トウメイノチカク
§5 ナーレ② 美帆は耳鳴りのほかにも何気ない生活音が不快に響いていたらしく、ひと動作ごとに小さく驚き、目を輝かせてベルクと七海に感謝と感動を伝えてくる。「もうわかったから」と七海が止めようとしても、「わかってない」と美帆は真剣に抗議する。
「すっごく快適なんだよ。ほら、音って塞ぐことができないでしょ。本当にストレスだったんだーって、世界ってこんなに静かでクリアだったんだーって、しみじみ実感する。ほんっとーに、ありがとう」
もうずっとこの調子だ。確かに七海は美帆を通してでしかその不快感を知ることはできない。美帆がどれほど苦しんだかを知っているつもりでも、七海がそれを実感することはない。
女の子を具現化したような美帆のきらきらしい眼差しは、七海のコンプレックスを刺激しつつもそれ以上に心を和ませてくれる。
「七海が狙われる理由、よーくわかった。私なんて軽い方だったんだよ。それがここまで快適に感じるんだもん、もっと重篤だったらなりふり構わず治してくれーって思うはず。本当に快適! ありがとー」
食事の用意の際も、食事中も、調理器具や食器が触れ合う音がどれほど不快だったか、治癒して初めてわかったのだと美帆はほほ笑む。不快に慣れてしまっていた彼女は、正常であることの喜びを全身で噛みしめていた。
「よかったね」と七海は美帆の気が済むまでひたすら相槌を打ち続けた。美帆の空元気に気付いていたせいもある。耳が治ったことだけを話題にする美帆は、七海がいなくなることから不自然なほど目を逸らし続けている。
嬉しそうな美帆を眺めている大志は、目尻に愛おしさを滲ませながらも、七海同様美帆の不自然さに気付いているのか、少し先の話題を慎重に避けているようだった。
「アフナスさんは泊まっていくんですよね」
順番にお風呂を使ったあと、念を押すような声音と懇願に近い視線をベルクに向けた美帆は、ベルクの頷きを見て安心したのか、普段彼女が使っている部屋に大志共々引っ込んだ。「今日は爆睡だな」と大あくびする大志は意外と繊細で、枕が変わると眠れない質だ。美帆の部屋には枕を皮切りに大志専用の寝具が少しずつ増えていき、今では一式揃っている。
築二十年を過ぎた古いマンションに現在七海は一人で住んでいる。
三つある個室のうち一番広い部屋を七海の個室として宛がわれたのは幼稚園に入る頃だったか。元は主寝室だった部屋を七海に明け渡した両親は、本来は子供部屋として用意されていたであろう六畳ほどの残りの二部屋にそれぞれ別れた。七海が小学校に上がる頃にはどちらかしか家にいない状況が続き、中学に入る頃にはどちらも家にいないことが多くなり、高校に入る頃には二つの空き部屋が残った。
美帆が「ラッキー」とやけに明るく笑って七海の隣の部屋を自室として使うようになったのは、おそらく七海を気遣ってのことだ。何もなくなった部屋に美帆のベッドが置かれ、美帆の着替えが少しずつ増え、美帆専用の日用品が当たり前のようにあちこちに散らばっている。
そこに自然と大志も加わるようになったのは、美帆が突発性難聴を患ってからだ。常に美帆の左耳になろうとする大志は、冷静さと適切な思い遣り、適度な厳しさををもって美帆を支えてきた。
「あの二人は本当に互いを想い合ってるんだね」
七海の部屋に招き入れたベルクがふと思い付いたように言った。七海は思考を読まれたのかと軽く驚きながら頷いた。
「握手したとき、七海を想う気持ちも二人から伝わってきた」
「握手って、そのためにしたの?」
「まあ、内緒だけどね。ある程度の強い感情は伝わるんだよ。だから、初対面の地上人とは握手するようにしている」
「私の気持ちも読まれてるの?」
子供の頃から過ごしてきた、七海の世界そのものもである自室にベルクが存在している。七海はくすぐったいような喜びを噛みしめていた。
「七海の場合は読まなくても伝わってくるから……」
照れたように笑うベルクに、七海の頬は熱を持つ。
「そんなにわかりやすい?」
「七海がわかりやすく伝えてくれるから、僕も安心して伝えられる」
そうかもしれない、と七海は思った。
七海を想う気持ちがベルクの表情にも仕草にも表れている。大切にされている、という実感があたたかなベールのように七海の全身を包み込む。七海の中に「大切にされていた」という感覚があれほど強く残っていたのは、彼が真っ直ぐに伝えてくれていたからだろう。
「あの二人からもお互いを大切に想い合っていることが伝わってくるよね」
七海が理想とする二人だ。羨ましいくらい想い合っている。
「そうだね。彼らなら、真実を伝えても大丈夫な気がするよ」
「ベルクたちのことを知っている地上人っているの?」
「もちろんいるよ。そこに長く住む種族の長は僕たちの存在を代々知らされる」
「総理大臣や大統領とかじゃないの?」
「それはころころ変わるでしょ。遙か昔からその地に住む種族っていうのが、大抵どの地域にもいるんだよ」
「日本だと天皇とか?」
「それよりももっと古いかな。古来の種族は表には出ないから。表に出ている人間ってのは、実はそれほどの権力は持っていないんだよ」
「そういうものなの?」
「そういうものなの。それ以外にも協力者として僕たちの存在を知る地上人はいつの時代にもいる。七海だってある意味協力者の一人だ」
七海が使っているシングルベッドはベルクには小さい。ベッドに二人並んで座っていると、ベッドというよりはソファーのようにしか思えない。
「七海。僕は七海に謝らなければならない」
一体何のことかと七海は首を傾げた。
「僕は、二度と七海を一人にしない」
厳しいほどの表情でベルクは宣言した。
「なんで……あ、美帆?」
「彼女と握手した瞬間、七海を一人にしたことへの怒りが強く伝わってきた。僕は、七海のことをわかっているつもりでまるでわかっていなかったんだ」
後悔を滲ませたベルクの表情に、七海は軽く笑おうとして失敗した。嗚咽が込み上げる。涙で視界が滲む。
七海は幼い頃から自分の境遇を悲観したことはない。淋しいとも思わなかった。ただ一人という、それだけだった。口さがない他人の同情をそれこそ他人事のように感じてきた。
それがただの強がりだったということを今の七海は知っている。知ってしまった。過去の自分が惨めでいじらしかった。
「本当にごめん」
ベルクは右の手のひらを自分の心臓の上に当てた。その仕草にどういう意味があるのかはわからないものの、七海はベルクから覚悟のようなものを感じ取った。
「それでも、僕と一緒にいてくれますか?」
「最後まで一緒にいてください」
嗚咽混じりに七海は答えた。二人であることを知ってしまえば、もう一人は嫌だった。
「おいで」
七海の腰をさらう長いベルクの腕に抱えられるまま、七海は彼の膝の上に向かい合わせで座らされる。そっと七海が抱きつけば、同じくらいそっとベルクも抱き返す。
ただキスをした。何かを交換するためではない、想いを伝えるためだけのキス。
それでも、いつの間にか込み上げてくるものがベルクに渡り、七海の胸は痛みを覚えるほどに張ってくる。マニが実際どんなものなのかを七海はまだよく理解していない。わかっているのは、想いに同調するものだということくらいで、それも七海の思い込みかもしれない程度だ。
ベルクの両手が七海の乳房を捏ねる。毎夜夢の中で施されていたマッサージも、こうして視覚的に目に飛び込む状況では意味が違ってくる。
「七海なんで下着着けてるの?」
「だって、隣に……」
「大丈夫だよ。この家は僕の家並みにテータも厚いし、七海の部屋はさらに輪をかけて厚くしてあるから」
ぽいぽいと手際よく部屋着が脱がされていく。ベルクの手慣れた感じが関係の深さを物語っているようで、記憶のない七海は複雑な気持ちになる。
戸惑う思考とは裏腹に、どういうわけか七海の手はそれが仕事とばかりにベルクのシャツのボタンを外していく。
「七海、頭で考えない。躰で感じて。ほら、躰はちゃんとどうすればいいかわかってる」
ベッドに倒され、下着ごとルームパンツが脱がされ、裸にされた七海の足の間をベルクの長い指がついとなぞる。
「んっ、だめ、声……」
確かめるようになぞられただけだというのに、七海の躰はびくんと震え、ぴりぴりとした感覚が背を走る。
「とろとろだ」満足そうにベルクは目を細めた。「大丈夫だよ。この空間からは何も漏れない」
いつの間にか裸になっていたベルクの膝の上に再度乗せられる。
胸が揉まれる。ベルクの手のひらに包まれた胸は七海が知らなかった淫靡な姿を見せる。捏ねるように、転がすように、摩るように、そのたびに胸は歪に形を変え、その先を痛いくらい尖らせ、快感を生み出す機関に変わる。
七海の潤みがベルクの付け根をしとどに濡らす。腰が勝手に揺らめく。
「先に繋がってもいい?」
昂奮を隠さないベルクに、声を殺しながら七海は何度も頷いた。躰が熱を持て余す。一刻も早く埋めてほしかった。欲しくて欲しくてたまらなかった。
それなのに──。
彼の先が宛がわれた瞬間、七海は「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。硬直する躰。それでいて、七海の腕は縋るようにベルクの首元にしがみついている。
自分でもわけがわからないちぐはぐな行動に、七海はひどく混乱した。
「七海、大丈夫、落ち着いて。何が心配?」
ベルクは冷静だった。七海の背中を支えるベルクの手は温かい。紫の瞳が真っ直ぐ七海の瞳の奥を覗き込む。
「わからない。わからないけど……」
七海に拒むつもりはない。それなのに躰が勝手に拒んでいる。欲しい。欲しいのに怖い。何が欲しいかはわかっている。何を怖がっているのかがわからない。
混乱する七海の腰は引け、躰はどうしようもないほど震えている。それなのに七海の腕はベルクにぎゅっとしがみつく。
「七海、頭で考えないで。躰に聞いて。躰はどうしたがってる?」
「欲しがってる。欲しいの。すごく欲しいの。でも、怖い。すごく怖い」
すぐ目の前にある、それまでよりずっと紫が濃くなった瞳に七海は魅入った。
何が怖い? 七海は自問する。閉ざされた記憶は何も教えてくれない。初めてだから? 違う、記憶がないだけで初めてじゃない。怖いのは自分のことじゃない。
ふと浮かんだ意識の尾端を七海は慎重にたぐり寄せる。
ベルクはその間、身動ぎせずに七海をただじっと見つめていた。
「変わるの?」
「何が変わる?」
低すぎない声が耳に吹き込まれる。透き通るような紫に魅入る。記憶の先にひそむ感覚に沈む。
頭で考えるより先に口が動いた。
「ベルクが、狂う」
「狂わないよ。ああ、わかった。それは七海の誤解だ。七海が誤解するよう誘導されたんだな」
紫の瞳が怒りに燃えた。そして、普段より強い口調でベルクは一気に言った。
「アルビナやウシルのようにマニの体内変換能力に長けた人間とブーズしないまま独占的にマニの交換をし続けるといずれ拒否反応が出るんだ」
ブーズ、と七海が呟く。言われたことの半分も理解できないのに、七海の躰は理解したのか、ゆっくりと力が抜けていく。
「ああ、ブーズは独占契約のこと。僕と七海は血の契約をしている。だから七海を独占しても僕は狂うこともなければ拒否反応が出ることもない。たとえ七海の血を大量に飲み込んだとしても、僕は狂わない。僕だけは狂わない」
ふと手首にぴりっと鋭い痛みが走ったような気がした。躰の震えが止まった。
「七海は僕のもので、僕は七海のものなんだ。だから、狂いようもなければ変わりようもない。血の契約は絶対なんだ。ああ、やっとユクムスナの言うことがわかった。同一なんだよ、僕たちは。だから拒否反応なんて出るわけがない」
ベルクの声が七海の神髄に沁み込んでくる。
七海の躰がそれを肯定する。
七海の感覚がこの男は自分のものだと主張する。
七海の躰の奥底で自分はこの男のものだと安堵する。
「ほら、自分で繋がってごらん」
七海を軽く持ち上げ、七海の潤みにベルクの先が宛がわれる。ぬちっと淫音が耳に粘りつく。
「こんなに躰は欲しがってるのに、七海は頭で考えるクセが抜けないね」
宛がわれるだけで入り込んでこない。直前に感じた恐怖は今や微塵もない。欲しくて欲しくてたまらない。欲だけが七海の中にある全てだった。
ベルクの肩に手を置き、ゆっくりと躰を降ろしていく。一気に全てが欲しいのに、七海の躰はそれに反してゆっくりと味わうようにベルクを呑み込んでいく。
七海の喉は歓喜に喘ぎ、その腰は淫靡にくねり、躰全体が快感に震える。
いつの間にこんなに甘く媚びるような声を上げるようになったのだろう。
いつの間にこんなに猥りがわしく腰を揺らすようになったのだろう。
いつの間に、こんな本能でしか感じられないような官能を躰が覚えたのだろう。
全てを呑み込んだ七海は、深く息を吐いた。
七海の内側がベルクの形を覚えている。
記憶のない七海には初めての経験なのに、躰はこの行為に馴染んでいる。どうすれば気持ちよくなれるのかも、どうすれば気持ちよくさせられるのかも、躰は余すことなく知っている。
「七海、もっと奥まで入るだろ」
ゆるく腰を揺さぶられ、七海は喘いだ。
「ほら、最後まで。力抜いて」
ベルクの声に誘導されるように七海は躰の力を抜いた。
ぐりっと七海の最奥をベルクの先が抉る。快感が突き抜ける。七海から悲鳴のような嬌声が上がった。その嬌声ごと、ベルクは全てを呑み込んでいく。
互いの躰をマニが循環する。強烈な快感が七海の骨髄を駆け上がり、頭を白く焼き、絡まる舌を通じてベルクに循環されていく。
セックスは全力疾走だ。ただ躰の一部を擦り合っているだけなのに、どうしてこうも息が上がるのか。必死に喘いでいると、もうそれしか考えられなくなる。
「ベルク」
キスの合間に名前を呼ぶと、彼は嬉しそうに笑う。そうだ、いつもそうだった。
「ベルク、気持ち、いい」
素直に告げると一層嬉しそうに笑う。そう、いつだってそうだった。
「僕も、すごく、いい」
素直に告げられると嬉しくて、七海の内側がひくひくと喜ぶ。当たり前のように腰が振り動く。
「ねえ、なんで死のうとしたの?」
「んー、七海は僕とブーズしているから、僕が消えた後も僕以外の地底人に狙われることもないし、かといって地上人に作用するものでもないから、それが一番安全だと思ったんだ」
「私が忘れると思ったの?」
自己犠牲はただの自己憐憫だと考えるのは一方的すぎるだろうか。「自己」が頭に付くような優しさはいらない。七海はそう思う。
「忘れた方がいいとは思った。ごめん」
「残酷だね」
「傲慢だった」
静かなやりとりだった。
嗚咽が込み上げることもなければ、涙が零れることもない。それは二度と一人にはならないという確固たる約束があるからだ。ベルクは二度と頭に「自己」を付けた優しさで七海を守ろうとはしないだろう。
「忘れられるわけないのに」
むっとする七海を宥めるように、ベルクの指先が七海の髪を梳く。
七海はふと、髪を切ろうかな、と思った。もう無理に女性らしく見せる必要もない。本当はしてみたかったショートにするのもいい。きっとどんなヘアスタイルでも、ベルクは七海を七海として見てくれる。どうせならベルクが好む髪型に変えてもいい。
「僕が終われば七海はリセットされるはずだったんだ」
「血の契約は残るのに?」
「だよね。よくよく考えればわかることだった」
彼からは、反省というよりは自嘲の気配を感じた。七海は自分の心裡が正しく伝わっていることにどこか満足しながら、気になっていることを訊いた。
「ねえ、どうして抜かないの?」
「抜いてほしい?」
充ちるままにマニの交換を果たしたというのに、ベルクの躰の上に横たわる七海の中にはまだ彼が存在している。
「やっ、抜かなくてもいいから、あっ、もう、動かないで」
「七海がそうやってかわいい声を出すから、ほら、また……」
七海の中で力を抜いていた彼の一部が、ぐぐっと芯を持ち始めた。
「かわいくないから。今日はもうダメ。ここだとなんとなく集中できない」
「みたいだね。もっと感じていいのに」
「そういうこと言わないで。やっ、もう、動かないでってば」
どれだけむっとしてみせても、ベルクはそんな七海の表情さえ愛おしそうに目を細め、微かに躰を震わせ笑いを堪える。その振動で七海はまた、小さく喘ぐはめになる。
「私の記憶、このままでいいから」
「いいの?」
僅かな驚きがベルクの瞳に浮かんだ。
「いい。ベルクが必要だと思って封印したなら、必要なんだよ。私も無理に思い出そうとしない。きっと必要ならユカが言っていたように自然と思い出すだろうし……」
長い指が七海の首筋をなぞる。生み出された快感に身動ぎそうになるのを耐える。それでも躰の中がきゅっとベルクを締めつけ、吐息が震えた。
「まだ怖い?」
「指で触れられるのは平気。でも、そこに口元がくることを想像するとぞっとする」
「僕でも?」
「ベルクでも」
淋しそうに眉を下げるベルクと見ているうちに、七海の中にふとした疑問が浮かんだ。
「なんで私って噛まれたの? なんで首?」
「七海の血に狂ったからだよ」
「吸血鬼みたいに?」
「そう、吸血鬼みたいに。過去にもそういうことがあったんだ。だから十分注意していたっていうのに、まさか……」
そこまで言ってベルクは口を噤んだ。
「まさか、なに?」
「いや、なんでもない」
「なんでもないの?」
「なんでもなくはないけど、なんでもない」
情けなく眉を下げるベルクを見ていると、七海はどういうわけなのか幸せな気持ちになった。
「私、ベルクの困った顔が好きかも」
「だったら、もっと困らせていいよ」
「いいの?」
「いいよ。七海は物分かりがよすぎるんだよ。もっとわがままでもいい。アルビナはとにかくわがままだって聞いていたのに……」
「私、ベルクには甘えてるよ。結構自分勝手なこと言ってるし」
「もっと甘えていいよ」
「えっと、じゃあ、もう一回だけする?」
「そういうわがままは大歓迎」
七海の中のベルクが一気に硬さを増した。