トウメイノチカク
§1 アルビナ①


 悲鳴と怒号と嗚咽──。
 機内は混乱の中にあった。
 携帯電話で家族と連絡をとる者、客室乗務員を声高に責める者、心の全てを声にして嘆く者、一人静かに祈りを捧げる者、身を寄せ合い慰め合う者たち──。

 七海はこの夏、ひと月まるまる海外で過ごすつもりだった。ところが、一緒に行くはずの友人が渡航十日前におたふく風邪を発症した。甥からの感染らしい。
 二人でよくよく話し合い、航空会社に確認し、現地のコーディネーターとも相談し、キャンセル料などの現実的な算段の上で、七海は予定通り旅立ち、数日後には下りるであろう医師の許可をもってチケットを取り直す彼女と現地で合流することにした。たった一人での渡航やほんの数日とはいえ見知らぬ土地での単独滞在に不安を抱かなかったといったら嘘になる。
 出発当日、七海は不安を抱えながらも早めにチェックインしたおかげか、インボランタリー・アップグレードしてもらえた。
 初めてのビジネスクラス。七海は舞い上がった。隣の席には素敵な男性、初めて飲んだシャンパン、思っていた以上に美味しい機内食、ゆったりとしたシートに他人の視線を気にしなくてもいい小さな自分だけの空間……。いい旅になりそうな予感に浮かれ、一刻も早く彼女と合流できますように、と機上から友人の早期回復を祈っていた。

 苦あれば楽あり、楽あれば苦あり。
 人生とは、なんとままならないことか。
 七海の頭には他人事のようにそんな言葉ばかりが浮かぶ。胸に滲む哀憫すらどこか現実離れしていた。
 結局一人で死ぬのか──諦めにも似た惨めさが胸にじわっと沁みていった。 

 機体は洋上に不時着するらしい。
 すでに救援要請されている、着水と同時に救助活動が開始される、パイロットは熟練だから安心するように──さきほどから必死の笑顔を貼り付けた客室乗務員が自分に言い聞かせるように繰り返している。彼らからは抑え込まれた恐怖がひしひしと伝わってくる。
 おそらく同じ空間を共有する誰もが死を予感していた。

 エンジントラブルが発生したらしい。
 機体はゆっくりと降下している。
 窓の外は真っ青な空と真っ白な雲の海。

 友人が一緒にいないことがせめてもの救いであり、その反面、心細さに一層拍車をかける。
 ふと気付けば、七海の隣の席の男性は周りの喧噪などものともせず、さっきから文庫本に夢中だ。真っ白な肌に薄い青の瞳。少し長めのショートヘアは金よりも白っぽいトウヘッド。スーツに着られているようなひょろっとした痩躯の手足は広めのシートであっても窮屈そうだ。
 混乱の中に在って、彼は完全に傍観者だった。
 涼やかな目もとが時々鬱陶しそうに周りの喧噪を眺めては、再び視線を落として文字を追っている。ページを捲る長い指。盗み見たタイトルは『惨殺にいたる思考』。日本語だ。七海も読んだことがある、サイコパスが登場するかなりグロテスクなミステリー。優しそうな見かけによらずなかなかエグいものを読んでいる。
 七海は再び目の端に彼の姿を捕らえながら、彼の席の先にある窓の外を眺めた。

 機体はゆっくりと雲の海に潜ろうとしていた。
 救命胴衣の着用がしつこくコールされている。

 あとどのくらいの命だろう。
 そう思った途端、七海はいてもたってもいられなくなった。いざというとき、人は思ってもみない馬鹿げた行動に出る、という俗説はどうやら七海にも当てはまるようだ。
 このまま死ぬのは嫌だ。
 七海の頭の中は「死ぬ前にキスがしてみたい」という、至極馬鹿げた、けれど強烈な願望に支配されていた。
 二十歳にもなって七海は未だキスすらしたことがない。中学から大学まで女子校に通っていたのがいけなかったのか。いや、周りにはそれでも彼氏持ちがいたのだから問題は七海自身にあったのだろう。何度か告白されたことがあるにもかかわらず、尻込みしているうちに恋は始まることなく乾くように消えていった。
 せめてキスくらい経験してから死にたい。できればセックスだってしてみたかった。
 あの時、とりあえずでもいいから付き合っていれば……今更過去の尻込みを後悔しても遅い。七海は押しの強い人がとにかく苦手で、気になるのは教室の隅にひっそりと存在するような人たちばかりだった。にもかかわらず、告白されるのは必ずと言っていいほど押しの強い人ばかりで──。

 機内は混沌としている。

「あの、助かると思います?」
 互いの視線が気にならないよう左右が張り出した背もたれから身を乗り出し、七海は隣の席の男性に声をかけた。男性は文庫本から目を離し、僅かに首を傾げながら七海に顔を向けた。第一ボタンが外された薄いブルーのワイシャツがやけに爽やかだった。ネイビーのネクタイが無造作に突っ込まれた胸ポケットからはみ出ている。よく見れば彼の瞳は薄い青に紫がかった見たこともない綺麗な色だった。
「助からないんじゃないかな」
 芯の通った低すぎない声が七海の耳に心地好く届いた。薄めの唇は読んでいた本と同じく日本語を紡いだ。
「落ち着いてますね」
「君もね」
 彼の口調にはからかうような含みがあり、七海は小さく笑った。
 どうして落ち着いていられるのか、七海自身も不思議だった。普段の七海なら周囲の人たちと同様にパニックになっていてもおかしくない。どこかで楽観視しているのだ。現実逃避と言い換えてもいい。
「現実だとは思えなくて」
「そのわりに意識はしっかりしているようだけど」
 隣の男性が本を閉じ、膝の上に置いた。会話を続けてくれようとしていることがわかり、そのことに勇気付けられた七海は思い切って口にした。
「あの、もし、嫌じゃなければ、なんですが……あの、キス、してもらえないでしょうか?」
 彼は七海より二つ三つ年上だろうか。こんな状況なのに誰とも連絡をとろうとしない彼には、きっと奥さんや恋人はいない。長い指に指輪はない。彼の携帯電話はサイドテーブルに置かれたまま放置されている。
「は? キスって、キス?」
 彼の狼狽する姿はどうしてか七海の胸に柔らかな感情を生んだ。初めてで最後のキスはこの人がいい。そう強く思った。
「キス、したことなくて。したことないまま死ぬのは嫌で」
「だからって、いきなり……」
「だめでしょうか? 彼女とか奥さんとか好きな人がいなかったら、ですけど……」
「いや、いないけど……」
 初対面の女にキスを迫られるなんてどれほど気持ち悪いだろう。冷静な考えが頭の隅をかすめながらも七海はあたふたする彼に精一杯迫ってみた。とはいえ、なんの経験もない七海には座席の間にあるサイドテーブル兼仕切りから身を乗り出して少しだけ彼に近付くことしか思い付かない。
 本気なのだとわかってもらうためにも、七海は真剣に彼の目をのぞき込んだ。彼の瞳は今朝見たばかりの夜と朝のあいだの色に似ていた。
 彼の瞳に覚悟のようなものが煌めいた。
 次の瞬間、唇が重なった。
 七海は目を閉じ、その感触に意識を集中する。柔らかかった。男の人の唇はもっと硬いのかと思っていた。軽く啄むような仕草の後、機体が大きく揺れた弾みで初めて知った感触はあっさりと離れていった。

 機体が小刻みに揺れている。時々大きくバウンドもする。
 機内は今まで以上に無秩序でヒステリックだった。

 七海の中にようやく恐怖が芽生えた。一度芽生えた恐怖は一気に膨らみ増幅していく。
「こっちに来る?」
「そっちに行ってもいいですか?」
 彼の気遣うような提案と七海の恐怖に震える懇願が重なった。
 機体が大きく揺れる中、七海は窓際に座る彼のシートに移った。
 彼の膝に座り、キスの続きをする。
 死の恐怖が七海を馬鹿げた衝動に駆り立てる。
 入り込んできた彼の舌は温かく滑らかで、擦り合わせるたびに熱が生まれた。どちらともつかない唾液を嚥下するたびに、喉の奥が熱を持ち、その熱が躰の中に落ちていく。乳房が張る。お腹の奥に生まれた疼くような感覚が七海を昂ぶらせた。
 全てが性急だった。
 乳房が彼の手で揉みしだかれるたびに、喉の奥から何かが込み上げてきた。吐き気ともゲップとも違う、しいていえば熱のかたまりのような吐息を彼が受け取り、呑み下すのがわかった。
 ベルトを外した彼がスラックスの前を開いた。
 七海を突き動かすのは本能だった。
 飛び出したグロテスクな彼の一部を、彼の指先がずらしたショーツの間に埋めていく。
 思い切ってフレアスカートにしてよかった──どうでもいいことが七海の頭に浮かんだ。
 躰が割り開かれていく感覚と鈍く重い痛み。七海は使命のように彼の一部を躰の中に埋め込んでいった。

 窓の外は一面の青。海面が太陽の光を受けて目映いほどに輝いていた。

 機体が揺れるたびに、二人の躰も揺れた。未知の感覚が七海を襲う。七海に埋め込まれた彼の一部から何かが七海の躰の中に送り込まれてくる。送り出された何かが七海の躰を巡って、再び彼の口に取り込まれていく。乳房が揉みしだかれるたびに生まれる何かも彼は余すことなく呑み込んでいった。
 あるびな。
 キスの合間にそう囁かれた気がした。なんのことだろうと思いながら、七海は恐怖から目を逸らし彼にしがみ続けていた。
 唇が離せない。
 七海の躰は電気を帯びたようにぴりぴりと痺れ、痺れが大きく膨らみ、頭の中を白く焼いた。七海の中で生まれた熱が彼に渡る。

 爆発のような衝撃が機体を引き裂き、七海の意識も砕け散った。





 ふと湧き起こった深々とした感慨が七海の口を勝手に動かした。
「悪くない最後だったかも」
 ゆっくりと目覚めていく躰の中心には、まだ彼の余韻が残っている。乳房はあの時以上に張り、皮膚が引き攣って痛いくらいだ。躰の熱は冷めず、ほてりが疼きを伴って気怠かった。
 最後の瞬間に一人じゃなかった。七海にとっては上出来な人生だった。
「死んでないからね」
 聞こえてきたのは直前まで聞いていた声。かすかな笑いを含んでいる。
 七海は訝しみながらゆっくりと目を開け、声の方に顔を向ける。薄明かりの白っぽい空間。背の高い椅子に足を組んで座る彼の姿が目に入った。
「もしかして、助かったの?」
 躰を起こそうと身動げば、すかさず彼が手を伸ばし七海の背を支えてくれた。
 そこは全てが丸い空間だった。円形の室内にドーム型の天井。ベッドは楕円、テーブルは半球、彼の座っていた椅子は繭を斜めにカットしたような形に丸いクッションが収まっている。宙に浮かんで見える仄かな照明も白っぽい球体だった。
 ベッドに腰をおろした彼が薄明かりの中、困ったような顔をした。
「あれ、助かったわけじゃない?」
 彼はますます困惑したように眉を寄せる。
 七海の躰に異常はない。手もあれば足もある。ざっと見たところ怪我どころか痣も見当たらない。着ている服も変わっていない。ただし、乳房の痛みがひどい。
「胸、痛む?」
 どうしてわかるのだろうと思いながら七海は視線を下げて驚いた。胸があきらかに大きくなっている。
「なにこれ」
 思わず呟いた七海に、彼は気遣わしげな視線を寄越した。
「女性の場合、胸にたまりやすいんだ」
 なにが? との疑問が七海の口を衝くより先に彼は続けた。
「全体を捏ねるようにマッサージして散らした方がいい。そのままだとどんどん痛くなるらしいから」
 何がどうなってどうしろと? 七海の無言の問い掛けに答えることなく、すぐ横に座る彼は「失礼」と言いながら後ろから抱きつくように手を回して七海の胸をマッサージし始めた。
 彼の長い指が胸を覆っている。痛い。でも気持ちいい。凝り固まった何かがほぐされていくような痛気持ちよさに七海は大きく息を吐いた。ゆっくり揉みしだかれるうちに、胸にたまっていた熱が体内に分散されていくのがわかった。かわりに熱のかたまりのようなものが喉の奥から込み上げてくる。七海は振り向きざまに彼と唇を合わせ、込み上がる熱のような何かを彼に口移した。

 一体何がどうなっているのだろう──頭の隅でぼんやりと考えつつ、七海はゆるゆるとした心地好さに包まれていた。

 間違いなく死にかけていたはずだ。もしかしたら死んだのかもしれない。ここがどこかもわからない。よく見れば浮いているのは照明だけではなく、半球型のテーブルも、半繭型の椅子も床から浮いていた。
 首の後ろで結ばれたワンピースに繋がるリボンの先がゆっくりと引かれていく。ホルターネックがほどけ、中に着ていたベアトップが下ろされると上半身が顕わになる。服の上から揉みしだかれていた胸は、いまや直接彼の手のひらに包まれている。
 機内では異様な昂奮で息が上がった。今は羞恥と全身に広がる気持ちよさが七海の息を上げていく。
 躰の向きが変えられる。七海は向かい合った彼のシャツのボタンを外していった。その間にも胸は揉まれ続けている。彼は使命のように胸を揉んでいた。定期的に込み上げる何かを彼に口移しで渡す。七海もその行為を使命のように感じていた。
 ふと目の前にある彼の躰に違和感を覚えた。
「こんなに筋肉質だった?」
「君がこうしたんだ」
 機内で見たときはもっと薄い胸だった気がする。今は適度に厚みのある男らしい胸。
「私が?」
「君が」
 よくわからない答えが返される。ゆっくりと背を倒され、ワンピースとベアトップと一緒にショーツが両足を滑っていった。彼がベルトを外し、スラックスと一緒に下着を脱ぐ。再び見えたグロテスクな彼の一部が、ゆっくりと七海の中に埋まっていった。
 躰がこじ開けられていく感覚はめりめりと音が聞こえそうなほどで、七海は恐怖にも似た戸惑いに息を詰めた。同時に、ぴりぴりした感覚が全身に広がっていく。揶揄ではなく実際に帯電しているかのようにぴりぴりしているのだ。
「この感覚、なに? みんなこうなるの?」
「みんなかどうかは知らない。もしかしたらアルビナ特有の感覚かもしれない」
「アルビナ?」
 聞き覚えのある言葉を七海は小さく繰り返した。
「そう、アルビナ。たぶん君はアルビナだ。だから助かったんだよ」
 七海の内側にゆっくりと埋め込まれた彼の一部が同じくらいゆっくりと引き抜かれていく。全てが抜けきる前に、再びゆっくりと埋め込まれる。内臓を押し上げられるようなたとえようもない圧迫感に、七海は大きく息を吐いた。
「痛み、ある?」
「痛みより、よくわからない感じがする」
「もう少し動いても平気?」
 七海が頷くと、彼の腰の動きが少しだけ早まった。躰の内側が擦られるたびに、何かが生まれかけている。もどかしさと一緒に七海の喉の奥から何かが込み上げる。彼の唇が七海の胸の先に吸い付いた。
「んんっ」
 ぴりっと電気が走るような強い感覚に七海の背がしなる。
「痛い?」
「ちがっ、たぶん……」
 その先は羞恥が口止めした。
「たぶん、なに?」
 彼が真顔で訊いてきた。無意識に閉じようとする七海の片膝を彼は片手でしっかり掴まえ、もう片方の手で両胸を代わる代わる揉みながら、腰をゆっくりと動かしている。
 羞恥から七海の全身に力が入った。彼が小さく呻き、腰の動きがさらに早まる。再び彼の唇が胸の先に触れる。痛いほどに尖った胸の先が彼の舌先で弾かれ、七海はたまらず口にした。
「気持ちいい」
 吐息までもが熱を帯びているようだった。
 彼は一瞬目を見張り、ゆっくりと破顔した。
「気持ちいい?」
「気持ちいい」
 彼があまりに嬉しそうに笑うから、七海は羞恥も忘れて馬鹿みたいに繰り返した。
 彼が七海をぎゅっと抱きしめた。出会ったばかりの人なのに。そう思いながらも七海は夢中で目の前の躰にしがみついた。
 唇が重なる。キスがこんなに気持ちいいだなんて。七海は彼の舌の動きに合わせ、彼に与えられる快感を彼にも伝えようと必死だった。彼の腰の動きが早まった。奥底に生まれる何かが七海の口内から彼の口内に渡っていく。互いの躰を何かが循環している。体中が熱い。結合部からいやらしい音が聞こえてくる。腰が勝手に揺れる。その音と動きに煽られるように、彼と繋がる部分に気持ちよさが少しずつ蓄積されていく。
 身を起こした彼が腰を揺らしながら七海を見下ろした。見られている恥ずかしさに七海は身をよじる。彼の指先が結合部をなぞり、その上部の一点を優しく摩った。はっきりと感じる快感に七海の躰が跳ねる。強すぎる快感は恐怖を伴う。七海は彼の腕を掴み、指の動きを止めようとした。
「気持ちよくない?」
 彼の指がそれまでより僅かに強まった。
「ちがっ、よすぎて怖い」
 自分が自分でなくなりそうで、自分がどこかに行ってしまいそうで、七海は小さく悲鳴を上げた。
「大丈夫、気持ちよくなって」
 背をしならせる七海の内側を彼の一部が擦り上げた。それまでとは違う、うねるような強い感覚に七海の躰はびくびくと震えた。大きな何かがせり上がってくる。七海は彼に腕を伸ばして、知ったばかりの柔らかな唇を引き寄せた。


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