トウメイノチカク
§6 トゥロイア①


 七海とベルクが戻されたのは、七海のマンションではなくベルクの家だった。
 広々とした吹き抜けの1LDK。モデルルームのようなスタイリッシュな造り。角のない丸みを帯びた家具。
 室内をぐるっと見渡した七海は、新鮮でいて懐かしいような不思議な感覚の中にいた。
 ユカの姿はない。
 七海はひとまず、しきりに頭痛と目眩に悩まされているベルクをリビングのソファーに座らせた。
 気持ちを切り替えるように深く息を吸い、ゆっくり静かに吐き出す。眉間を揉んでいるベルクの前に膝をつくと、七海は彼のベルトを外しにかかった。
「七海?」
「マニの交換しないと」
 ベルトを外す七海の指にベルクの長い指先が絡んだ。
「七海にとってはマニの交換じゃないでしょ」
「ベルクにとってはマニの交換でしょ」
 意地になってベルトを外した七海の手をベルクの手がきつく握り込んだ。七海は瞬時に言いすぎたことを後悔する。感情が上手くコントロールできない。七海は俯いたまま握り込まれた指先を頑なに見つめた。
「僕にとってもマニの交換じゃないよ。それは行為に付随する結果でしかない」
 七海、と吐息のような声が聞こえてきた。
「嫌なことは嫌だって言っていいんだよ」
 七海の眉間にぐっと力が入る。
「言ったところで何も変わらないでしょ」
 顔を上げた七海が感情のままにベルクを睨めば、彼の眉は情けなく下がった。
「そうだね。僕たちにとってあまりに当たり前のことで、当たり前すぎて事前に説明することすら思い付かなかった」
 ベルクは自分を責めるように口元に力ない笑みを浮かべた。

 こんな顔はさせたくなかったのに。
 はっと我に返った七海は、感情のままに口走った言葉をひとつ残らず拾い集めて喉の奥に押し込みたかった。
「ねえ七海、何も変わらないかもしれないけど、だからといって七海が我慢することはないんだよ。嫌なことは嫌だって言っていいんだ。どうしても必要な行為だけど、僕は七海に嫌な思いをさせたいわけじゃないから」
「私だってベルクにそんな顔をさせたいわけじゃない。理解しようと思ってる、思ってるけど、でも……」
「わかってる。ただ、きっとこの先も七海は嫌な思いをすることになる」
 ベルクは眉尻を下げながら眉間に皺を寄せるという、これ以上ないほど情けない顔をした。
「わかってる。私もわかってるから……」七海は握り込まれていない方の指先でベルクの眉間をそっと撫でた。「ベルクが悪いわけじゃないから、そんなに情けない顔しないで」
「僕、七海に嫌われたら生きていけない……」
「だから、そういう情けないこと言わないで。こういうときは逆に開き直って堂々として」
「それ僕のキャラじゃないし……」
「キャラとか知ってるんだ」
「まあね、日本のアニメは年齢問わず人気だから」
 ふっと力を抜くように笑って、七海はベルクの隣に腰をおろした。ベルクは眉間の皺をそのままに、今度はこめかみを揉んでいる。
「マニの交換、した方がいいんじゃないの?」
「今したら、なんか誤魔化した感じになるから……」
「誤魔化したいの?」
「誤魔化すことなんて何もないけど、でも、必要だからするっていうのとは違う気がする」
「でもベルクたちにとっては必要だからするんじゃないの?」
「僕も最初はそう思ってたけど……今はどっちかといえば七海と繋がりたいって気持ちの方が大きいよ。マニのやりとりというよりは、なんだろうな、感情のやりとりかな。上手く言えないけど」
 困り果てたようにベルクは僅かに首を傾げ、宙を見つめながら、自分の中にある感覚を引き出すように一言ずつ言葉を探していた。
「結果的にはマニの交換になるんだけど」と言った後、ベルクはうーんと唸った。「僕はただ、七海の存在を感じたいだけなのかもなあ」
 七海に向けられた視線は柔らかい。ベルクは目を細めて言った。
「唇を合わせる行為があんなに気持ちいいなんて、僕は七海に出会うまで知らなかったから」
 七海の手は手のひらを合わせるようにベルクに握られていた。彼らはしない行為。それなのにベルクは嬉しそうに手を繋ぐ。
「私も、初めてベルクとキスしたときに同じことを思った」
 言葉にできない複雑な気持ちが手のひらを通じて伝わればいい。七海は繋がれた手をぎゅっと握った。
「私と一緒にいて無理してない?」
「してるように見えた?」
「見えないけど……」
「してないから見えるわけないよ。ユクムスナはああ言ったけど、僕は七海との違いがなんだか嬉しいんだ。僕が感じていた引け目みたいなものが、七海を通すと何でもないことに変わる。万能感がすごいんだよ」
「それって等級が上がったからじゃなくて?」
 ユカに渡された彼の記憶に引き摺られるように、七海自身の記憶も蘇りつつある。
「それもあるだろうけど、どっちかといえば七海がいるからなんだと思うよ。七海がいれば大丈夫って思える」
 同じだ、と七海は思った。この先どんなことがあったとしても、ベルクがいれば大丈夫。そんな漠然とした自信。

「そういえば、私もユカとキスしたんだよね」
「ナーレの受け渡しとキスは別物だよ」
 躊躇うように瞳を僅かに揺らしながら、ベルクはか細く言った。
 確かにその通りだった。あの瞬間の七海にはキスという認識すらなかった。単に唇同士が当たっただけとでも言えばいいのか。その事実すら意識になかった。
 ふと七海は、ユカが本当に七海に知らせたかったのはこれだったのかもしれない、と思えてきた。
「今でもやっぱり嫌だけど、でも……なんとなくわかったかもしれない。次はもう少し冷静に対処できると思う」
 ベルクは、ほんの僅かな表情も逃さないとばかりに七海をじっと見つめていた。七海も感情を隠すことなく声や表情に出した。
「さすがにこの年になるとそう何度もない……ああ、僕がナーレを渡す立場なのか……」ベルクががっくりと肩を落とした。「僕、指導は苦手なのに」
「ごめんね、私の血のせいで」
 ベルクが訝しげに顔を上げた。
「私が首を噛まれなければよかったのに」
「それは七海のせいじゃないし、どう考えても僕の落ち度だよ。どう転んでも、僕はトゥロイアの管理をさせられただろうから、七海の血のこととは関係ないよ」
「そうなの?」
「そうなの。ユクムスナが言ってたでしょ、どっちにしても頼むつもりだったって。七海に出会わなければ僕はあと少しで消えていたんだ。消すより有効利用するつもりだったんだよ」
「そんな言い方……」
 眉を寄せる七海にベルクは笑って見せた。
「実際そうなんだよ。ユクムスナは僕たちに強制干渉できない。あくまでも提案するだけ。あとは僕自身が全ての段取りを整えないといけないんだ」
「面倒なの?」
「すっごく面倒。等級を隠してたことから説明しないといけないし……」
「庇ってくれる人はいないの?」
「僕の上司は絶対に庇ってくれない。庇ってくれるとしたら、支部長かなあ」
「支部長?」
「そう、日本の。そこまで記憶戻ってない?」
「この家の記憶までは戻った。ブーズして、モルディブ行くまでくらい? あの、ベルクが、ほら、アトレーンで……」
「射精したとこまで?」
 言い淀む七海とは対照的にベルクはさらっと言った。
「そこまでです」
 顔に熱を集めた七海につられるように、ベルクの耳も赤くなった。
「そっか。でも、日本支部長とは七海も会ったことがあるよ」
 ベルクの長い指が七海の髪を梳きながら肩の後ろをそっと撫でた。指先の軌跡に七海の芯がぞくっと疼く。
「あ、弁護士?」
「そう。あのお金は七海の血を売ったお金だよ。全部で四百㎖。当時のレートで日本円だと五千万弱かな。それに当面の諸経費が上乗せされていたはず」
「航空会社の賠償金じゃないの?」
 ベルクのシャツのボタンを外すのはいつだって七海であってほしい。
「七海はすでにこちら側の人間だから、地上人は干渉できないんだ。そのかわり、あの航空会社は潰れる」
「うそ! 世界最大手じゃなかった?」
 ベルクの手のひらがゆっくり七海の肌を滑る。首筋から鎖骨をなぞり、躰の中心をゆっくりと降りていく。
「大手でも。おまけにユクムスナの知り合いも乗っていたわけだから、僕らだけじゃなくシーレンからも圧力がかかる。会社自体は残っても、経営陣は総入れ替えになるだろうね」
「ねえ、ユカはベルク側の人間じゃないの?」
「彼女は複雑なんだよ。コアの外部器官でありながら、シーレンが生み出した人間なんだ」
「ユカもキメラってこと?」
「いや、天然受精」
 前戯など必要なかった。七海の躰はいつだってベルクに開かれている。きっとこの先も、どれほど喧嘩をしようが、彼だけに七海の躰は開く。
「ユカにも人間の親がいるってこと?」
 ゆっくりと体内におさめて大きく息を吐いた七海と同じだけ、ベルクも深く息を吐いた。
「そりゃそうだよ。確か彼女の親もトゥロイアの管理をしているはずだ。彼女はそこで生まれている」
 わかるようなわからないような。わかった気になることはできても、真にわかったわけではない。
 そういえば、と七海は思い出した。ベルクもコアについてはよくわかっていなかった。案外そんなものかもしれない。七海だって自分を取り巻く全てを理解しているわけではない。
「トゥロイアの管理って、あの球体の管理ってこと?」
「いや、あれは地球儀みたいなもので、実際にはちゃんとした一つの世界だよ」
「地球みたいな?」
「まさに地球だよ。環境はほぼ地球と同じ。コアの成長とともに完全な球体になる」
「コアって成長するの?」
「成長……んー成熟かな。完全な形になるってこと。僕たちみたいに」
「私たち、みたい?」
「そう、僕たちみたいに。僕は七海と繋がることでようやく成熟した一人の人間になったんだって思うよ」
 キスをするとき、お互いに一瞬の躊躇があった。額を合わせてくすくすと笑い合う。
「どれだけ喧嘩しても、手、繋いで」
「どれだけ喧嘩しても、僕と繋がっていて」
「それは精神的に? 肉体的に? マニの交換的に?」
「もちろん全部だよ」
「欲張りだね」
「開き直れって七海が言った」
「キャラじゃないって言ったくせに」
 笑い合いながらマニの交換をする。それまでで一番穏やかな行為だった。



「さっき、嫌な言い方してごめんなさい」
「ん? さっき?」
「責めるつもりはなかったんだけど……」
「ん? そう? 責められた気はしないけど……」
 目眩と頭痛がとれたのか、ソファーと七海に挟まれて寝転がるベルクが「んー」と気持ちよさげに大きく伸びをした。
「僕と七海とでは出発点が違うんだよ」
「出発点?」
「そう。僕は最初から七海たちの存在を知っていたけど、七海は僕に会うまで僕たちの存在は知らなかった。僕は七海たちの習慣や習性を知っていたけど、七海は知らなかった。僕は七海と知り合う以前から七海の住む世界で生きてきた」
「だから?」
「違いに気付くのは圧倒的に七海の方が多いってこと。つまりストレスを感じるのも七海の方が大きいってこと」
「でもだからって、自分が理解できないことを責めていいわけじゃないでしょ」
「七海は理解できないから責めたわけじゃなくて、嫌だったから、でしょ」
「そうだけど……」
「それでいいんじゃないかな。僕だって嫌だったら文句くらい言うよ」
「私ベルクに文句言われたことないけど……」
「そう?」
「そうだよ。ベルクも文句あったら言っていいからね」
「んー。できれば僕は寝ているときも繋がっていたい」
「それはちょっと……」
「今だって七海抜いちゃうし」
 不満そうな顔に七海は思わず吹き出した。
「子供みたい」
「もう一回する?」
「ダメ。頭痛いの治ったなら、家に戻らないと。美帆が心配通り越して激怒してそう」
「連絡入れておけば?」
「スマホ持ってきてないもん」
「あー、僕のも七海の家だ。パソコンから連絡する?」
「美帆のアドレスもIDも覚えてない」
 美帆のはやたら長い上に意味不明なアルファベットの羅列だ。大志も同様。
「大丈夫、僕が覚えてる」
「え、交換したときに覚えたの? メモらないで?」
 昨晩ベルクは、夕食の後で美帆と大志に促され、メールアドレスとメッセージアプリのID交換をしていた。
「三十文字くらいなら見ただけで覚えられるよ」
「どうやって? 語呂合わせとか?」
「普通に記憶してるだけだよ。ゴロアワセって何?」
「水兵リーベ僕の船とか。元素記号覚えるときの語呂合わせ。同じ音で別の意味になるよう覚えるの」
「へえ、面白いな」
「そういうのないの?」
「ないなあ。一覧表は一覧表のまま記憶されるから、一つ一つ覚えるってことはない」
「ナーレ?」
「そう、ナーレ。そのまま頭に入ってくる。七海も覚えたって感じじゃなくて、どっちかといえば経験したって感覚に近いんじゃないかな」
 言われてみればそうかもしれない。ベルクの記憶を追体験した感覚に近い。それに刺激されるように七海の記憶も蘇ってきた。
「もしかして、何かの操作法もこんな感じ?」
「そう、実際に操作した感覚が芽生えるとでもいうのかな。さっきのトゥロイアについてのナーレも、僕が実際に一からつくった感覚に近い」
「ナーレって、知識の譲渡というよりは、経験の譲渡なの?」
「そうかもね。そんなに突き詰めて考えたことないから正確には違うのかもしれないけど、経験と記憶と感覚、まあそれについてのあらゆる知覚の受け渡しかな」
 そういえば、と七海はベルクの記憶の中からずっと気になっていたことの答えのようなものを見付けていた。
「あの光の輪、サメル?」
「そうサメル。サメルが何?」
「ずっと不思議だったんだけど、ベルクってヒゲ生えないよね」
「生えないようにしてるから。ああ、それでサメル?」
「そう、あの光って毛根もどうにかできるの?」
 産毛だって肌の色と変わらないくらい薄く目立たない。
「必要なければ。僕は基本的に頭髪、眉毛、睫毛、産毛以外は不要にしてるけど……それがどうしたの?」
 なんの疑いもなく、不思議そうに訊かれた。きっとベルクの中の七海は最初からむだ毛などなかったのだろう。なくなったところで支障がないどころか妙にすっきりしているため、七海は口を噤むことにした。
「ん、なんでもない。便利だなって思っただけ」
 ようやく謎が解け、すっきりした笑顔の七海に、ベルクはしばらく首をひねっていた。