トウメイノチカク
§5 ナーレ④ 美帆と大志は先に戻され、ベルクと七海は白い空間に残された。
このまま七海が戻ってこないのでは、と騒ぐ美帆を、ユカは「一度は帰すから」と冷ややかな声で黙らせ、羽虫でも追い払うように軽く手を振って二人を消した。
ユカの冷然さは、二人の存在そのものが消えてしまったのではないかと錯覚するほどで、七海は彼女の中に存在するベルクたちオリジンと七海たちサブとの境界線をはっきり感じて、思わず怖気立った。あくまでも七海はベルクのパートナーとして扱われているにすぎない。
「ナーレは、トゥロイアについてが全部で十二層、それとファスティ博士の残したものが全部で六層。機密が含まれるため直接じゃないと渡せない」
事務的なユカの説明に、ベルクははっとしたように七海を見た。
「七海……」と言ったまま何も言えないでいるベルクを横目に、ユカは事務的な口調を崩さず続けた。
「ナーレは、いわば知識のようなもので、マニに変換して受け渡される」
七海の理解を確かめるように、ユカは一旦そこで止めた。七海には嫌な予感しかなかった。
「私が女で、彼が男だと思うから、あなたの倫理観に合わなくなるの。これは男同士でも女同士でも親子でも上司と部下の関係でも、オリジンなら当たり前に行う情報伝達行為だから」
「他に方法は……」
困惑と嫌悪に戸惑う七海を、ユカははっきりと嘲笑した。
「あったらやってる。これが一番確実で漏れのない方法なの。いい?」とユカは念を押すように口調を強めた。「地上でも国が違えば文化も倫理観も違うことくらいわかるでしょ。ましてや世界が違うんだから全く違っていいはずなの。あなたは少し彼に甘えすぎ。彼がどれほどあなたに合わせているか気付いた方がいい。彼は特別な人間じゃない。あなたと同じように、第二世界ではただの一般人。あなたが戸惑うのと同じだけ彼だって戸惑っているわけ」
七海はぐっと奥歯に力を入れた。そうでもしないとあまりの自己嫌悪に呻いてしまいそうだった。
これまで生きてきて今ほど自分の無知を痛感したことはない。彼らについて何も知らないことを自覚しているからこそ、ユカの言葉は七海を強かに打ちのめした。あまりの羞恥に全身がかっと熱を持つ。不意に何かで見た愧死という言葉が七海の頭に浮かんだ。
「僕が好きでやっていることだ。七海に責はない」
そんな七海を庇うかのように、ベルクがユカを睨んだ。
「まあ、君がいいならいいけどね。でもこれは必要なことだから、そこは納得してもらって」
「七海……」と言ったままやはり何も言えないでいるベルクは困り果てていた。仄白い空間は影を生まない。それなのに、彼の表情にははっきりと翳りが見えた。
もともと七海は人間関係において潔癖すぎる嫌いがあった。ギブアンドテイクの友情すらどこかで嫌悪し、空気のように漂いながらなんとかやり過ごしてきた。表と裏のある人がとにかく苦手で、打算的だったり、駆け引きだったり、それは往々にして賢く生きる手段であったとしても、そんな素振りが見えた途端、彼らとは一歩引いた付き合いしかできなくなる。美帆に何度「そこは割り切らないと」と諭されても、どうしても割り切ることができなかった。
そんな七海にとって、恋愛とは絶対でなければならなかった。ただ一人にだけ注がれ、ただ一人にだけ受け止められ、それ以外は一滴たりとも零すことのない関係でなければ、恋愛とは呼べないと思っていた。自分でもそれは幻想だとわかってはいても、心のどこかでそう信じてきた。
「面倒ならこれに関する記憶だけ消せば?」
ユカのなげやりな態度が七海を責めた。七海から譲歩を引き出す必要もないくらい、彼らにとっては当たり前の行為なのだろう。全ては七海が折り合いを付ければいいだけのことだ。
それが必要なことも理解できる。それが彼らにとって愛とか恋とか、ましてや浮気などとは別物だということもわかっているつもりだ。
わかってはいても、ここで「大丈夫」と言えるだけの強さが七海にはない。七海の中には拒絶しか生まれない。理解できても嫌なものは嫌としか思えない。そんなふうにしか思えない己の狭量さをこれほど忌々しく思ったことはない。
七海の中に芽生えた様々な感情は混じり合えないままざりざりと擦れ合い、考えれば考えるほどむやみに傷を増やしていく。
──ついでに言えば君は私の半身候補でもあったの。
ふとユカの声が蘇った。じりじりと照りつける日射しまで思い出した。何も今思い出さなくても……七海は呻きを呑み込み、かろうじて言った。
「私も先に戻ってます」
「見てた方がいいよ。見ない方が疑心暗鬼になるから」
すかさずユカが却下した。正論過ぎて七海は何も言い返せない。
どうして好きな人の、ましてや結婚まで決意した人のキスシーンを見なければならないのか。本来七海の立場では第三者的に見ることのないシーンのはずだ。
わかっている。こういう考え方自体が七海の倫理観に基づいたものであり、彼らの倫理観とは違うということもちゃんとわかっている。わかっていても嫌だとしか思えない。
ベルクの困ったような気遣いの視線がせめてもの慰めだった。ここで彼にまで当然との態度を取られたら七海はきっと立ち直れない。彼だけでも七海の気持ちをわかってくれていることが唯一の救いのようであり、残酷さを一層際立たせてもいた。
七海は諦めたように大きく息を吸って、様々な感情を吐き出すように深く深く息を吐いた。指先の感覚が壊死したようになくなっていた。
「じゃ、まずトゥロイアの一層から」
七海の覚悟を見たユカが、事務的な態度を崩さずに言った。つまり、十八回はキスをするのかと七海は暗澹たる気持ちになった。せめて一回で終わらせてほしい。
ふわっとユカが浮き上がり、ベルクと同じ位置に顔を揃えた。その何気ない行動が、彼らは七海とは違う生きものなのだと突き付けてくるようだった。
ほんの数歩離れた位置で、七海は歯を食いしばって二人の行為を見ていた。
全身の血が沸き立った。熱いのか冷たいのか、それすらもわからない何かが目まぐるしく体内を駆け巡っている。あらゆる感覚が痺れたように遠退いていくのを他人事のように感じていた。
ユカもベルクも作業的だった。ユカに渡されたナーレを呑み込んだベルクは、微かに眉を寄せ、宙に浮かぶトゥロイアと彼らが呼ぶ球体に視線を移し、小さくひとつ頷くと、ユカは再びベルクの口を塞いだ。
何度目かの受け渡しを終えたベルクは、球体を見ながら不可解な表情を見せた。
「僕が以前取り込んだトゥロイアのナーレとは少し違う」
「これは規制のないものだからね。指定された等級以下だと解読できないようになってる。おまけにこれは元々あったナーレを上書きせずに破壊するから、取扱に注意して」
再びユカがベルクの口を塞いだ。
そこには一切の情はなかった。ベルクの表情がそれを物語っている。七海と交わすキスとは違う。感情を隠しているわけでもなく、本当にそれはただの手段でしかないようだった。
だからこそ、七海は込み上げようとする涙を必死に堪えた。頭ではわかっていても心がわかろうとしない。
ユカの言う通り、見ていてよかったのだと七海は思った。見ているからこそ、頭では理解できた。見ていなければ間違いなく嫌な想像をし続けただろう。彼女の言う通り疑心暗鬼にもなったはずだ。
一方で、そこまでわかっているなら、それこそ七海の与り知らぬところで終わらせることもできたはずなのに、なぜ彼女は七海にこんな残酷なシーンを見せ付けるのか。どこにもぶつけようのない怒りが湧く。
いずれ知ることになるからだろうか。隠れてされるよりはマシなのかもしれない。七海は必死に自分に言い聞かせていた。涙を零さないよう、嗚咽を漏らさないよう、それだけに意識を集中した。
「さずがに重いな」
「まあね。しばらくは目眩や頭痛がするかもね。これがトゥロイアの十二層目。かなり緻密だからちょっとキツイかも」
「ん」と小さくベルクが答えた。普通に答えたはずなのに、七海には彼らの親密さが増しているような気がして目を逸らしたくなった。
ほんの一瞬、ユカが咎めるような一瞥で七海を刺した。
わかっている。ほんの少しでも七海が崩れたら、きっとこのあとベルクは七海を慰める。本来必要のない懺悔をさせてしまう。
ぐっとお腹に力を入れ、歯を食い縛り、七海はそれまで以上にしっかりと彼らの行為を見続けた。ベルクに懺悔させたいわけじゃない。きっとこれは謝られようが慰められようが納得できるものではない。自分で折り合いを付けなければならないものだ。
ユカと唇を離したベルクが呻きながら眉間を揉んだ。
「少し休んでも?」
「残りはそれほどでもないから。それに、あまり時間をかけない方がいい」
ユカの気遣うような声が七海を傷付ける。ベルクが七海に顔を向けようとする瞬間、七海は咄嗟に顔を背けた。頭ではわかっているのに、意思に反して躰が動いてしまう。
「それほどではないならまとめられるか?」
「それはさすがにキツイよ?」
「いい」
七海が慌てて顔を向けると、すでに二人は口付けていた。
ベルクが呻き、よろめいた。七海は咄嗟に駆け寄り、彼の躰を支える。
「大丈夫?」
「ん、大丈夫」
ベルクの七海を見る目は、ユカを見る目とは違う。納得しなければ、と七海は自分を誡めた。
「ナナミ」
ユカの声に振り返った七海は、ユカに口を塞がれた。弾力のある丸い空気のようなものが口内に押し込まれ、押し込まれた途端、すっと萎むように消えていった。
「それ、あなたと彼が出会った最初の一週間の記憶の複製。ただし、彼のね」
ぷちんぱちんと小さな泡が弾けるように、七海の頭の中に映像が浮かぶ。
嬉しそうに深々とシートに座る七海。
目を輝かせ機内食を味わう七海。
うっそりと眠そうな目で窓の外を眺める七海。
困惑顔で辺りをじっと見つめている七海。
落ち着いてますね、と困ったように笑う七海。
キス、してもらえないでしょうか? と真っ直ぐな目をしている七海。
恐怖に怯える七海。
眉を寄せ、必死に彼を呑み込んでいく七海。
恐怖の中にあって縋り付くように見つめている七海。
昏々と眠る七海。
何かを口移しで飲まされた七海。
それでも目覚めない七海。
目覚めの瞬間、ゆっくりと笑みが広がり、幸せそうに表情を綻ばせた七海。
膨らみすぎた胸に困惑する七海。
そのあとも、七海はただ一心に真っ直ぐな目を彼に向けていた。
その全てで彼に応えようとしていた。
誰が見てもわかるほど、七海は彼に恋をしていた。
私も泣きそう、と言いながら、どこか安堵したように全身の力を抜いていた。
彼の腕の中で恥ずかしそうに身動ぎながら、嬉しそうに笑っていた。
いい夢だったなあ、と幸せそうに微睡んでいた。
彼の腕の中から胡散臭げに廃屋を眺めていた。
寂れたベンチに座り、ぼんやりと辺りを眺めていた。
揺さぶられるまま、与えられるまま、その全てを呑み込んでいた。
愛おしそうに指に指を絡め、静かに握り込んでいた。
怖いくらい真剣な顔で覚悟していた。
彼を通して見た七海はひたむきに愛らしかった。
些細な表情一つ、些細な仕草一つ、些細な呟き一つ、彼の目には好ましく映っていた。
淡い想いが少しずつその濃さを増し、ゆっくりと色づいてゆく過程がありありと見えた。
七海の知らなかった七海がそこにはいた。
七海はどこまでも女だった。
彼は一心に七海だけを見ていた。
七海の存在だけが際立って鮮やかだった。
「ね、疑いようもなくあなたは愛されてるでしょ?」
「なんで、なんでよりによって、今、これを、私に見せたの」
怒りが全身の毛穴から滲み出ていた。七海は怒りを隠さなかった。相手がどんな存在だろうと構わなかった。
「なんでって……」
「これを見て納得しろってこと?」
ユカがぐっと言葉に詰まった。
どうして彼女はどこまでも残酷なのだろう。
自分で付けなければならない折り合いすら強制的に付けさせられる。これを見て彼の心を疑えというのは無理だ。本来それは、七海自身が一つ一つ彼の中から見付けて、一つ一つに思い遣って、そして彼との繋がりを少しずつ強めていくものではないのか。
そもそも、彼の心を疑っているわけではない。ただ、その行為を七海が考える愛情表現とは切り離して考えればいいだけのことで、面白くないと考えるのはあくまでも、七海の中にあるキスに対する認識からくるものでしかない。
「これは彼だけのもので、私が勝手に受け取っていいものじゃない。ましてやあなたが勝手に扱っていいものでもない」
「そうだけど……でも不安は消えるでしょ」
「その不安だって、私自身が消すものであって、ユカに消してもらうものじゃないでしょ」
再びぐっと言葉に詰まったユカは、迷い子のように視線を彷徨わせ、小さく「ごめん」と呟いた。彼女はどこまでも人間らしい。七海が理解できないほど途方もない存在だという以前に、彼女はやはり七海と同じ人間なのだ。
「あーじゃあ、返してもらおうかな」
「ユカに返すわけないでしょ」
まったく、とこれみよがしに怒ってみせれば、ユカはふっと息を抜くように笑った。
「ナナミは案外強いね」
「思い出したの。なんだっけ、独占契約? ああ、ブーズだっけ、それをするときに地底人上等って思ったなって」
「ほら、それ私のおかげでしょ。記憶を見せたから思い出せたんじゃーん」
澄んだ美しい声が即興のメロディを奏でた。天使の吐息。悪魔の囁き。ユカの歌声は両極端の評価を生む。
「調子にのらないで」
笑いそうになりながらもぴしゃりと言い放った七海を、ベルクが力任せに抱き寄せた。七海を懐に深く閉じ込めたベルクは、ずいぶんと長く息を吐き出していた。
いつになく力強い抱擁は、これまでその腕の強ささえ気遣われていたのだということを七海に教えてくれた。直前に見せられた記憶以上に、どれほど大切に扱われていたかが七海の心に沁み広がっていく。
「嫌な思いをさせた」
七海を掻き抱いたベルクが言ったのはそれだけだった。言い訳でも謝罪でもない、ひとえに七海を思い遣った言葉。そのひと言でなければ七海の心に少なくないわだかまりが残っただろう。
たったひとつの動作とたったひとつの言葉がベルクの全てを伝えてきた。
ああこの人も不安だったんだ。そう思ってしまえば、理解するとかしないとか、許すとか許さないとかではなく、仕方のないことだと認めてしまう。それについては深く考えず、心を鈍らせればいいだけだと、揺るぎない腕の中で七海の心は勝手に折り合いを付けていた。
それでも──。
できれば二度と見たくない。それが七海の偽らざる本心だった。