トウメイノチカク
§7 サースナクス① ベルクの曾祖父がつくったという世界は、とても美しかった。
澄み切った青い空、きらめく透明な海、森は濡れたような艶やかな緑を纏い、草原はゆったりと風にそよぐ。
何もかもが淡い光を内包しているように、目に映る全ての景色が輝いていた。
生きるという意味をシンプルに、雄大に、漠然と知覚する。
そこかしこに大地の息吹を感じる。どうしようもなく胸が締めつけられる。七海という個が生を受ける遥か昔、それこそ遺伝子が持つ記憶を懐かしむような、そんな遠いところから湧き起こる感動だった。
海も川も山も、ほとんど人の手は入っていない。
人工的な街並みは自然と足並みを揃えるように整備されており、山を切り崩したり谷を埋めるといった整地は行われていないようだった。開拓は最小限。治水されていないくねる川に沿って点々と発展している町や村。ある程度ひらけた平地には都市が存在し、高すぎない建物が地形に合わせて立ち並ぶ。家の敷地に植樹するのではなく、木の近くに家を建てているような素朴さは原風景を思い起こさせる。
森が町を内包していた。
区画整理された市街地を見慣れていた七海にとって、至る所に余裕が見える街並みはとんでもなく贅沢に思えた。
見惚れるほどの美しい景色。剥き出しの自然。おそらく数世紀前の地球もこんな風景だったのだろうと想像する。これまで七海が見てきた景色とはあまりにも懸け離れていた。
吸い込む空気が凜と澄んでいる。自然の匂いがあまりにも濃厚で、湿った土や瑞々しい草木、清冽な水、そこはかとなく漂う花の香り、それら全てが清涼で、七海は感動のあまり何度も深く息を吸い込んだ。
「躰の中が浄化されそう」
「それはないよ」
はしゃぐ七海にベルクの冷静なツッコミが入る。
「わかってるけど、そんな感じなの」
七海もベルクもきっちりテータされている。二人から吐き出される呼気すら、この世界に影響を及ぼしかねない。当然七海が吸い込む空気もこの世界の空気ではない。宇宙服を着ているような状態だ。
呼気がどこに吐き出されているのか、どこの空気を吸っているのか、なぜ匂いは感じるのか、明らかに空気が違うと感じるのはどういうわけか、それらを考えたところで七海に理解できるわけもない。吸い込んでいるのはおそらくあのアトレーンと呼ばれる球体で作り出された空気だろう。その程度の理解力でも十分わかった気になれる。
ベルクは七海の感動などものともせず、川の水源付近で様々なものを黙々と採取している。水、土、小粒の石をいくつか、周辺に生えている植物など、目に付くものを次々とピンセットのようなもので摘まみ、握り拳ほどのカプセルの中に入れていく。
人の気配のない山脈の外側は、テレビで見た屋久島や白神山地の風景に似ていた。原始林。苔むした手付かずの自然は本当に美しい。
足跡を残すことすら許さないとばかりに、七海の躰は地上から十センチほど浮いている。
七海たちの影響を僅かにでもこの世界に与えてはならない。七海やベルクがほんの僅かでも踏み潰した土や植物が何らかの変化を遂げてはならない。たとえこの世界の人が踏み潰すことによって起こる変化と同じであろうとも、管理する側が原因を作ってはならないのだ。
だとしたら採取はいいのか。七海の素朴な疑問はベルクに黙殺された。
「七海、足元の白っぽい葉の植物、採取して」
浮いている感覚に慣れなくて、七海は足元を見ないようにしている。見るとどうしてか足がもつれて躓いてしまうのだ。
バランスを崩さないようゆっくりとしゃがんだ七海は、大きなピンセットのような道具で言われた通り白っぽいタンポポの葉のような植物を根元から引き抜く。余分な土をピンセットで揺すり落とし、根ごとカプセルに入れる。湿った土は決していい匂いとは言えないのに、何度も確かめるように吸い込んでしまう。
当面は様々なものの採取が二人の仕事だ。まずは各地の水源周辺の土や水、植物を分析していく。
ランドルト環のような大陸は、その外周に山脈が連なり、外洋と大陸を隔てている。
降り立つとどういうわけか大陸は球状に見え、水平線や地平線はほんのり弧を描いていた。
「どういうこと?」と七海が訊けば、ベルクからは「んー……目の錯覚じゃないかな。この世界自体は球体だから、たぶんそんなふうに見えるのかもね」と、当てずっぽうなのか、おおよそ合っているのか、どちらともつかない適当さで返された。
ベルクはあらゆることを知っていると思い込んでいた七海だったが、ユカの言う通り、彼も彼の世界では一般人であり、七海同様、知らないことの方が多い。
太陽もあれば真昼の月も青空に透けている。これらは実物であるというのだから驚きだ。地球と同一の位置に時空違いで存在しているのだと説明されている。
七海は自分が正しく理解できているとは思っていない。なんだってそうだ。目の前にある便利な道具は知っていてもその中身や原理まで正確に知ることは少ない。
七海たちが今いるのは、外洋側のほぼ切り立った山脈の中腹、少しでもバランスを崩せばそのまま海まで転がり落ちてしまいそうな急斜面だ。湧き出た清水が緩急つけながらどんどん斜面を下り、最後には滝となって海へと流れ落ちていく。浜はほとんどなく、波に削られた岩場に打ち寄せる海水が飛沫を上げている、そんな場所だ。
大気や海水は専用の装置がいくつか放たれ、自動的にサンプルやデータの収集をしてくれるらしい。
この世界が地上と同じように外側に丸くなるのか、ベルクたちが住む地下の世界のように内側に丸くなるのかはまだわからないらしい。核であるコアの成長と様々な要因により、自然と変化していくそうだ。
聞き慣れない、それでも小鳥とわかる囀りが聞こえる。猛禽のようなシルエットが遥か上空を横切る。風が吹くたびに木々がゆったりと枝葉を鳴らす。木洩れ日の中から見上げた空は抜けるように青い。
のどかだ。都会の喧噪から逃げるように、田舎の静けさを求める人たちの気持ちがわかるような気がする。自分が大地の一部にでもなったかのような、何もかもがどうでもよくなるような、そんな平和的で閑かな光景だ。
「ねえベルク」
七海は慎重に立ち上がり、ちらちらと揺れる木洩れ日に目を眇めた。
「んー?」
七海とは違い、ベルクはぷらぷら歩き廻りながら危なげなく何度もしゃがんでは目に付くものを採取している。浮かんだ足元がふらつかないコツは意識しないことだと教わっている。七海にはもう少し時間が必要だ。
「なんか楽しいね」
ベルクが怪訝な顔で立ち止まった。
「楽しいの?」
「ベルクは楽しくないの?」
七海はもう一度深々と深呼吸する。やはり吸い込む空気が今までとは違う気がする。中学校の頃だったか、校外学習で奥多摩に行ったことを思い出す。後にも先にも、自然の中で遊んだのはそれっきりだ。
「僕は楽しくない」
ふてくされたようにピンセットをゆらゆらと振っているベルクは、少しだけ引きこもりの気がある。ベルクが言うには、地底人は基本的に引きこもりの性質を持つらしい。七海は冗談として受け取ったものの、ベルクにふざけた様子はなかった。
「気持ちよくない?」
「そう? 七海が楽しいならいいけど。無理して僕に付き合わなくてもいいんだよ」
七海はアトレーンに引きこもるつもりはない。できるだけこの世界を堪能したいと思っている。これだけ自然豊かな世界だ、こうして森の中に佇んでいるだけで癒やされていく。
「どうせなら一緒にいたいし」
七海が笑うと、ベルクの表情が少しだけ晴れる。
ベルクはフィールドワークが心底嫌いなようで、自動採取してくれるヘイという観測装置の購入を何度もヴェーテに強請ったものの、予算がない、と素気なく却下されていた。海水や空気を採取するヘイは七海たちが暮らす地上やベルクたちが暮らす地底でも使われているため、量産化され価格も下がっているが、土や植物を自動採取するタイプはそれほど量産化されていないため高価なのだとか。土や植物、鉱物などは地上人のデータでも十分まかなえるらしい。
残念ながらこの世界の人たちは鉱物についてはかなり詳しく調査しているのに、植物はまだしも、土質や水質などは放置気味だ。おそらく汚染がほとんどないからだろう。
七海を見るベルクの目がほんの少し細められた。
「そう言う目で見ないで」
「目の保養だなと思って」
この素晴らしきフィールドワーク、唯一の欠点が全身タイツだ。ベルク曰く専用のボディスーツらしい。超薄手で白い光沢のあるよく伸びる繊維でできている。不透明なストッキングみたい、が七海の第一印象だ。
五本に分かれた手足の先から頭の上まですっぽり被り、顔は眉から下唇にかけて丸く切り抜かれている。その露出部分をぐいーんと伸ばして着る。肌に吸い付くようにぴったりフィットし、男性用は性器を収めるパーツまである。七海からしてみれば肌そのものが見えていないだけで裸も同然だ。しかも裸より間抜けな分、とんでもなく恥ずかしい。胸の形や乳首、おしりや恥部、陰茎や陰嚢まではっきりわかる姿は変態的としか言いようがない。
ところがベルクは、海水パンツ一枚になる方が恥ずかしい、と以前言っていた通り、この全身タイツでも恥ずかしくないらしい。ベルクが生きてきた環境ではこれはごく普通のことで、なぜ七海がそこまで恥ずかしがるのかと首を傾げていた。ベルクは肌そのものの露出に羞恥を覚え、七海は肌の露出より露骨なシルエットの方がよほど恥ずかしいと感じる。
そのくせ少なからず地上に感化されているベルクは、目の保養、などとオヤジくさいことを言うのだ。
太陽光の下では陰影がよりはっきり出る。恥ずかしさも増し増しだ。目の前に立つベルクの引き締まりつつも筋肉による凹凸の少ない躰は、光沢感のある生地越しにもすっきりとしなやかだ。なるほど、と七海も納得した。確かに目の保養だ。
二人の間にある感覚の違いは、面白くも恐ろしくもある。今は考え方の違いとして面白く感じていたとしても、いずれその違いがどうしても許せなくなったり、不快になったりしたとき、どうすればいいのかわからなくなってしまうかもしれない。この先死ぬまで彼とともに歩んでいくなら、そんな事態になる前に互いの意見をすり合わせておく必要がある。
七海はそれが苦手だった。これまでの七海はその違いが目に入ると、相手から一歩下がって距離を取ることで逃げてきた。
これからは逃げられない。
「ねえ、いつまでこの格好なの?」
テータにて第三者には姿が見えないようになっているとはいえ、七海はこの格好をいつまでも続けたくない。まずはここからすり合わせていかなければ、と挑むような気合いで訊いた。
サースナクスに出発する前、慌ただしい中でなんとか時間をやり繰りし、大志監修の元、スーツしか持っていなかったベルクの普段着を大量に購入している。着心地重視のベルクの要求に応えるにはそれ相応のブランドになるらしく、腰が引けている大志をよそにベルクは高級店の店員に様々な要求を平然と突き付けた。妙にやる気を見せた店員たちによって掻き集められた商品は当然値が張るにもかかわらず、ベルクは値札を見ることなく気に入った物を躊躇なく購入していた。金銭感覚の違いを思い知らされた瞬間だった。
ほとんど着る機会もなくこの世界に来てしまったので、できれば七海はそれを着たベルクとこの世界でデートがしたい。
「ある程度分析が済んだらテータだけでいいんじゃないかな。元データでは特に問題ないようだからもう少しの辛抱だよ」
ベルクが気怠げに土にピンセットをぶすっと刺し、植物を根ごと勢いよく引き抜いた。その根にミミズとナメクジの間のような虫が付いていた。
「うわっ」
ベルクは咄嗟にピンセットを振って、いきなり日の光を浴びて身をよじらせる虫を落とした。
こういうときでもベルクは決して七海に害がないよう気を付けているのがわかる。七海はいざというときに無意識にベルクのことまで考えられるか甚だ疑問だ。うっかりベルクの方に虫を飛ばしかねない。
ベルクは思いっきり顔をしかめ、腕を精一杯伸ばしてしつこくピンセットを振っている。たとえテータされているとはいえ、土が七海に飛ばないようその角度は考えられているようで、七海はひたすら感心する。
「もう、最悪だ」
ベルクは虫全般が嫌いだ。それもあってフィールドワークが嫌いなのだ。ベルク曰く、地底人は総じて虫が嫌いらしい。地上人だって虫好きはそう多くはないはずだ、と思うのは七海も虫嫌いだからだろうか。爬虫類も苦手だし、どれほど可愛らしい姿をしていても獣臭い動物はできれば避けたい。小学校の校外学習でふれあい動物園に行ったとき、あまりの獣臭さに嘔吐したほどだ。
風の向きが変わったのか、潮の香りが立った。七海がこれまで知る海の匂いには生臭さが含まれていた。この世界の海の匂いに生臭さはない。それが不思議で仕方がない。七海が知る海とこの世界の海は何が違うのだろう。成分の分析結果は同じ海であることを示しているのに。
「結構海から離れているのに、潮の匂いってするんだね」
「天気が変わるのかもね。風の向きが変わったし、雲が出てきた」
ベルクが目を眇めながら空を見上げた。つられるように七海も天を仰ぐ。風にのって流れてきた薄雲の先には厚みを増した灰色の雲が見える。
「地上が不便なのは天候予定がないところだよな」
空を見上げたままのベルクがぼそっと言った。
「天候予定って、天気が決まってるの?」
「決まってるよ。そうじゃないと色々不便でしょ。天候管制ができてないから風水害が起こるんだよ」
驚く七海にさも当然とばかりにベルクは答える。
「この世界の天気も?」
「ここはまだ。正直どうしようか悩んでる。地震や噴火は管制されているけどね」
しゃがみ込んだベルクが勢いよく土にピンセットを刺して、手早く残りのカプセルを埋めていく。
「それって、地震や噴火はコントロールできるってこと?」
「ある程度はね。あ、そこの花の付いた植物採取して。規模が大きくなればコアが吸収できなくて多少揺れたりもするけど、その場合も人が感知しないようになっている」
ベルクが言うには、地上と同じように地下にも地震や噴火があり、地上とは違いエネルギーの逃しようがないことから、その莫大なエネルギーをコアが吸収するようになっているらしい。そのシステムがこの世界にも導入されている。ただ、この世界のコアはまだ成熟していないため、万全とは言えないらしい。
最終的に、そのエネルギーは世界の形成に利用される。ベルクの世界では都市空間の維持に使われている。
「これ? 黄色い花の? それって地熱利用みたいな感じ?」
「そうその黄色いの。んー地熱かあ。まあ、規模は違うけどそんな感じじゃないかな」
最後のカプセルを埋めたベルクは、ふうっと大きく息を吐いて、ぐうっと手を上に伸ばして躰をほぐした。カプセルを手渡された七海は、二十センチほどの小型転送装置にカプセルの数を確認しながら一つ一つ乗せていく。
「……二十九、三十。ん、全部ある。転送完了。お疲れさま」
「ん、七海も、お疲れさま」
ベルクが触れるだけのキスをして、もう一度伸びをした。
サースナクスに来て以来、ベルクは触れるだけのキスを頻繁にするようになった。七海がひそかに喜んでいることが伝わっているのだろう。散々深いキスを経験しているせいか、かえって軽いキスの方が恥ずかしい。恋人同士らしい触れ合いはくすぐったく、些細なことでときめいてしまう。
いちいち照れる七海をベルクは愛おしそうに眺めている。それがまた七海を喜ばせ、七海のふっくらとした喜びがベルクから満ち足りた笑顔を引き出す。そのベルクの笑顔がさらに七海を満たしていき……という幸福の循環が生まれている。