トウメイノチカク
§8 エクリプシ① アトラスの消失は一瞬だった。
ラスナ式のカウントダウンが途切れると、目を疑うほどの唐突さで忽然とその影が消え失せ、ひとつの国が不毛の地と化した。
ベルクたちは実に三ヶ月の時間をかけてありとあらゆる問題を慎重に検討し、精緻な対策を施し、何度もシミュレートしてきた。「たった三ヶ月」と思うか、「三ヶ月も」と思うかは人それぞれだろう。
七海は一切の痕跡も残らなかった更地を目にしたとき、悲しみとは違う虚しさのようなものが込み上げ、わけもなく涙が滲んだ。
サースナクス全人類の記憶操作も同時に実施され、アトラスに興味が向かないよう緩いテータがかけられた。七海の血で底上げされたアジア統括本部サースナクスチームの全員がサースナクス全土を覆い、なおかつその効果が歳月と共に薄れていくという、広域かつ緻密なテータの構築をベルクのつくりだしたコアに行い、その新コアをサースナクスの旧コアに埋め込んで同化させるという作業に三ヶ月の内の大半が費やされた。
その間七海がしたことといえば、ベルクの手を握るくらいだ。何故かベルクは繊細な作業になればなるほど七海の手を握りたがった。
「どうしてなんだろうなあ、自分でもよくわからないんだけど、七海の手を握った方が集中できるし精度が高い。集中しながらリラックスできるからかなあ」
心底不思議そうなベルクは、七海を喜ばせるために言っているわけではなく、どちらかと言えばその理由を知りたいようだった。理由はわからずとも自分の存在が誰かの役に立つ。七海にとっては何よりの褒め言葉だ。
することがなくて暇だろうとベルクはしきりに心配していたものの、七海はそこそこ楽しんでいた。ベルクが記憶してきた映画やドラマシリーズを一気に観ることができた。ただし、以前話していた皇居や神宮の参観記憶はベルク自身に興味がないせいか記憶も単調でつまらない。ただ建物内を徘徊しているだけの映像は、いかにナレーションや演出、編集が大切なのかを七海に教えてくれた。
そんな楽しかった時間を一瞬で凍り付かせるほど、アトラスの消失は完璧だった。
荒涼とした景色は最初から何もなかったかのような錯覚を起こし、あまりの完璧さゆえに七海は身の毛がよだった。七海と同じようにショックを受けているのは美帆と大志だけで、ラスナ勢は全てがオールクリアとなった瞬間に諸手を挙げて歓喜し、互いの健闘を讃え合った。
七海はモニタ越しであることにほっとしていた。もしあの歓喜の輪の中にいたら、美帆や大志のようにそつのない作り笑いを浮かべる自信がない。きっと七海は表面だけであっても喜べない。そんな七海の感情にベルクが気付かないわけがない。
「七海、しばらく別の部屋に行ってる?」
ほらね。確かに今の七海は、布団の中に潜り込んでじっと自分の感情を宥めたい気もする。
「でも、美帆も大志もがんばってるから」と七海が言っている間に、モニタの向こうで飲み物が振る舞われ始めると、二人の作り笑いが本物の笑顔に取って代わった。ほんの少し前に美帆から聞いてはいた。「ラスナのお酒って物凄くおいしいの!」と。
モニタの美帆と大志が「かんぱーい!」と高らかに声を上げた。思わず七海は呟いた。「それアルコールじゃなくてカフェインだよね?」
美帆曰く、ラスナのお酒は二十四時間かけて特殊な製法で抽出されるらしく、どこで飲んだコーヒーよりもおいしいらしい。七海もモルディブのアジア本部で飲んだはずなのに、その味をほとんど覚えていないことが悔やまれる。
「せめてコーヒーでも飲みたい気分」
「残念ながらここにあるのはアシルスだけ」
アトレーン内に長期滞在する場合、アシルスと呼ばれる完全食以外は口にできない。アシルス以外ではサメルでの体調管理ができないからだ。今七海たちがいる研究所もアトレーンが維持している。
苦笑いするベルクに向かい、七海は改めてかしこまった。結果がどうあれ、三ヶ月もの間、一心にこつこつ作業してきたベルクを七海は知っている。
「お疲れさまでした」
「七海も。そばにいてくれてありがとう。もし七海がいなかったら、この倍の日数はかかっていたはずだから」
ヴェーテやセリアーテを始め、ラスナ勢が頻りに感心していたのんだ。元来ベルクは細かいこつこつした作業が得意だったにしても、ここ数ヶ月の作業は神懸かり的な早業だったらしい。これがⅥの実力か、とヴェーテが割れた顎を撫でさすりながら、ことあるごとにオーバーアクションで感心していた。
モニタに映し出されたアトラスの跡地では、夜が明けようとしている。
あの瞬間、ベルクは一切の感情を消していた。ベルクの作り笑い、作り歓喜は完璧だった。モニタ越しであれば気付かなかっただろう。すぐそばにいたから、繋がっているから、気付けたことだ。
観察者の目。あえて表現するなら、あの瞬間のベルクの目は観察者の目だった。ベルクには間違いなくこの世界をつくり出したファスティ博士の血が流れている。
Velxe Apunas Fasti──以前見せられたパスポートにあったアルファベットに置き直されたベルクのフルネーム。ベルク・アフナス・ファスティ。地上の言語とは少し違う発音。
「ねえベルク」
「ん?」
「私、ベルクって正しく発音できてないよね」
ふと尋ねた七海に、様々に広げられていたランプやモニタの整理をしていたベルクは振り返って笑った。
「七海しか呼ばないんだから、七海の発音が正しい発音だよ。僕だけの特別な発音だ」
「誰にも呼ばれたことないの?」
「ない」
「ご両親にも?」
「んー」と眉を寄せて考えていたベルクは、しばらく思いを巡らせたあとで言った。「そういえば、ないかも」
「一度も?」
「どうかなあ。たぶんなくはないはずだから、記憶を精査すれば見付かるだろうけど、今ざっと思い出す限りはないなあ」
なんとも複雑な思いで七海は訊いた。
「じゃあ、なんて呼ばれてたの?」
「私の息子。僕の住んでいたスプルにはそういう言葉があって、僕の家族だけじゃなく大抵の親は自分の子供をそう呼んでたんだよ。私の息子とか、私の娘とか」
「あなたとかおまえとか、そういう感じの言葉?」
「そういう感じの言葉。たぶん地方の言葉?」
「方言?」
「そう、方言みたいなものだと思うから、他のスプルじゃどうかわからないけどね」
こういうとき、七海は不思議な気持ちになる。ベルクにはベルクのバックグラウンドがあって、七海とは別の人間なのだと気付かされる。もちろん、ベルクと七海は個別の人間で、厳密に言えば種族すら違うのかもしれない。それでも、繋がっている感覚からくるものなのか、四六時中一緒にいるせいなのか、どこかで同じ存在だと勝手に思い込んでいるふしがある。時々こうして考え方や認識や習慣の違いなどを目の当たりにすると、改めて別の人間なのだと思い知らされて、わけもなく驚いてしまう。
「どうかした?」
「ベルクって、私とは別の人間なんだなあって」
伝わらないだろうと思いながら言ったのに、思いがけずベルクは「ああ、それわかる」と小さく笑った。
「七海は自分の一部みたいに感じているのに、時々七海が自分にはない感覚を持っていることに気付くと、なんて言うかな、純粋に驚く。あ、僕とは違う個性だって」
全く同じ感覚だ。
「それって繋がってるから?」
「どうかな。僕は誰かとここまで親密な関係を築いたことがないからわからないけど……もしかしたら、繋がっている以前にずっと一緒にいるからかもね。同じであってほしいという願望もあるのかな」
「あー、そうかも。そういえば、美帆にも同じようなことを感じたことがあった」
そうだ。初めて美帆ががっちりした男の子が好きだと知ったときは衝撃だった。好きになる男の人の内面的な好みが同じだったから、ついつい美帆も細身の男の子が好きなのだろうと勝手に思い込んでいた。ある日、実はね、と照れくさそうに好きな筋肉男子を教えられて驚いたのなんのって。逆に七海が筋肉質な人は苦手だと知った美帆も驚いていたから、彼女も七海同様自分と同じ筋肉好きだと思い込んでいたのだろう。
「へえ。増田さんとの違いで、一番何に驚いた?」
純粋な興味から訊いてきたベルクに、七海はぼそっと答える。
「筋肉好き」
一瞬、なんとも言えない顔をしたベルクは、次の瞬間には笑いを堪えていた。
アトラスの処理の後はすぐさま始祖獣の遺伝子で作られたキメラの処理に移る。これは一国の消失よりも難しいらしく、ファスティ博士のマニで作られたキメラをベルクのマニに入れ替えることになる。七海にたとえていうなら、血液やリンパ液などの体液を全て入れ替え、最終的には全ての細胞を入れ替えるようなものらしく、しかもそれをキメラに気付かれずに行わなければならないのだから難易度は高い。本体が意識した途端、拒絶反応が出るらしい。
始祖獣キメラの処理が終わると、次はその餌となるあの小さな光のようなキメラの処理、そして、コア自体の処理に移る。
これら全てが終わらないと、人が行き来するためのヴェルーシナの設置ができないのだ。
始祖獣の遺伝子で作られたキメラは、真っ黒なマカイロドゥス──サーベルタイガーのような躰に真っ白なタカのような翼を持ち、さらに尾の先には餌となるキメラを食べるための、牙がびっしりと生えたグロテスクな口がある。
「餌って口から食べないの?」
「この牙が邪魔で固形物を食べられないらしい。せいぜい舐める程度じゃないかな」
「だったらなんでついてるの? しかもなんか、やけに長くない?」
資料として見せられたマカイロドゥスの牙はこのキメラほど長くもなければ大きくもない。
「ファスティ博士はかっこいいと思ってたんじゃない? その辺は遺伝子操作されてるから。牙のほかにも豹のようなしなやかな肉体に、狼のようなつぶらな目とか、かなり自分好みにカスタマイズされてる」
「このしっぽの先の口も?」
「これは苦肉の策だな。口から摂取できないから……ん?」
モニタに映るキメラの姿をベルクがまじまじと見始めた。ぐんとしっぽの先がクローズアップされる。
「尻尾の先がない!」
ファスティ博士が残した資料には、キメラの尾の先には小さな牙がびっしりと生えたグロテスクな口があるはずなのに、実際のキメラの尾の先は千切れたように口がなくなっている。
大きく目を見開いたベルクは、慌てたようにファスティ博士から引き継いだナーレを精査している。
「なんでだ? 博士が知らないってことは、博士がいなくなってからなくなったってことか? それとも、博士は気付かなかったとか?」
ベルクが怪訝な顔をする。
「気付かないものなの?」
「このファスティ博士って、僕が知る限り、何かを作り上げることを楽しんで、で、次にそれを壊すことを楽しんでいた節があるんだ」
「だから、人類の滅亡?」
ベルクの顔が嫌悪に歪む。
「僕には壊すことを楽しむ嗜好がないから、ちょっと理解できないんだけど、でもどうもそういうことみたいなんだよね。はっきりした意志が残されているわけじゃないから、あくまでも僕の推察なんだけど」
研究室のモニタには、無言で作業しているセリアーテの姿が見える。彼は一瞬だけ視線を上げてベルクの推察を頷くことで肯定して見せた。セリアーテも同じ意見なのだろう。
モニタの向こうにはセリアーテ以外の姿はない。シスの日本時間はちょうどお昼を過ぎたところだ。彼以外のみんなは食事にでも出たのだろう。今日は彼がお昼休みの留守番だ。こういうところはどこかのオフィスを見ているようで、なんとなく面白い。
「どう思います?」
ベルクがモニタの向こうにいるセリアーテに問いかけた。
『キメラの餌がキメラという時点で私には理解できませんからねえ。もしかしたらこのキメラ自体が拒絶した可能性もあります。存在の維持だけであれば、大気中のマニでも十分可能ですから』
「ファスティ博士って、変わった人なの?」
ついつい七海は訊いてしまう。ベルクだけじゃなく、セリアーテまでもが嫌悪を見せているのだから、キメラの餌がキメラということが異常なことなのだと七海でも理解できる。人の糧が人と考えると確かにどうかと思う。
「そうだなあ、変わっているというか、ちょっと突出した部分があるというか」
『思考の次元が違いすぎるのでしょうね』
「思考の次元……」
『まあ、Ⅵともなれば私たちとは何もかもが違いすぎるのでしょうが……アフナスはその点、Ⅵとはいえそれまでと変わりありませんから、安心して付き合えます』
「生まれつきのⅥとベルクのように後天的にⅥになった人は違うものなんですか?」
七海の疑問にセリアーテは「そうですねえ」と寛いだ様子でぐっと両手を挙げて伸びをした。
『少なくともここまでレベルの爆上げを遂げた人はいませんから、比べようもありませんが、能力的に私が彼らの話を理解できないという意味でⅥとは日常的な会話ですら成立しません。一方的にナーレで強制理解させられるだけです』
「ベルクとは冗談も言い合っていますよね」
『言い合えますね』
セリアーテが嬉しそうに笑った。
『だから逆に頼もしい。間違いなく我々を導いてくれる存在です。Ⅵの考えていることを我々も一つ一つ理解できるよう丁寧に説明してくれますから。ナーレで得られる知識とは違い、自分が段階を踏んで理解することこそ、真の理解になりますから。そこをわかってくれるのが我らがⅥです』
「褒めすぎです」
ベルクの耳が赤い。
「ナーレはあまり好ましくないのですか?」
『そんなことはありません。情報の共有という点では、ナーレほど確実なものはありません。ですが、研究者としてはそれはあくまでも他人の成果であって、自分が成し得たものではありませんから。しかも、結果にたどり着くまでの過程がそれぞれ違うことが面白味といいますか、個性といいますか、そういうことまで話し合えるのが醍醐味なのですよ、我らにとっては』
セリアーテの背後にどやどやと人の姿が現れた。美帆と大志の姿も見える。どうやらお昼休みが終わったらしい。そのうちの一人がセリアーデに何かを告げた。
『ああそうでした、エクリプシの選定が終わりました』
えくりぷし、と呟いた七海に、ベルクはちらりと視線を送りながらセリアーデに応える。
「やはり必要ですか」
『必要でしょうね。ファスティ博士はかなりいい加減に選定していたようですから、さすがに気の毒になりました』
ベルクもセリアーテもなんとも言い難い表情のまま、打ち合わせの輪に加わった。