にある五センチほどの薄らと光る丸に彼が手を翳すと、ぷしゅん、と微かな音が鳴った。それまで何もなかった壁が円形に切り取られ、少し奥に押し出されるように動いたあとすっと消えた。
扉の奥も丸い空間だった。直径三メートルほどだろうか。白っぽい何もない空間に二人で足を踏み入れる。振り向いた彼が扉の横にある同じく小さな丸に手を翳すと、今度は音もなく入り口が消えた。そこに開口部があったことなどまるでわからないほど壁と扉が一体化していた。
彼と一緒に丸い空間の中央に立つ。すると、上部から光の輪が落ちてきた。
「感じて」
まるでSF映画のように淡い光が躰を通過していく。何も感じないのに何かを感じた。説明のつかない不思議な感覚。
ふと気付けば躰も髪もさっぱりしている。口の中もハミガキ後のように爽快だ。羽織っていた彼のシャツもシワが伸びてしゃきっとしている。
「これって、地下の技術?」
「そうだね。地下は地上よりも技術が進んでいるというか、独自の技術が発展したというか、地上とは方向性が違うというか……」
「もしかして、侵略するのは地上人の方?」
彼は七海を見下ろしながら困ったような顔で笑った。
そんな話をどこかで見聞きしたことがあるような気がして七海は記憶を探った。
「なんだっけ、アガルタ?」
女性としては背の高い七海が見上げるほどに彼は背が高い。おそらく七海よりも二十センチ以上は高いだろう。彼の顔を見る時にはっきりと顎が上がる。見上げるという新鮮な感覚にじわじわと嬉しさが込み上げてきた。
「シャンバラとも言われているね」
彼が再び壁の丸に手を翳し、七海たちは部屋に戻った。
よくよく観察すると、部屋全体が磨りガラスのような半透明の石なのかガラスなのかプラスチックなのかよくわからない物質でできている。それ自体が燐のようにぼんやりと発光しているようにも見える。裸足で歩く床は冷たくもなければ温かくもなく、石のように硬いわけでもなければ、絨毯や畳のように柔らかいわけでもない。どことなく木の質感を思い起こす、なんとも不思議な感触だった。
「その、アガルタやシャンバラとは違うの?」
「違うとも言い切れないけど、そうだとも言えない」
浮かんだテーブルの横を通り過ぎ、浮かんでいるベッドに並んで腰掛ける。
「ここは地下世界なの?」
「いや、海底だよ。これは地上派遣者に支給される避難所みたいなもの」
「避難所?」
「そう、アトレーン。ここで重力の調整を行っている。地上より地下の方が重力が小さいんだ」
「えっ? 大きいんじゃないの?」
「小さいんだよ。だから地上に出るには相当の訓練が必要になる。マニのほとんどは躰の維持に使われるんだ」
「マニ?」
さっきから彼は「マニ」という言葉を口にしている。たしかエナジーだと説明されたはずだ。
「地底人は地上で言うところの、魔法? みたいなものが使えるんだ」
「魔法ねえ」七海の声に胡散臭さが混じる。
「魔法じゃなければ超能力かな。ざっくり言うと、原子を操ることができる」
七海には全く想像できず、あっそう、ふーん、それで? という懐疑心たっぷりな感想しか頭に浮かばない。
「人によって力の大小はあるんだけどね」
やはり七海の頭には、あっそう、ふーん、それで? しか浮かばない。理解できないので質問のしようもなければ疑問すら浮かばない。唯一思い付くのは……。
「それってトップシークレットじゃないの?」
「そうだね」
「なんで私に話したの?」
「しちゃったでしょ?」
七海の顔に熱が集まる。なにを、は聞かずとも察した。
「マニ、えーっと、エナジーの交換」
そっちか、と七海は一瞬思ったものの、よくよく考えると結局は同じことを指している。
「だって、死ぬつもりだったから……」
「僕はまだそのつもりはなかったんだけどね」
軽く笑う彼はあんなふうに暢気にミステリー小説を読んでいたくらいだ、本当に死ぬつもりはなかったのだろう。
今更ながら七海は自分のしでかしたことに羞恥を覚えた。頭を下げながら謝罪する。
「その節は、いきなり申し訳ありませんでした」
「いえいえ、正直僕とエナジー交換してくれる女性がいるとは思わなかったので」
「なんで?」
「なんでって……モテなかったし」と彼が情けない顔で笑う。
「なんで?」
「なんでって、魅力がないからじゃないの?」と彼は一層情けない顔になった。
「どこが?」
「は?」
「え?」
七海から見れば彼は魅力的だ。どことなく気弱そうなところで好みは分かれそうだが、七海には優しく見える。背も高ければ手足も長い。痩せすぎだった躰はいまや逞しく変わっている。マッチョ嫌いの七海から見て、ぎりぎり許容できるマッチョ一歩手前だ。
「魅力的だと思うけど……好みの問題かな?」
七海がそう呟くと、彼は信じられないとでも言うように目を丸くした。
「ヘタレ野郎なのに?」
「ヘタレだったら、あんなふうに落ち着いてないと思うけど……」
「それはまあ、反則的に助かる手段があったからだよ」
「私のこと助けてくれたのに?」
「そりゃそうだよ、エナジー交換した相手を守らないわけがない」
胸を張って言われたところで、七海にはピンとこなかった。察したのか彼が言葉を続けた。
「エナジー交換には相性があって、誰とでもできるわけじゃないんだ」
輸血みたいなものかな、と七海は思った。
「おまけに君はアルビナだ」
「ごめん、そもそもアルビナがよくわかってないかも」
「エナジー交換できる人はまあ、相性があるものの探せば必ず見付かるんだ」
やはり輸血みたいなものだ。
「でも、その全てを入れ替えるほどのエナジー交換ができる相手は滅多に見付からない」
「それって、その、しないとできないものなの?」
「他に繋がりようがないからね」
互いに羞恥を滲ませながらの会話は二人の間になんともいえない空気を生んだ。
七海は恥ずかしさから逃げるようにベッドの中にもぞもぞと潜り込んだ。いつの間にかシワだらけだったシーツが交換したばかりのようにピンとしている。
「死んだことになっている私は、これからどうなるの?」
「どうしたい? できるだけ君の望みを叶えるよ」
これまでの生活に未練がないわけではない。とはいえ、強く引き留めるほどの何かがあるわけでもない。会いたいと思うのは一緒に旅行に行こうとしていた彼女くらいで、他にどうしてもと思う人もいない。そう考えると、これまでの自分の人生の薄っぺらさに情けなくなった。
「一人だけ、本当は私が生きているってことを伝えたい人がいる」
「口の堅い人?」
「さすがに死んでいるはずの人間が実は生きていましたって周りに言うほど浅はかじゃないと思うけど」
彼女だけが七海を七海として扱ってくれた。七海にとってかけがえのない親友だ。
「ん、だったら定期的に連絡取れるようにするよ」
「できるの?」
思わず起き上がれば、ベッドに腰掛けたままの彼が笑った。情けないわけでも、困ったようでもない、無垢な笑顔だった。
「できるよ。具体的な説明はできなくても、無事であることを伝えたり、簡単な近況報告を定期的にすることはできる」
「それで十分。それで私はどこで生きればいいの? どこかの山奥にでも身を隠せばいい?」
一生一人で身を隠すように生きていくのかと思うと七海の気分は沈んだ。
「いや、できれば、なんだけど……」
彼の紫の瞳が戸惑うように揺れた。
「もしかして、あなたも一緒にいてくれるの?」
「できれば、一緒にいてほしい」
「それは私が珍しいアルビナだから?」
「いや。あのとき僕を選んでくれたから。僕がいいって思ってくれたでしょ?」
喜びが七海の胸に広がる。あの時の七海の覚悟が彼にはちゃんと伝わっていた。
「思った。初めても最後もあなたがいいって思った」
彼が嬉しそうに顔をほころばせた。
「それがなんとなく伝わってきて、ああ、僕も君がいいなあ、って思ったんだ。だから、この先も嫌じゃなければ一緒にいてほしい」
唇が重なる。七海の胸に広がった嬉しさごと、込み上げてきた何かが彼に渡る。
「すごいな。話には聞いていたけど、ものすごく特別な感じがする」
「そうなの?」
「僕のためだけにカスタマイズされたマニなんだ」
残念ながら七海にその凄さはわからない。自分専用にカスタマイズされたサプリメントのようなものだろうか。
「できれば独り占めしたいくらいだ」
どういう意味かと七海は首を傾げた。彼の顔に影が落ちる。
「君はアルビナだから、君が望めば複数のパートナーと関係を結べる」
「ごめん、意味わかんない」
「アルビナは滅多に現れないって言っただろう、それだけ僕たちにとって貴重な存在だから、ブーズ……えーっと、独占する権利はこちら側にはないんだ」
「つまり、私が複数の男の人と関係してもあなたは文句言えないわけ?」
七海の中に強い嫌悪感が込み上げた。
「言えないわけ」
彼の表情がますます暗くなる。
「日本って一夫一妻って知ってるよね?」
「知ってるよ。僕たちの世界だっていわゆる一夫一妻だよ。男も女も対等な権利を持つ。だけど、ウシルやアルビナに限っては一夫多妻や一妻多夫が認められている」
「私が他の人としてもいいの?」
「嫌に決まってるだろう」
彼の強い否定に七海は内心ほっとした。
「だったらそう言えばいいのに」
「言ったところで仕方のないことだよ」
彼の諦め切った言い方が七海は少し気になった。
「私、浮気は絶対にしない。浮気する人は逮捕されればいいって思ってるから。だから、一緒にいてくれるならその間はあなたも浮気してほしくない」
「しないよ。するわけない」
至極真剣な声と視線が七海に深く刺さった。
「私もしない。したいとも思わない」
「独占してもいいの?」
彼の窺うような訊き方に七海はつい笑ってしまった。
「独占してください」
「すごいな、信じられない」
彼は心打たれたように声を震わせ、七海を壊れ物のようにそっと抱き寄せた。
「そんなにすごいこと? 私の中では当たり前のことだけど」
「僕の中でもそうなんだけど、どう言えばいいのかな。まず僕とエナジー交換してくれる女性が現れるとは思っていなかったんだ。それなのに、そのうえ君はアルビナで、おまけに独占してもいいなんて、現実だとは思えない。現実だとしたらあまりの幸運が怖いくらいだ」
そんなにモテなかったのだろうか。七海は彼が思うほど彼のことを魅力がないともヘタレだとも思わない。日本人に比べて彫りが深いわりに濃すぎることもない。顎が割れていないのも七海としては好印象だ。すっと高い鼻梁に、涼しげな目元。背が高いことも七海にとっては嬉しいことだし、何より彼の指は長くて綺麗なのだ。そこは外せない。懸念があるとすれば……。
「あのね、無理にとは言わないんだけど、一つだけお願いがあって……」
「なに?」
躰を離した彼が少し不安そうに見つめてきた。
「それ以上筋肉つけてほしくないかな」
「ごめん、僕はどんなに人工マニを摂取してもなかなか筋肉がつかなくて……」
彼の目が傷付いたように伏せられた。
「うん、だから、それ以上つけてほしくないの」
「これ以上はたぶん天然マニでも無理だと思う」
噛み合わない会話に、七海は彼のコンプレックスがわかったような気がした。
「ねえ聞いて」七海は彼の紫色の目を覗き込んだ。「私ね、筋肉質な男の人が苦手なの。苦手っていうよりも生理的嫌悪っていうか、無理なの」
きょとんとした彼の表情が、七海の言葉をひとつずつ理解していくたびに驚きを深めていく。
「え、っと?」
「だから、今のあなたが私の理想で、それ以上はちょっと無理かなって」
「たぶんこれ以上は僕も無理なんだけど……」
「そう、だから、それで、いいの」
一語一語、七海は彼に言い聞かせるように言った。
「今までのあなたも素敵だし、今のあなたはさらに素敵だけど、それ以上はちょっと厳しいかなって」
「ひょろひょろでもいいの?」
「これからはエナジー交換するんだからひょろひょろになることはないんでしょ? ひょろひょろでもいいけど」
「いいの?」
「いい。どっちかと言えば今よりひょろひょろでもいいくらい。とにかくマッチョは嫌なの」
「僕今でもひょろひょろな方だけど」
自信なさそうな彼が七海は信じられなかった。七海にとっては十分逞しく見える。七海の理想はマサイ族の戦士だ。無駄な肉が一切ない、重さを感じさせないほっそりとしなやかな躰。今の彼はまさにそれだった。
「私的には十分細マッチョだから。ほら、腹筋割れてるし」
「薄らとでしょ」
「薄らで十分。がっちりとかむっちりとかむっきむきとか本当無理」
きっちりきっぱりばっさり七海は言い切った。
「あーなんか泣きそう」
情けなく眉を下げた彼に七海は吹き出すように笑う。つられたように彼も笑った。
「逆に私でいいの?」
「いいも何も、君美人でしょ、スタイルもいいし」
お世辞でも言われると嬉しい言葉だ。
「自分で言うのもなんだけど、女装って言われてたくらいだよ、いいの? 男顔で」
七海は女子にはモテたのだ。あとは少し特殊な嗜好の男子にも。彼のような普通の男の人に好かれたことはこれまで一度もない。少しでもフェミニンな服を着ると「女装?」とからかわれてきた。相手が本気ではなかったとしても、七海はいちいち傷付いた。
だから髪を伸ばし、スタイルに気を配り、全身の手入れを欠かさず、仕草や立ち振る舞いを学び、少しでも女性らしく見えるよう陰ながら必死に努力してきた。
「そうかな、男顔ではないと思うけど……」と彼は不思議そうな顔をした。「あの裾がふわっと広がったワンピースもよく似合ってたし、なにより君はかわいいよ」
彼は少し照れながらも真摯だった。
「私も泣きそう」
思い切ってあのワンピースを着て本当によかった。七海にとっては一世一代の勇気を振り絞ったのだ。