トウメイノチカク
§5 ナーレ①「はじめまして。アフナス・ファスティです」
「はじめまして。増田 美帆です」
「小間井 大志です」
握手の習慣がないはずのベルクが、玄関先でにこやかに美帆と大志に握手を求めた。
ベルクに対する第一印象は目を丸くした大志の「でけえ」という一言に尽きるだろう。普通なら威圧感を感じるほどの長身も、彼の持つ雰囲気がそれを和らげている。
「日本語、普通に話せるんですね。でも日本人じゃないですよね」
美帆の言い方には隠すつもりのない棘があった。普段の美帆なら決してこんな言い方はしない。
「そうですね、日本人ではありません」
ベルクの日本語は普段私たちが聞き慣れたものと同じだ。
「あの大使館の人もあなたに似た印象でしたけど……」
「ああ、彼は私の上司にあたります」
「失礼ですが、ご出身はどちらですか?」
「ラスナというヨーロッパにある小さな小さな都市国家です」
美帆は聞いたことないとばかりに眉を寄せながら七海と大志に視線を寄越した。
「国として国際的には認められていないので……」
苦笑するベルクに美帆の眉間の皺がますます深まった。
「で? 本当のところは? ファスティさん、ここは腹を割って話しましょうよ。少なくともあなたが七海にとって大切な人だというのはわかります。だから私にもそれを信じられるくらいの判断材料くらいください」
リビングに向かうほんの僅かな間にも美帆の口は攻撃的に動く。
「あなた方の身の安全もありますから詳しくは話せません」
リビングのドア枠をひょいと頭を下げてくぐったベルクは、にこやかにもきっぱり拒否した。美帆の眉がぴくりと跳ねる。
「身の安全とは穏やかじゃありませんね。話せる範囲で構いません」
リビングの入り口付近で対峙する美帆とベルク。大人と子供ほどに身長差があり、美帆の首はこれでもかと上向いている。
「そうですね、私たちは地上ではない場所で生きる人間です。七海とはあの事故機で出会いました」
「七海が漂流していたというのは?」
「実際は私のそばにいました」
「七海の記憶がないのは?」
「私が必要だと判断して封じました」
美帆の口元がひくひくと動く。彼女からぴりぴりした空気が伝わってくる。それに対峙するベルクは寛いだ様子で物珍しそうに部屋を眺めている。それがまた美帆の苛立ちを増幅させているのだが、ベルクは知ってか知らずか笑顔を深めた。美帆の眉が一際大きく跳ねる。
七海は大志と顔を見合わせ、臨戦態勢の美帆には触れるベからずを確認し合い、互いに口を閉ざした。
横須賀のホテルをチェックアウトする直前、七海は一度帰宅することを二人に提案した。彼と連絡が取れ、彼が七海のマンションに向かっていることを告げた瞬間から美帆は黙り込んだ。
途中昼食を取る際も、美帆は必要最低限のことを話す以外はむっつりと口を閉ざしていた。不機嫌と言うよりは何かを深く考え込んでいるようで、七海も大志も放っておいたのだが……。
車内には大志がかけた音楽が虚しく響いている。沈黙が重い。
「美帆、もしかして本当は怒ってる?」
沈黙に耐えきれなくなった大志が美帆に恐る恐る声をかけた。
「怒ってない。疑ってる」
「深津屋を?」
「まさか。だってあやしいでしょ。どうやって七海と連絡取ったの?」
「あ、えっと、電話?」
慌てた七海を美帆が振り向きざまに睨んだ。
「ほらね。嘘だもん」
「嘘です、ごめんなさい」
すかさず七海は謝った。
「まあいいよ。本人に訊くから。ストーカーだったら叩き出すからね」
「ストーカーじゃないからね、そこは違うからね」
「本人に訊きます」
念を押す七海をバッサリ切り捨てた美帆は再び貝になった。頑なになった美帆をどうにかできるのは大志しかいない。七海がバックミラー越しに視線を投げると、大志もお手上げらしく小さく肩をすくめた。
七海は思わず隣に座っているベルクを見た。しれっと二人に姿を隠して同乗しているのだ、この地底人は。
家に着くと七海たちより遅れること僅か、インターホンを鳴らしたベルクに対応したのは七海ではなく美帆だった。尖りに尖った声で「どうぞ」と言った美帆は乱暴に解錠ボタンを叩いた。古いマンションなのだからもっと優しく扱ってほしい、だなんて口が裂けても言えない雰囲気だ。
ベルクが自宅にいる不自然さに七海は苦笑を禁じ得ない。古いマンションの天井は低い。彼が手を伸ばせば余裕で天井に届くだろう。
玄関からリビングまでの一悶着の後、ベルクにソファーを勧めると、なぜか大志がその右隣を陣取った。七海と美帆は顔を見合わせながら、普段はオットマン代わりに積み重ねてある分厚いフロアクッションにそれぞれ腰を落とす。ローテーブルを挟んだベルクの目の前は美帆が陣取った。臨戦態勢解除とはいかないらしい。
お茶を用意しようとする七海を美帆が引き留め、視線で座るよう促す。
「身長、どのくらいですか?」
これが大志の初質問だ。余程気になるらしい。
「どのくらいだろう。二メートルは超えてないと思うけど……超えたかなあ」
美帆が咳払いした。余計なことを言うなとばかりに大志を睨み付ける。
「あのなあ、美帆。そういう態度、どうかと思うよ」
「だって!」
「いくら深津屋が心配でも、初めからそうやって拒絶してたらわかるものもわからないだろ」
ぐうっと言葉に詰まった激昂寸前の美帆と落ち着いた様子の大志。その二人をベルクがまあまあと取り成す。
「もし質問等があれば、答えられる範囲でという制限は付きますが、可能な限り答えます」
それに美帆が七海を見た。どこまで訊いていいのか彼女自身もわからないのだろう。
「コマくんも巻き込むことになるけど、いいの?」
七海がベルクに確認すれば、ベルクは「んー」としばらく考えてから言った。
「大丈夫だと思う。ほら、ユクムスナも言ってたでしょ、二人は彼女が保護するって。それって僕たちにとっては絶対だから」
確かユカはコアの外部器官で、彼らはコアに支配されている、だったか。七海自身も未だ呑み込めていない事情をなんとなく理解したところで、美帆の不安そうな視線に気付いた。
「あのね、私、どうやら人を殺したみたいなの」
できるだけ平静に聞こえるよう、七海は意図的にゆっくり話す。
「彼の国の人間を消しちゃったっていうか……そういう事情があって二三日中に別の場所に逃亡することにしたの」
美帆も大志も唖然としていた。大志に至っては珍しくぽかんと口を開けて間抜けな顔をさらしている。七海だって心情的には同じだ。誰かを殺したという実感なんて、どこを探しても見付からない。そんなはずはないとまで思っている。罪悪感がこれっぽっちも湧かない。だから平然と言えるのだ。
「動機は記憶が戻ってないからわからないんだけど、とにかくそういうことがあって、それについて何かしらの誤解で私が怯えて、仕方なく彼は私の記憶を封印したってわけ」
美帆の凝視に堪えられず、七海はへらりと笑った。
「本当、なんだね」
「もういまさら嘘は吐かないよ。できれば二人とはこの先も連絡取りたいと思ってるんだけど、それが二人のためにならないなら取らないし、そもそも取れないかもしれない」
七海はあえて笑顔を見せた。
「私は彼と生きていく」
「決めたの?」
心細そうな美帆の声に七海は挫けそうになる心を奮い立たせた。
「決めた。ごめんね」
「あやまらないで。ごめん、ちょっとゆっくり考えてもいい? ミルクティー飲む?」
「飲む」
「ん、じゃあ作ってくる」
美帆が呆然としたままキッチンに消えた。途中スーパーに寄って食材を購入してきている。二人とも今日は七海のマンションに泊まるつもりで明日の朝食のパンも買ってある。さり気なく七海がベルクの分をカゴに入れるたびに、美帆は複雑な表情を見せていた。
残された大志は、ベルクに矢継ぎ早に質問している。どこに逃亡するのか、資金はどうするのか、そんな生活を一生続けるのか──。
「それで深津屋は幸せになれるんですか?」
「詳しくは教えられませんが、少なくともここにいるよりは安全です。幸せかどうかは、未来の七海に訊いてみなければわかりませんが、僕は彼女が幸せに生きられるよう努力するつもりです」
それを聞いて、七海もベルクを幸せにする努力は怠るまいと心に誓う。
「コマくん、実は私、すでに結婚してた」
「うそだろ、深津屋が? 人妻?」大志が頓狂な声を上げる。
「その言い方はない」むっとして七海は言い返した。
「あー、ごめん。でも、深津屋が? 私一生結婚しないかもー、とか言ってた深津屋が?」
しつこく繰り返す大志は余程信じられないらしい。
「今そんなこと言わなくてもいいでしょ」
羞恥から七海の言い方がきつくなる。
「いや、実際彼女、何度もそう言ってたんですよ」と大志がベルクに告げる。「その深津屋がねえ、そりゃあ、変わるわな。深津屋、幸せなんだな」
しみじみ言う大志に七海は戸惑った。
「幸せに見えるの?」
「見えるよ。少なくとも俺が知る今までの深津屋とはまるで違う。あんなきっぱり彼と生きていくなんて言うヤツじゃなかっただろ、これまでの深津屋は」
「そうかな」
「そうだよ。だから美帆も、ショックというよりは淋しくなったんじゃないかな。いい機会だよ。美帆も深津屋離れしないと」
「それを言うなら私だってだよ。美帆離れできるとは思えないから」
「できるだけお二人とは連絡が取れるよう最善を尽くしますから」
大志がベルクに「お願いします」と軽く頭を下げるのを見て七海は席を立った。
「七海、人妻だったの?」
七海がキッチンで牛乳を温めている美帆の隣に立つと、彼女は鍋から目を離さずに何気なさを装って言った。
「聞こえた、よね」
「思い出したの?」
「思い出したわけじゃないけど、それを知って妙に納得できた」
「思い出してないのに信用できるの?」
「彼ね、たぶん私を助けるために自分を犠牲にするつもりだったんだと思う」
「本人がそう言ったの?」
「第三者から聞いたことからそうじゃないかなって。彼を信用するかどうかはもう感覚としか言い様がない」
火を止めた美帆は熱湯で十分に開かせた茶葉を鍋に入れた。温めた牛乳と茶葉を馴染ませるようにゆっくりとかき混ぜ、蒸らすために蓋をする。七海には面倒にしか思えない手間暇を美帆は惜しまない。
「彼とは昨日のお昼以降にも会ったんでしょ」
美帆は鍋を見つめたままだ。
「ホテルの部屋にいた」
「ストーカーじゃないのに?」
「透明人間だからね」
「それも本当なんだ」
「うん。知ることによって美帆が危険になるかもしれないけど、知らせない方が美帆にとっては危険だと思うから。美帆のことだから徹底的に調べるでしょ?」
「調べるねえ。あ、マグこっちに並べて」
ダイニングテーブルに用意されていた四つのマグカップをキッチンカウンターに運ぶ。全てデザインが違うマグカップは七海が趣味で集めてきたものだ。
「美帆、私、別の世界に行く」
「別の世界?」
茶こしを通しながらマグにロイヤルミルクティーを注ぐ美帆の声に力はなかった。
「だから、地球上を探しても私はいない」
美帆が顔を上げ七海を見た。ぼんやりとした表情の彼女に七海の胸は痛んだ。
「それって、死ぬって意味じゃないよね」
「まさか。本当のこと言うと、私もちゃんと理解しているわけじゃないんだけどね。試験的な別の世界って聞いてるから、たぶんこことは別の世界なんだと思う」
七海自身も驚いていることだ。何もわからないのに、それでも彼と一緒に行こうと思う。彼が一緒なら大丈夫な気がしている。
七海は小さく笑いをもらした。
「なに?」と美帆に訊かれ、七海はもう一度小さく笑う。
「なんだかよくよく考えるとおかしくて」
「自分でもよくわからないのにあの人についていこうって思ってることが?」
「そう、よくわかるね」七海は軽く目を見張った。
「付き合い長いからね。私はそこに行ける?」
「わからない。行き来できればいいけど……どうかな」
「あの人、あのファスティさん、何者なの?」
「人間だよ。私たちと違うのは透明人間になれるような力を持っていること、かな」
「超能力みたいな?」
「たぶん。私も詳しくは知らない」
「七海を守っている空気層みたいなのも?」
七海が頷くと美帆はようやく表情を崩した。泣き笑いの顔で「しかたないね」とぽつんと零した。
七海自身も信じられないような破天荒な話だというのに、美帆は手放しで七海が信じているものを信じてくれる。それが七海に勇気を与える。
「それって正当防衛ですよね」
「僕もそう思うんだけどね」
マグを持ってリビングに移動すると、ベルクと大志は議論の真っ最中だった。
「残念ながら僕たちは君たちを同等に扱っていない部分があって……」
「なんですかそれ。人種差別的な?」
「そんな感じかな。七海も以前同じことを言っていたよ」
七海からマグを受け取ったベルクが小さく「ありがとう」と呟く。そのまま七海は彼の足元に座った。美帆はさり気なく全員が彼女の正面から右側に位置するよう大志の前に腰をおろした。
「ホワイトプライドってやつですか?」
「いや、それで言うなら白人は最下位かな」
は? の顔のまま大志が動きを止めた。いつの間にかベルクの口調がくだけている。
「コマくん、彼はいわゆる白人ではないから。またそれとは違う人種っていうか……」
「そういえば、地上ではない場所って……え? 宇宙ってこと?」
思考回路が美帆と同じだ。思わず七海が美帆に目を向けると、彼女は苦虫を噛み潰したように顔を歪めていた。
「大志、さすがに宇宙人はない」
大志が嫌そうに美帆を見た。
「なるほどね、美帆も深津屋に同じことを言ったのか。宇宙人に誘拐されてたーとか」
「二人とも、そういうのはあとでやって」
七海の冷静な制止に、両者とも気まずそうに笑いながら誤魔化すように揃ってマグに口をつけた。
「それより、私ってここにいて平気なの? 住所バレてないの?」
二人に倣ってマグに口をつけたベルクが小さく「あ、おいしい」と思わずといったふうに頬を緩めた。それに美帆の目が少しだけ和らぐ。
「七海はまあ、死んだことになってるし、日本人だってことは伏せてあるから……」
「やっぱり!」大志と美帆の声が揃った。
二人とも賠償金の話を持ち出した。あの弁護士もグルだったのか、と美帆が悔しそうに呟いた。
「じゃあ、どこの国の人になってるの?」
「アジア地域って公表されただけだから、七海の外見から勝手に西アジアだと思われている」
「なんで?」
「さあ。僕たちにアジア人の細かな違いなんてわからないから……」
「あきらかに違うけど……」
「でも七海は東洋人っぽくはないよね」
「あーだなあ。深津屋の鼻、すっとしてるもんな」
大志のひと言に七海は驚いた。
「違いは鼻なの?」
「鼻じゃない? 深津屋は鼻の付け根も高いし」
美帆と七海を見比べていた大志は、そのお腹に美帆のげんこつを食らった。
「なるほど鼻かあ」
妙に感心したようなベルクに大志はお腹を押さえながらも得意気に何度も頷いていた。
ふと何かに気付いたようにベルクは美帆を注視した。
「どうかした?」
「んー、七海、彼女に七海の血を少しあげてみて」
「もしかして?」
「もしかして。ほんのちょっと。針で突いた程度でいいから」
急いで七海が自室から裁縫箱を持ってくる。戻りがけに洗面所で念入りに手を洗った。
「かして」と言うベルクに七海は針を渡すと、針先が一瞬霞んだ。ベルクの手の上に七海は指先を預ける。ちくんとしたほんの僅かな痛みのあと、指先に一ミリほどの小さな血の珠ができた。
「増田さん、七海の血を目に入れてみて」
は? と七海はベルクを見た。
「目なの?」
「目なの」
ベルクはさも当然とばかりに言う。
「美帆、気持ち悪いだろうけど……。もしかしたら、耳、治るかもしれない」
それまで黙って成り行きを見ていた大志と美帆は、互いに顔を見合わせ、わけがわからないなりにも美帆は怖々目を見開き、七海の指先を掴んで目の縁に血を入れた。
リビングには息を呑むような沈黙と緊張が満ちている。
美帆には一見なんの変化もない。
ダメだったかと思ったその時、美帆の目が見開かれていった。しきりに左耳を触っている。
「耳鳴りが、消えた……」
「よかったあ」七海が安堵の声を上げると、美帆の目はさらに見開かれた。
「音が、ちゃんと聞こえる」
「これが、七海が狙われる理由です」
ベルクの静かな声に、大志が唸った。
「治癒力、ヒールってやつですか?」
「いや、そういう幻想的なものとは少し違うかな。七海の血に含まれる特殊な成分が相手の力を底上げする。僕たちの場合は一時的に力が増幅し、力を持たない君たちの場合は不調を修復することに使われる……のだと仮定して、今試してみた──」
「え、私って試されたの?」
ベルクの話を遮るように美帆から抗議が上がった。
「ええまあ」
気まずそうなベルクを美帆が睨む。
「まあいいじゃん、結果的に治ったんだから。そこはほら、試されたってより、思い付いてくれてありがとうって思った方が幸せになれるよ」
大志は基本的にポジティブだ。美帆ははっとした顔で大志をじっと見ていたかと思ったら、不意にベルクに向き直り「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。
「もう一生このままかと思っていたから、耳、治してもらえてすごくありがたいです。今の大志の声、普通に聞こえて、普通ってことをもうずっと忘れてて、こうやって話す自分の声も普通に聞こえて……」
少し涙目になった美帆に、ベルクは「治ってよかった」と笑った。そんなベルクの笑顔にほっとしたのか、美帆は七海に甘えるように「ありがとう」と抱きついてきた。