トウメイノチカク
§5 ナーレ③


 ほんの数時間しか寝ていないはずなのに、ベルクが側にいる安心感からか、七海の目覚めは爽快だった。
 まだ眠っているベルクを起こさないよう、腕の中からそっと抜け出す。部屋着を身に着け、音を立てずに軽く日課のストレッチをしていると、いつの間に目覚めたのか、足の先をベッドからはみ出しながら俯せ、ぼんやりとまどろむベルクと目が合った。なんとなく気恥ずかしくて、七海はもごもごとおはようを言い、そそくさと洗面所に向かう。

 美帆は朝に弱い。反して、大志は朝にめっぽう強い。
 その大志が丸めたシーツをこそこそ洗濯機に突っ込んでいるところに遭遇した。タンクトップからムキ出た腕の筋肉が朝から強烈だ。ベルクのすんなりとした腕を思い出し、七海は視界から筋肉を追い払う。
「おはよ」
「うわっ、深津屋……早いな」
「そう? いつもと変わらないけど……何こそこそしてんの?」
 マウスウォッシュでうがいをしながら、七海の登場で大袈裟に驚き、今は緊張からか一層筋肉をムキ出して背を丸めている大志を見た。普段姿勢のいい大志が猫背になるのは珍しい。
「あー、悪い。昨日美帆を慰めてたら、まあ、あれだ、ここじゃ気を付けてたんだけど……」
 決まり悪そうに目を伏せ、耳を赤くした大志がぼそぼそ言う。
「あー、つまり……」
「悪い。今後は気を付ける」視線を上げた大志の目がすっと細められた。「って、なんだよ、そっちもかよ」
「えっ、なんで……」
「あのなあ、深津屋。俺だからいいけど、いかにも事後ですって顔してるぞ」
 どんな顔だと慌てて鏡を覗き込んだ。特にいつもと変わらない。寝起きで目脂でも付いているかと思いきやそんなこともない。ただのすっぴん。七海は過去にオネエとからかわれて以来、バイト以外では殆どメイクをしなくなった。日焼け止めとパウダー、眉を整えるくらいだ。
「いつもと一緒でしょ」
「全然違う。もしかしたら男にしかわからないかもな」
 ふとバイト先の女傑たちが七海の脳裡に浮かんだ。
「女でもわかる人はわかるかも」
「かもな。気を付けろよ。美帆が起きる前に顔洗ってしゃきっとしとけ」
「ねえコマくん、人んちの洗濯機で事後のシーツ洗うのってどうなの」
「なっ、ちゃんと事前に下洗いしたから。ついでに俺の着替えも洗っていい?」
 何気に大志はマメだ。すでに洗濯機の中に放り込まれていた大志の着替えがちらりと見える。
「訊く前に洗う気満々のくせに。それに今更でしょ。今までも美帆の着替えと一緒に洗ってたくせに」
「なんでバレた?」
 きっちり洗剤を計っている大志が振り返った。
「ホテルで美帆がコマくんの洗濯物に自分のも混ぜてたから。なんか当たり前な感じだったし。お互い実家同士だから一緒に洗濯するならうちかなって」
「やっぱバレるのは美帆からか」
「私が潔癖じゃなくてよかったね」
 顔を洗いながら七海はぽんっと言い放った。
「悪い。でも助かる。俺嫌なんだよね、洗濯物溜めておくの。なんか臭ってくるし」
「コマくんはいい夫になるね」
「美帆は意外とルーズだからなあ」
「相手は美帆って決まってるんだ」
 背後で狼狽える大志を残して洗面所を出ると、大あくびをしながら顔を洗いにきた美帆と行き違う。「おはよー」と間延びした声を出す美帆に事後の気配は見当たらない。何がどう違うのだろう、と首を傾げながら七海も「おはよ」と声をかけ、キッチンに向かった。

 朝の情報番組をBGMに、眠気が抜けきらなくてもきっちりロイヤルミルクティーを作る美帆と、昨日大量に作ったサラダの残りを片っ端から片付けていく朝から食欲旺盛な大志、半分寝ているようなベルクは「朝からカフェインはちょっと……」と言いながらも美帆に手渡されたミルクティーをおいしそうに飲んでいる。七海はダイニングチェアを使って体幹ストレッチ中だ。
 三者三様の朝の様子に七海は笑いを堪えきれない。

──ユカのワールドツアーの残り二公演が本人の体調不良を理由に急遽中止になりました。

 テレビから聞こえてきた声に、七海とベルクは顔を見合わせる。つい一昨日会ったユカに不調は見られなかったはずだ。
 コメンテーターがしたり顔で「ユカの場合、払い戻し等はありませんからね、大変残念ですが混乱はないでしょう」と語っている。
 ユカのライブチケットは基本無料だ。ライブ後、チケット代の代わりに寄付を募る。ライブ会場の設営や人件費等の諸経費を除いた利益の殆どは、ユカが主催しているボランティア団体に寄付されている。
 彼女はある時期からサブスクなどの音源の公開を止めた。そのうえタイアップなども一切しなくなったため、ユカの声を聞きたければ廃盤になったCDを探すかライブ会場に行くしかない。寄付の金額によって非売品のライブグッズがもらえることもあり、誰もがこぞって寄付をする。
 会場のセキュリティは厳重で、音漏れもなければ盗聴や盗撮は一切できない。ユカの正体を知れば納得できることも、知らなければどこかに抜け道があるだろうと必死になるのも仕方がないことかもしれない。一度でも見付かると二度とユカのライブ会場には出入りできないほどの厳しいセキュリティが敷かれているともっぱらの噂だ。
「うそだろぉ、俺アジアツアーのチケットやっと手に入れたのに」
「ん、大丈夫、アジアツアーはやるよ」
 七海の横に立ち、平然と種なし巨峰を口に運ぶユカに一同唖然とした。
「普通に玄関から来てください。とりあえず靴脱いで」
 はっと我に返った七海がまず注意したのは彼女の足元だった。
「ちゃんときれいにしたから」
「きれいにしても。日本では礼儀です。確かユカって日本人ってことになってますよね」
「まあね、生まれも育ちも違うけど」
 目も覚めるような緑色のアオザイ姿。ユカはもそもそと金具だらけのやけにごついブーツを脱ぐと、当然のようにベルクに押し付けた。
「なぜ本体が……」
「だって、色々不便だったし。それ玄関に持ってって」
「自分で持って行け」
「けち。玄関どこ?」
 これまでのユカと違って声に感情が滲んでいる。これ以上ないほどの面倒そうな顔のユカが諦めたように七海を見た。
「こっち」
 七海が席を立ち、ベルクに押し戻されたブーツを手にしたユカを引き連れ、リビングを後にする。背後から大志の言葉にならない叫びが聞こえてきた。
「彼、ユカの大ファンなんですよ」
「みたいだね。しょうがない、関係者用のパスあげるよ」
「喜びます」
「なんか冷静だね」
「ちょっとびっくりしすぎて現実逃避気味なだけですよ。あ、ユカって呼び捨てにしちゃってる。すみません」
「ん、ユカでいいよ。ユクムスナって呼んだら怒るけど。私もナナミでいい?」
「もちろんです」
 ユカは玄関にきっちり揃えてブーツを置いた。
「ねえねえ、さっきの巨峰すっごくおいかった」
 ユカの声が弾んでいる。本当においしかったのだろう。
「あれ高かったんですよ。ひと房二千円くらいして。確かナガノパープルって品種で、皮まで食べられるってPOPに書いてありました」
「今度取材受けた時に言おう」
「たくさん貰ったら分けてください」
「OK」
 リビングに戻ると、大志がユカとベルクを交互に見ながら「なんで? なんで? なんでユカ? ユカ? ユカ!」と騒いでいた。美帆は驚きながらもバカ騒ぎする大志に冷たい視線を送っている。
「はいはい、ユカです。どうも。とりあえず落ち着いて」
 へらへら笑うユカが新鮮だ。
「なんで? どこから湧いたの? え? 七海知り合いなの?」
 落ち着いているようで動揺している美帆がすすっと七海に近づき耳打ちした。
「んー、知り合いってほどまだ知り合ってはいないかな」
「んーっとねえ、アフナス・ファスティと同郷なの」
 美帆の声が聞こえたのか、ユカがものすごく大雑把に説明する。
 ユカの皮膚はほんのり赤みがある。日本人とは違う白さではあるものの、白人の中でも色白という感じだ。そうだ、白だ。ユカの肌はちゃんと白い。ベルクの肌は抜けるように白く、どちらかといえば無色に近い──と考えたところで、七海は無色の白とはどんな白だと頭の中がこんがらがった。
「透明人間の仲間?」
 思わず口を衝いただろう美帆のひと言に、ユカは眉を潜めながら「どういう説明してるわけ?」とベルクに詰め寄った。
「ごめんなさい、私です」
 穴があったら入りたい気持ちで名乗り出た七海に、ユカは面白がるように目を細めた。
「ま、とりあえずご飯食べちゃって。出掛けるから」
 ユカがベルクの席を横取りし、巨峰のお皿を抱えておいしそうに皮ごと大きな粒を次々口に運ぶ。七海の席をベルクに譲り、七海はキッチンの端に置いてあるスツールを持ってきて、何が何だかわからない顔の大志と美帆を視線で宥め、ひとまず朝食を再開した。
 テレビではしきりとこれまでのユカの偉業が紹介されていた。



「これがドアホウ、っと失礼、ファスティ博士のつくったトゥロイア、一千万分の一モデル」 
 両手を広げたほどの大きな球体が真っ白な空間に浮いている。半分から上は大気、半分から下の大陸は、ちょうどドーナツの一部を囓ったような形をしていた。その側面は海に覆われ、ドーナツを囓った部分がドーナツの穴の部分に広がる湾のような海と側面の海を繋げている。
 その湾の中心には、小さな丸い島が浮いていた。それはちょうど球体の中心でもあるようだ。
「この小さな島が浮かぶ球体がこの世界のコア。まだ不十分だから大陸も半球型なんだよね」
 よくよく見れば、その小さな島の下には細い細い柱のようなものが海面から立ち上がっており、逆円錐のような島を心許なく支えていた。
 ドーナツ型の大陸は湾に向かって緩やかな傾斜をとり、外側には尖った山脈が連なっている。ドーナツというよりは盆地やすり鉢状の地形に近い。お椀型の世界とでもいえばいいのか。
「人口は今のところ五億に欠けるくらい」
「多いな」とベルクが感心したように言った。
「こっそりつくってたにしてはよく出来てるでしょ。天才ってのも頷ける完成度」
 大志も美帆も目をこれでもかと見開いて球体を凝視している。
 よくよく目を凝らせば乗り物のようなものが空を飛んでいるし、海には船のようなものも浮かんでいる。大陸の一部には雲がかかり雨が降っているし、外側の山脈の一部は吹雪いている。やけに乾いた土地もあれば、広大な森もある。大きな街に小さな町。蛇行する川の流れに自然の豊かさを感じる。
「遺伝子はオリジン寄り。オリジンほどじゃないけどそれなりにマニを使える人間が人口の一割ほど」
「環境は?」
「基本的に地上をモデルとしてつくられている。ただし、今のところ時間は十二倍速」
「ああ、試験的だと言っていたな」
「そう。試験段階で放置されているから、時間の調整がまだ」
「段階的に行くか、一度初期化するか」
「できれば段階的に。このまま完成したらシーレンが引き取る」
「それは僕たちの子孫にまでこの世界の構築に従事しろということか」
「できれば。無理ならその都度別の人間を任命する」
「だがそれだと……」
「そう、安定しない。だから、できれば直系子孫の君にって話になるわけ。この完成度だもん、消すのは勿体ないでしょ」
 ベルクが眉をひそめた。
「シーレン側はなんと?」
「私に任せるって。もし必要なら完成後そっちが使ってもいいし」
「どうだろうな。そこまで人口を増やそうとは思っていないんじゃないか?」
「ラスナ連盟からはそう回答がきてる。ただし入植希望者を引き留めたりはしないって。だから君たちが自分の子孫を住まわせてもいい」
「植民か」
「あのアジア本部の人たち、好きそうでしょ。よくあそこまで濃いのが集まったよね」
「あれはヴェーテが悪い」
「あの人面白いくらいアメリカナイズされてるよね」
「パートナーの影響だろう」
「それにしてもさー」
 打ち解けた雰囲気のベルクとユカを見ていた七海は疎外感を感じていた。二人が話していることを正しく理解できない。自分にも降りかかってくることだというのに、全てベルク任せにしている。彼の属する世界のことを七海は知らなすぎる。
 七海はどこまでも、ただ驚いたように球体(ジオラマ)を見入っている大志や美帆と同じ側の人間だった。

「行き来は?」
「あまりお勧めしない」
「できれば彼らとは連絡を取り合いたい」
「そこまでの優遇はできないかな。オリジンならまだしも、彼らはサブだし。どっちにしても記憶はなくなるよ」
「七海のこと忘れろっていうの?」
 突然美帆が叫んだ。今にも噛みつきそうな顔でユカとベルクを睨んでいる。
「別の世界に行くんだもん、この世界に存在しなくなるなら、記憶だってなくなるでしょ」
 さも当然とばかりのユカの口調に美帆の表情はさらに険しくなる。
「なんで私たちが忘れなきゃならないの。なんで七海ばっかりこんな目に遭うの」
 必死に感情を抑えている美帆の声は震えていた。
「そりゃあ、世界に選ばれし人間だから?」
「はあ?」
 美帆の心底馬鹿にしたような声に、ユカが苦笑いで「やっぱこの言い方はダメか」と七海を見た。
「美帆、彼らは私たち人類の元になった人たちなの。彼らがオリジナルで、私たちはその複製に過ぎない」
「どういうこと?」
 美帆のみならず、大志まで厳しい表情を見せている。
 説明の続きをベルクが引き取った。
「この世界は僕たちの始祖がつくりだした世界で、僕たちはその直系子孫、君たちは遙か昔に僕たちの先祖がつくりだした種族、いわゆる僕たちの亜種なんだ」
「俺たちを下に見てるって、そういうことか。俺たちはスペアなんだな」
 大志の呟きにベルクが一瞬目を細めた。ユカの気配がすっと引き締まる。
「こうして説明されてるのも、ここに連れて来られたのも、結局は記憶がなくなるから、だから、俺たちは知ることができたってわけか」
「そういうこと」
 場違いなほど軽いユカの声に、大志の全身にぐっと力が入った。
「なんで」顔を歪めながら美帆が呟いた。「なんで七海の記憶まで消されなきゃならないの」
「なんでって、あなただって彼女の血の恩恵を受けたんでしょ? それ、どうやって説明する? 奇跡的に治ったで済めばいいけど、何か嗅ぎ付けられたら? 最初からそんな人いなかったってことにするのが一番手っ取り早いでしょ。この先あなたたちに何かあったら、もしあなたたちの子供に何かあったら、彼女の血を頼ろうとするでしょ? そういうの、一番困るんだよ」
 冷徹に言い放ったユカから七海に視線を移した美帆の口元が今にも泣き出しそうにわなないた。
 頼っていい、と言おうとした七海の口をベルクの手のひらが塞ぐ。その手を退けようとする七海の耳元で「落ち着いて」とベルクが囁く。そもまま抱きしめるように七海を押さえつけた。
「頼らなければ?」
 美帆が言い募る。
「たらればの話はナシ。そんなのその時どう思うかわからないでしょ。その可能性が少しでもあるなら私は排除する」
 ユカの声は無情だった。煽っているのかと思うくらい突き放した言い方だった。
「美帆、俺たちはいざとなれば間違いなく深津屋を頼ろうとするよ。実際に頼るかどうかは別にしても、頼りたくなるし、頼れないとわかったらやっぱり失望する。もし美帆に何かあったら俺は間違いなく深津屋を頼るし、もし助けてもらえなかったとしたら今と同じ気持ちで深津屋と接することはできなくなると思う。俺はそこまでできた人間じゃない」
「でも七海ならきっと助けてくれる」
「わかんないだろ? 深津屋には深津屋の都合があるんだ。勝手に期待して裏切られたって思いたいか? もしかしたら俺たちを助けることで深津屋が危なくなるかもしれなかったらどうする? それでも助けてくれるって思えるか?」
「だから頼らないって言ってる!」
「あのなあ、いざとなればわかんないって話をしてるんだろ? 今は頼らないって思っててもいざとなればわからないだろ? 目の前で俺が死にかけてても深津屋を頼らないか? 自分の家族が死にかけてても? 助けてって思わないか?」
「思うくらい自由でしょ」
「思ったら終わりなんだよ。もうそれまでと同じように深津屋とは付き合えなくなる」
「そんなことない! だったら、耳を元に戻して! それでいい! 七海の血のことさえ知らなければいいなら、耳を戻して血の記憶だけ消して!」
 美帆の悲痛な叫びが七海を痛めつける。あんなにも喜んでいたのに、それをあっさり捨ててまで七海の存在を残そうとしてくれる。こんなに想ってくれる友人を置いて別の世界に行ってもいいのかと、七海の決意は大きく揺さぶられた。
「んー、割と現実的なんだね、君たちは」
 ユカが何かを考えるように言った。
「連盟に協力者の登録申請をしようと思っている。僕で差し障りがあるならヴェーテからしてもらう」
「そうだね。まあ彼らならパスしそうだし、それなら記憶は消えないし」
 七海はベルクを見上げた。穏やかに笑い返される。
「僕は可能な限り七海の望みを叶えるって約束したんだ。これはどうしても譲れない望みだろう?」
「ただし、あなたたち二人にはそれなりの制限がつくよ、いいの?」
 ユカの駄目押しに、美帆と大志は神妙な顔で大きく頷く。
「それなりの優遇もあるから心配ないよ」
 ベルクのフォローに二人は顔を見合わせた。